わたしはときどき嘘をいう



「お前、死にてえのか」

が17歳を迎えた日の出来事である。
その日は久しぶりの快晴、気温が平常よりも高く感じられるのは雲が一つとして浮いていなかったからだとは後に振り返った。
ありふれた日常の一コマになる筈であった。何か一つ、特別なことを挙げるとすれば、その日がの誕生日で、朝、目を覚まして居間に行くと両親におめでとう、と言われたこと、お昼にはいつもの倍程豪華な食事が並んだこと、その中にはの好物の小兎のパイがあったことくらいであった。緩やかに自分の歳が一つ増えていくことに満ち足りた幸せを感じていたが、隣家のヴェルナーおじいさんがわざわざの所にやってきて、自分が17歳の頃、いかに好奇心に溢れ知性に富んだ少年であったかについて長々と弁舌をふるい始めた時、わずか3分でその場から駈け出したい衝動に駆られた。60年も昔のことをよくもまあ鮮明に覚えていられるものだ。人の話を聞くのは好きだが、隣家のヴェルナーおじいさんの話だけは苦手だった。彼はいつも自分の自慢話ばかりを口にするからだ。それは周知の事実で、近所の人達は皆老人のことを嫌煙するので、必然と人の良いが相手をすることになる。齢80になる老人の舌は衰えるどころか年々輝きを増す一方だ。水を得た魚のように爛々と目を輝かせる彼の話は毎日聞かされると非常に厄介なものだ。おじいさんは現実と夢の区別が未だついていない。昔は引っ込み思案な大人しい子供だったと噂好きのおばさんに教えてもらってから、おじいさんの話はほとんど出鱈目なのだと気付いていた。数年前におばあさんが亡くなって一人ぼっちの老人の虚言は雪崩のように誰にも止められないものになった。彼は寂しいのだ。普段から散々に鈍いとろいと言われているにだってそれくらいは理解出来た。だから退屈な話だって辛抱強く聞いた。ちゃんは偉いわねえ、と周りは褒めてくれるが、だって内心うんざりしているのを周りは見て見ぬふり。今日はせっかくの誕生日だというのについていない。そんなことを思いながら、わずか5分でヴェルナーおじいさんの話に割り込むことに成功し、これからお母さんにプレゼントを買って貰うために出かけるの、嘘の予定をでっちあげておじいさんに別れを告げた。ヴェルナーおじいさん、ごきげんよう。それが彼と交わした最後の言葉になった。これから若かりしヴェルナー少年の物語が盛り上がりを見せる丁度その時に、出鼻をくじかれてしまったおじいさんの鳩が豆鉄砲を食ったような顔をは死ぬまで忘れられないと思っている。


は自分が生きる時代にしては幸せなことに、身近な人の死に直面した事が殆どなかった。巨人が出現してから混沌とした時代に突入した世界は、誰もが常に死と隣り合わせであることを意識して生きていく。人々は生まれた瞬間から人類の過去に起こった惨劇について、巨人への恐怖を植え付けられて育つ。ももちろん巨人の存在は知っていたが、生まれてからずっと、人類の英知に因るこの巨大な城壁の中で暮らして居た為に、それがどれほど恐ろしい存在かどうかなんて考えたこともなかった。100年も昔に造られた巨人の侵攻を防ぐための城壁を絶対的に信頼していた。あれが壊せるものなど存在する筈がないと安心に浸っていたし、想像も出来ないことを考えることは馬鹿馬鹿しいことだと思うことにしていた。壁の内側にだって、怖いことや恐ろしい事が山のようにあった。人類がこの狭い壁の中に追いやられてから人々の暮らしは困窮を極め、生きる事を圧迫された人々の心には黒々とした膿が溜まっていくのは自然の道理であった。妬み恨みや恐怖、憎悪あらゆる負の感情が蔓延る渦中で育ち、少女にとって見たこともない巨人などよりも目の前の人間達の方が余程化け物じみている、と感じる事は多々あったし、目下の生活はよそ事に気を取られる暇などないほど忙しなく過ぎていくので、自分が何故壁の中で暮らしているのか、現実に対する認識が薄れていくのはしようがないことだ。いつかまた、巨人が攻めてくることがあったらどうする、その問いに少女は機械的に首を振った。鶏が空を飛ぶよりあり得ないことだもの、がそう口にする度に彼女の両親は顔を顰める。
籠の中の鳥は籠の中にいる限り安寧だわ、外の事を知らない鳥は、囲われている間は夢を見ていられるでしょう。
はほんの数時間前までその嘘のような夢物語を信じていた。

