明日は雨が降るらしい
「よく恐怖に耐えてくれた…君達は勇敢な兵士だ。心より尊敬する」
演説が終わった後、壇上に立った人と目が合ったような気がして、は軽く会釈をした。
彼女の周囲に残ったのは見慣れた面々で、その殆どがたった今賜った辛辣な言葉に因って、確かだった筈の覚悟を揺さぶられ、一様に青い顔をしていた。近い未来に死ぬだろうと宣告されて、狼狽せずにいられる者などどれほどいるだろうか。人類の存続がかかっているのである。生半可な覚悟では話にならない。当然とも言える篩いに、気丈に残ることを選択した同期達を、は敬意を込めて見渡した。
この選択は正しいものだったのか、誰にも解らない自問に苦しみ、涙を流す友人の背中を撫でてやる。自身の心臓も冷え切っていたが、背中を撫でる手の平は摩擦で温かかった。
「ていうか、お前は何でここにいるんだよ!」
「何でと言われても、皆と志が同じだからだけれど」
「お前、これがどういうことかわかってんのか!奇跡で卒業できたような奴が調査兵団に入るなんざ犬死にしに行くようなモンだろうが!実戦は運なんかじゃ乗り切れねえって今回の一件で身に染みてるだろ?お前は死にてえのか!」
調査兵団に志願した同期の中にの姿を見つけたジャンが恐ろしい剣幕で怒鳴りつけた。慌てて止めに入ったアルミンが今にも胸ぐらを掴みかかりそうなジャンの腕を押さえ、は肩を竦めながらライナーの後ろに避難した。
「ジャン、ちょっと落ち着いて!だって何にも考えていないわけじゃないだろ。確かに僕もはてっきり駐屯兵団に入るものだと思っていたけど」
そういえばの口から卒業後の進路を聞いたことがなかった、と各々が思い出し、よもや調査兵団に志願するとは全員が想像していなかったので、一人当然のように構えているを不安な面持ちで見ている。ジャンの言うとおり、奇跡に近い成績で卒業試験を乗り切った事実を踏まえると、それは愚行に違いなかった。ジャンの言葉は辛辣だが正論だった。
「私の気持ちは最初から調査兵団の一択しかなかったわ」
「馬鹿野郎!寝言は寝て言えよ。お前の意志の話じゃねえ、現実問題、お前の技量では不可能だっつってんだ!」
「ありがとう。ジャンは本当に心配性だね」
「し、心配してるわけじゃねえ!足手まといになられちゃ迷惑なんだよ」
顔を真っ赤にしたジャンはを力一杯睨み付け、どうして俺がお前なんかの為にムキになってんだ、と毒突いた。宥めにかかるアルミンの苦労を余所に、は「短気は損気だよ」などと火に油を注ぐ発言をしたためにジャンは血管が切れて今にも死んでしまいそうである。
「もその辺にしておきなよ。ジャンだって君のことを思って言っているんだからさ」
「でもアルミンだって私と同じでしょう、強いか弱いかで調査兵団に入ったわけじゃない。生きるか死ぬかの覚悟を決めたからここにいるんでしょう。他の皆もそう。ジャンは誰よりも正しいよ。正しいからこそ、気持ちが現実においつかないんだ」
アルミンがその時に見せたの表情の意味に気が付くことができたのは随分と後のことだった。現実を受け止める覚悟が整ってしまったら、それより先には何があるのか彼女は知っているのだろうか。の声は淀みない。時々彼女がとても崇高な高みを見ているのではないかと感じる時がある。そんな時は大抵、今のような不思議な表情をする。色で例えるとしたら驚くほど純粋な無色を纏っている。
「それにね、アルミン。私自身は不可能どころかこの上なく適任だと思ってるんだ」
ライナーが振り返ってを見た。が肩を叩いたからである。ジャンはとっくに行ってしまった。怒ってばかりだから心配だ、と朗らかに呟いた事が彼に知られれば今すぐに殴りに戻ってきそうだ、と思いながらライナーは自分よりも一回りも小さな女を見下ろすと、悪戯が成功した子供のように口元を緩めている。肝が据わっているのではなく、そもそも肝自体が存在しないのではないかと疑いたくなる言動を度々目にするが、普段は至って普通の女性である。これから兵団に腰を据える自分達と肩を並べている事自体が何かの間違いではないかと思っているのでジャンの憤りは充分に理解出来た。許されるのであれば今すぐに駐屯兵団に送り届けてしまいたい、と思う程に。
「ところでね、ちょっと聞きたいんだけど、さっき壇上で演説してたエルヴィンさんって人は、調査兵団の偉い方なの?」
「ええ?!彼は調査兵団の団長だよ。一番最初に名乗っていた筈だけどは一体何を聞いていたの?それとも聞いてなかったの?!」
「わあ、そんな偉い人だったんだ…偉そうだなとは思っていたけど」
「君って人は…。エルヴィン団長はね、若くして調査兵団の団長に上り詰めただけあって上層部にもその手腕は一目置かれている程の凄い方なんだ。彼が団長になってから調査兵団の生存率は飛躍的に向上したし、間違いなく人類前進に必要不可欠な存在だって言われているよ。
