さようならを言い間違えた





あつい、は一言そう思った。
天気の話ではない。今、を取り巻く環境が、である。
巨人達に全てを奪われてから2年が経った。もう2年、若しくは未だ2年、あれ以来の心にはぽっかりと穴が空いた。塞ぎ方が分からないのでもう二度と塞がらないのかもしれないが、それも無理のない事だと思っている。どうにもならないことをがむしゃらに頑張るより、ありのままに受け入れてしまう、現実は他にもっとやるべき事が沢山あるのだから、が真っ先にすべきことはいつまでもうじうじと悩むことではなかった。そうして一度受け入れてしまうと、生まれたときからそこにあったように日常に溶け込み、すっかり平気であった。平たい気分で、毎日壁を見上げる。突出した何かが襲ってこない限り平気なのだと必死に祈り、その限りを、人々は恐れ、夢の中でさえ壁の向こう側の得体の知れない何かに恐れている。だから人類の恐れに比例して広がる巨大な壁を信頼していたいと願うことに必死になる。
とて例外ではない。あの襲撃以来、彼女のように傷ついた人間など溢れる程いるから、自分だけが特別だと思えるわけもなく、淡々と世界を阻む壁を見つめることが習慣になると、そのうちの半分はそっと胸を押さえて考えるようになった。月日がいくら流れてゆこうとも、この記憶だけは消えそうにない。ヴェルナーおじいさんの右足の感触、骨と皮だけでできたやせ細った足は脆く、巨人が抓むとほろりと取れての頭上に降ってきた。毎日虚しい虚勢を張り続けた痩けた老人の成れの果て。男性の足に触れたのはあれが初めてだった。両親が最期の瞬間、に教えたのは人の血液は驚くほど赤く、鉄の臭いがするということだ。自分にも同じものが流れているとは信じがたい劇的な赤はしばらくすると固まって赤茶色になる。初めて見た巨人の姿はおぞましく、あれほど大きな生き物は見たことがなかった。玩具のように建物を薙ぎ倒し、簡単に人の骨をかみ砕く強靱な歯、吐く息は恐ろしく臭い。濁った目は人間を見ると醜く歪められる。悪夢のようだ。全てを無かったことにするにはどうしたら良いのか。しかしこれは悩みではない。答えを必要としない、思考の悪戯。
これらの事を考えた日の夜は大抵眠れない。全ての眠りがから遠ざかっていく。お陰で寝室の木目の形を正確に覚えるという殆ど役に立たない特技が出来て、試しに同居人に自慢をしてみたらくだらねえ、と一蹴された。釈然としなかったのでその場所に馬鹿、と落書きをしたら速攻で見つかって馬鹿はお前だ!額を指で弾かれた。自分だって天井をみているじゃない、文句を言った日は床で寝るはめになった。

ああ懐かしいことだ、やはりもうあれから2年。の歩む未来は劇的に変化を始めている。
シガンシナ区の壁を皮切りに、第一の壁ウォール・マリアの門まで突破されてしまえば為す術なく、人類の居住区は第二の壁ウォール・ローゼまで後退した。そこで新たに生じたのは急激な人口の増加による深刻な食糧不足である。狭い城壁内の限られた貧しい土地で、避難民達を全て受け入れるなど到底無理な話で、翌年には土地の奪還、開拓という大義名分のもと領土奪還作戦が遂行された。は最初、この施策に参加の意向を口にしたが、それを知った彼女の保護者は翌日直ちに、を自宅に軟禁して阻止をするという暴挙に出た。
事実上、難民達の口減らしとして約15万人の人々が壁外へ送り出されたのだと教えられても尚、
怒りは収まらず数ヶ月の冷戦が続いたという。
結局作戦は失敗に終わり、ウォール・ローゼの外側のの住んでいた街は放棄せざるを得なくなった。住み慣れた街は今、無数の巨人達によって占拠されている。
それからさらに1年経ち、は20歳を迎えた。誕生日を祝う家族はもういない。好物の小兎のパイはあれ以来口にすることはなく、生き延びて2回目の誕生日は、歯が欠ける程固いパンとじゃがいものスープを啜って終わった。まったく味のないパンとじゃがいもが数欠片入った塩っ気のあるお湯を並べて、一人でお祝いの歌を陽気に口ずさんだのは記憶に新しい。、お前が20歳になったら、父さんと母さんの大切な宝物を贈ろうと思う。今となってはそれが何であったのかを知る術もなく、これからも果たされる日は来ない。

