灰の燻る匂いがこびり付いている
炎が強大な畏れを以て盛るように、全てのことを縦横無尽にどうにかしてしまいたい。
パチパチと暖炉の薪がはぜる音が意識の遠くの方での眠りを心地良くさせる。薪の香ばしく燻る煙は室内を暖かく包み込み、霜の降りた窓の表面を結露が伝っていく。昨晩、深々と降った雪が一晩かけて路面を白く染め上げていることを未だ知らず、暖炉の中の薪が、一際大きな音を立てて崩れ落ちた時、漸く意識を取り戻したは先ず始めに寒い、と感じた。
凝り固まった肩を刺激しないように、緩慢な動作で首をもたげると、室内に自分以外の人の気配。纏う空気は朝の匂い。朝晩、随分と冷え込む季節になった。霜焼けた指を擦り合わせると、朝は呼吸を氷らせる様に重たく爽かな始まりを告げる。夜は壁の中よりもずっと狭い何処かに閉じこめられた気になって、息を殺して眠りに就く。また再び目を覚ますことを知らぬ末期の人間のことを想いながら、それがいつ自分に廻ってくるのだろうかと考えながら。頭からすっぽりと被った布団はの体を温めるが、心までは温めてくれない。
自分の体が濃緑色の外套に包まれていることに気が付く。誰の物かだなんて考えるまでもなく、匂いでわかる。はすん、と温まった生地に鼻を寄せた。うたた寝する前は赤々と踊るように炉の中で盛っていた炎は、いつの間にか灰色の炭の中で悲鳴を上げていた。僅かに白い煙が立ち上って、自分の体は燻されて灰の匂い。爪の先まで息をしているのが不思議だが、灰の気配が蔓延っている。
「こんなとこで寝るな」
「火の番をしていたらうたた寝をしてしまって、そのまま…何時もじゃないのよ、たまたま、そう、昨晩は特別寒かったから――ああ、雪、積もったんだね。道理で寒いわけだわ」
悪びれる様子もないは、その後、くしゅん、とくしゃみをしたので、リヴァイを心底呆れさせた。ほら、いわんこっちゃない、説教が降ってくる前に、冷たいリヴァイの腕を引いた。
「こんな早朝に帰ってくるなんて珍しいね?それに先週顔を合わせたばかりだし、今帰ってきたばかり?体がとても冷たい。今、薪を足すから――」
「いらねえ」
「朝ご飯、作る――」
「いらねえ」
折角帰ってきたのに、不機嫌なのだろうか、はリヴァイの表情を伺う。何時もと変わらず、眉間に皺を寄せて、とても生き辛そう。それから目の下に隈がある。徹夜明けで、そのまま此処に来たのだろうか、潔癖性の彼の髪型がいつになく乱れている。ぼんやりと見上げている間に、二人分の体温で温まった室内と外界を隔てた窓硝子をつつ、と結露が滑る。滲んだ硝子の向こう側は銀白の世界。生き辛そう。は目の前の男に同情している。
「今日はハンジさんは?」
「あいつはもう二度と此処には来ねえよ」
「そう言ってもう6回ほどご訪問頂いてます」
「あ?俺の記憶では3回の筈だが」
あ!は男の発する重圧から逃れる様に視線をずらし、実はリヴァイが不在の時に3回ほど訪ねて来たことを白状した。頭上から舌打ちが聞こえると、『宿舎の食事が美味しくないから』と主の不在に来訪したハンジが2回目に口にした言い訳を密告した。1回目はなんと言っていたか、そうだ、『リヴァイの機嫌が悪いから避難してきた』から、あの人の機嫌を直すにはどうしたらよいか教えて欲しい、と笑顔で尋ねられたのだ。そんなこと、の方こそ知りたい。それから3回目は――
「壁外調査に行って来たんですって?おかえりなさい」
誰かの思惑通りか、それとも偶然か、街の片隅の、時間感覚が歪んだ静かな家で暮らすは外の流行話や一切の俗世に纏わる事から切り離されている。巨人の脅威など嘘のように安寧で、もうこの世界に安全な場所なんてないのだと知っているのに、の精神は閑けさと悪戯に過ぎていく時間の中で、たった一人、死期を悟った老人の様に安らかであった。時々訪問する行商の男は、人好きのする商人らしい愛嬌のある性格をしていて、暇を持て余したの気持を良く理解していて、訪れる度に他愛もない世間話をしていくが、の投げかける一定の話題に関しては上手にはぐらかす。の心を脅かす一切のことを彼は誰かから叩き込まれていて、頑なに情報を与えなかった。人類を脅かす巨人のこと、人類を救う砦となる兵団のこと、それら全てに纏わる政治的な思惑、の知りたいことは一つも彼女の耳に入らないように徹底されていた。
