星の下へと戻れたら

 


耳鳴りがする位に激しい雨の夜だった。
滝のように空から落ちてくる大粒の水は、あっという間に地肌に染み込み、溢れたものは傲慢な様子で大地を滑って行った。次から次へと押し寄せる波は夜の帳さえ飲み込もうとしているようにも思えた。時々遠くの方から雷鳴が轟き、狂ったように風は雄叫びをあげては窓を激しく叩く。遠くから、カランカランと村の緊急時に鳴らされる鐘の音がけたたましく聞こえてきたが、直にその音すらも飲み込まれていった。
わたしは布団を頭から被り、小さな体をさらに縮こまらせて、震える体を必死に寝台に押しつけた。そうしていることで、この荒れ狂う世界から隔離されればいいのにと祈った。両手で塞いだ耳からは否応なしに激しい音の暴力が飛び込んでくる。なにか、別のことを考えなくてはと思う。明日の朝になればこの嵐は去って、元通りの日常が始まるのだ。隣人で独り暮らしのお婆ちゃんは大丈夫だろうか。今のわたしみたいに一人で震えてはいないだろうか。この間腰を痛めたと言っていたお婆ちゃん。
他の人の心配なんてしている場合じゃないのに、心臓はばくばく言って、年々小さくなっていくその背中を思い出すと涙が出そうになって、ぎゅっと目を閉じた。

どれくらいそうしていただろうか、突然、階下から聞いたこともないような衝撃音が響いた。家全体を震えさせる震動に、ひっ、と声にならない声をあげた。もしかして雷落ちたのかもしれないと考えたが、そうだとしたら下から響くわけがない。しかし次いで怒鳴り合う叫声が耳に入った途端、頭の中がちかちかした。居間には両親がいる。温厚な二人が喧嘩をするところはおろか、怒鳴るところなんて見たこともなかった。二人が怒鳴りあうなんて想像もできない。何か、とんでもないことが起こっている。確認しなくては、と思うのに、石のように固まった体はただ小刻みに震えるのみで、両耳を押さえた手を引き剥がそうと思うとより一層しがみついた。
激しい雨音に混じって怒鳴り声、物が引き倒される音、縺れ合う音、女性の高い金切り声、全部非現実的な音で、小さなわたしを混乱の渦に引きずり込むには充分だった。

何か、恐ろしいことが、

女性の――恐らく母親の聞いたこともない絶叫を聞いた瞬間、体がびくり、と凄い瞬発力で跳ね上がり、その反動で寝台の下に潜り込んだ。僅かな隙間は子供一人がようやく隠れられるほどのスペースがある。埃が汗ばんだ体に絡みついてとても気持ち悪かった。
次第に階下の騒音は静まっていき、母親の啜り泣く音が徐々に聞こえなくなっても、わたしはずっとそこに隠れていた。金縛りにあったみたいに息をするのも忘れてずっと隠れていた。暗闇をじっと見つめて、瞬きの音すらも気付かれてはならないと目を見開いた。
隣人のお婆ちゃんは大丈夫だろうか。腰を痛めて歩くこともままならない独り暮らしのお婆ちゃんのためにきのうはかいものにいった。みなとのおみせでとれたてのちいさなさかなをすうひきかって、おひるにやいていっしょにたべた。それからごごはふたりでいっしょにつくろいものをしてわたしはおはなのししゅうをおしえてもらいながら――
ぎしり、ぎしりと階段を踏みしめる音が聞こえた。老朽化が進んだ小さな古い家では、子供のわたしが歩いても廊下や階段が軋む。心細くなる夜に、その音が聞こえると、同時に両親の温もりが歩いてくるようで好きだった。だけど、今は違う。

なにか、おそろしいことが――

きっと、そう、父親に違いない。そっと伺うように扉を開いて、「騒がせてごめんな、ちょっと母さんと喧嘩をしてしまったんだ」と人の良いいつものちょっと困ったような表情で首を傾げながら謝ってくるんだ。きっとそうだ。だからこんなことしなくたって大丈夫。ちょっと人より臆病者だからってこんなことしてたらきっとお父さんに笑われる。
そう考えているのに、体は金縛りにあったように動かなかった。閉じることを忘れてしまった両目だけが、暗闇の先にある扉に向いていた。

