身を乗り出すようにして覗き込むと、思いがけず水しぶきが上がり、うわあ、と少女は仰け反った。
「こらこら、あまり身を乗り出したら危ないだろう、落ちてしまうよ」
「でもバドルおじさん、見たことない魚がいる!」
 活きのよい魚のヒレがいくつも同時に跳ねて、そのまま勢いよくの全身を濡らしたのだ。頭から海水を被る格好になったは気にする様子もなく、まじまじと狭い網の中に囲われた魚達の鱗が、陽光を浴びてきらきらと輝く姿を見た。空を映す鏡のようだ、と思う。
「今日はいつもより沖の方まで行ったからな。珍しい種類も混ざっているかもしれないな。ああ、その派手な赤い魚はガウロパといって背びれに毒があるから絶対に触ったらいけないよ」
「ふうん、きれいな色をしているのに…今日は大漁だね」
「ご覧の通り天気も良いし、良い波に乗れたお陰さ。半分は活きの良い状態で市場に卸して、残りの半分は保存用に干物にするつもりだよ」
「ねえ、今日は市場まで付いて行ってもいい?」
 の申し出に、バドルは首を傾げた。
「今日はゆっくりしても大丈夫なのかい?」
「うん。今日はちゃんとお母さんにきょかをもらってきたよ。お友達が出来たって言ったらおおよろこびでおくりだしてくれたんだ。お父さんには内緒だから夕方までには帰るけど」
 その友達とやらが、まさかこんな歳の離れた大人で、さらには自分などとは思いもしないのだろう、とバドルは苦笑した。
が市場にいくのはまだ早いよ。もう少し大きくなってからな」
 二人だけの密やかな逢瀬を知られでもすれば、とは二度と会わせてもらえないだろうという自覚があるだけに、を伴って市場に行くわけにはいかなかった。自分を少しでも慕ってくれている純粋なを諍いに巻き込みたくはないのだ。
「じゃあ干物にするおてつだいをします」
 聞き分けのよいはあっさりと引き下がり、再び活きの良い魚達を熱心に覗き込んだ。
「それは有り難いな。手伝ってくれるお礼に数匹持って帰るかい」
 は振り返らずに、家族の中で魚を食べるのは自分だけだからいらない、と首を左右に振った。魚は栄養もあって美味しいけれど、一人だけ食べるのは気が重いのだという。
 港の片隅に泊められたバドルの小舟が一杯になるほどの魚達が、が海を覗き込んだ丁度真下で窮屈そうにひしめきあっている。小さな腕でも伸ばせば触れられそうな距離に、再び身を乗り出すと、後ろからバドルが少女の体を抱え上げてしまった。
「大丈夫、落ちたりしないよ」
「ははは!そう言ってうっかり落ちかけた君を俺はもう3度は助けているな!いいかい、いい加減に君はバランス感覚が壊滅的だってことを自覚しないといけないよ。そうでなければ落ちたがっているとしか思えない」
 まったく君は、本当に目が離せないな!バドルは乾いた笑みでを黙らせると、そのまま岸壁の縁から遠ざけた。
 は返す言葉もないので、頬を膨らませて子供らしい抗議を示した。子供から好奇心を奪ってしまったら何も残らない。無謀な好奇心を諫めるのが大人の役割である。何日も顔を合わせるようになって、時々早熟なことを言うの扱いにすっかり慣れたバドルは、自分の息子はまだ泣き虫で甘ったれだというのに、世の女の子と言うものはのようにおしゃまなものだろうか、としみじみ思いながら、普段は背伸びしたがるがふとした瞬間に見せるあどけない表情を好ましく思った。
「おじさん、わたし重いよねえ」
 バドルの腕の中ではもじもじと身動ぎをした。
「いいや、は軽すぎるな。ちゃんと食べているのかい?」
「だって、だってね」
 言い辛そうに口を噤んで、は自分の感情がどこからか遠くからやってきていて、このまま何も言わなければまた遠くへ言ってしまえば良いのにと思いたかった。けれどもそれは間違いで、勝手に湧き出た感情は、自分から外に出さなければそのまま体内にとどまって疼き続けることになるのだと知っていた。
 だから、ひと思いに言ってしまおう。そうでないともうずっと眠れなくなる。
「バドルおじさんは、足が片方ないのね」
 はいつからかそのことに気付いていた。本当は初めて出会った時に気付いていていたのかも知れない。
 バドルは左足がない。けれども使い慣らされた杖を器用について、丈夫な足が二本あるよりよっぽど危なげなく歩いて見せる。そんなことは全く問題にならないのだと体現しているようでは胸が苦しくなった。自分を抱き上げる腕は、片足がなくとも少しも緩まなかった。
「ああ、これはな」
