体中が震える。わたしを脅かす貴方は一体誰なの。
平然と目の前に現れてみせたその人に、愚か思考はありもしない答えを期待して、あっという間に霧散した。バラバラになったパズルのピースを埋める時間がないことを知っていたら、もう少しだけ優しく向き合うことをしただろうに。
「貴方は…」
言葉にすることが憚られて、喉に支えた感情を上手く飲み込めなかった。
固まるアラジンとモルジアナを引き寄せて思わず目を伏せた。
* * *
「モルジアナはまだ怒っているのかな」
数メートル離れた先を歩くモルジアナの背中を伺いながら、隣のアラジンに小声で話しかける。
お世話になったキャラバンに別れを告げて数日、わたし達はアラジンと合流してバルバッドを目指していた。予想ではもう間もなく到着する筈である。
アラジンは漸くアリババくんに会えると心を躍らせている様子だし、わたしもそろそろ砂だらけの身体を清めたかった。モルジアナといえば、数日間ずっとこの調子でわたしとは視線を合わせようとせず、必ず数歩先を歩いていた。
モルジアナのこんな態度は初めてで、どうして良いかわからず苦笑するしかないわたしと、何も言わないモルジアナとの間をアラジンが行ったり来たりしていた。
「うーん、怒っているのとはちょっと違うかな」
眉を下げて困ったように首を傾げる。
徐々に草木が茂る大地が目に付くようになると、そよぐ風も豊かなものに変わり、気候自体が異なる環境に変化しているのだと実感する。砂漠が終わると、モルジアナが楽しみにしている新しい事が沢山待っている筈だ。
「そろそろどうにかしないといけないね」
「そうしたらおにいさんがモルさんの気持ちに気づかないといけないねぇ」
アラジンはほわほわしているようで鋭いことを言うことがある。
「おにいさんは肝心なところで残念だよね、君もそう思うだろ?マリカ」
マリカとはわたしの相棒の砂漠オオカミのことである。少し離れたところにいる白銀のオオカミはアラジンに同意するように鼻を鳴らした。普段は人見知りで滅多に姿を見せないのに、こういう時ばかり現れて連帯感を見せつけてくる。
「マリカ、君まで…」
「僕達だって早く二人に仲直りして欲しいしね!せっかく皆で旅をしているのにこれじゃ楽しくないもの!」
声を大きくして言うと、先頭を行くモルジアナの肩がびくりと揺れた。
「モルさん、こっちに来て一緒にお話しようよ!」
「いいえ、私は…」
もう何度も繰り返したこのやりとりと、物言いたげなアラジンの視線を流して咳払いを一つ。しょうがないなぁ、と呆れ声。これじゃあどっちが年上かわからない。
「おにいさんはもう少し自分のことにも敏感になった方がいいよ。君のことを大事に思っている人がいるってことを知った方がいい」
言うなり踵を返してモルジアナの方へ走り出していった。わたしはアラジンの言葉の意味を考えながらじゃれつく二人の後ろ姿をしばらく眺めていた。
「なに、マリカ」
アラジンが行ってしまうと、傍に寄ってきて服の裾を噛んだ。人見知りをするマリカは、アラジンやモルジアナがいると近寄って来ようとしない。最近では慣れてきたのか、徐々にその距離は縮まりつつあるのだけど。
もう何年も一緒に苦楽を共にしてきた相棒が非難するように鼻を押しつけてくる。
「わかっているよ、わかってるのだけどね」
自分でも吃驚するくらい戸惑っている。なんということだろう。驚くことに、考えてみれば物心着く頃から誰かと喧嘩をしたことがなかった。もう一つの記憶のせいか同世代の子供達よりも達観した思考をしていたわたしは、あまり心を許せる友達というものがいなかったのだ。あの時期の子供にありがちな無邪気な嫉妬心と優越感が一斉に向けられ、「あの子なんか変」と認識された途端に一人になっていた。子供は痛みを知らないから一切容赦がない。小さな村内の出来事だ、一人の不信感はあっという間に広がっていき、徹底的に排除された。今考えるとあの頃から差別社会は始まっていたのだから恐ろしい。そんな事なんかお構いなしにわたしを構い倒してきた幼なじみが唯一の友人だった。当時から既にあの人は別格だった。そもそもわたしと他の子達の確執に気付いていなかったかもしれないけれど。なぜならわたしへの粛正は子供ながら周到に行われ、大人達には決してわからないよう図られていたから。つまり、昔から正義感の塊みたいな人がイジメを良しとする筈が無く、主犯の子供達は彼にも隠していた筈なのだ。その証拠に幼なじみが一度だけ「どうしていつも一人なんだ?」と聞いてきた事がある。その無神経な質問に呆気に取られたことを良く覚えているけど、今思えばそういう事だったのだ。
