最後の日、貴方はまだ呼吸をしているか



は自分の信念の為ならば、例えばリヴァイを殴ることだって躊躇しなかった。


彼女の日々の日課として、起床してから行う幾つかの決め事の中で、優先順位の最も高い所に置いていることは、貌を洗うことでも歯を磨くことでもない、玄関の扉を開けて外の様子を確認することだ。昨夜と何か違う点がないか、些細なことでも良い、異常がないかどうかを念入りに調べる。確認が終わると恐る恐る扉を開ける。文字通りに捉えると、さながら脱獄犯のような慎重さであるが、一連の行動に後ろめたさや緊張感なんていうものが一切感じられないのは彼女の頭上で奔放に跳ねる寝癖のせいだろう。の髪は大層な捻くれ者らしく、毎朝起きる度に重力に逆らおうという努力を惜しまない。持ち主のには忌々しいことに違いないが、同時に諦めもしているので、とっくの昔に優先順位の底辺に配置されている。見る者が見れば、年頃の娘としてあるまじき行為を窘めるかもしれないが、彼女は幸いにして一人暮らしだった。
起き抜けの身一つで玄関に立つ。重たげに瞬く目を必死に凝らして、重厚に佇む木製の扉の取っ手から下の部分にかけてを丁寧に観察する。それは簡単な仕掛けだ。寝る前に扉の僅かな隙間に小さな紙切れを挟んでおく。一番分かりやすい痕跡を見出すとしたら、その紙切れが意図的に定位置から無くなっている時。それは則ち以外の何者かが室内に侵入したということになる。彼女の住んでいる場所は他の地区に比べて比較的治安の良い方であるが、今の時世、何処にいたとしても油断はできないし、彼女の望む平穏は何処にもない。危惧している通りに家荒らしなどに押し入られでもすれば、などひとたまりもなく、下手をすれば命まで奪われてしまうことだろう。そうなればこのような小細工など全く意味のないことだが、は毎晩義務のように繰り返した。そうしている間に世間から怯え逃げ惑う脱獄者の気持ちが理解出来るかも知れないと思っているみたいに。
しかしほとんどの日が異常などなく、当人の本意とは関係なしに扉はいつだって前日の夜のまま閉ざされている。はそれを確認するたびに落胆を隠せない。その日も例外なく、きっちりと施錠の施された扉を前に重い溜息を零したが、それは何も退屈な毎日に変化を求めているからではない。
本当のことを言うと、誰かが帰ってきたという痕跡が欲しいのだ。
一人で暮らすには、この家は静かで、長閑過ぎる。もちろん贅沢な悩みであることを彼女は知っている。人は日々の生活に飽くと変化を求めるものだ。僅かな変化でさえもの乾いた日常に潤いをもたらすのであれば、それが強盗や脱獄犯でも構わない、と思ってしまう位には退屈だった。死んだように生きるのと、生きていることを実感しながら死んでゆくのとどちらがよい?と問われることがあれば、後者を即答する位には。

家の前の石畳の隙間に、小さな野草が黄色い花を咲かせたのは数日前の出来事である。は蕾の頃から欠かさずに水をあげていたが、その日の朝、如雨露を持って外に出ると、厳しい嵐の日にも負けなかった野草は、見る影もなく枯れていた。花弁一枚も残ってはいない、枯れた葉を掻き分けるようにして水を差した。

