飛べない癖に飛びたがる
体中あちこちが痣だらけで、白くあかぎれ一つなかった苦労知らずの手は今や切り傷と肉刺だらけ。日々の訓練が終わる頃には使い古した雑巾のように真っ黒になっていて、過酷な訓練とはいえ一体どうしたらそこまでくたびれることが出来るのか、周囲は最初こそ目を見張ったが、次第に慣れていくと「これもある意味才能である」と生暖かい目で見るようになった。向けられる視線にありがとう、と律儀に返す都度、ばかやろう、あれは皮肉だ、と指摘されるのがの日常であった。
「お前もよくやるよな」
日々の日課として訓練後に汗と泥を流し、憑きものが落ちた爽やか顔のは食堂の一角のテーブルに腰を下ろし、目の前の食事そっちのけに、本日新たに出来た切り傷、打ち身の数を目算していた。集中力など訓練時に全て使い果たしたので、何度も繰り返し同じ箇所を数えては最終的に諦めるという不毛な努力は既に日課になりつつある。ふいに頭上が陰り、空席であった向かいの椅子が引きずられる音に視線を上げると、同期の訓練生である少年が食事のトレイを抱えて腰を下ろすところだった。
「エレン、お疲れ様。ミカサは?」
「知らね」
そうやっていつもセットみたいに言うのをやめてくれ、ふて腐れた表情でを睨め付け、彼女の前に置かれたトレイの中身を見て違う意味で顔を顰めた。自分と全く同じメニューであるが、エレンよりも早く手にしたというのにスプーンは綺麗に光ったまま。硬さを誇示したパンは欠片もその姿勢を崩しておらず、野菜の切れ端が入った薄いスープは冷め切っている。
「あれだけしごかれて腹が減らねえなんてお前ってつくづくおかしいよな。またサシャに持ってかれるぞ」
「お腹が空いているけどエレン達を待っていたんだよ。こんなに仲間がいるのに一人で食べるのも寂しいでしょう」
彼女はエレンが今まで知り合った人間の中でも群を抜いて律儀で頑固な人間だ。過酷な訓練では考えられぬ程質素な食事では全ての訓練生達が慢性的に空腹に脅かされている。同じ訓練をこなしているとて例外ではない。平常通りの笑顔だって日に日にくたびれてきていることをエレンは知っているが、どんな目にあってもその姿勢を崩さない彼女の揺るぎない精神力は尊敬に値すると思っている。
既に食堂内は多くの訓練生達で賑わっていたが、隅の方に陣取ったの周囲には一人も居らず、喧騒から取り残されたテーブルが嫌に広く感じる。意図的に向けられる視線の多さに舌打ちを隠せないエレンの向かいで、和やかに笑いながら場所取りをしておいた、など一向に気にする素振りのないはようやく手にしたスプーンで硬いパンをこつこつ叩いて見せた。
「皆のお荷物なのは認めるけれど、だからといって同じテーブルに座ったくらいで鈍くさいのが移るわけないのにね、感染症じゃあるまいし」
「は!?お前そんなこと言われたのか!?」
「いいえ」
だから落ち着いて座って、腰を浮かしかけた少年を窘めると、渋々腰を下ろしたが、未だ血の上りかけた頭を鎮めることが出来ずにぶつぶつと文句を垂れ流している。お前がそんなんだから周りにナメられんだよ、エレンの言う事は尤もだが当の本人は何処吹く風、自分には細かい事の一つ一つを気にかけている余裕がないのだ、と言う。
「エレンは何に腹を立てているんだ?」
の隣に腰を下ろしたのはライナーという大柄な少年だった。同期の中でも面倒見の良さから信頼も厚く、仲間内では中心的な位置にいる事が多い。体格の良い彼が横に座るとなどいっそう小柄に見え、周囲の視界から弾かれてしまう。たちまち不躾な視線が霧散していくのを感じると、はありがとう、と言い、ライナーは何のことだ?と目元を細めて笑った。それから間もなくベルトルトという黒髪の長身の少年がやってきての横のもう一方の椅子に座ると、遠くの方にミカサとアルミンの姿を見た。
「そういえば、君はまた派手にやらかしたんだって?」
「もう広まってるの?恥ずかしいな」
「は?俺は聞いてねえ、今度は何やらかしたんだよ」
はエレンに睨め付けられる度に、いい加減に目つきが悪い事を自覚すれば良いのに、と思う。強い視線から逃れる為に目の前の食事に意識を傾け、意地らしくスプーンでパンを叩く。そんな事をしたところで柔らかく食べ頃になることはないと知っている。
「立体機動装置での訓練中に派手に木に激突したわ。さらにワイヤーに絡まって木から宙づり。あれは流石に吃驚した」
どこから聞いていたのか、やってきたミカサに指摘をされるとは慌てて鼻を覆った。大胆に顔面から立派な幹に激突したのだ、道理で鼻頭が擦り剥けて赤くなっているわけだ、と観察されては堪らない。信じられねえ、と呆れ顔のエレンからの追撃を避ける為に目を泳がせた。