『明日、壁外調査に行くんだけど、リヴァイに伝えておきたいことはある?』
ハンジはいつも通りに食事を堪能した後、熱い茶を啜りながら朗らかに言った。その時初めて彼らが壁の外に行くことを知らされたのである。ハンジはリヴァイがを過保護に囲っていることを良く思っていない。君はもっと自由にしたって良い筈だろう?はリヴァイの人形じゃないのだから。はっきりとそう言い残して帰っていった。ハンジの意図することは何か、少なくとも彼女にとっては悪い風向きではなかった。
リヴァイは本日2回目の舌打ちをして、あのクソ眼鏡、と苦々しく言った。
「昨日帰って来たのでしょう?これは自分で手に入れた情報だけど」
「街に出たのか」
「ええ、最近夜更かしが過ぎて、うっかり蝋燭を切らしてしまったから」
「洋燈を使えって言ってるだろうが」
「オイルは嫌い。それで、どうしたの?何か――」
リヴァイは身をかがめて、の肩に額を押しつけた。リヴァイらしくない、煤けた髪を撫でつけながらは壁の外側へ思いを馳せる。目の前の男をも打ちのめす向こう側。広大な大地が延々と広がり、見たこともない生き物が生息していて、辿り着けない地平線が見える。
「何処か怪我はしていない?手当は?アルコールの匂いがするから治療済みなのね?」「この一週間天気が良かったのは幸いだっと思うよ。雪が降ったのが昨晩で良かった」「でも、雪の中、外套一つで駆けてくるのは感心しないわ」
リヴァイは沈黙してしまったので、は一方的に口を開いた。
「――部下の方が亡くなったの?」
リヴァイは微動だにしないので、は彼の繊細な頭を抱き寄せてじっとしている。
「そう、大変だったね」
壁外調査では毎回沢山の兵達が命を落とすという。大勢の人間が壁の向こう側に出て、それっきり。生きて戻ってくる人間はほんの一握り。今までにどれだけの部下を失ってきたのか、その胸中はいかほどのものであるのか。ハンジから聞かされていなければは今回も彼が己の命を賭して外へ出て行ったことを知らないままだった。そしていつか遠くない未来、自分の与り知らぬ所で彼の呼吸が止まるのだ。想像しているよりも簡単に、あっけなく。
「弱音を吐けない人って、苦しいばかりだね」
暫くすると、燻っていた最後の灯が消えて、煙も立たない。真っ白な世界から孤立して、はリヴァイの生きる鼓動を確かめた。
「女性の頬を腫れるほどに力一杯殴ってしまったことに後悔しているのだったら、最初から止めておけば良かったのに」
差し出されたハンカチを頬にあてながら笑った。直前までハンジが座っていた場所に腰を下ろしたリヴァイは、不機嫌に顔を歪めてとは対の左頬を赤く染めている。廊下ですれ違った人間にぎょっとされたことが彼の不機嫌に拍車をかけていることを知らないは呑気な有り様である。
むっつりと黙り込んだリヴァイを眺めながら、そういえばこうして顔を合わせるのも数年ぶりだと思い出した。の記憶の中のリヴァイはいつも眉間に皺が寄っている。
「もっとも、今の私が女性に分類されるのか怪しいけれど。見た目は派手に腫れているみたいだけど痛みにも馴れたし、謝罪には及びません。それにこれから私は貴方の部下になるのだし、こんなことを一々気にするのもどうかと思いますし。
リヴァイって都合が悪くなるとそうやって黙り込むの」
「お前は機嫌が悪いとぺちゃくちゃ五月蠅く捲し立てる」
はあ、と大業な溜息を零したリヴァイは、眉間の皺を更に深めて背もたれに寄りかかった。私達って真逆だよね、はハンカチがすっかり温くなってしまったのを確認して、染み一つない布を丁寧に折り畳んだ。
「お茶、飲む?」
「珈琲にしてくれ」
わかった、頷いて立ち上がったの腕をリヴァイは素早く掴むと、強引に自分の横に座らせた。気が変わった、と低い声でリヴァイはに詰め寄り、掴んだ手を持ち上げる。額が触れ合う程の距離で、リヴァイは顔色一つ変えないを睨め付けた。
「これは、なんだ」
「私の右手」
「違う、手の中のモノは何だって聞いてんだ」