ぎしり、ぎしり、階段を上りきって今度は廊下を踏みしめる音が聞こえてきた。
それから一つ一つ、扉を開ける音。建て付けの悪い扉がギィギィとないた。小さな家なので部屋数は多くない。何かがおかしいと思った。父親だったら真っ先にわたしの部屋に来るはず。なのに、一部屋ずつ、確認するように足音と扉の音は近づいてくる。ああ、もしかしてわたしは両親とかくれんぼをしている最中だったのかもしれない。なんで忘れていたんだろう。もう怖いから止めよう、そう言ってここから飛び出せばそれで終わるはずだった。しかしわたしはそこからじっと動かなかった。
ほんの数十秒にも満たない時間が、永遠のように感じていた。
ぎぃ、と歪んだ音と共に室内に僅かな光が差し込み、暗闇に慣れたわたしの目が悲鳴を上げたが、瞬きをしたら見つかってしまう、と堪えた。鬼はきっとわたしを探している。

「誰かいるのか?」

父親の声ではなかった。
開かれた扉から鉄臭い臭いが一緒に入り込んできた。両親はどこに隠れているんだろう。いつ、知らない人に鬼を頼んだのだろう。
知らない足はとうとうわたしが隠れる寝台の目の前までやってきた。まだ、見つかっていない。

「まだ温かいな」

知らない男が抑揚のない声音でそう言った。
ああ、しまった。つい数分前までそこで寝ていたせいで、わたしがここにいた証拠が残ってしまっている。心臓が壊れそうなくらい脈打ちはじめる。ただ幸いにも荒れ狂う嵐が窓を繰り返し叩きつける音が全部隠してくれた。何かを物色する音、箪笥を開く音、しばらく耳障りな音が続いた。耳を塞ぐのも忘れ、わたしはただじっと目を見開いていた。乾ききった瞳から涙が零れそうなのを必死に耐えた。零れた音が男に拾われてはいけないと思って耐えた。

「ここか」

知らない顔が間近にわたしの目の前に現れた瞬間に、ついにそれは零れた。知らない二つの獰猛な目は獲物を見つけた時の猛禽類のように爛々と狂騰に見開かれていた。
心臓なんてとっくに壊れていた。からからに乾いた喉は叫ぶことも忘れていた。
ただただ身を竦ませるわたしを引きずり出そうと大きな手が伸ばされたその瞬間、

「やめろ!!」

別の男の酷く焦ったような声が室内に入り込んできた。同時に鉄の臭いがさらに濃くなった。
「お前、まだ…!!」「ふざけるな!!」何かが縺れ合う音、くぐもった声、騒がしい嵐の音、全部が一度に流れ込んできた。とっくに聞こえなくなった筈の町の警報鐘が体中を打ち付ける。もう耳を塞ぐことに何の意味を見出さなかったし、その行為すら忘れていた。

ついに、室内が静けさを取り戻した時、外の雨音だけが無機質にこびり付くように脳裏に響いた。がたがたと窓硝子だけが生き物のように揺れている。
心臓なんてとっくに壊れていたはずなのに、意思の残った両目だけはからからに乾いても開いていた。手の辺りがぬるりと、生温かいものに触れたが暗くてよく分からなかった。何か別のことを考えなくては、と思う。隣人のお婆ちゃんは元気だろうか。明日もまた来るね、と約束したから日が昇ったら一番に確認にいかなくてはいけない。もしかしたらもうずっと腰は治らないかもしれないから、明後日も明々後日も毎日お手伝いに行こうと思う。そうしてもいいかどうか朝食の時にお母さんに聞いてみよう。