は目の前の光景を静かに眺め、ゆっくりと瞬きを繰り返した。
綺麗に整列した自分達の目の前を、強面の、実際本当に厳格な教官が歩き回っている光景が視界に入る。はこの年、自らの意思で訓練兵団に志願した。彼女と共に並ぶ若者達の殆どは緊張に足が震えている。12歳以上が志願対象だと聞いていたが、自分よりもいくつも若い志願者が大勢いる事に驚きを隠せなかった。など年長の部類に入るのだろう。あの恐ろしい巨人と戦うための訓練だ、想像を絶する過酷な訓練だと聞く。この中のどれだけの人数が、実際に巨人達を目にした事があるのだろう。あれらを見ても尚、兵団に志願したというなら、なんと勇ましいことだと思った。逆に知らずにやってきた者達のどれほどの数が数年後に残っていられるのか、目の前の教官を見ていると、これから先の試練を考えただけで逃げ出したくなる。
「おい貴様!」
ふいに至近距離で怒鳴りつけられて、はびくりと肩を震わせた。先程から順にこの強面の教官は訓練生達をいびり倒していた。訓練兵団独自の歓迎法なのだと思って我慢していたが、これが実際に自分が受けると想像以上に恐ろしい。緊張と恐怖に足が竦む訓練生達の気持ちが良く分かる。しかし、これで逃げ出すような者はこれからの訓練を乗り越えられる筈がない。態とらしいまでに強烈な罵り、蔑み、既に試練は始まっているのだ。目の前の教官はつるりと立派な頭を光らせ、反して目の下は窪んで凄い隈が出来ている、寝不足なのだろうか、教官という立場は睡眠を削られるほど忙しい激務のようだ、は見当はずれな事を考えている。
「貴様、返事はどうした!」
「はい」
至近距離でそこまで怒鳴らなくても聞こえるのに、そんなことを言ったら目の前の人の血管は破裂するに違いない。
「声が小さい!もっと腹の底から限界まで声を絞り出せ!」
「はい!」
「全然なっていないな!貴様のような蚊の鳴く声しか出せん軟弱でゴミクズにも劣る奴がどうして訓練兵などに志願している!ここは貴様の想像している慈善集団ではないぞ!さっさと家へ帰れ!」
罵詈雑言ほど聞き慣れたものはない。日頃から口の悪い人と住んでいると、こういう時に役に立つのだな、は今日ほど同居人の無駄に歪んだ性格に感謝したことはない。どれだけ酷いことを言われても、今では眉一つ動かさずに冷静に聞き流せてしまう、習慣とは恐ろしいと思った。
「大体にして貴様は最初っからへらへらしているではないか、一体何がおかしいのか言ってみろ!」
やはりそうくるか、は僅かに頬筋を引き締めて声を張り上げた。
「おかしいことなど何もありません」
「ならば何故笑っている。我々を愚弄しているのか!」
「滅相もない」
「これほど不愉快な巫山戯た面は初めて見るぞ、一から十まで気にくわない奴だな、女だからと言ってへらへらと媚びを売ろうなどというその腐った根性が気に食わん!貴様は何者だ!」
「シガンシナ区出身、といいます。教官、一言よろしいでしょうか」
の言葉に教官は一瞬面食らった表情を見せたが、直ぐに取り繕われると、続けろ、低い声で促した。
あの時のことを話せと言われたら、周りが顔を顰めるほど鮮明に語って聞かせることだってできる。言葉で語るもの以上の地獄を、ずうっと頭の片隅に閉じこめている。それを上回るものなど易々と現れはしないのだから、この上ない戒めだ。だのにどうして貴女は笑うのか。聞かれる度には決まった答えを言うことにしている。
街の一大事に家族を心配して駆け戻った父が初めに食われた。その時は涙で周りがよく見えなかったが、想像するに母は泣いてはいなかった。次いで母が巨人の手に捕獲された時、ようやくは母の表情を見た。の母は良く笑う人であった。決して美人ではないが、朝露がつたう淡い朝顔のような笑顔を絶やさない人だった。笑う事に何の意味があるのか、貴女はなんて馬鹿な人だ、最期の瞬間まで母は己の信念を貫き、に示して見せたが、その意味を教えてはくれなかった。空気を読め、と言われることはしょちゅうで、はそのような母を見て育ち、昔から良く笑う子供だった。
教官はわかりやすく眉を顰め、はその皺の数を丁寧に数えた。目の前の男は何を言ったところで納得などするはずがない。自分自身でさえ未だに意味を理解していないので、初めから用意されている答えを言う。
これは、母の、形見なのです。
実にくだらぬ戯れ言だ、そんな女々しいもの、犬にでも食わせておけ!教官は唾を飛ばして大袈裟にを笑ったが、それはほど板に付いてはいなかった。
「ここにいる人々はそれぞれの信念を持って此処に立っていることでしょう。私はその信念を曲げてまで貴官に屈するつもりはないことを申し上げます」
その場の空気がたちまち凍りつき、教官は笑顔を無くしてを見下ろした。小柄な部類のからは見上げる程大きな大男だ。外見だけで泣く子も黙る風貌をしている。刻まれた深い陰は死地を掻い潜って来た証しか、はこれによく似た暗い眼を持つ人物を知っている。
「…礼儀をわきまえろ。空気を読めと言っている」
「私は自殺を志願するためにここに来たのではありません。貴官の尊厳を護る為に礼儀を重んじて信念を曲げているようでは巨人になど勝てるわけがないと考えます」
その場で顔色を変えない人間など、くらいのものだった。
お前のそれは、ただの執着で、クソ餓鬼の我が儘みてえなもんだ。さっさと捨ててこい、と言われたことを思い出す。その通りだと思っている。けれども。
は瞬きをせずに教官を見据えた。鋭い眼差しと交差する。このように眼光一つで人を服従させる類の人間には慣れている。
周囲は他の新人達と同じように、も胸ぐらを掴まれて地面に叩きつけられるのだろうと思ったが、その想像に反して強面の教官は手を上げなかった。わずか数秒、を至近距離で睨め付けると、彼女の耳に直接怒鳴りつけた。
「いいだろう!その大層な信念とやらがどれだけ続くか見届けてやろう!これだけ大口を叩いておいて、早々にリタイアなどしてみろ、貴様も両親と同じように巨人共の餌にしてやろう。!貴様はなんのためにここに来た!」
は未だ、本当の気持ちを誰にも打ち明けた事がない。それを大衆の前で言えだなんて、滑稽な話だった。少し前までこのような場所とは無縁の、ただの町娘だったは結婚して、両親のように幸せな家庭を築く平坦な人生を歩むのだと信じて疑わなかった。
それが崩れ去って、描いた未来のあらゆる道筋の一つ一つが全て終焉を迎えたことを確かに感じ取ってから、考えていることがある。突き放された未来に漂う核心について、それに纏わるこれからのこと。本当は今にも手足が震えそうだ。この場に居る全ての者達の冷え冷えとした緊張感にあてられて、背筋ばかりが軋んでいるというのに、心だけは2年ぶりに軽やかだった。不謹慎だと咎められても、はらはらと笑い、教官の目を見た。目の周りは落ち窪み、消えないシミのようだ。はぽっかり空いた穴を想像する。そこに落ちてはいけない。
きつく噛み合わせた歯列をなぞる。口内で僅かに鉄の味が広がった。






