And the sky is falling



 雪でも降ればいいのに。
 それが叶わないことを少女は知っている。今まで一度たりとも凍えるほどの寒さと、空から冷たくて白い結晶が降ってくるところを見た事がない。南国の暑い気候の地で暮らすのだから当たり前であるが、空から雨粒ではない塊が振って、それが大地を白く埋め尽くす地があることを、此処に住む人間の殆どが知らない。少女自身も実際に見たことはないが、知識で知っている。雪の結晶は自分の体温よりはるかに冷たく、手の平にのせると一瞬で溶けてしまうこと。自分の吐く息が白い煙になって昇っていくこと。全て脳裏に浮かべ、想像する事が出来た。自然と背筋が伸びる冷え冷えとした感覚さえ正確に。見たことのない遠い大陸の光景を。

「小さなお嬢さん、こんなところに一人でどうしたんだい」
 
 初めて踏みしめた砂の感触を確かめながら、少女は人気のない昼下がりの砂浜を歩いていた。人気がないのは敢えて人の寄りつかないだろう時刻を狙ったからである。だというのに不意打ちでかけられた言葉にびくりと体を強張らせて立ち止まると、少し離れた所に呑気に腰を落ち着けている知らない男が、少女に向かって手招きをしている姿があった。
 不審者、というよりは気の抜けた緩い優男然をしているが、だからと言って見知らぬ男に気安く寄って行くほど少女は無知でも無謀でもなかった。警戒心を露わにする少女を見て苦笑を浮かべると、大丈夫、怪しいものじゃないよ、俺はここで漁師をやっているんだ、と男は優しく言った。
「親御さんはいないのかい?あまりこの辺りで見かけない子だね」
 数分の葛藤の末、男から数メートル離れた位置に落ち着いた少女は、半分だけ男を信用することにしたのだろう、残り半分の警戒心でもって目を一杯につり上げて男を見上げる姿はいじらしく映った。まだ小さい子供にしてみればこんな辺鄙な海岸に来るなど大冒険に違いなく、神経を張り詰めて、男の問いにどのように答えるべきかを慎重に探る姿は子供らしさからかけ離れていて、ちぐはぐな印象を受ける。
「…村はずれの、丘の近くに住んでいるから」
「そうか、道理で見かけないわけだ。ここに来るのは初めてかい?」
「どうして?」
「君がさっきから物珍しそうに海を眺めていたからね」
 目をまんまるにして、未知たる全てを吸収しようと、目にした分だけ世界を広げようと懸命になって、ついには海に飛び込むのではないかと心配になって声をかけたのだ、と男が笑うと少女は俯いた。
「きゅうに声をかけられたから、おこられるのかとおもった」
「おや、怒られる事だと分かっているのかい?確かに君みたいな小さな子が一人だけでここに来るのは感心しないね」
 ところで、名前は何て言うんだい。、と少女は小声で答えた。
か、俺の名前はバドルという。ご覧の通り、しがない漁師をやっている。さあ、この距離だと話しづらいから、こちらの木陰に来て少しだけ世間話に付き合ってくれないかな?今日は特別暑い日だ、そんなところにいたら干からびてしまうよ」
 じりじりと焼け付くような暑さは、砂浜の上ではとにかく脅威になる。は喉の渇きと、疲労感で自分が正常な判断を下せないことに気が付いていた。何しろこれだけ歩いたのは初めての体験で、本当はどこか木陰で休憩をしようと思っていたところだった。珍しいものは何もない長閑な田舎の村であるが、焦臭い国の動向に沿うようにしてこの辺りも物騒になった。過保護な両親に大事に育てられてきたは、いわゆる箱入り娘である。外の情報は必要最低限しか与えず、臭いものには蓋をする両親の教育方針が常軌を逸しているかどうかの判断もつかない幼子は、自分の生まれ育った国が一体どのような状況にあるのかを知ることもない。始まったばかりの数年間の人生の殆どを箱の中で過ごしてきた。安全であったが退屈でもあった。毎日飽きもせず家の中から眺めていた外の世界に、今日初めて飛び出して、初めて出会った家族以外の人間を、は海と同様に未知の存在として捉えた。
 バドルはもしかしたら人さらいなのではないか、自分はどこか遠くに連れていかれるのだとしたら。
 結局は大人しくバドルの横に収まった。木陰の下はひんやりと涼し気に少女を迎え、落ち着かない気分にさせる。バドルはそんなを人好きのする笑顔で眺めた。人との接し方を知らないように見えるは、口元をきつく結んで、意地らしく足下ばかりを見つめている。
「海は気に入った?」
「……うん」
 おずおずと顔を上げたは、太陽の残像が走る水面に視線を乗せて、ゆっくりと頷いた。
「想像していたよりも青くて、静か」
「今日は風が大人しいからな、波も穏やかで心地が良い。は良い日に来たな。風が強い日はもっと騒がしく荒々しいものだよ。嵐の日は絶対に近づいてはいけないからな」
「嵐はこわいからね」
「そうだ、とても怖い」
「バドルおじさんは、嵐よりももっとこわいものを知ってる?」