も調査兵団に所属するなら今後はエルヴィン団長の指揮で動くことになるんだからそれくらいは知っておいてよ!僕たちみたいな一団員にしてみれば雲の上の人だけど」
「ライナーは知ってた?」
「当然だろ」
そうなんだ、僅かに顔を白くしたは先刻まで噂の人物が立っていた壇上を見上げた。
新兵達の門出を祝福するかのように凪いだ空に目を細め、支給されたばかりの真新しい団服を握りしめる。ここ数日は驚くほど平穏だった。嵐の前の静けさはいつもの心を脅かす。
平穏に慣れてしまうのが嫌だ。せっかく叱咤して立ち上がった足が折れてしまうのではないかと恐れている。杞憂ではない。元々が折れやすいのだ。
「今更ながらに、とんでもないところに来てしまったなあって実感してる」
「後悔してるの?」
「ううん。嬉しいのかな。ようやくここまで来れた。ジャンの言った通り、問題はこれからだけれど、皆本当に頑張ってきたんだもの、だからきっと――」
その先をは口にしなかった。
答えは各々に委ねられ、手にした自由の翼の重みを噛み締める。何のための血の滲むような3年間であったか。それは絶望的に高く阻まれた壁から飛び出す為ではなかっただろうか。その翼をようやく手にしたのだ。これほど嬉しいことがあるだろうか。誰かが頑張ろう、と言い、その場にいた104期生達は例外なく強く頷いて見せた。
3年間、最終的な目的は違えど、皆同じ夢を見て、同じ時間を共有してきた。その間は「自分が何者であるか」を考えずにいられた貴重な時間であったように思う。誰に決められるわけでもなく、誰かを気にすることもなく、自分の進む道を選ぶことを決めた時から、が見る未来は壁の向こう側にあった。
「ほら、やっぱり明日の生死を心配して暗い顔をするより、明日の天気を心配して空を仰いでいた方がよっぽど有意義だよね」
「の場合は脳天気って言うんだよ」
「考えすぎるよりはよっぽどいいよ。ちなみに明日は雨が降ります」
私の予報は良く当たります。と大仰に頷いて見せたの頭上には煌々と太陽が浮かんでいる。ライナーは雨どころか槍でも降りかねない快晴だと溜息を吐いた。いつだったか、溜息を吐くと幸せが逃げるよ、と進言してきた人物がいる。このところ、溜息を生み出す原因になっている人物である。ライナーはとても人が良いから心配になるよ、とも言われた時、照れくさい思い抱いたのを覚えている。自分のことばかり考えていろ、とは言わないけれど、いざとなったら覚悟を思い出さないといけないね、柔らかな声音に見透かされている気がして心臓が冷えたこと。
「馬鹿か!雲一つねえのにどうやったら明日雨が降るんだよ。何か根拠でもあるのかよ」
「論より勘があたる事もあると思いませんかコニーくん。明日は明日の風が吹くって言うし」
「それ使い方間違ってるよ」
結局雨じゃなくて風が吹くんじゃねえか、と言ったコニーを残念そうに見たアルミンは、未だ穏やかに空を仰いでいるの手元を見て首を傾げた。
「、さっきから手に持っているその紙はなんだい?」
「ああ、これはね――」
「ああいたいた!!」
瞬間、の動きが止まった。怪訝に思ったアルミンが名前を呼ぶと、みるみるうちに顔色を無くし、今にも走り出しそうな様子でかぶりを振った。
「、君って調査兵団に知り合いがいたの?」
「まさか、多分人違い」
「でもこっちにくるよ」
の目が泳いだ。
その背後からやってくる人物は満面の笑みでの肩を叩き、やはり人違いではなかったと誰の目にも明らかになると、今度は力無く萎れた。
「やあ入団おめでとう!随分と探してしまったよ!真っ先にお祝いが言いたかったんだけどね、一番のりかな?」
「ええ、そうですね、二番も三番もいないのでずっと一番です。ありがとうございます」
傍から見ても腰が引けているの肩が容赦なく叩かれるので、ライナーはその衝撃で彼女の背が縮んでしまうのではないかと心配になった。しかし相手はどうやら調査兵団の先輩であるようで、未知との遭遇に思い倦ねるばかりでどうすることもできず、その間にの肩は沈んでいった。無力な俺を許して欲しい、ライナーの横でアルミンが恐る恐る手を挙げた。
「あ、あの…」
「ああ、君たちは調査兵団に入団してくれた勇気ある戦士達だね!私は調査兵団分隊長のハンジ・ゾエだ。君たちの英断には心より感謝したい。ようこそ調査兵団へ」
「え、分隊長…!」
慌てて敬礼を取るアルミン達にハンジはにこやかに手を振って制した。
「や、いいよ、楽にしてくれるかな。堅苦しいのは苦手なんだ。今年の新兵達は骨のある子が多いっていう噂は聞いている。君たちの活躍を期待しているよ」
自己紹介を終えたハンジの言葉に驚いたのはどういう訳かだった。隙をついて距離を置くことに成功すると、再びライナーの背後に隠れ、それを見たハンジは君たちはまるで兄妹みたいだね!と面白そうに笑った。