そんな幼なじみは変わっているという点ではわたし以上だが、それでも彼が苛められるというようなことはあり得なかった。持ち前のカリスマ性と存在感で他の子達にも絶大な人気を誇っており、そんな彼がわたしに懐いていることが一部の子達の嫉妬に火を付け、彼らとの間に修復不可能な溝が出来たこともあった。主に女の子達と。顔の良い友人は持つべきではないと何度思ったか知れない。
そしてその唯一の幼なじみ兼友人とは喧嘩はおろか、言い争いさえした事がなかった。お互い子供だというのにお互いを尊重し合い、一歩出たり引いてみたりと探り合いながら末恐ろしい関係を続けていたのだから頭が痛い。なんて不健全な子供だったんだろう。考えれば考えるほど幼なじみは気持ちが悪い。
そういうわけで、一方的な嫌悪感や敵意には慣れていても、モルジアナのような感情のぶつけられ方は初めてだった。わたしの事を思っての行動に、こそばゆい気持ちで自然と頬が緩んだ。実はこの状況をちょっとだけ堪能しているんだ。そんなわたしをマリカが鼻で笑った。
「バルバッドに着くまでには仲直りしたいね」
南国色の濃い密林に足を踏み入れ、懐かしい潮の薫りがしてくるまであと少し。それまでにアラジンの言葉を噛み締めるのだ。背中を押すようにマリカの尻尾が緩く揺れた。
「あれ?」
前の二人の様子がおかしい。
突然立ち止まって、立ち塞がる何かに驚いているようだった。
考え込んでいたせいか、随分と距離があいてしまったことを悔やみながら目を凝らして見る。隣でマリカが低く唸り、警戒を促した。盗賊の件もあるし、バルバッドに近づくにつれて治安は悪くなる一方だった。嫌な予感がする。
「うそ、あれって…」
捉えたものに目を疑った。一人の男が二人の行く手を遮っているようだった。嘘でしょう、だってあれは、あれは。心臓が早鐘を打ち始めると同時に走り出していた。
「モルジアナ!アラジン!」
追いつく頃には息が上がっており、二人を確認すると、わたしの酷い形相に吃驚しているようだった。気を落ち着かせてゆっくりと視線を前方に這わせれば、途端に体中から熱という熱が溢れ出てきて蒸発しそうだった。子供達の肩を掴む手が震える。
「さん…?」
モルジアナがわたしの名前を呼ぶなんて久しぶりだ、緩みそうになる頬を叱咤すると、勇猛なマリカがわたし達の前に躍り出た。
ああ、どうしよう、どうしよう、頭の中ではそればかりで、居たたまれずに視線を落とせば、鋭い牙を剥き出しに威嚇する白銀の背中。わたしが毅然と立ち向かわなければいけない。
「な、なんだ…?!」
どうしてこんな所に砂漠オオカミが?!
対峙する相手の戸惑う声にわたしの心臓が跳ねた。それでももう顔を上げることなんて出来なかった。震える手を伸ばして、小さな二人を抱え込んだ。
「あ、貴方は…」
絞りだすようにして出た声は震えて情けないものになっていた。引き寄せた二つの体温を感じて安堵しながら、こんなに動揺したのは何年ぶりだろうと考える。奴隷になった時だってここまで震えはしなかった。不覚にも目尻に涙が浮かびそうになり、気を引き締めてみても体中の汗が目から溢れそうだった。
もう嫌だ、こんなの、こんなの、あんまりだ―――
「貴方はこんな小さな子供の前でなんて格好をしているんですか!この変態!」
わたしの大声は周囲に響き渡り、驚いた鳥達が一斉に飛び立った。
一瞬の間の後、
「す、すまん…」
素直に返ってきた謝罪の声に顔を上げれば、全身裸の男が目の前にいた。
あ、と思う間もなく顔は火が付いたみたいに真っ赤になった。
* * *
「いや、本当にすまなかった。こちらも非常事態だったものでな」
「もういいんで、近寄らないでください」
いくら人気のない密林の中とはいえ、恥ずかしがることなく全裸ってどういうことだよ!問いつめても「誰しも生まれた時は全裸だろう?何を恥ずかしがることがある!」と平気で返してきそうな心臓に毛の生えた男だった。
酔っぱらって寝ていたら身ぐるみ剥がされたと笑いながら言われれば、どうしてこんな人里離れた場所で酔っ払って寝付くなんていう事態になるんだ!と声を大にして言いたい。「わからん、だって記憶がないから」と返ってくるのがオチだろうけれど!