 間近で見た少女の目は青かった。日陰の下にいるせいか、穏やかな日の海よりも少しだけ濃く、嵐の日のそれに近い色。無垢な子供にしては深い色をして、大人のバドルを視る。少女の欲している答えは何か、バドルには知る由もない事だった。
「嵐だけではない。世の中、怖いものはたくさんあるな。君よりもずっと大人になった俺でさえ、両手の指では数え切れないほどある」
 そうだね、は丸めていた背筋を正して、正面を見据えた。横顔はあどけなく、丸い輪郭は柔らかく弧を描き、ふっくらとした頬は緩まない。
「嵐がこわいことも嵐の海がこわいこともお父さんとお母さんが教えてくれた。でも、嵐はどうしてこわいの?海はどうしてこわいの?なにも知らずにいることが一番こわいことなんじゃないかっておもうの。わたしの『こわい』はおじさんのと正反対だね」
 嵐が絶望的に人々の住む世界を飲み込んでしまうことも、海がどのようにして人々の大切な者達を奪っていくのか、自分自身が納得のいくように理解しなければならない。聞かされた話を信じていない訳ではなく、ただ、海が青いと言うのなら、それがどのような色合いで、潮の香りとはどうであるのか、他ならぬ自分の目で、耳で、鼻で、全身で知る必要がある。好奇心とは似ているが違うものだ、と少女は思っている。自己満足により近い。
「あのね、海でおぼれてみたい、とかそういうことじゃなくてね、ああでも、どうかな、一回はおぼれてみないとわからないかな」
 いや、それは駄目だろう!バドルは驚いた。年端もいかない子供が、大人ですら簡単に思い至らないことを考え、理解しようと足掻いている。がただ無邪気な好奇心だけでここにやってきたのではないという事実に複雑な思いを抱き、けれども少女がこの時世に在りながら、周囲に大事に育てられてきた事に関しては温かい思いが芽生えた。
「お父さんとお母さんはいつもあれはだめ、これはだめ、あぶないからいけません、もっと大きくなってからね、ばかり。わたしは毎日おなじ景色だけを見て、想像することしかできない」
はまだまだ小さいから親御さんも心配なのだろう」
 憮然とした表情で、少女は砂を蹴り上げた。細やかな砂は風に煽られ宙を舞う。
「でも、もう4歳だもの。あと少しで5歳になるよ」
 開いた指を一本ずつ曲げていき、4本折り畳んだところで、溜息を吐き出した。あとよつきで誕生日だというのに、まだ何一つとして実感がない。5年目、何かがかわるだろうか。それとも今のと同じ感触のない夢と現実の狭間のような世界を漂うのだろうか。
 悩める少女の曲げられた4本の指を見つめているバドルは、合点がいった、と頷いた。
「ふむ…。もしやと思ったが、君は俺の息子と同い年か」
 は目を見開いて驚き、まじまじとバドルを見た。
「おじさん、むすこがいるの?!」
「ああ、君と同じで好奇心の塊みたいな息子がね。を見ていると、毎日のように一緒に舟に乗せろとせがんでくるあの子の姿を思い出すな」
 思うように行かない自分の立場を重ねているのだろう、乗せてあげればいいのに、と口を尖らせたを見てバドルは笑う。
「駄目だな。親っていうのは自分の子供が可愛いものなんだ。君は納得いかないだろうが、愛しいからこそ危険な事からは遠ざけたいし、何に代えても護りたいと思う」
「何としても?」
「そうだ。何ものにも代え難く、何時までも幸せであれと願うのが家族というものだ。の親御さんだって同じさ。だからあまり心配をさせてはいけないよ」
「ずっと良い子にしてきたわ」
「内緒でここに来たのに?」
 そう言われてしまえばは口を噤むしかできなかった。俯きがちに消え入りそうな声で、見つかる前に帰るもの、と言う。その仕草が可愛らしく、バドルは忍び笑いを漏らした。
「焦って背伸びをすることはないさ。君の人生はこれからなんだ、大人になるまでゆっくりやっていけばいい」
 果たしてそれは正しいことなのだろうか。その言葉はバドル自身にも言い聞かせているようであった。近い将来、少女にも、自分の息子にも望まない苦しい現実が待ち受けているだろう。バドルが望むものを、今の時世が、国が許してはくれない。気休めに過ぎない言葉を祈るように口にしても未来は必ず襲いかかってくる。無垢な子供で居て欲しいと思う気持ちと、無垢なままでは居られない現実は歯がゆく、身が引き裂かれる思いが込み上げてくるのだ。そんなバドルの心情を知る筈がない少女は、何も言わずに彼を見上げた。
「子供にもね、大人になるための準備が必要なんだよ」
 何も知らなかった、では済まされないこともある。子供は大人になるための義務を果たさなければならない。その為の努力を怠らず、思い知らなければいけない。目隠しをされたままでは自力で立ち上がる術を忘れてしまう。
「だが君はまだ幼い。その準備とやらはまだまだ先の話ではないのかな?」
 見えない何かに急かされているみたいに、は顔を左右に振り、バドルの言葉を否定した。
「…お父さんとお母さんは教えてくれないけどね、本当は」