「ねえ、君は、シガンシナ区出身なのかい?」
その晩、は一人の少年に声をかけられた。控えめにおどおどした様は年相応の幼い印象を受ける。このように小さな子供まで兵士に志願せざるを得ない過酷な時世になのだと思い知らされる。他人を哀れんでいられる余裕すら失われた緊迫した世論では12歳を過ぎても志願をしない者は白い目でみられる風潮すら蔓延っているという。
少年は視線をから僅かに反らしながら、躊躇い気味に言葉を続けた。
「突然話しかけてごめん。僕はアルミン、それから後ろの二人はエレンとミカサ、僕たちも君と同じシガンシナ区出身なんだ」
「いいえ、わざわざ声をかけてくれてありがとう。です、よろしく」
アルミンと名乗った華奢な少年の後ろには二人の少年少女が控えていた。エレン、と呼ばれた少年はアルミンとは違い、燃えるような力強い瞳を持ってを直視している。横のミカサは表情なく一礼した。
が右手を差し出すと、アルミンはようやく強張っていた頬を緩め、安堵の表情を浮かべた。
「これからお互い同期になるのだから、そんなに構えないで欲しいわ」
「だって、さっきのは凄かったよ。僕なんか腰を抜かしそうになったっていうのに、君は眉一つ動かさずに、しかもあの教官に意見すらしたんだもの」
「ああ、私が言ったことね」
は数刻前に、鬼面の教官に啖呵を切ったことを思い出した。
母が最期の瞬間に残した言葉、両親が命を賭して残した教訓に基づいて、今の自分があること。たとえどのような立場の方であろうと、どれだけ罵られようとも、私はこの信念を曲げるつもりはありません。それはだけに与えられた義務であると信じている。すると、お前の甘い考えがどこまで通用するのかせいぜい足掻いて見せろ、と教官は言った。
「あの教官、絶対君に目を付けたと思うよ」
「そうかな?私怨で新人をいたぶるような人間だったら、そもそもあの教官も大したことないってことだと思うけれど」
って顔に似合わず強かだよね…。さっきの、君の話聞いて驚いているんだ…そのう、」
「両親の最期のこと?確かに教官に言ったことは本当の事だけれど、それ以上にこの締まりのない顔は性分みたいなものだから直せって言われても難しいのよね。だからそんなに重く受け止めないで欲しいな」
「え、そうだったの?!」
「そう、ただのエゴだよ。それで他人を不愉快にさせるのは申し訳ないと思うけれど。あの教官の顔、とっても怖かったし」
3人のわかりやすい反応には声を立てて笑った。え、でも、だって、戸惑うアルミンの声は上擦っている。
「今の時世なんて特別わかりやすいエゴの塊だよ。皆自分勝手に必死になって藻掻いている。生きることにしがみついて地に足を付けた気になって壁を見上げて、どんなにくだらないことでも後先考えずに必死になって。我欲がある限りは立っていられることを無意識にでも知っているから」
ずっと沈黙を守っていたエレンのを見る目が僅かに揺らいだことに気がつかないふりをして続けた。
「自分だって下らない固執だってわかっているもの。だから見下されるのは構わないよ。他者からみてどれだけ滑稽に映ったとしても、信じているのが自分だけであったとしても、それを頑なに守っていることで前に進めるのなら。あなた達だって意義も目的も違えども、何かしらの覚悟があってここに来たのでしょう?
あの教官は、私達のエゴなどどうでも良くて、覚悟が知りたかった。彼にとってくだらないエゴなどはああやって訓練で叩き潰せば終わりだもの。必要なのはその先のぶれない覚悟だけ」
はそこまでわかっていたから、あの教官はあれ以上つっかかるのを止めたんだね」
「どうかな、単に私が頑固だから扱いづらくて面倒臭くなったのかも。流石にあの場でイモを食べる程図太くはないけれどね」
が指で示した先には、もう何時間も走り続けている少女がいた。日が落ちても尚、暗がりを這うように足を動かし、息も絶え絶えの様子で今にも倒れてしまいそうだ。入団式の最中に堂々とイモを食べるという暴挙に出た少女は「死ぬまで走れ」と言う終わりの見えない罰を黙々とこなしている。彼女、変わっているわ、と言ったに、あんたも大概だよ!とエレンがつっこみを入れた。
「私は見た通り体力がないから彼女の半分だって走れないと思う」
は踵を鳴らし、腕まくりをして自分の貧相な腕っ節を眺めると、残念そうにため息を吐いた。