男が自らを「シン」と名乗るところを、ささくれ立った気持ちで聞いていた。
「ごめんよおじさん、どうも僕は砂漠越えのせいで危険なものに敏感になっているようだよ」
「アラジン、それが正常な判断だからね。こういう人は大体疑ってかかって正解だから。平気で全裸で歩き回る人なんて変質者以外いないと思ってね、第一級危険人物だから」
わたしは素直なアラジンがとても心配だった。
「だから俺は怪しい者じゃないって」
「本当にわかったのでもう少しモルジアナから離れてください。青少年の精神衛生教育上よろしくないので」
「わかってないよね?」
そんな事はありません、さっきからずっと目を合わせずに焚き火の炎を眺めている。視界に入ったら死ぬかも知れない。向かいの男はサイズの合わないちぐはぐな服を着て余計に怪しかった。わたしとアラジンの服を貸したのだから当たり前だけど、これなら裸の方がまだマシかもしれない、いいや、どちらに転んでも最悪だった。アラジンとモルジアナも直視を避けるほど、見ている方が恥ずかしくなる。もう嫌だ。
「ど、どうしたのおにいさん、なんだかいつもと様子が違うよ…?」
怯えた声にはっとすると、モルジアナも不安そうな顔でこちらを見ていた。自分の頬に手をやれば、引きつった筋肉がびくりと動いた。思わず両手で顔を覆う。
「ごめん、なんか調子狂って」
あんなインパクトのある対面をしたせいか、この人といるとどうにも落ち着かなかった。胸の奥につっかえた何かが神経と尖らせ、警告してくる。この男は、油断がならない――あっという間にわたし達の中に入り込み、アラジン達の警戒を解いてみせた不可解な男、もっともわたしの警戒は今でも剥き出しだけれど。はっきり言ってアラジンの警戒心の薄さは諸刃の剣だ。これからも旅を続けるのであれば、教える事が沢山あるようだ。
「君は、くんと言うのかな」
思考の波に沈みかけたわたしを引き戻したのは男の視線だった。この目が落ち着かせなくさせる。探る側のわたしを逆に探るような視線を向けてくるので、正面から受け止める事ができなかった。赤々と燃える炎の踊るような動きを意味もなく観察してみる。沈黙を肯定と受け取った男はため息混じりに続けた。
「随分と驚かせてしまったのは謝る。君の反応は最もだと思うが、そろそろ仲直りをしないかい?子供達が困っているようだからね」
「あ」
すぐ横でマリカが長い尻尾で床を叩く音に我にかえった。いつもなら真っ先に姿を消すマリカがこうしてわたしに寄り添うようにして傍に居続けるのは、わたしがピリピリと神経を尖らせているのを感じているから。視線を落とせば静かな砂漠色の瞳と合わさり、みるみるうちに刺さった棘が抜けていく。暗示が解けたように体中から力が抜けていくようだった。
「ごめんなさい」
何でもないことのようにマリカは目を閉じた。アラジンがわたしの手を取る。小さな手は温かく彼の心のように柔らかかった。
「大丈夫かい?」
「ありがとう」
アラジンはわたしに対してよく「大丈夫か」という言葉を使う。その度に情けない気持ちにさせられた。彼と出会ってから随分と自分の弱いところに気付かされている。
ふとモルジアナと視線が合うと、照れくさそうに笑ったのでわたしはもう一度「ごめんね」と呟いた。
「ところでその砂漠オオカミはくんのものなのか?」
マリカの耳がぴくりと動いた。
「この子は僕の大事な相棒です」
警戒するように顔を上げる逞しい首筋にわたしの腕を滑り込ませる。落ち着かせるように数回耳の付け根を撫でてやると気持ちよさそうに目を細めた。
「ほう、希少種の砂漠オオカミをこんなところで拝むことが出来るなんて思わなかったよ!これだけ立派な個体は初めてみるから正直驚いたな。白銀の毛並みも素晴らしいし、何より知性が溢れんばかりの精悍な顔つき。圧巻の一言だな。しかし、孤高の砂漠オオカミが人に懐くなんて聞いたことがない…ええと」
「マリカです」
「砂漠の女王か。良い名だ。まさしく砂漠の覇者にこの上ない名だな」