は視線を反らし、自分の掴まれた手を見る。それほど強い力で締め付けられているわけではないのに、痕が残りそうだと思った。射抜く視線の棘に気が付かないでいることも許されそうにない。頑なに口を閉ざしていると、痺れを切らしたリヴァイがもう一段低い声で、、と名前を呼んだ。彼は余り気が長い質ではない。いつも折れるのはの方だ。今回は恐ろしく分が悪いけれど。リヴァイはに体罰を与えない。今回初めてその不文律が覆ったが、にとってリヴァイは恐怖の対象ではなかった。ただ、こうなるとリヴァイはとても頑固になることを知っているだけで。
「乾燥させたアニスだよ。リヴァイがイライラしているからリラックス出来るようにと」
「違うな」
なんて勘の鋭い人なのだろう、段々と目が据わってきた様子を見て、はついに観念した。
「…睡眠薬」
「ほう、お前は不眠症なのか」
「実はそう――わっやめてわかった、わかったから!本当はリヴァイに一服盛ろうとしました!だってそんな不機嫌な顔してお説教なんて堪らないでしょう?」
「お前は気にくわないことがある度にそうやって薬を盛るのか」
「ええと?」
「とぼけんな。お前の前科は全て把握してる。今まで散々目をつぶってやってきたが今日は駄目だ」
知っていたの?素っ頓狂な声を上げたにリヴァイは項垂れた。あんな風に分かりやすく薬を盛られたら誰だって気付く。けれどもは今まで上手くやっていたと思っていたので、それが全部見透かされていただなんて何かの冗談だとリヴァイを見ると、馬鹿か、と鼻で笑われた。
「吹雪の夜に喧嘩した日のあれも?」
「お前が外に出てすっ転んだ日のことか?スープに混ぜただろう」
「あれは意地が悪いリヴァイが悪いよ!腰を強かに打ち付けて一日中痛かったっていうのに……ミモザ祭りの日」
「お前だけ花貰えなくて拗ねてた日か。酒に混ぜてあったな。今更だから言うが、この薬はクセのある臭いがすんだよ。何に混ぜようが直ぐわかる」
「貰えなかったんじゃなくて受け取らせなかったくせに。それに、この薬は無味無臭の筈なんですけど…流石潔癖性なだけあるよね」
「そもそも俺にはこの手の薬に耐性がある」
ああ、狸寝入りだなんて信じられない。脱力したは恨みがましい視線を向け、掴まれた手を払いのけようと躍起になって身を捩った。じりじりと握ってくる力の凄さに、恩知らずな態度を取ったのことをこのまま握り潰すつもりなのかも知れない、と思う。そしてリヴァイはあっという間に手の中の薬を没収してしまった。ああ、不満を露わにするを睨み付けて、薬はポケットの中に消えていってしまった。不眠症でないのならこんなものは不要だろう、と言われてしまえば言い返せる訳もない。
「信じられない…寝たふりをして私の反応を楽しんでいたってことでしょう」
「後見人に薬を盛ろうって奴の方がよっぽど普通じゃねえだろうが」
あの夜のようにしおらしいリヴァイは何処にもいない。数年ぶりに会う人の顔は最後に見た時よりも精悍になっていて、より影が濃くなっている。夜の帳よりも深く、現実に対して忠実な濃い色はあの頃と変わらない様で、全く違うものにも見える。を射抜く瞳は炎よりも熱い意思持って、憤る様を言葉よりも雄弁に語っている。視線を反らさなくてはと思ってしまうのは、には彼の言わんとしていることが解るからで、その事に対して多少の罪悪感を抱いているからだ。けれども、罪の意識よりも自分の信念を尊重した結果、今の自分があるのだからして、今更上辺だけ取り繕った懺悔なんて出来ない。リヴァイも謝罪が欲しいのではないと解れば尚更だった。
「それで、お前はどういうつもりで此処にいるんだ。自分のしでかしたことがどれだけ巫山戯ているか分かっているのか」
お前なんか呪われろ。嘗て、従順だった頃のに罵声を浴びせた男が居る。目の前のリヴァイの瞳はその時の男のものと酷似していた。従順であれば罵られる。反抗すれば恩知らず!と叩かれた。どちらが正しい選択であるのか、ずっと考えていた。苦々しい記憶は虚しい抵抗と虚偽で塗り固められた現実の底に沈んだが、合理主義者のリヴァイには呪いの言葉は届かない。羨ましい、と思った。は呪わしい全てをすっかり体に染みこませている。刻みつける。とっくに、呪われている。