入団式が終わり、私服に着替えたを改めて見ると、この場に似つかわしくない華奢な体付きをしていた。ミカサと並ぶとそれほど違和感はないが、自称するように見た目通りの体力なのだとしたら、女子というだけでも不利な状況なのに、果たして過酷な訓練に耐えられるのだろうか。それとも、まるで緊張感を感じさせない少女には何か特別な力でも備わっているとでも言うのだろうか。アルミンはつい数分前に握ったの手が、苦労を知らない真っ白な指をしていたことに違和感を覚えていた。
は避難してからどこにいたんだ?俺たちは開拓地に回されたけど、あんたの姿は見かけなかったよな?」
「う、うん」
エレンの問いにアルミンは頷いた。シガンシナ区から避難してきた人間の殆どは、領土奪還作戦に投入されるか、開拓地に追いやられるかのどちらかであった。相当数の避難民がいたので自分達の記憶は確かではなかったが、その中にはいただろうか、アルミンは自分の肉刺だらけの指を見る。毎日気が狂うくらいに鍬を振りかざし続けた為に出来た苦労の象徴だ。開拓地、人々はそう呼ぶが、開拓するには貧しく、雑草ですら根を張るのを遠慮したがる荒廃した土地に初めて立った時の衝撃は、絶望の死地から生き残った人々の心に、体に深く食い込んだ。それは苦しく虚しい灰色の2年間だった、まるで奴隷のような人権を必要としないとあの場所にはもう二度と戻りたくはない。エレンやミカサもそう思っていることだろう。
「私は保護してくれた人に引き取られて、開拓地には行ってないんだ」
「へえ!そんな珍しいこともあるんだ…は良い人に保護されたんだね」
「うん?まあ、そうとも言えるのかな?」
良い人、なのだと思う、は肯定を口にしながら首を傾げている。良い人、その定義の曖昧な位置をなぞりながら何度か繰り返す。アルミンが言う意味で見れば非常に良く出来た人物である。
「たまたま昔の顔見知りだったという偶然も身方したのかもしれない」
あの時、偶然その人が通りかからなければ今のはいなかっただろう。恐らくあの場所に何日だって座り続けることも平気で、現実を放棄する気力だけで呼吸をしていたのだから。
「でもさ、どうしてわざわざそこを出てきたんだ?を保護した奴だっていい顔しなかったんじゃないのか?悪いけどあんた、どう見てもこんなとこに来るようには見えねえし」
「エレン!」
「悪い、別にあんたのことが妬ましいとかで言ってるわけじゃなくてさ」
「いいよ、貴方の言いたいことは分かる。確かに居心地は悪くなかったし、同居人にも、わざわざ巨人の餌になりにいくようなもんだ、って散々言われていたし」
「…よく許して貰えたね」
「ううん、黙って出てきたから」
「え?」
アルミンとエレンは目を丸くしてを見た。彼女は悪びれる様子もなく、だって言ったら絶対反対されるから、しょうがないでしょう、と肩を竦めて言った。
「それじゃあ今頃、とても心配しているんじゃあ…」
何せ故郷を失った人間など五万といる。この貧困に喘ぐ時世で、ただの顔見知りを引き取るなんて余程のお人好しか博愛主義者でなければできるはずがない。親戚にすら断れたと嘆いていた人々を山ほど見てきた。
「それも――
はいるか!」
突然現れた教官に名前を呼ばれ、は慌てて立ち上がった。団欒の時が一瞬にして静まりかえり、が教官と共に出て行くのを見届けると、あいつ、昼間の教官に楯突いた女だろ、誰かの言葉を皮切りに、寒々しい空気が室内を覆った。あのイモ女みたいに罰でも受けるに違いない、あちらこちらで憶測が飛び交う数分後に当人はあっさりと戻ってきた。好奇の目にさらされながらはアルミン達の向かいの席に落ち着いた。注意深く見る限り彼女に外傷はなく、呼び出される前と寸分違わぬ姿で椅子に腰を下ろしていたが、その手には出て行くときにはなかった白い封筒が握られていた。
「何があったの?」
その場に居合わせた全ての面々を代表してアルミンが声をかけると、は珍しく眉を顰めた。
「手紙を渡されたのだけど」
「手紙?」
「そう。ばれてないって思ってたのにな」
「保護者の人から?」
は大袈裟にため息を吐いてそう、と言った。曰く、この数ヶ月、苦労して陰で走り回り、あらゆる口裏合わせと細工を重ね、絶対にばれないと確信を持って出てきたのに、こうしてあっさりと手紙が届けられたことに不満を持っているらしい。の努力は1日も保たずに崩れ去ったという話である。
投げ槍な態度で白い封筒を押しつけられて、アルミンは狼狽えた。
「えっと、見てもいいのかい?」
「いいよ。さっき、その人が心配しているんじゃないかって聞いたでしょう」
その答えが書いてあるという。恐る恐る、封筒から白い紙を一枚取り出すと、エレンとミカサが両脇から覗き込んできた。綺麗に二つ折りにされた紙を広げると、達筆な字が目に飛び込んでくる。