シンがまじまじとマリカを称えると、機嫌を良くしたのか鼻を鳴らした。
「いや、あの…この子実は男の子なんですけど」
「「「え」」」
3人の声が重なった。余計な事を言うなとマリカが甘噛みしてきたので「いたっ」と慌てて腕を引いた。
「この子と出会ったのは数年前で、それからずっと一緒に旅をしているんだけど、砂漠でこの子を拾ったときはまだ赤ん坊だったからそのう…」
「性別を間違えて名前をつけたと」
「ええ、まあそういうことです。本当なら男の子らしい立派な名前を付けてあげるべきだったんですけど、間違えに気付いた時には2年くらい経っていたから名前も定着してしまっていたし、マリカもこの名前気に入ってるみたいだったからこのままでもいいかなって」
マリカが低い声で呻る。これは肯定の意だ。たぶん。
「ほらね」
「「「……」」」
三者三様のなんとも言えない視線が注がれた。
「それ絶対気に入ってないよな」
「マリカ…可哀想に」
アラジンが冷めた目をしてわたしの胸を見た。
「まあおにいさんはそうだろうね、マリカの気持ちなんてわからないだろうね」
「な、なに、アラジン、何が言いたいの」
マリカが鼻を鳴らして再び伏せると、微妙な空気が周囲を包んだ。
「ああ!そうだアラジンは砂漠越えをしたんだったね!」
シンにまで気を遣われたら流石に居たたまれず、男の浪漫談義に花が咲き始めると黙って耳を傾けた。アラジンがわたし達と再会するまでに大冒険をしてきたことは既に聞いていた。アラジンの口から紡がれる物語は自身が興奮冷めやらぬ様子で、鮮明に、色鮮やかに彼の器に影響を与えたことは明白だった。頷く度に周囲のルフがざわめく。以前よりも顔つきが変わったように見えるのは、彼にとって大切なモノが、大切な人が増えたからなのだろう。成長途上の若者の姿を間近で見届けるのは不思議な感覚だった。どこかこそばゆく、懐かしく、羨ましい。形容しがたい感情が心を高鳴らせる。
わけもなく泣きそうになったので顔を上げると、シンじっとがこちらを凝視していたので違う意味で心臓が主張を始めた。いつから見られていたのだろう。
「さん」
気が付くとモルジアナがわたしの前に膝をついていた。状況を把握する前に彼女はわたしに頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
「え?どうして?!」
慌てて立ち上がりモルジアナの手を引いてお互い向かいあった。つり目がちの目が炎の燻りに揺れて陰を落とす。
「本当はわかっていたんです。さんが他の人の痛みに我慢が出来ない人だって、私自身そういう所に惹かれたのもわかっていたのに、貴方が自分のことを顧みないことにとてもモヤモヤして、自分勝手に避けてしまってごめんなさい」
わたしが目を見張ると、モルジアナがぎゅっとわたしの手を握る。
「その、こういう感情が初めてだったからどうしていいかわからなくて意地になってたんです。さっきアラジンに「素直な気持ちを伝えたら良い」と言われたので漸く向き合うことができました。遅くなってごめんなさい。本当に心配だったんです。さんはいつも一人で完結してしまうから、どんなことでもいいから私のことも頼って欲しかった。我が儘なんです。アリババさんやアラジン達と同じように、私はさんの力になりたい」
わたしは沸き上がった感情をどうしたらよいのかわからず、言葉にも出来ない初めての感情を持て余し、気が付くとモルジアナを抱きしめていた。温かく緩やかに流れ込んでくるのは慈しみの熱だった。アラジンがふふふ、と笑ったので、わたしも泣いているのか笑っているのか珍妙な表情を浮かべた。
「僕のほうこそ心配させてしまってごめん」
我が儘なのは自分の方だ。わたしのことで君の優しい心を痛めて欲しくなんかない。ごめんね、それから、ありがとう、祈るように呟いてモルジアナの額に自分の額を合わせた。戸惑うような瞳を間近に捉えてゆっくり瞼を閉じて想像した。
「モルジアナに星の導きがありますように」