 その瞬間、バドルは息子の無邪気な笑顔を思い出していた。人として至らない自分が、この数年間、与えうる限りを尽くして育てた愛息子と比べて、目の前の少女は何が違うというのだろうか。
「二人が知らないことを、知ってるよ。二人がかくしてることも、なんとなくだけど」
 知らないふりを、するけれど。恥ずかしそうに、膝を両手で抱え込んで丸くなった。小さな背中が波の音に合わせて揺れる。
 バドルは少女から目が離せなかった。初めて見たときのは不安定で危うい様を漂わせていたが、少女はバドルが思っていた以上に芯が強かな子供であった。出会って数刻も満たない間に、の両の瞳がいくつもの不思議な色合いを放ち、それが少女自身の気質を現しているのだと気が付いた時、心が揺さぶられる感覚が全身を駆け巡った。
「わたしは他の子たちよりもずっと手のかかる子供だから、誰よりもはやく大人にならないと、むくわれないんだよ」
 人の一生は永遠ではないから、は最後の一言を飲み込んで、今日ここに来たことは後悔していない、と言った。言葉とは裏腹に声に力はこもっていない。
「…が健やかでいてくれるだけで、親御さんは報われる筈だろう」
 少しの間の後、は顔を歪めながら、そうだよね、と笑った。
 普段から聞き分けの良い、手のかからない子供なのだろうと想像する。日に焼けていない肌、手入れの行き届いた艶のある髪を胸の辺りまで真っ直ぐに伸ばし、染み一つない真っ白なワンピースを纏っている。田舎の漁村には珍しく毛色の違う、良く言えば品のある出で立ちは、両親の庇護の賜物なのだろう。驚く程に、すれていない。
「よければ今度、俺の息子に会ってみるかい?」
「やだ!」
「はあ?どうして即答するんだ?!うちの息子は俺が言うのもなんだが、妻に似て可愛いし性格は少々やんちゃが過ぎるが男の子だから当然のことだとして、それ以上に思いやりがあって何より勇気が――
「わかったバドルおじさんて親ばかなんだね」
 息子の話を始めた途端に目も当てられない緩みきった表情を浮かべたバドルを、はのろけ話は犬も食わない、と面白そうに笑った。バドルは息子が、どれだけ賢く、母親と自分によく似た気立ての良い子供であるか、体の弱い母思いの優しい性格は村一番に違いない、男らしい太い眉がチャームポイントなのだ、一通り熱く語り目元を緩ませた。
「自慢の息子なんだ。とも気が合うと思うんだがな」
 楽しそうにバドルの話に耳を傾けていたは、戸惑い気味に視線を反らした。
「そうは思えない、だってわたしには友達がいないの」
「なら君の最初の友達にしてやってくれないかな。あの子にもなかなか友達が出来なくてね」
「あのね、でも、」
 言葉を詰まらせ、慎重に答えを選び取ろうとする。喉を引きつらせ、苦しそうに眉を顰めながら絞りだされた言葉は、
「…うん、そうなれたらいいな」
 バドルには少女がどのような気持ちを抱きながらそれを口にしたのか理解することは出来ないが、期待、諦観が混ざり合った顔を地平線に向け、ゆっくりと肩を揺らした。
 渋った理由の一つとして、元々殆ど家から出ることがないのだと言う。小さな村とは言え、同年代の子供の数は少なくないが、子供達の大多数が自分の存在すら知らないのではないか、と首を傾げた。寂しくないのか、バドルの問いには、一人でぼんやりとしている時間も好きなのだと笑う。複雑なことではない、自分は両親に愛されている、箱入り娘は不満なことなど何もない、と言いながら箱の中から飛び出してきた。そのちぐはぐな行動に気付いていないのだろうか。
 バドルは無意識に手を伸ばし、小さな頭を撫でてやった。両親以外に撫でられたのは初めてだとくすぐったそうに目を細めたは、ワンピースに被った砂を落としながら立ち上がり、数歩前に出て大きく伸びをした。
「いろいろ言ったけどね、ほんとのほんとは、『はんこうき』なだけなの」
振り返った顔は少しはにかんでいて、照れくさそうだった。
「驚いたな…自分でちゃんとわかっているのかい」
「うん。ずっと、じぶんの目でいろいろなものを見てみたいって思ってた。その方が、話にきくよりずっとすてきなはずだから。これってとってもわがままなことだね」
 他の子供の事情はよく知らないが、浜に出るために通ってきた村の様子はどこか張り詰めた空気が漂っていて、が思っている以上に小さな子供が一人で出歩くという行為自体が好ましくないのかもしれなかった。を家から出したがらない両親の行動は、小さな子供を持つ親としては当然の道理なのかもしれない、と思い始め、同時に、まだ一つとして正しい答えを導き出せそうにない己の無知を少女は恨めしく思った。
「反抗期のはこれからどうするんだい」
 海に向かってもう一歩、足を進めたは履いてきた靴を一度脱ぐと、中に入り込んだ砂を丁寧に掻き出し、両手に持った。
「お母さんはわたしがおひるねしてると思っているから、もう帰らなくちゃ。砂、ついてない?」
 そうしてワンピースを翻しながらくるりと回ってみせ、バドルが優しく頷くと、ほっとした表情を浮かべた。名残惜しそうにもう一度だけ、海の方を眺める。