845年某日、奇しくもその日はの17歳の誕生日だった。
白々しい晴天に恵まれたその日、日が暮れる頃にはいつの間にか現れた無数の雲が頭上を逃げ惑っている様であった。母親と夕餉の仕度に取りかかりながらけたたましく鳴る鐘を耳にした時、父親は未だ帰宅していなかった。何かあったのかしら、戸惑う母の横で虫の知らせが頭の中一杯に駆け巡った。昔から第六感が人よりも優れていた。その大半が凶報を占めていたのであまり周囲に知らせたことはない。隣家のおばあさんが亡くなる直前、いち早くそれを察知してしまってからというもの、この嫌な兆しを感じる度に自分自身を気味悪く思うようになった。
しかしその時のそれは今までのものと殆ど別格と言っても良い。未だかつて感じたことのない恐ろしい予兆は、体中を得体の知れない何かが這いずり回り、感覚の全てが痺れていくようだった。お父さん、無意識で呟いた言葉に返答がある訳はなく、駐屯兵団に属するの父はこの時分、未だ城壁の守備にあたっている筈だ。は気持ちを落ち着ける為に数回深呼吸を繰り返し、緩慢な動作で直ぐ横の椅子に腰を下ろした。鳴りやまない鐘の音は異常を伝えるもの。あれ以来、彼女は鐘の音が聞こえると眠ることが出来なくなった。
からからに乾いた喉が震える事に意識を傾けて、視線だけを母に向けた。既に外は騒然とし始め、静寂に包まれた室内に喧騒が侵入を始めていた。母がエプロンを握りしめて、を見下ろしている。
「お母さん、もし、もしもの話なのだけど…」