貴女の未来を照らす沢山の光があらんことを。
「二人が無事に仲直りできてうれしいよ!」
アラジンが飛び込んできたので3人で抱き合う形になった。マリカが迷惑そうに離れたところに避難していく。すっかり蚊帳の外にいたシンが口を挟むまでわたし達はぎゅうぎゅうと笑い合った。
「話が読めないんだが、二人は喧嘩をしていたのかい?」
あくまで控え目な質問に、大した美談でもないのでお茶を濁してしまおうと思った。シンには自分のことをあまり話したくないという気持ちもあった。
「そうなんだよ!聞いておくれよ、おにいさんは本当に無鉄砲な人なのさ」
「わ、こらアラジン!」
そこは大人の事情を察してシンも軽く流してくれればいいのに、聞き上手な彼に気をよくしたアラジンに熱が入ると饒舌に語りだし、好き勝手な注釈を挟む度にモルジアナがまでが相づちを打つ始末でわたしは頭を抱えた。何だろうこの連帯感。気が付くとわたしが全面的に悪いという流れになっていた。
案の定シンは眉をしかめた。
「確かに君の行動はあまり褒められたことではないな」
「だからもういいよ」
すっきりした面持ちのアラジンとモルジアナにごめんなさい、と謝罪する。
「突然おにいさんがマリカに乗ってどこかへ行ってしまったときは驚いたよ。まさか自分を売ったお爺さんのところにいくなんて。とってもおにいさんらしいけどね」
「信じられないお人好しです」
これ以上のダメージはないと思った。どんな言い訳も焼け石に水になりそうだった。
「そう言えば聞いていなかったけど、そのお爺さんにお金は渡せたのかい?」
ああ、それなら。一度視線を焚き火に落とし、遠くの空を眺める。あの町からは随分と離れた所まで来た。最後に見た老人の表情を思い出そうと視線を彷徨わせて諦めた。
思い出せやしないとわかっていた。
「結局渡せなかったんだ」
「え、そうだったのかい!?でもそれじゃあ」驚くアラジンに頷いてみせて
「戻った時にはもうお爺さんは居なくて、あえなかったんだ」
「そうだったんだね…」
それは残念だったねと自分の事のように肩を落とすアラジンを慰めるように薪が火の中でパチパチ弾けた。手近な枝を取り火の中に投げ入れれば、僅かに火の勢いが増した。
マリカが咎める視線を向けてくる。わかってる。真実ばかりが正しい事とは限らない。事実を知って彼らの心に陰を落とすのならわたしは口を噤む。もう誰にも届きはしないのだから自分だけが受け止めていればいいことだった。
あの夜、町に舞い戻ったわたしは老人にあうことはなかった。そこにはもう居なかった。しかし、町外れの崩れかけた廃屋の小さな痩せ痩けた庭に、まるで其処の住人の末路のように寂れ忘れた庭の端に一本の大きな木が、枝に緑を茂らせることなく佇んでいた。その木の付け根には真新しい小さな墓があった。墓と呼ぶには粗末なそれは皮肉にもこの庭に馴染んでいる。
木の幹には刃物で出来た切り傷がいつも並んで刻まれており、丁度わたしの胸の高さ辺りで止まっていた。その痕をなぞりながら自分が小さい頃、背比べをして毎日のように家の柱を眺めていたことを思い出した。次第に伸びていく印に幸せな未来を刻ませて。物言わぬ大木は、懐古の記憶を誇らしげに胸に掲げ静かに朽ちている。これ以上刻まれることのない痣は、流れる月日と醒めない夢の中に人知れずひっそりと埋もれていくのだ。
視線を小さな墓に下ろし、墓の上で丸くなる老人を見た。
わたしは少し太め樹枝を手折った。とっくに活動を止めた木は脆く、あっさりと折れた。
それから小さな墓の横に大きめの穴を掘り、老人と懐から取り出した金を入れると土をかぶせてその上に枝を挿した。寂れた庭に小さな枝と大きな枝が並ぶのを見届けると、静かに眠る夢の跡を去った。
もうこの町にはいない老人は安堵の表情で眠っている。
こうなる事をいつから気付いていただろう。
日が昇れば、もうその表情がどのようなものであったかを思い出すことはできなかった。
そんなわたしのことをシンが静かに見ていたことを知る筈もなかった。