皆、自分の周りのものたちはあっという間に去っていく。
は明日も枯れた野草に水を差すのだろう。


その日の晩のことだった。
の夜は早い。夜も夜とて暇を持て余しているので、作り置きの夕飯の残りに蓋をして、僅かな蝋燭の灯りを頼りに繕い物をする。ここに来てから繕う素材に事欠かない環境のおかげで、裁縫の腕が飛躍的に向上した。最初こそは補修とは言い難い粗だらけの出来映えに雷を落とされたりなどしたが、最近では文句を言われる回数も減ったので、刺し傷だらけの指も無駄にはならなかったということなのだろう。もう何度繕ったのか思い出せない外套を綺麗に折り畳んで、ほっと短い溜息を吐く。疲れてなどいないのに溜息が零れるなんて贅沢なことだと彼女は知っている。それでも空虚な毎日に少しずつ蝕まれて、一人になると、時々呼吸が苦しくなるのだ。
そうして貴重な蝋が三分の一まで縮まった頃、は、凝り固まった肩を叩きながら炎に息を吹きかける。それは退屈な一日が終わる合図だ。大人しく寝台に潜り込んで、月明かりの下で本を読んで、目が疲れて来た頃に眠りにつく。

ふと、耳を澄ますと、トントン、と微かに扉を叩く音がする。
風の音ではない、故意に叩かれた、微かな音。
はっと振り返ったはゆっくりと玄関まで近付き、片耳を扉に寄せた。世間から潜むように造られた家の周囲には街灯などなく、夜になるとたちまち気の遠くなりそうな静寂に包まれる。日中でさえも来客など滅多になく、が迎えるのは定期的に来る商人や物乞いの子供達くらいである。
そんなわけで、夜分の来訪者など不審に思うのも当然で、は恐る恐る扉の鍵に手をかけた。

「確認する前に開けるな。もっと慎重になれと何度言やわかるんだ。その覗き穴はなんの為に付いていると思ってる」
「確認しました」
「とぼけるな。その前に開けただろうが」
「結果貴方だったから良いでしょう、おかえりなさい」
は満面の笑みで、暗い外套を被った男を抱きしめた。
秋も終盤に差し掛かる頃、夜の帳が下りると急激に冷え込み始める。つい先日、商人の男が頃合いを見計らったかのように置いていった薪の出番はそろそろ近い。あまり裕福とは言い難いこの辺りの地域では、薪を商人に運ばせている家などの家以外にはないというのに、薪拾いなど小さな子供でさえ自主的にこなすというのに、彼女の後見人は、が家から出ることを良しとしなかった。
白い息の混じり始めた夜空を下を走ってきたのだろう、抱きしめた男の体はひんやりと冷たく、の体は身に染みる寒さに震えた。
「えーと、ごほん、ごほん」
わざとらしい咳払いに驚いたは体を離して男の背後を覗き込んだ。珍しく、もう一人、目の前の男と同じ格好をした人が立っている。
家主が来客を連れてくるなど初めてのことだったので、は目を丸くして見ると、一歩踏み出したその人は肩を震わせながらの前に立った。
「どうも初めまして。私はリヴァイの同僚兼、貴重な友人のハンジと言います。今日は、リヴァイが本宅に女性を囲っているという楽しい噂を聞いたので確認にきたんだ…けれども想像以上に面白い事態になっているみたいだね」
「誰が誰の友人だって?」
「わあ、リヴァイ女の人囲ってるんだ、いやだ怖い」
「この場合、君のことじゃないかと思うんだけど」
「……ああ、なるほど。初めまして、リヴァイに囲われてますと言います。立ち話もなんですからどうぞお上がり下さい」
リヴァイが想像するに恐ろしく険悪な顔つきで睨んでいることを感じながら、はハンジを家の中に招きいれた。そんなことよりもこのリヴァイ青年に友人がいたことに驚いて、興味津々だったのだ。

