奇跡はとっくに匙を投げた
自他共に認める落ちこぼれのが卒業試験に受かった事は誰もが奇跡だと思った。若しくは上層部に伝手があるに違いない、今まで散々に才能の乏しさを周囲に見せつけ、最下位街道を爆走してきたというのにも関わらずここまで残れたことですら何か圧力が働いたのではないか、という噂を流す者もいた。心ない噂が駆け巡る中、当の本人は3年間で一番の笑顔を浮かべては同じく最下位で燻っていたアルミンと手を取り合って喜びを分かち合い「私はアルミンのように頭脳明晰でずば抜けて座学が出来るというわけではないから冷や冷やしたわ」あっけらかんと言い放った。真偽の程はその場に居た殆どの人間の知る処ではないが、彼女が誰よりも努力を怠らなかったことを知る者達は、の合格を喜び称え、彼女の決して幸せではない未来を憂いだ。
「エレンが巨人になったって本当なの?」
人の力では決して破壊できない巨大な壁を睨むように、は視線を右から左、そして壁が途切れる頭上を見上げて息を吐いた。息苦しい、そこに居る誰もが感じている事だ。トロスト区の壁が破壊され、巨人の侵入を許してから再度奪還に成功するまで、体験したことのない地獄を見た。卒業と同時の出来事だった。突然の出来事に実戦経験のない訓令兵卒業者までかり出され、3年間苦労を共にし、晴れて兵団の一員として認められると目を輝かせた多くの希望の芽が日の目を見ることなく散っていった。
全てが終わった後、無惨な有り様のトロスト区に事後処理に回された生き残りの卒業者の中には混ざっていた。多数の犠牲者が出た中で良く生き残れたなあ、というある意味当然の反応には曖昧に笑っていたが、現在のは小さい顔の半分が白い布で覆れている為に、どのような表情をしているのかを周囲に悟られる事はなかった。よく注意を払って見ない限りは至って平常通りのようだったし、周囲も他人の言動を気にかけるだけの余裕はなかったからだ。だがは自身の顔中の筋肉が引きつっていることを自覚している。何しろ嗅いだ事のない恐ろしい悪臭は一瞬にして体中に纏わりつき、生者の精神から心臓に至る全てに蝕み取り憑こうとしているに違いなかった。
彼女の心臓はたった一時間で数年分の鼓動を刻んでいて、それに応えるように何百回も瞬きを繰り返してからからに乾いた瞳は忙しなく動き回ったが、ある一点を捉えた途端、思考が働くより先に静止した。感動とは真逆の劇的な再会、声をかけようと腕を伸ばしかけて、止めた。喉の奥が引きつっている。
そこには、少し前までを毛嫌いしてよく悪口を言っていた同期の姿があった。但し、一目見て生命が果てた事がわかるその姿は頭部から下が欠損している。見慣れてしまった光景であるのに足が竦んでしまったのは見知った顔だからなのか。まるで精巧な人形のように瓦礫の中に転がっている。初めから首から下が存在しなかったのではないかと錯覚して見ていると、視線が合わさった気分になる。事切れる寸前の恐怖がありありと見て取れる形で、驚愕と突然に降ってきた絶望の瞬間で時が止まり、見開かれたままの彼の瞳はこのような色をしていただろうか。幾度となくを蔑んだ瞳の色をもう思い出すことが出来ない。彼はの事が一方的に嫌いだったけれど、は決して嫌いではなかった。いつか和解出来る日が来ればよいのに、と思い描いた日は永遠に失われてしまったらしい。顔を合わせると悪態ばかり吐いていた口は半開きのまま、そこから二度と音が紡がれることがないだなんてどうして信じられるだろう。
暫く反らすことの出来なかった金縛りからを解放したのは大きな手の平だった。視界を覆った無骨な手の平は同じく同期のジャンのもので、優しく包み込むとは言い難く、荒々しく触れた所から小刻みに震動が伝わってきた。これは彼の叫びなのだ、と感じるとはゆっくりと瞼を落とす。