「「「……」」」

はこれを手紙だと言った。
ただの白い紙が、真っ白に見える。これは白い紙だ。衝撃的な一部分を覗けば。
主張はなはだしいたった一行が目に焼き付く。
三人が揃って顔を上げると、は行儀悪く頬杖をついていた。
「ね、心配なんてする人じゃないってわかったでしょう」
心配というか、そもそも、声を上げたエレンの脇をミカサが小突いた。
「まったく困った人だよね」
そう言って、は今日一番の優しい笑顔を見せたので、3人はもう何も言えるわけがなかった。

手紙にはたった一言、こう書かれていた。

『そのまま死ね!』



2013/07/28


「私は2年前、この目で沢山の巨人を、あの化け物達によって沢山の命がいたずらに奪われていく様を目にしました。母は巨人の口に収まる目前で、私にこう言いました。
『貴女はこのような状況で何という情けない顔をしているのか。辛く、厳しく、悲しい時こそ笑顔であれ、どのような状況下でも笑いなさい、たとえ父と母が目の前で死に絶える瞬間ですら決して涙に屈してはならない、笑顔で強くありつづけなさい、私達は貴女をそう在るように育ててきたはずだ』
つまりこれは両親が命を賭して残した最期の教訓であり、私が維持すべき覚悟の証しです。非常識極まりないことは重々承知で申し上げますが、これは私の最上級の敬意の表れであるとご理解ください。以上です」



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