 よっこいしょ、腰を下ろしたバドルは右の膝に少女を乗せて優しく微笑んだ。頭の上に置かれた手の温かさに目を細めたは、彼の腕には沢山の切り傷の痕があることを知っている。
 乗せられた手の平一つ分の重さには、両親がいつも撫でてくれるものとは別の温かさが込められている。その温もりに傷の数など僅かも影響を及ぼさない事を知りながら、は後ろめたさを感じた。触れてはいけないものに触れてしまっているようで、胸が痛む。
 けれどもバドルの声はずっと優しく、臆病な少女の心を撫でていく。
「少し前の戦争でなくしてね」
「おじさん、戦争に参加したの?」
 眉間に皺を寄せ、不快感を露わにした。そんな様子にバドルはおや、と首を傾げた。
は戦争が嫌いなのかい?」
「おじさんって変なことをきくのね。胸を張って戦争が好き、なんていう人がいるほうがおかしいよ」
 む、と唇を尖らせ、子供でもそれくらいの分別はあるもの、と拗ねた仕草でバドルの膝の上で膝を抱えて丸くなった。そこに古傷を抉るようなことをしてしまったのだという後ろめたい気持ちが含まれていたので、気まずいあまりに顔を上げられないは、その時バドルがどんな表情をしていたのかを知ることはなかった。
の考えが本来のあるべき姿なのだろうな」
 ぽつり、とそれは寂しそうに呟かれたので、は思わず顔を上げてバドルを見た。
 は現在、村がどのような状態に置かれていて、村人達の総意がどこに向けられているのかを知らない。それが自分達の村だけに収まらず、国全体を渦巻く歪んだ暗い影が、国そのものを蝕んでいることを。もし知っていたとしたら、少女がバドルに会いに来たりなどする筈がないのだ。
「残念なことに君のような考えの人間は少数派になってしまってね」
 国が戦争に沸くなら、その国民達が国の意向に沿うのは義務である、とこの国の王は宣った。一度勝利の甘い蜜を吸った民には崇高な言葉に聞こえ、異を唱える者は文字通り異端者と扱われる。愚かなのは王であるのか、それとも国の栄光を盲信しきった民の方か、一つだけわかることは、この国を蝕むのは戦争だということだ。始まりが戦争であったのか、戦争をはじめた人間であったのか、そんなことは些細なこと。
「みんな、見えているのに見えていないふりをするよ。だから争いはなくならないんだね」
 は寂れた港を眺めた。漁師村だというのに在るのはバドルの小舟一隻だけ。広大な海には小さすぎる舟。活気の無くなった市場。漁で生計を立てていた村が貧困に喘ぐ理由は、この港に舟がなくなったからなのだろうか。村人達の目が荒んでいるのは、舟がなくなったからなのだろうか。なぜ舟はなくなったのか。どうしてバドルの左足はなくなったのか。
「おじさんは、足がなくなったことを誇りに思っているの」
「いいや」
「痛くない?」
「随分前に傷は塞がっているからね。生活には多少不便だけど慣れればどうってこともないさ」
「バドルおじさんは優しい人だからとっても痛いね」
「人の痛みを理解出来ることは大事なことだ、君はとても優しい子だね」
 しかしこれは優しさとは違うものだ、とは思っている。
「理解出来てるわけじゃないよ。理解はしたいけど。だって、どうしておじさんが痛い目にあわないといけないの?」
「どうしてだろうなあ。理由なんてあってないようなものさ。戦場で俺達みたいな下の人間にとって重要なのは生き残ることだけだ」
 その為に沢山の人間を屠った。本来ならば交わることのなかった人生を、『戦争』というよく解りもしない大義名分の為に奪った。敵対した人間がどれほど自分の人生の妨げになるのか、命を奪うだけの理由に値するのかを知りもせずに。正しくは、知ってはいけなかった。考えることは生き残る事を妨げる。『思考を放棄する』事が生き抜く為の術であり、そうして得た勝利の末路が今の国の有り様である。
 バドルは当時の自分の事を、どれだけ功績を称えられたとしても、家族に、そして目の前の少女に話すつもりはない。大切な家族には少しだって戦争を近づけさせたくない、と思う事が今の国の流れに逆らうことであったとしても。あの時に思い知ったことは他人に、ましてや国に詰られることを許容できるほど安くも脆くもなかった。
「バドルおじさんは足をなくした代わりに、何を得たの?」
 子供らしからぬ質問だった。何をもってその質問が成されたのか、簡単に突発的に出てきた無邪気なものとはかけ離れている。思いも寄らぬ真摯な言葉にバドルは呆気にとられた。そんな様子を青い瞳がじっと見ている。