「バドルおじさんは、世界がまるい球体でできているって言ったら、信じる?」

 バドルは少女の背中を見た。雲が丁度の頭上を通り、陽の光を遮っていく。
 太陽がわたしたちの世界の周りをまわっているんじゃなくて、わたしたちが太陽の周りをぐるぐるしているのよ。世界が丸かったら、海の水が零れてしまいそうだな。地平線の向こうは急な下り坂だったら大変だ。俺の小舟でまた上って帰ってくるのは一苦労に違いない。バドルの言葉にふふふ、と笑った。

「この海の向こう側のとおいとおい異国の地ではね、空から白くて冷たいけっしょうが降る場所があるんだって。見たことある?」

 いいや、首を振ったバドルに少しだけ落胆の表情を見せたは、じゃあ本当に遠い場所だね、と空を仰ぎ、世界が丸い球体なのだったら、この村の反対側にあるのかもしれないな、という提案に嬉しそうに頷いた。
 ここまで来る道中、あまりにも暑いから、ずっとそのことについて考えながら歩いてきた。今は暑さにとてもうんざりしているけれど、寒い国に行ったら、今度は温かいこの村が恋しくなるんだろうな、我が侭だなあ、そう言って沈黙したの横顔に、旧懐の色が濃く浮かび上がったことにバドルは気付かないふりをして、少女のワンピースの裾がふわりと潮風にゆれる様を眺めた。まるで今すぐにでも遠くに飛び立ってゆきそうな真っ白な女の子は、砂浜に小さな足跡だけを残して帰っていった。後に残されたのは幻も見えない夢の跡。

 バドルは柄にもなく、続いてゆく足跡が辿り着く先を想像し、
子供になり損ねた子供の、生き急がざるを得ない未来について想った。




2013.12.01

おじさんとわたし