「ねえ、あの時の約束は覚えている?あの契約に従って、貴方に誠意を以て尽くしてきたつもり。それは今も有効だよ。リヴァイもそうでしょう」
「その契約に従って、今すぐあの家へ戻れと言っているんだ」
「いいえ、リヴァイ、それは出来ない」
は強い力で顎を掴まれた。彼女が戦いを挑んでいるのは巨人でも世界でもなくて、目の前の凶悪な顔をした男だ。言い訳も道理も通用しない、非常に彼女を思い遣る男だった。いっそ顎が砕けるほどに力を篭めてくれたなら、は幸せだったのかもしれない。リヴァイはの顔を自分の直ぐ傍で固定させて、唇が触れ合う直前の儀式のような体勢で、地鳴りのように低い声を発した。
「お前は本当に、自分の努力や運だけでここまでやって来れたと思っているのか」
そうだとしたらお目出度いことだ、反吐が出る。はリヴァイの言葉に驚きはしなかった。顎を掴まれているので、肯定も否定もせずに、静かに瞼を伏せる。
「誰かの意図が働いているのだとしたら、尚更引くわけにはいかないでしょう」
「どういうつもりだ」
「リヴァイだってそろそろ真実を知りたいのではないかしら。貴方は約束通り、いいえ、それ以上に沢山のことを与えてくれたのだって知っているよ。今度は私が約束に報いなければいけない」
端からリヴァイが聞く耳を持たないことも知っている。彼の瞳に映る自分は誰よりも幸せに笑っていなければならない、そう思って荒れ狂う直前の二つの鏡を覗き込んだ。
「この身を捧げても報い切れない恩があります。あの日、雨に打たれて死ぬ筈だった私に手を差しのべてくれた時から、私の歯車は空回りを始めていた。リヴァイだってとっくに気が付いているはず。あの家に隠れていても、遅かれ早かれ――いいえ、もう駄目なのだって」
目を瞑っていては、見えるものも見えなくなってしまう。気付いているから、見ないふりをした。を家に送り返す機会などいくらでもあったのに、今日まで放っておいた。リヴァイはが頑固だということを知っていたが、それだけが理由ではない。もし、彼女は途中で脱落するようなことがあれば――そう考えなくもなかったが、同時にそれは有り得ないことだと、本人以上に知っていた。
「ねえ、知っていた?夜になると、私は眠らなければいけない。一人で眠りに就くと、決まって昔の夢を見る。朝になれば、現実を見なければいけない。だけど、私は一人で灰色の籠の中」
リヴァイはもうを掴んでは居なかった。能面のように白い顔に腫れた頬が良く映える。恩に報いるなどと更に恩を笠に着るようなことを言って、実際は全て自分の為だ。そんなこと、お互いが嫌になる程理解している。笠に着た恩でリヴァイの気高い矜持を叩きのめそうとしている。本当に、嫌になる。は笑った。だって、もう時間がない。
「だから私は、今から、自分の意思で歯車を回すことに決めたんだ」
「やあ、二人ともそんな辛気くさい顔して見つめ合ってないで、折角の再会なんだからもっと嬉しそうにしたらどうなの?積もる話もあるだろうに、そんな状態でちゃんと話が出来るとは思えないね。リヴァイってほーんと素直じゃないんだから」
「お前の入室を許可した覚えはない」
不機嫌なリヴァイの制止に臆することなく立ち向かえるのはハンジくらいのものだろう。は抜群のタイミングで室内の気まずい空気を断ち切ってくれたハンジを快く迎え入れたい気分。
「違う違う、用事があるのは私じゃなくてエルヴィン。がリヴァイの所にいるって話をしたら会いたいって言うものだから連れてきちゃった」
ね、それなら問題ないでしょう。ハンジが深い笑みを浮かべてを見た。その背後から、数時間前に壇上に立っていた、新人のにとっては畏れ敬うべき人が顔を覗かせた。
「やあ、」
エルヴィンは過去の記憶と少しも遜色ない穏やかな表情での前に姿を現した。まるで無害な微笑みをを湛えて、彼女を見る。
は挨拶をするのも忘れて、呆然としながら無意識にリヴァイの団服の袖を握りしめた。リヴァイはそんな彼女を横目でちらりと一瞥したが、何も言わなかった。
2014/06/12
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