「オスヴァルトか…」
沈痛な声に無言で頷く。
「お前にしてみれば良い印象はなかっただろうけどな、家族思いの根は良い奴だったんだ」
故郷で待っている妹の事、体の弱い両親の事を話している姿を見かけた事がある。は静かに屈んでオスヴァルト少年の瞼をそっと下ろしてやった。回収された遺体は疫病を防ぐ為に悼む間も惜しく、早急に燃やさなければならない。灰になったら風に乗って故郷に帰るのだと願う。
同じように屈んだジャンは、壊れ物を扱うようにそっと持ち上げて、驚くほど軽くなってしまった少年に「馬鹿やろう、」と苦悩に沈んだ声を震わせた。同じ志を持った者同士、ジャンがオスヴァルトと楽しそうに話している姿を何度か目にした事がある。
「…その先の角を曲がった大通りに、マルコがいた」
ジャンの声は地を這うように低く、それが吉報ではないことは直ぐに理解できた。
はそばかすだらけの頬を優しく緩ませる実直で純粋な少年のことを思い出す。その人柄の良さから周囲の人望も厚く、落ちこぼれであるにも分け隔てなく接してくれた。
「マルコ、あれだけ憲兵団に入りたがっていたのに。あと一歩でその夢が叶うところだったのに」
ジャンはもう一度、大馬鹿やろう、と言って僅かに肩を震わせた。
行き場のない感情をどうにかして追い出そうと視線を背けると、急ごしらえで補強された壁の一部が目に付いた。あの時の光景は今でも脳裏に焼き付いている。
「それにしても、まさかエレンが巨人になれるだなんて…」
の呟きに顔を上げたジャンは同様に破損した壁を見やり、奥歯を噛み締めた。
「俺だって今でも信じられねえよ。だが実際にあの壁の穴を塞いだのはアイツだ。あの馬鹿が敵か味方か、いずれにしろトロスト区が奪還出来たのはその得体の知れねえ能力のお陰だからな。…情けねえ話だぜ」
「ねえ、ジャンのエレンに対する対抗心は、今こうして心ない状況下に置かれているエレンにとって救いになるのだと思うよ」
それは私とオスヴァルトのように、と言っては空を仰いだ。
人類の危機を救った英雄と崇められるならともかく、疑惑の渦中の人物として牢に拘束されているエレン。事が事だけに無理もない事だと思うが、手の平を返したような周囲の態度に一番困惑しているのはエレン本人だろう。の言葉を嫌そうに顔を歪めるジャンの存在は貴重だ。
「別に対抗なんてしてねえよ。ただ馬が合わないだけだ」
「ふふ、そうとも言うね」
『化け物』としてのエレンではなく、ただ一人の人間として向き合うこと。ジャンとてその狭間で葛藤しているに違いないが、彼の揺るがない姿勢は果たしてエレンの救いになるのか。
「エレンはこれからどうなるのかな」
「数日後に開かれる特別兵法会議でアイツの処遇が決まるらしい」
「エレンが法廷に…?」
「ああ、さっきミカサとアルミンから聞いた。あいつらも証人として出廷するらしい」
は僅かに目を見開いてジャンを見た。ジャンはとっくに彼女に背を向けて歩き出していて、その後ろ姿からは何の感情も読み取ることは出来ない。それは死地に赴く勇者にも、親を捜して頼りなく彷徨う迷子にも見える。その横に肩を並べて歩くマルコの姿はない。
ふいにジャンが立ち止まり、彼の長身での顔に影が差した。ゆっくりと顔を上げるとジャンはを見ておらず、じっと虚空を向いていた。
「なあ」
ジャンは名前を呼んで、再びの目元を自身の手の平で覆った。
「お前さ、今もいつものように笑ってるのか」
手の平は先程とは違い、触れるか触れないかの距離を保っている。
「どうしてそんな当たり前の事をきくの?」
「…そうか、そうだよな、悪い」