「ハンジさんって分隊長だったんですか?」
「えー、やだなにその疑惑の目は。こんな冗談言うわけないでしょ。でも、あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてませんよ…たぶん」
「昔から君は私達のことに無関心だったよねえ」
そもそも個人としては関心の有無以前の問題で、接点を持ったつもりも親しくなったつもりもなかった。そんなを何かと構いたがるハンジには、確信犯的にの困り顔がみたいだけだと宣言した過去がある。その事実をは知らないが、目は口ほどにものを言う事を知っている。信用ならない人だと思っている。
「それにしても良く調査兵団に志願したね。私はそうなんじゃないかって信じてはいたけどね、実際目の当たりにすると感慨深いなあ。あのが無事に卒業出来ただけでなく調査兵団なんて3年前は想像もしていなかったからね。ん?この間会った時よりも少し窶れた?辛いことでもあったの?君の友達のエレンはちゃんと私達が保護しているから安心していいよ。それにしてもこんな細腕でちゃんと巨人をしとめられるのかい?ともあれ入団おめでとう!そんな固くならないで、これからは同じ団員同士になるのだからもっと仲良くしよう。そうだ、私の班に入らない?わお、我ながらなんて妙案だろう!がいたら研究魂にも火がつくなあ!丁度行き詰まってる案件があってね、早速エルヴィンに頼んでみよう――ああ、そうそうエルヴィンも君の姿を見て喜んでいたよ、なんだかんだでうちも人手が足りていないからね。後で話がしたいって言っていたから時間があるときにでも顔を出してやってくれるかな――あれ、どうかした?」
凍りつく空気の中、ようやく周囲を見渡すことを始めたハンジは絶句したの顔を見て、君のその顔好きだな、と言った。飛び上がったが人身御供とばかりにライナーを押し出すと、珍しく大柄な体が強張った。
「君たちは本当に仲良しなんだねえ。そこの君はのことどう思っているの?ってとっても面白い子だから好きになっちゃうのもわかるけど、彼女にはとーっても怖い保護者がいるからね。彼の許しを得るくらいなら死んだほうがマシって思っちゃうくらい凶悪な保護者がいるからあんまりオススメはできないんだよなあ」
「ハンジさん滅多なこと言わないで下さい!」
「あ、やっと顔出した。だって君が彼の後ろに隠れてしまうからだよ。の化けの皮を剥がせるのは私だけだって思うとゾクゾクするんだよね。だからちゃんと顔を見せて欲しいな」
「ああ駄目だ、眩暈がする」
この場にハンジの暴走を止められる者がいないことが恨めしい。
アルミンは明日は本当に雨が降るかもしれないと思った。地獄の訓練でも音を上げることのなかったが今まさに死んでしまいそうである。ライナーの背中から引っ張り出されたはいつもより小さく見えた。彼女にだって苦手なものくらいあるのだと知ったが、彼女の脅威はなんと恐ろしいことか。巻き込まれたライナーが遠い目をしている。自身の顔も盛大に引きつっていることを自覚しながら明日雨が降ったらミカサと一緒にエレンを捜しに行こうと思った。同じ調査兵団に入ったことを真っ先に報告したい。きっとミカサも同じ事を考えている筈だ。横に佇んでいたミカサをちらりと見ると、無言で頷かれた。異論はないようである。
「とまあ冗談はここまでにしておいて、あの頑固な保護者が良くが調査兵団に入ることを許可したよね。今回はどんな手を使ったの?」
「……」
ハンジの問いには無言で答えた。
「ええと?もしかしてまったく何にも言ってない…とか?」
「別に保護者ではありません!ただの同居人だった人です。そもそも私はとっくに成人しているので逐一許可をとる必要なんてないですよね?」
「って反抗期?まあいいや、うん、そんなことだろうと思っていたけど。問題はの主張と彼の見解が面白いくらいに噛み合っていないことなんだよねえ」
「そんなこと知りません」
口では否定しながら、の目が戸惑い気味に揺れた。自分の選択は正しかったか。これから一人で飛ぶことが出来るだろうか。時々、脳裏に懐かしい人の顔が浮かんでは消えていく。
ハンジはそんなの背中を叩いて苦笑した。基本不機嫌な人だけど今日から益々不機嫌になりそうで嫌だなあ、嫌でも顔合わすことになると思うからちゃんと話し合った方がいいと思うよ。頑固者同士折り合いなんてつかないと思うけど形くらいはさ!何はともあれ、これからよろしくね!嵐のように現れたハンジはとんでもない爆弾を落として去っていった。
「…聞きたいことは沢山あるけど、顔が死んでるから」
「だってもう生きてない」
明日は間違いなく、雨が降ると思います。その根拠がたった今、出来てしまった。
はもう空を仰がない。
2014/01/05
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