「ここで何をしている」

記憶していた声よりも幾分か低く、冷たい響きだった。研ぎ澄まされた刃にも似た鋭さには磨きがかかっていて、婦女子にかける声音とは到底思えない。この人は声だけで人が殺せると思いこんでいるに違いない、が顔を上げると、夕日の暖色に染まった精悍な顔つきの青年が自分を見下ろしていた。精悍というよりは殆ど凶器に近い目つきがを射竦めている。けれどもその時には既に少女の中に恐怖という感覚はなくなっていった。一生分の恐怖を少し前に使い果たしてしまっていた。何より、いくら睨まれたところでその人は自分に仇成す存在ではないことを知っている。
「リヴァイ、久しぶりだね、少し大きくなった?なってない?」
「ここで何をしている」
「今日はね、私の誕生日なんだ。だから、これから両親と一緒にお祝いをする――
「もう一度聞く、ここで何をしている」
ああ、そうだね、は視線を降ろした。自分が今、どこにいるのか。背後には倒壊した我が家が物言わずに沈黙している。家の玄関があった辺り、瓦礫をかき分けるように少女は腰を下ろしていた。腰が抜けているので随分と長い間其処に居たようである。見渡す限り、視界を一杯に広げてみても、自分と青年以外に生きている人間は見当たらない。どうしてこんな酷い事が起こるのか、一生掛けてもわからない事だと感じた。の髪には父からプレゼントされた白い花の髪飾りが無邪気に飾られている。少し、派手じゃないかな、はにかんだ少女に、ももう年頃だからな、大丈夫、とてもよく似合っているよ、と微笑んだ両親の事を思い出していた。今日は自分の誕生日だ。皮肉だね、の言葉に青年は答えなかった。聞きたいのはそのことではない、こつこつ、ブーツが神経質に瓦礫を叩いた。
「もう、ここ以外に行くところはないよ。ウォール・ローゼへ避難する門もとっくに閉じてしまったし、私はもうここ以外生きていく所がない」
家もこの通り失ってしまったけれど。
遠くを巨人達が右往左往している。未だ生きている人間を探しているのだろう。ここも、いつ巨人がやってくるかわからない。青年は舌打ちをした。
「ウォール・シーナに住んでいた筈だろう、急に姿を見せなくなったと思ったら何故こんなところにいるんだ」
青年は自身でも愚問だと思ったが、それでも聞かずにはいられない程には苛々していた。こいつの要領を得ない鈍くさいとこ、ちっとも変わってねえ。しかし懐かしいと思えるほど少女の性格を良しと感じたこともない。
「ちゃんと私がいなくなったことに気が付いてくれてたんだね。
実はお父さんがね、左遷されて家族でウォール・マリアに越してきたのよ。もう何年も慎ましい生活。私もすっかり料理が得意なお嬢さんだよ。リヴァイは出世したんだね?その制服は調査兵団になったの?」
「俺が聞きてえのはそんなことじゃねえ、相変わらずのグズだな。お前がこんなブタ小屋に住んでることなんざどうでもいいんだよ。どうして逃げないのかと聞いている」
「だってもう逃げ道がないんだもの。腰も抜けてしまったし」
リヴァイは盛大に舌打ちした。こんなに腸が煮えくりかえるのは久しぶりだった。なんだこいつ、頭のネジ何十本か飛んでるんじゃねえの。
「お前、死にてえのか」
呻るような口調には瞬きをした。リヴァイは呆けた様子を直視するのが我慢ならなくなり、視線を僅かに反らすと少女が大切に抱えているものに目が留まった。爪の先が白くなるまで強く握りしめている。よく見ると、少女自身も全身が赤黒く汚れていて、汚ねえと眉を顰めた。
「なんだそれは」
その時初めては表情を崩した。大事そうなそれをそっと撫でて、僅かに声が震えている。
「これは隣のヴェルナーおじいさん。さっきまで普通に話していたのにこんなに小さくなってしまったおじいさん」
ボロボロの布に包まれたものの正体は老人の右足だった。目の前で大きな巨人に噛みきられたと言う。馬鹿野郎!リヴァイは怒鳴りつけたい気持ちをぐっと堪えて、静かに不自然に震えた声を絞り出した。
「それは、置け」
「やだ」
「いいから、置け、それは連れていけねえんだ、ここに置いていくんだ」
「どこかへ行くの?どうやって?どこへ?だって、ここは」
「お前の両親はどうした」
がびくりと肩を震わせて目を伏せると、リヴァイはもう一段階柔らかい声を出すように心がけた。俺は巨人共を駆逐しに来たんだ、だのに何でこんな子守みてえな事しなきゃならねえんだ。心情とは裏腹に堪えてみせる。
「お前もそのじいさんや両親のようになりてえわけじゃないだろ?死にたくねえなら俺がなんとかしてやる。だからそれを置け」
「一緒に」
「聞き分けろ」
頑なな少女の手から包みを引き離す。体中の意識が集中したように固まった指は冷たくなっていた。いつもなら乱暴に奪い取る非情な男は、唇を噛み締めて一本一本ゆっくりと指を外していった。どれほどの間これを必死に握りしめていたのか、想像しただけで胸くそ悪い。の手から包みが離れた瞬間、消え入りそうな声で、ごめんね、と零れた言葉を聞かなかったことにした。
「リヴァイはいつも私のことを助けてくれるね。私の危機を察知するセンサーでも付いているんじゃないの」
「気持ち悪いこと言うな」
「リヴァイのその心の底から人を蔑むことが出来る性格、全然変わらないね」
「お前こそその気味悪い笑いを止めろ」
無理だよ、ははらはらと笑う。視界の端で、中型の巨人が数匹、二人の姿を見つけて向かってくる姿があった。
「呑気に駄弁ってる時間はねえんだよ、さっさと行くぞ」
腰の抜けた少女を抱え上げると一瞬にして宙に舞った。
「リヴァイ、身長はあんまり伸びなかったのに力持ちになったね」
「小汚い格好しやがってぶち落とすぞ」
「お父さんとお母さんの返り血なの、そんなこと言わないで」
無言になったリヴァイを放っては視線を彷徨わせた。こんなに高い所を自在に飛び回るのは人生で初めての体験だった。リヴァイはもしかして鳥だったのか。鳥でもこんなに器用に素早く飛び回れないだろう。ねえ、鶏だって空を飛ぶ時代が来るのかしら。知らねえ。目を見張りながら、落とされないように青年の首にしがみついた。まるで地獄絵図だ。見慣れた街並みは至る所で煙幕が立ち込め、轟々と炎が上がり、立派な建築物さえも無惨に倒壊している。瓦礫をかき分けるようにして無数の大きな物体が徘徊している。は無意識にごくり、と唾を飲み込んだ。目に焼き付ける。この情景を、生き残った自分が。両親が生きたこの街を、忘れないように刻み込む。