あっさりと離れていく気配に瞼を開けると、広がる視界に目を細めた。の耳に、お前は強いな、と前を行くジャンの呟きが届けられた。マルコがさ、俺が指揮官に向いてるなんて言うんだぜ、こんな俺を。あいつ、今の俺を見たらなんて言うだろうな、情けない姿なんてみせられねえよな。だからさ、俺――、 ジャンを追うようにして足を進めると、瓦礫を踏んでじゃらりと嫌な音がする。立ち並ぶ屋根は所々倒壊していて、その箇所だけぽっかりと空が覗き、の心に黒い染みを落とした。
空は青いばかりで、必死になって雲を追いかけて辿り着いた先は未だ壁の内側だった。安全とは言えなくなったこちら側の世界は息苦しく、太陽は地上を眩しく爛々と照らすが、どんよりと幸福でも平穏でもない重苦しい空気が地上を包む。雨が降れば少しはましだ。節操なしの太陽はたちまち雲で覆われて、忌々しく空を見上げることもない。大地を跳ねる水滴は平等に人々の心に滑り落ちる。
壁の中は幸せだろうか。
エレンは、上層部のこわいこわい人達がなんとかしてくれるといいのだけれど。
はジャンにかける言葉も、それから自分自身にかける言葉も見つからなかったので、布の内側で唇をきつく噛み締めた。
肩を叩かれて振り返ると、は目をまんまるに見開いて硬直した。
「ひっ!」
何とも情けない声が飛び出したが、それを恥じる余裕は思考回路の奥の方においやられていた。体だけは正直で逃げようと器用に後方へとずれて行ったが、そのまま肩をしっかりと掴まれてしまい、のけぞる体勢で再び固まった。
「わあ、やっぱり?」
反しての肩を掴んだ人物は、普段の様子からは想像もつかない態度のを気にかける事もなく目を嬉々と輝かせ、華奢な肩を何度も豪快に叩いた。
「い、痛いです、ハンジさん…」
「!3年も見ないうちにすっかり立派になって!」
「あの、だから肩、痛いです…」
溢れる好奇心を全身で表現しながら不躾に至近距離まで顔を近づけて、まじまじとの表情を覗き込んでいる癖に、怯えた様子には全くの無頓着である。会うたびにその目は節穴か、と叫びたくなるは顔を引きつらせてのけぞる体勢もそろそろ限界に近かった。
「あの箱入り娘が家出って聞いただけで驚いたけど、まさか訓令兵に志願した上に卒業にまで漕ぎつけるとは思わなかったなあ!よくあの地獄の訓練に耐えられたよね。絶対無理だって思って、きっと3日で尻尾を巻いて逃げ帰ってくるよ、なんて慰めてたのにまさか3年も経つなんて!信じられない!ねえ貴女は本当に?全体的に逞しくなったような、体つきというよりも雰囲気が、目つきとか。若干日焼けした?うわあ!あんなに綺麗だった自慢の指がボロボロじゃないの!髪だってすっかり艶がなくなって、ああもう勿体ない…!!」
手を握ったり、頬を抓ったり、髪を梳いたりと兎に角落ち尽きなく、饒舌に捲し立てられては口を挟む隙もなかった。どうしてこんなことになったのだろう、は内心で頭を抱えている。
やたらと親しげに距離を詰めてくるハンジという人物と知り合ったのは同居人を介してであり、とはそこまで親しい間柄ではない筈だが、会う度にこのように激しいスキンシップと執拗な観察を繰り替えされていては同居人よりも何十倍も扱いづらいと思ってしまうのも当然の心理で、流石のも逃げ腰だった。さらに不幸なことには、いつもなら助けてくれる者がここには居らず、正にハンジは野放し状態だということだ。
「それにしたってが家出してからの不機嫌な彼の様子を見せてあげたかったなあ。可愛がっていた飼い犬に手を噛まれました!みたいな情けない顔をさ。の場合は犬じゃなくて気まぐれな猫かな」
とばっちりを受けた周囲の人達には申し訳ないが、想像しただけで面倒臭かったので、見なくてよかったなあとは思った。最もハンジに限ってはその状況すらも面白がって引っ掻き回すことに余念がなかったのだろう。嬉々として当時の有り様を語りたがる様子に肩を落とした。