「知らせてくれれば夕飯を作って待っていたのに。まだ食べていないのでしょう?」
「…残りものでいい」
リヴァイに背を向けているは、感情の乗らない小さい声で、わかった、と言った。
冷めた鍋の蓋を開けると、ぎりぎり2人分のスープが入っている。竈に火を付けようとすると、温めなくて良い、とリヴァイが止めたので、は無言で皿にスープを装った。
「2ヶ月ぶりだね、リヴァイは相変わらずそうだけど」
「ちょっとリヴァイ、君ね、2ヶ月も帰らないで彼女を放っておいたの?忙しいのはわかっているけど、流石にそんなんじゃ愛想尽かされるよ」
こんな無愛想な男でも居る居ないの違いは結構大きいよねえ、とハンジは呆れ、は苦笑した。
本当に残りものでごめんなさい、と恐縮しながら出された皿の中身は蝋燭の明かりに灯されて、透き通った色をしている。
「あー、味付けは美味しいけど、これは随分と…質素なスープだね」
「今日はたまたま手抜き料理だったのですみません…二人が来るのを知っていたらもっとまともな料理を作ったのに」
ああでもこのハーブ入りのパンは、今朝焼いたばかりなので柔らかくて美味しいですよ。裏庭にアニスが沢山咲いたので練り込んでみたんですけど、ほんのり優しい味がするんでしょう。スープに添えられたパンは香ばしい色に焼き上がっていて、は満足そうに胸を張った。
「そうそう、リヴァイ、この間偏頭痛が酷いって言っていたでしょう、アニスには鎮静効果もあるから、後で乾燥させたものを小分けに用意しておくわ」
ハンジは歯で噛み千切らなくても良いふんわりと柔らかいパンを口にしたのは久しぶりだ、と感嘆の声を上げた。の言うとおり、独特のしつこくない甘みが口の中に広がり、穏やかな香りが鼻腔を通り抜ける。お世辞ではなく美味しい、と言うと、は嬉しそうに微笑んだ。それに引き替え白湯にしか見えないスープは塩加減の利いた味をしているが、これで栄養が補えるとは到底思えない。生活が困窮しているようには見えないが、実際はスープの具材も満足に買えない貧しい生活をを強いられているのだろうか。外見や外聞は散々な有り様だが、意外に面倒見の良いリヴァイがに不当な仕打ちをするとは思えず、ちらりと正面の男を確認したハンジはああやはり、と合点がいった。
「また物乞いのくそガキにたかられてるのか」
「そんなんじゃないって言ってるでしょ。前にも言ったけど、こういう抜き打ちテストみたいのは好きじゃない」
「なら直せ。慈善だの施しだの言ってる奴が生き残れる甘い時代じゃねえんだ」
ハンジは黙って二人の様子を観察する。
噂でのことを知った時、にわかには信じられなかった。女を囲っているだとか、一切そんな素振りは見せなかったし、2ヶ月ぶり、と言った言葉の通り、本宅に誰かを待たせているとは思えないくらいに帰省する姿を見なかったからだ。問いつめてみれば、あっさりと肯定して、ずっと留守にしがちな家に他人を住まわせていると言う。不在の間の管理の手間が煩わしい為に貸家としているのだろうかと思いきや、そういう話でもないらしい。しかも住んでいるのが年頃の娘だと知れば、こんな面白い話はない。
そうして無理矢理帰省に同行したハンジが見たのは、リヴァイには不釣り合いな、どこにでもいそうな平凡な少女だった。これと言った個性も感じられず、うっかりすれば時代と人の流れに埋没してしまいそうな少女に無理矢理特徴を見出すとすれば、穏やかな気質なのだろう、人好きのする笑顔が魅力的だということ。二人の気安い間柄が知れることには、が物怖じせずにリヴァイに言い返すところ。兵団内であればこうはいかない。彼を前にして臆することなくまともな会話が出来る人間など数えるほどしかいないからだ。