 いつ見ても見慣れない色だ。青い色をしているが、ほんの数秒前、どのような青であったのかを思い出せない、目まぐるしく変化する色。ともすればそれが本当に青であったのかさえ分からなくなる。何かに意図的に認識を反らされているのではないか、とさえ思う。
「……そうじゃなきゃ、おじさんの左足がかわいそう」
 どうやら少女の問いには他意などなく、自分の杞憂だったようだ。続いたの微笑ましい言葉にバドルは胸を撫で下ろした。理不尽なことが理解できない子供は、まるで自分の事のように心を痛めているように見えた。
「左足を失っても、家族と過ごせる今の時間が幸せだよ。もちろん、君にこうして会えたこともね。大切なものがあったから、家族の元に帰るために命がけで、左足を捨ててでも生還したんだ。寧ろ左足だけで済んだことに感謝しなければいけないかもしれないな。幸福な今があるから、後悔もしていないよ。…どうだい、これは答えになるかな?」
 左足どころでは償えない大勢の人間を屠った。彼らからしてみれば今のバドルの方が余程理不尽である。戦場において、綺麗事など何の美徳も意味も成さない。在るのは生きるか死ぬか。勿論そんなことをに知らせるつもりはない。
 は無意識に噛み締めていた唇をぽかんと開き、頬をほんのり薄紅色に染めた。
「おじさんって、時々恥ずかしいことを平気で言うよね」
 まるでわたしのお父さんみたい、と言いながら、何しろ引き籠もりのは両親以外とはまともに会話をしたことがないので、反応に窮して、照れくさそうに俯いた。
「…でも、誰かをぎせいにして手に入れた幸せなんて、くるしいだけだと思うよ」
「ん?」
「なんでもない。おじさんは強いんだなあって言ったの」
「そりゃあよりは長く生きているからなあ」
「それなら、わたしがどれだけ頑張って生きたとしても、そのぶんだけ同じようにおじさんはわたしの前をいくから、やっぱりずっと強いままだね」
 バドルの手をとって、広げた手の平に自分の手の平を重ねた。目一杯に広げたところで、の手は大きなバドルの手の指の付け根にも届かなかった。
「手の大きさだって、一生敵いそうにないもの」
「いくらなんでもは女の子だからなあ!女の子はこうやって包み込めるくらいの小さな手が良いな」
「おじさん…うわっ」
 呆れるの両手をすっぽり握り仕込むと、空いている腕で華奢な少女の体を抱き込んだ。バドルの体からは嗅ぎ慣れた潮の香りがする。 心臓の響きは波の音よりも速く、優しい速度でを包んだ。両親以外に抱きしめられたのは初めての経験で、くすぐったいが、嫌ではない感覚。そのまま鼻をの柔らかい髪の毛に擦りつけた。
「息子のお嫁さんはみたいな可愛い子がいいな」
 が抵抗しないのを幸いに、バドルはさらに深く少女を懐に向かい入れ、驚き慌てる少女を見て朗らかに笑った。
「バ、バドルおじさん!」
「そういえば、君はまだ息子と会っていないな。昨日まではちょくちょく顔を出していたんだが、タイミングがあわないものだな」
「そ、そうだね…」
「今日こうして会うのも随分と久しぶりじゃないか。少し痩せたかい?」
 そもそも同じ年頃の子供達に比べて少し細い気がしていた。バドルは、少し力を込めただけで折れてしまいそうな少女の白い腕を見る。滅多に外に出ないと言っているだけあり、不健康な色をしている。今日も白いワンピースを着て、スカートの裾から同じように白い足が伸びている。抱き込んだ体は子供にしては冷たく、バドルは得体の知れない不安に駆られた。今の時世、栄養の足りない子供など珍しいことではない。けれども。
 驚くことに、という少女において、唯一の生を感じさせる部分は目の色だけであった。
「風邪をこじらせて、ずっと家から出してもらえなかったんだ」
「大丈夫なのかい?」
「うん。こじらせたと言っても、すぐになおったんだよ。熱がでたのは二日だけ、三日目の朝にはさがったけど、それからもう5日間は布団から出してもらえなくて大変だった。お父さんとお母さんはとっても心配しょうで、ときどきこまるよ」
「君は危なっかしいから親御さんの気持ちもわからないでもないが。
…難儀だったな。は体が弱いのかい?」
「子供は大人よりめんえきりょくがひくいからそうなんじゃないのかな」
は難しい言葉を知っているね」
 くるりと小動物のような目を瞬かせながら、本当に風邪は治ったんだよ、こじらせたのは両親の心配癖だと言う。