「とにかく鼻血の量が凄くて可哀想にの鼻は潰れてしまったんだと」
「失礼な!強く打ったけど無事だったわ…鼻が低いのは生まれつき!」
宙づりになると大量に流れた血が鼻から逆流を始め、藻掻くほどにワイヤーは足に絡みつき、は助けが来るまで呼吸困難で死ぬような思いをした。怒るどころか呆れ顔の教官の顔が脳裏に焼き付いている。
「…俺はが今ここに残っている事に奇跡を感じている」
奇跡的な愚鈍ぶりだ、とエレンが遠い目をした。ありがとう、と言うとだから褒めてねえ、と怒鳴られる。そう言えば傷の数をかぞえる時に、視界に入らない鼻頭が抜けていたな、と振り返った。その日負った怪我の数を数え初めてから一向に減る気配のないそれは誰に報告するでもなく、ひっそりと日記に記し積もっていく。
は初日の期待を悪い意味で裏切って、大変な劣等生だった。教官にあれ程の啖呵を切っておいて、どんなに素晴らしい実力者であるのかと一躍注目を浴びたが、それがまったくの期待外れであったと周囲が思い知るのは直ぐの事だった。華奢な見た目を全く裏切らない身体能力では何をするにも平均以下、さらに恐ろしく鈍くさい為に逆の意味で注目を浴びるようになった。あの晩、エレン達に向かって自分は体力がないと言った事は謙遜ではなく歴とした事実だったのである。
「正直は真っ先にリタイアすると思っていたな」
時には死人すら出る過酷な訓練において既に多くの脱落者が続出している。耐えられずに脱走する者や、見込みの無い者は容赦なく開拓地に送られ、入団当初よりもかなりの数が減っていった。その中でも常に下位に燻るなどは真っ先に脱落するものだと周囲は思っていたが、予想に反して彼女はどんな訓練においても根を上げることはなく、奇跡的に強制退場を命じられることもなくこれまでを乗り切ってきた。娯楽のない忍耐と精神との闘いである訓練兵団においての存在は奇異に映り、その愚鈍な様は一部の抑圧に耐えきれない訓練生達の加虐心に火を付け、ストレスの捌け口にされることもしばしばあった。しかし周囲から嘲笑浴びても折れない精神力の強さだけは誰よりも優れているに違いない。赤い鼻をしきりにさする横顔はこのような場所には不釣り合いな穏やかな気質が滲み出ている。しかし一度訓練に赴くと、どれだけ土や汗にまみれても、誰よりも大地に這い蹲っても決して揺るがない強い瞳を宿す。ライナーは、この小さな体のどこにそのような強かさがあるのかという事に思考を働かせ、しかし人より劣る分、誰よりも努力を重ねている事を知っているのでつい応援してやりたくなる。例え彼女が一番場違いな場所にいて、必要以上の地獄に喘いでいたとしてももう止めろなどとは言えない。不器用に生き急ぐの未来を見守って、見届けたいとさえ思う。
「リタイアは絶対にしないよ。例え最下位でも卒業してみせるわ」
「前から聞いて見たかったんだが、どうしてはそこまで兵団にこだわるんだ?理由は、その、エレンみたいに巨人と戦う為ってわけじゃないだろ?」
虚をつかれて鼻をさすっていた手が離れると一瞬、真顔が露わになったが、その鼻は痛々しい赤だった。赤ばかりが目に止まる。彼女の鼻はこんなに低かっただろうか、元からこの高さだった気もする、ベルトルトは失礼なことを考え、可哀想だな、と思う。よく見ると鼻だけではない、あちらこちらに切り傷やかさぶた、鬱血した後が残っている。
「意地かな。兵団に入って見返したい人がいるの。絶対に無理だって決めつけてきたあのスカした鼻っ面をへし折ってやりたいって思ってるわ。一度でいいから「すまなかった」って殊勝な一言を言わせてみたい」
「……ん?」
予想の斜めをいく回答に肩透かしをくらったライナーは首を傾げ、エレンとミカサ、アルミンは遠い目をした。恐らく、あの珍妙な手紙の主の事を言っているに違いなかった。
「それだけの理由で君は血の滲むような努力を…?」
「ええ」
意思固く頷いたにライナーは頭を抱えたくなった。エレン程ではなくとも、もっと胸が熱くなるような正義感に溢れる回答が返ってくることを、実はほんの少しばかり期待していた。努力の姿を身近で見続けていたせいか、彼女のことをもっと崇高な何かではないかと勝手に美化して盲目になっていたのかもしれない。若しくは疲れているのかも。本当に、という人間は破天荒だ。この場の誰よりも凡庸な空気を纏っている癖に時々突拍子もない言動をする。
「ねえ、医務室に寄って塗り薬を貰ってきたんだ。女の子なんだから顔に傷が残ったらどうするんだい」
「ありがとうアルミン」
甲斐甲斐しくに薬を塗ってやるアルミンを横目にエレンが愚痴を零した。
「つーかはさ、座学はそこそこできるし、馬術は優秀なのに立体機動はからっきしだよな」