「ところではどうしてここに住んでいるの?」
彼女自身も、いつ尋ねられるのかと構えていたのだろう、表情を僅かも変えずにハンジを見据えた。
「数年前のシガンシナ区陥落の折に、偶然通りかかったリヴァイに助けて貰ったのが縁で、この家に置いて頂いているんです。その際に家族も家も失ってしまったので」
「へえ、リヴァイが!こーんな世にも珍しいこともあるんだねえ」
「本当に珍しいですよね。実は子供の頃、彼とはちょっとした顔見知りだったので、そのせいでリヴァイも情が湧いたのかも。私はきっと、運が良いんでしょうね」
あとどれくらい、ここに置いてもらえるかはわかりませんけど。それは暗にリヴァイの気まぐれなのだ、と言っているようだった。
の手には、リヴァイが脱いで手渡した外套が握られている。家の外で埃を叩いて、仄かな灯りの下で綻びのある箇所を丹念に調べながら、リヴァイの横にいる。微笑ましいと感じこそすれ、どう見ても特別な人間には見えない。だというのに。
「詮索するな」
「ええ?だって詮索させるためにここに連れて来たんじゃないの?」
「勝手について来たんだろうが」
「ハンジさん、今晩は泊まっていかれますか?」
「え!嬉しい申し出だなあ、と言いたいところなんだけど、君の横の人がこわーい顔をしているから遠慮しておくよ」
「こんなに遅いのに?この人、いっつもこういう顔なので気にしなくてもいいですよ」
あどけなく言い放ったの横でリヴァイが溜息を吐いた。彼の中ではハンジがこれ以上滞在することなんて論外だった。
「食い終わったらさっさと帰れ」
「ちょっとリヴァイ、こんなに遅い時間なのに」
「こいつは巨人に襲われたって喜んで立ち向かっていくような奴なんだよ。大体お前な、今何時だと思ってんだ。そんなに遅い時間じゃねえだろうが。来る途中で物乞いのガキがこの辺りをうろついてたから蹴散らしてやった。教えた通りに戸締まりを怠らなかったことだけは褒めてやる」
「止めてよ、あんまり怖がらせないで。あの子の母親は病気なんだから」
が血相を変えてリヴァイを非難すると、男は態とらしく鼻を鳴らしてスプーンを女に突き付けた。
「あいつの両親はとっくに亡くなってる。お前だってとっくに気付いてたんだろ」
「だとしても、身寄りのない子供なら尚更大人の庇護がいる」
「それをするのはお前じゃない。あのガキは数日後に開拓地に送ることにした。近所からも被害届が出ていたからな」
「リヴァイ!」
手の中にある外套に皺が出来るほどきつく握りしめ、は煙たがるリヴァイをお構いなしに詰め寄った。病的な白さの頬が朱色に染まり、毛を逆撫でた猫のようだ、とハンジは思った。大の男ですら及び腰になるリヴァイに、まさか女性が臆することなく噛み付くなんて興味深いことだ。
「自分一人じゃ満足に生きていくことも出来ねえお前が他人の心配なんざお門違いだって散々言ってんだろうが」
「だから私も開拓地に行くって言ってるじゃない」
「鍬も握ったことのねえお前が行ったところで足手まといになるのが目に見えてる」
「あんな小さな子は平気で送り出すのに?矛盾してると思いませんか?ハンジさん」
「ええ?!ここで私に振るんだ?!」
普段は我先にと口を開く饒舌なハンジがここまで黙って静観していたのは、偏に二人のやりとりが想定外で、予想以上に面白かったからだ。に同意を求められて、僅かに驚いたハンジは、リヴァイが胡散臭いと称する食えない笑みを浮かべて言い放った。