それからあっという間にウォール・ローゼの城壁を登りきると、その惨状を一面に見渡すことが出来た。目を覆いたくなる光景だったが、目を背ける事がどうして出来るだろう。一方的な襲撃に人類は為す術はなく、沢山の人々が犠牲になった。がきつくきつく目の前の肩を握りしめていたとしてもリヴァイは何も言わなかった。厳しい表情のまま、街中を一瞥し、そのままを見た。一つ、疑問に思っていることがある。
「あの状況下で、お前はどうして生き残れたんだ」
どう考えても不自然だろう、リヴァイの視線は人を尋問することに適している。目の前の人物が人類最強と恐れられていることを露程も知らないにとってはただの物騒な男でしかなかった。
「まるで現場を目の当たりにしたようなことを言うね」
「目の前にいる餌をむざむざ見逃すようなとんまな巨人をなんざ見たことがねえよ。ましてやお前みたいなとろくさい格好の餌をだ」
思案に揺れた瞳が一カ所、リヴァイのそれと重なった時、初めて少女の化けの皮が剥がれる様を男は見た。張り付けたように弧を描いていた唇は今や小刻みに震え、くるくる忙しなく回っていた瞳はみるみる歪んで水に沈んだガラス玉の様。肌の色は驚く程白く、対照的に纏うワンピースは元の色を思い出せない程に赤黒く汚れていた。片足だけになった老人と一緒にいた筈の少女は五体満足で、瓦礫で出来たかすり傷以外、目立った外傷はない。消えた両親の残したものは何か、そのワンピースにこびりついた血糊だけだと言う。お前達一家を襲った巨人はお前を残してどこにいった?まるで奇跡みてえな話だな。
淡々と不可解な点を挙げていくと、次第にから色が消えていく。漸く落ちるな、とリヴァイは思った。
極めつけにごつん、額を指で弾くとついにそれは崩落した。
痛い、と言って少女はリヴァイの肩に顔を埋めた。もう少し加減するべきだった。リヴァイ、おでこが痛い、とても痛い、と何度も繰り返す。お前が痛いのはデコじゃねえだろうが。少女の肩が震えるのをじっと見つめた。
「お前も泣き虫なの変わらねえな」
肩がみるみる湿っていく感触に、きたねえ、とは言わなかった。代わりに鼻水は垂らすんじゃねえと横暴な事を宣い、嫌だ、と反発されると一瞬固まった。鼻を啜りながら泣き虫は廃業したのだと言うに、寝言は寝て言えと青筋を浮かべる。
「後で何があったのか全部話せ」
「リヴァイが言うと尋問みたい、というか尋問する気でしょう」
「されてえのか」
気が付いた時にはとっくに日は落ちていた。あれほど盛んに動き回っていた巨人の気配を感じない。夜になると活動が鈍くなるように出来ている、そんな事も知らねえのか、夜は不機嫌なリヴァイの表情を隠す為にとても都合がよい、とは思う。
息を凝らして、燻る火の粉を見つめていると、それは誰かの魂が蘇る儀式のようだ。せめて、ヴェルナーおじいさんの右足をあの中に入れてあげたかった、或いは、両親の血に染まったこのワンピースを。それは意味のある事だろうか。今この状況で正しく意味のある行動とは何だろう。リヴァイはそこに導いてくれるのか。甘えるなと一蹴されるのだろう。は出せる限り、一生分の涙を流しきったことを念入りに確認してゆっくりと顔をあげた。離れてからもう何年も経ったというのにこの人は変わらない。昔よりも一層逞しく、人としては道を誤ってしまったような気もしなくはないが、それでこそリヴァイらしい。根本的な部分は何も変わっていない、変わる筈がない、恐らく自身もだ。不躾な視線に気が付いたリヴァイがなんだ、と睨みを利かせると、私も一つ、気が付いたことがある、と言った。自分は一体いつから、道を誤っていたのか。
「今日はよく喋るね。リヴァイが良くしゃべる時って、機嫌が良い時か悪い時だよね、わかりやすい」
「何が言いたい」
「機嫌が悪いでしょう」
「良いように見えるか」
「ううん、もしこの惨状を前に機嫌が良いなんて言うんだったら、これ以上ないくらい軽蔑するもの」
もういい大人なのだからそうやって機嫌を態度に出すの、止めた方がいいよ。不機嫌な顔、死ぬほど怖いって良く言われるでしょう。
リヴァイは自分に堪忍袋の緒なんて元からないと思っていたが、初めてその未確認の緒がぶちりと切れる感覚を知った。



2013/07/15

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