身体能力の関係ない座学で名誉挽回をはかるであったが、機動力が最も重視される実践において彼女の欠点は致命的とも言えた。
「馬とはこちらが尽くせば意思の疎通ができるけど、機械だとそんな訳にもいかないでしょう」
「…って機械音痴?」
「そんなことはないと思うけど」
「どうしてが立体機動装置使うとあんなにへろへろ飛ぶんだろうって関心してるんだけどさ、逆に器用って言うか、あれってどうやってるんだ?そもそもあんな飛び方で装置を使う意味があるのか?」
鼻に薬を塗られた体勢のまま、え、と固まるを尻目に同席した面子は満場一致で深く頷いた。傷が痛むのだろうか、は目を細めて周囲を見渡してから視線をゆっくりと落とした。どれだけ努力を重ねたところで超えられない限界の壁は存在するのか。仲間達は悠々と空を舞うのに、自分はいつまで経っても灰色のアヒルで、空ばかりを見上げるばかりだ。
「お前が飛んでるとこ見るとなーんか気が抜けるんだよな」
「でも速度が緩いお陰で今日は大事に至らなかった。褒められたことではないけど」
「ミ、ミカサ…」
おろおろとアルミンが狼狽えてミカサとを交互に見やった。立体機動装置に関して彼女の才能の貧しさは同じ底辺を争うアルミンから見ても明らかであったのでフォローの仕方が全く持って思い浮かばなかったのだ。同じ苦労仲間であるが故に、が立体機動装置の扱いについて誰よりも悩んでいることを知っているので、今日のような事があった日は特に胸が痛い思いだ。
「もっともっと頑張らないとなあ」
は溜息を零すとようやくパンを手に取った。結局いくら叩いたところで劇的な変化など起こらずパンは固いままで、千切るための指は満身創痍、非力な指にはパンに割く余力など残ってはいなかったので、行儀が悪くとも仕方なしにそのままかぶりついた。歯を立てた途端に鼻に痛みが走り、顔を顰めた。いつにも増してこのパンは絶望的に駄目だ。諦めて冷めたスープを啜っていると、横から手が伸びてきてのパンを攫っていった。サシャが来たのかと視線をあげると、ライナーが食べやすいサイズにパンを千切り、の前に差し出した。
「あ、ありがとう」
は年下の少年の面倒見の良さに一瞬戦慄を覚えたが、流れるように自然な所作に結局は流され、ライナーの手ずから千切られたパンをスープに浸して食べた。自分はきっとこういう些細な優しさに飢えている。いつもより塩気の多い味がしたのは気のせいではない。
「お前さあ…まあいいけど…って良くないよな!あのなあ、頑張るって言ったって卒業戦闘模擬試験はもう目前なんだぞ…ライナーもあんまり甘やかすなよ」
「試験、なんとかならないかな…」
「馬鹿か、何のための卒業試験だと思ってるんだよ、そんな簡単にいくもんか」
本当は試験に落ちた方がの為なのではないかと思っている。なんとか過酷な訓練には耐えて来たが、卒業後に待つのはもっと辛い現実だ。その来るべき未来に笑顔のままでいられるのか、周りが気を揉んだところで結局は彼女次第なのだが。巨人と戦うために組織された兵団に在る姿が想像できないのだ。それは何故だろう。
「死んでも受からないと、もう後がないから。今、兵団に入れなかったらきっともう外に出してもらえない」
「はあ?そもそも、仮に合格出来たとしてお前ってどこの配属が希望なんだ?今の成績から言って憲兵団は無理だしよ。無難に駐屯兵団だろうけどさ」
は食事の手を止めてエレンを見た。全員の視線がに集中する。配属先によって大きく人生が左右する重要な選択肢について、一度も彼女の口から聞いたことがなかった。
「私は、私が生きてゆけるところにいくわ」
籠の中ではなく、自由でいられる場所に。
の笑顔は相変わらずくたびれていたが、意思は仄暗い灯火の下でも少しも揺らいではいなかった。彼女のことを良く知る人間は、時々彼女の瞳の中から感情が鮮やかに滑り落ちる時がある事を知っている。時に嵐のように荒々しく、かと思えば何日も続いた日照りのように乾いていることもある。その滑り落ちた僅か一瞬だけ本当のという人間に触れた錯覚に陥って、彼女の世界が未知に富み鮮烈に色付いていることを思い知る。
エレンは思う。は兵団なんかより安全な壁の中で誰かに、例えば自分やライナーでも構わない、護る力のある者の庇護の下にいるべき人間だ。時代錯誤も甚だしい事だがそう思うのだ。
それは彼女がもっとも厭う安全な籠の中で。
飛べない癖に飛びたがる鳥の様に。
けれども。
アルミンが持ってきた薬の小瓶と、ライナーが千切ったパンの欠片が視界に入った。
2013/08/30
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