「ようするにさ、リヴァイは君のことが大事だから手放したくないってことだろう?大事な君が開拓地で重労働を強いられてるなんて考えただけで、さしもの人類最強の男だって得物を握る手が鈍る――やだなあリヴァイそんな物騒な顔しないでよ、あくまでも私の推測なんだからさ」
がたん、口は悪いが食事の作法には滅法五月蠅いリヴァイが珍しく、手にしたスプーンをテーブルに叩きつけるように置くと、ハンジは肩を竦めて見せた。
「実際のところは知らないけれど、年頃の女性をこんな所に閉じこめておくなんて普通じゃないのは確かだね」
「どういう意味だ」
「やだ、リヴァイが一番良く分かっているだろ」
「俺とこいつの問題だ、部外者のお前にくれてやる情報はない」
「二人だけの秘密ってやつ?随分と背徳的な関係だねえ。ま、関係ないからこそ憶測で好き勝手に想像させてもらうけど」
おどけたようにハンジが笑うと、ついにリヴァイは立ち上がった。勢いの良さに椅子が派手な音を立ててひっくり返り、蝋燭の炎を揺らした。
ハンジがリヴァイを挑発しているのは明らかで、友人だと言ったが、には二人の本当の関係がわからない。一触即発の空気を醸し出しているし、気性の荒いリヴァイの行動が全く予測できない上に、立ち上がって同じ位置にある男の表情は、灯りの影になってすっかり隠れてしまった。
しかしの心配は杞憂に終わり、リヴァイはハンジを一瞥した後、寝る、と一言残して自室にへ消えていった。取り残された二人は顔を見合わせ、互いの呆けた顔を見て苦笑する。
「ああ驚かせて御免ね、私とリヴァイっていっつもこんな感じだからさ。私もすっかりリヴァイをからかうのが身に染みついてしまって、よくエルヴィンにも注意されるんだよね。端から見たら冷や汗ものだって」
「ちょっと驚きました」
は溜息を吐いて、リヴァイが倒した椅子を正すと、そのまま腰を下ろした。そして綺麗に空になった皿をじっと見つめ、何かを考え込んでいる様に眉を寄せた。
その間にハンジはテーブルの中央に置かれた籠の中のパンを一つ手に取ってそのまま噛り付く。香ばしく不思議な味が癖になる。はパン作りの腕は優れているようである。
追加のパンをまるまる一個食べきった頃、ようやくが口を開いた。
「……あの、ハンジさん、全然違うんです。お願いですから、変な風に勘違いしないで下さいね。リヴァイに悪いことなどひとつもないんですよ。ただ、問題があるとしたら私の方で、それをハンジさんにお話することは出来ませんが」
「詮索はしたいけど、それは好奇心の範囲だから無理に問いつめるつもりはないよ。なにしろリヴァイが怒るからね」
「ありがとうございます。それで、先程、普通ではない、と仰いましたが、それはどのように?ハンジさんには私が不幸に見えますか?」
の顔は真っ直ぐにハンジを向いている。半分に減った蝋燭を隔てて、それぞれの思惑は隠れているように思えて、ハンジは意図の読めない目の色を伺った。今更に気がついたが、の目の下のが窪んで隈が出来ている。もしかしたら灯りでそのように影が出来ているだけかもしれない。
穏やかそうに見える。実際、穏やかなのだろう。だが、心の内はどうか。
「出会って間もない私には判断がつかないことだなあ。権力者が非力な女子供を囲うことなんて日常茶飯事だろ。例えば娼館で働く女達がすべからく不幸だなんて一概には言えやしない、そんなことは結局さ、彼女達単位の人生で変わってくることだし、それを他人が一般論を押しつけたり、とやかく口を出すなんてまるで意味がないし、ナンセンスだからね。ただ、世界の有り様と比べたら、今の君の境遇は幸運だね、と言うけれど、
逆に、は今、幸せなのかい?それとも?」