「ハンジさんはお変わりないですね」
お変わりなく変わり者ですね、という揶揄がこめられているにも関わらずハンジはにっこりと笑った。食えない人だ。
「うん、こちらは変わらず、さ。でも今日は予期せずしてと再会出来てこんなに嬉しいことはないよ!まるでこれから何か面白い事が起こる予兆だと思わないかい?」
冗談ではない、それは不幸が始まるプロローグに違いないとは悟った。
「どこに家出したのって聞いたら訓練兵になったって言うじゃない。それならご近所だしってことでもっと早くに様子を見にいきたかったんだけど、圧力かけられちゃってさ。本当に素直じゃないよねえ、自分だって心配だった癖にさ」
「そうでしょうか、手紙だって届いたのはたった一度きりでしたし」
最も一番の薄情者は無断で家出をして、届いた手紙に返事を出さなかったに違いない。そもそもどうしてあんなにあっけなくばれたのだろう、とは今でも不思議に思っている。
「え、手紙なんて届いたの?!」
「たった一言でしたけどね。「そのまま死ね」って。酷いでしょう」
今度はハンジが目をまんまるに見開いて、それから大袈裟に声を立てて笑ったので、周囲を歩く数人が挙動不審な仕草で振り返った。
「はは!彼らしいな!そんなしょうもないことするんだ、あの仏頂面で!」
静かな廊下にハンジの声ばかりが響いたのでは居たたまれない気分になって俯いた。咎める視線の矛先がにまで向いているからだ。
「それで、今日はどうしたの?卒業の報告を彼にしにきた…っていうわけではなさそうだね。もしそうだとしても今は大事な会議中だから残念だけど――ああ、そうか、確かエレンはと同期だったよね。彼が心配で居ても経っても居られずってとこかな?」
「ええ、まあ」
友人の生死を問われる重要な会議だ、に出来ることなど何もない癖に、気が付けば法廷まで足を運んでいた。既に会議は始まっている頃合いなので人通りもまばらになり、ハンジとこうして立ち話をするのは非常に目立つ。
「暫くうちの隊で拘束していたから彼のことは知っているよ。というかたった今、エレンを法廷まで案内したのは私だからね。出来ることなら調査兵団で引き取りたいよね。そうすれば身近で彼の興味深い能力についてじっくり観察することができるしね!エルヴィン達はもとより引き取るつもりだから私はあまり心配していないけれど、よかったら一緒に覗いていく?もう始まっているから途中からになるけど」
「いや、私は別に」
「遠慮しないで、遠くからの傍聴になるからあまり良く聞こえないかも知れないけどね。皆エレンにお熱だから一人くらい紛れ込んだって誰も気付きはしないさ」
結構です、遠慮させてください、と必死なは無理矢理ハンジに扉の中へと引きずられていった。
どうしてこうなってしまったのだろう。
広い法廷内でが見たものは、広い場内の中央に見せしめの重罪人のように磔られた友人の姿であり、彼の生死を分けた重苦しい会議の参加者の殆どが彼を異物を見る目をしているということだった。体中の血液が一瞬にして下降していき、青ざめたはあんまりだ、と呟いた。だから見たくなかったのに。するとハンジは「はしっかりとこの状況を見届けなければいけない」と言う。
滑稽な異端審問は一体誰の為のものなのか。目の前で、無抵抗のエレンは一切容赦ない暴力をその身に浴びせられて力無く項垂れた。エレン一人の命などどうでもよく、重要なのは人類の未来である。
先に逝った両親や仲間達、マルコやオスヴァルトは幸せだったか、この壁の中は誰にとっての安全なのか。
は顔を伏せる直前に、法廷の中央に降り立った人から鋭い視線を浴びせられた気がした。
2013/09/22
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