「健康な大人も突然しんでしまうことだってあるよね。そのことにこわがって心配しすぎてきゅうくつなのはいやだな。少しだけってわかっていたとしたら、なおさらね、じゆうに好きなことをして生きたいよ」
 おや、疑問に戸惑う隙を与えずに、秘め事のように小さく囁かれた言葉は、少女の心中に反して、少しも希望めいた色が見えず平坦に聞こえた。それは、突風が吹けば抵抗もなく攫われてしまう程度の淡い願望なのだとは諦めているようだった。
 未来ある若者から、その未来と希望を奪ったのは一体何なのか、とバドルは思う。世論か、世界が、それともこの狭い心の内か。切り開く術を知らぬのは、諦める事を知ってしまったから、慣れてしまったから。歩み続ける事には恐ろしい苦痛を伴うのだと示してしまったから。もう痛まないのだと言った左足が時々疼いて、悪夢にうなされる夜があるのだと少女が知ってしまったら最後、は呼吸すらも満足に出来なくなってしまうのではないかと思った。
にとって、自由とはなんだ?」
 問いに、は唇を尖らせた。
「ん?」
「おしえない。おじさんに教えたら、なんだそんなことか!って大笑いするもの」
「どうして俺が笑うんだ?」
「だって、ほんとうにささいなことだから」
 頑なに噤んだ口をどうしてやろうかと、柔らかな頬を突くだけで、少女自身が鉄壁だと自負する要塞は瞬く間に崩落してしまうことを知っている。バドルは、むず痒そうになんとも言えない表情で固まるの仕草が好きで、ことある事に少女を突いては煩わしがられている。
「笑わないからこっそり教えてくれないか?」
 半分呆れながらも、結局折れるのはいつもの方だった。彼女もバドルの屈託のない笑顔がたまらなく好きなのだ。それは両親がに向けるものと似ていて、少しだけ違う。こそばゆく感じる感情の正体を小さな少女は知らない。
「…耳、かして」
 二人の会話を聞く者など周りにはいないというのに、少女は屈んだバドルの耳に用心深く口を寄せた。
 海風をも阻んで、厳かに告げられたの言葉は、世界中でたった一人だけ、バドルの心の中に届けられ、恐る恐る反応を伺う青い目に優しい微笑みが映るまで、海は静かに凪いでいた。
 託された秘め事が確かにバドルの心に収まった後、再び海風が二人の体を包み込むと、は俯きがちに口を閉ざした。
 バドルは予告通りに、少女を笑ったりはせず、そっと華奢な体を抱き寄せた。
「…君は本当に、不器用な子だね」
「今のわたしには、それが精一杯なんだ」
 自由とは、の視界に映る範囲で充分に事足りることを示すのか。知らない事が怖い、と言った少女の悲痛な嘆きにも聞こえる。
「…、おいで」
 立ち上がったバドルはの手を引いて、再び港の縁に立った。物言いた気なを制して静かに語りかける。
、聞きなさい。
 君の未来は、今立っている、この港の縁が終わりではない。
 今は無理でも、いつかここを越えて、君の想像する以上の自由な世界を見ることもあるだろう。残念ながら俺は片足しかないから、を海に連れていってやることが出来ないが、君は一人で立てるだろう?一人で歩いていけるだろう?俺はたとえ、両目が見えなくなったとしても、が自由に走り回っている姿を想像することができる。表情豊かな君が、笑ったり、怒ったり、時には泣いたりする姿をはっきりと思い描ける。心臓が止まってしまっても、君のこの手の温もりはずっと俺の心臓に刻まれているだろう。
 俯かずに顔を上げていなさい。そうすれば、君自身が望みさえすればいつだって世界は広がっていて、未来は自由に幾重にも重なって、交わって、広がっていることに気付けるはずだ」
 握りしめられた手に力が込められ、は眼前に広がる世界を見渡した。
 目に見えるものだけが全てではないと知っている。時に、目に見えないものにこそ真実があることを学ばねばならない。バドルの強さと温かさは、が知らないものによって培われ、知らないものの為に削り取られていくだろう。こうしている間にも迫り来る未来に不安を覚えなかった時などないというのに、この瞬間、バドルと二人で前を向いた時、得体の知れない、満ち足りた感情に支配されていた。
「俺はいつでも見守っているよ。不安になったらこうやって手を握ってあげるから、安心して前を向いていなさい」
 返事はなかったが、僅かに手を握り返される感触と、背筋を伸ばしたの顔がゆっくりと頷くところを見て、バドルは目を細めた。

 はしっかりと前を見据えて、言った。

「わたしも、バドルおじさんが安らかでいられるよう、祈ってる」




2014.01.03

あけましておめでとうございます。