何と無しに、なら模範的な回答を返すだろうと思った。

「あの人は私の為に、本当に良くしてくれています。
だけど、私は、我が侭なので――呼吸をするように生きてみたい、と思っているんです」







「あれ、どうしたのこんなところで。大体の察しはつくけどね」
執務室の扉を開けたハンジは、来客用のソファに思いがけぬ人物の姿を見て、軽く目を見張った。は悪戯が見つかった時の子供のようにばつの悪そうな表情でこんにちは、と会釈をする。
「ついに年貢の納め時ですよ」
「わ、リヴァイに捕まったかあ、こんなに早急に動くなんて彼も随分と余裕なかったみたいだね」
の向かいの席に腰を下ろして、まじまじと彼女を観察すると、年貢を納めに来た割には普段通りの落ち着きを払っている。真新しい団服に身を包み、短く切りそろえられた爪を揃えて、品評会よろしく綺麗に膝の上に並べて行儀良く座っている。無骨な団員達とは比べるまでもない品行方正な所作は、殺伐とした兵団には似つかわしくないというのに、彼女はあまりにもこの場の空気に溶け込み過ぎていて、およそ新人とは想像し難い。リヴァイの執務室といえば誰もが鬼門とばかりに避けて通りたい一角である。
「リヴァイは?」
「急な用事が入って出ていきました。直ぐに戻ってくると思いますけど」
「ところでその右頬どうしたの?昨日あった時は何ともなかったよね」
は指摘されて初めて自身の右頬に触れた。火傷をした様な熱が指の平越しに伝わってくる。軽く撫でると腫れているかもしれない。痛みは良く分からない。
「もしかして腫れていますか。何しろこの部屋には鏡がないので確かめる術がなくて」
「見ていて痛々しい位に腫れているよ。口の端も切れているし…痛むだろうに、早く冷やさないと駄目じゃないか、ああもう折角の玉の肌が!」
「大袈裟ですよ!きつい訓練のおかげでこれくらいの痛みは平気なんです。
――ハンジさん、私ね」
は頬を撫でながら、躊躇いがちにゆっくりと言葉を口にした。
「リヴァイとは随分と長い付き合いになりますけど、彼は一度だって私を殴ったことはなかったんです。それにね、言葉遣いはあんな風に荒いですけど、いつも律儀にギリギリの所で留まって、私を傷つけるようなことは絶対に言わないんですよ、あのリヴァイが。信じられますか」
「いや、少しも想像できないけれど…」
そうでしょう、は深く頷いて、後ろめたいことを口にするように声を潜めた。
「私は、ずっとそのことが不満だったんです。傍若無人なリヴァイが、腫れ物を扱うみたいに接してくる度に息が詰まるんです。価値を計られる度に、私は何時までも従順でいなければならないから。
今日初めて手を上げられて、はっきりと思い知りました。
あの家を出て正解だったって」
薄く笑う彼女の目は悟りを開いた者のそれであり、同時に寂し気な影を落としている。それはハンジが度々訪れたあの家に居た頃と相違ない表情に思えた。
果たして本当に、望むように抜け出せたのか――その言葉を口にするのが憚られ、飲み込んだ。答え次第では最も残酷な真実を知ることになる。ハンジにはそこまで深く彼女の中に踏み込む動機がなかった。一度関わったら、きっと、こちらも苦しくなる。は敢えてそれを匂わせ、踏み込めないように壁を作って、他人を遠ざけるのだ。
はやっぱり逞しくなったね。出会った当初なんかはもっと良い子ちゃんだったのに、今じゃすっかりリヴァイの手にも負えなくなっている」

「ハンジさんは以前、私に尋ねましたよね、幸せか否か、と。
私が幸せになる為に、あの家に居てはならなかった。彼処から抜け出すには良い子のままではいけなかったんです。物分かりの良いは外の世界では生きていけないから。
今回の一件で、私もリヴァイもこれ以上ない程に思い知った。
私達は互いの為に互いを尊重しあってはいけないんです。
リヴァイが私を叩いたのは、今から私が、彼が今まで私の為に尽くしてきてくれた全てを、彼の善意をまるごと全て、ひっくり返そうとしているから。
きっとね、私が痛いと主張すべきなのは頬ではないのでしょうね」

扉が開かれた。
不機嫌全開のリヴァイが入ってきて、視線でハンジを問いつめる。どうしてお前がいるんだ。彼の手には濡れたハンカチ。
ハンジは持参した書類を渡して即刻この場を立ち去るべきかを思案したが、リヴァイの左頬がと同じくらいに腫れているのを見て吹き出さずにはいられなかった。

これをネタに最低でも1ヶ月はからかえる。


2014/05/18




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