それから

それからわたしは







「……さん!さん!!」

肩を揺すられ、瞬発的に目を開いた。
覚醒しきれない思考をそのままに、しばらくぼんやりと天井を見つめて見つめていると、横から気遣わしげな声がかけられる。
さん、大丈夫ですか?」
「…モルジアナ?あ、うん。もう朝?」
「いいえ、夜が明けるまでに何刻かあります。随分とうなされていたようでしたので起こしてしまいました」
自分の声が驚くほどに低く、疲労の色が滲んでいることに自嘲した。
窓の外は暗闇に包まれていて、月明かりが隣の少女の表情を照らしている。
どうやらわたしのせいで起こしてしまったらしい。にも関わらず心配そうに額の汗を拭ってくれた。気が付くとじっとりとまとわりつく蒸し暑さのせいだけではない、異常な量の汗を掻いていた。握りしめた手がぬるりとして、また背筋が凍る。あの夢を見た後はいつもこうなる。
「大丈夫ですか?」
「うん、ごめん、起こしてくれてありがとう」
久しくあの夢はみていなかったのに。参ったな、と大きなため息を吐いた。モルジアナが起こしてくれて本当に良かった。あのまま夢を見続けていたらもっと最悪の目覚めになっていただろうから。ゆっくりと体を持ち上げて、片手で顔を覆う。モルジアナの暖かい手が、わたしの背を静かにさすっている。意識ははっきりしているが、酷い倦怠感が全身を襲う。
「怖い夢を見ていたんですか?」
「うん、昔の嫌な夢をね…何か叫んだ?」
「いいえ、うなされていただけです」
脳裏に残った残像を追い払うように首を横にふると、そっとタオルを差し出された。固まった拳をゆっくりと開いて、それを受け取る。ごわついたタオルは吸収性に優れていない使い古された布だったが、頬にあてるとひんやりと心地よい。それから、もう今夜は寝れそうにない、と立ち上がったわたしに「さん?」と気遣うモルジアナを制して、ごめん、ちょっと夜風に当たってくると断って外に飛び出した。外は危ないですからあまり遠くへ行かないで下さい、モルジアナの声に頷いたかどうかも定かではない。兎に角とても酷い顔を見られたくない、そんなことばかりを考えていた。



わたしとモルジアナはあれから件の親切なキャラバンにお世話になって旅をしている。数ヶ月の期間チーシャンに滞在して、充分に商売を終えた彼らの次の目的地の方角が、モルジアナが目指す故郷までの道程と同じらしい、と聞きつけて、労働力と引き替えに同行を嘆願したのだ。いくらモルジアナの腕が立つとは言え、何が起こるか分からない旅だ、保険を掛けるに越したことはない。始めこそ怪我人は足手まといだと一蹴されたが、もう完治したのだと証明して見せれば、それはそれで驚かれた。あんた実のところは死人なんじゃないかい、と目を丸くされたら苦笑をする他なかった。自分自身も打たれ強さと回復力だけは人並み以上と自信があるけれど、それ以外は平々凡々、若しくは平均以下、という辺り、どうもパワーバランスが偏っている、と常々感じている。足手まといにだけはならない、と誓約を交わして、ようやく許可が下りた。死にかけのわたしを助けてくれた前例もあるし、何だかんだ気の良い人達なのだろう。
そんなわけで、故郷に帰るというモルジアナに同行する形でチーシャンを後にしたのである。
急ぐ旅ではない。オアシス都市に立ち寄り商売をしながらゆっくりと港街に向かっている。実際、モルジアナは働き者で、肉体労働や力仕事では大いに活躍をしてみせ、キャラバンの人々を喜ばせた。中には彼女と歳の近い少女達も何人かいたので、今まで年相応の人間関係を築くことの出来なかった少女はようやく普通の生活に触れることになって、彼女達は不器用なモルジアナでも持ち前の明るさと大らかさを発揮してみせた。また、モルジアナも素直な性質をしているので、打ち解けるのに時間はかからなかった。初めは戸惑っていたけれど、次第に活き活きと目を輝かせる様子は見ていて胸に込みあげるものがある。ようやくモルジアナは自分の人生を歩み始めたのだ。こんなに嬉しいことがあるだろうか。

目指すモルジアナの故郷は海を渡って南の方角、未開の地にあるという。需要のあまりないその地へ行くにはそれなりの大きな港がある都市に行く必要があった。旅をしている間にそう言った都市は何回か訪れた事があったけれど、最近はずっと内陸を旅してきたので、久しぶりに海を目指すせいか知らないうちに感傷的な気分になっていたのかもしれない。

「それにしても随分と寂れた町だな……」

汗で冷えた体を冷たい風が撫でるたびに体を震わせる。夜の砂漠は想像以上に冷える。薄着のまま飛び出してきた数分前の自分を呪いたい。
深夜だと言うのに町には浮浪者の姿があちこちに見られた。
ここに到着したのは日中だったが、昼間だというのに閑古鳥の鳴いた町は今にも沈みそうに静まりかえっていた。
旅の最初の方は良かったが、目指しているバルバッドとの国境に近づくに連れて変化は徐々に現れた。活気のない町、こうして浮浪者が溜まり、人々に生気はない。その中でもこの町は今までで一番酷い状態だった。横を通り過ぎていく虚ろな目をした老人のように、町はからんからんと音を鳴らすがらんどうの箱だった。

「咄嗟にキャラバンのテントから飛び出してきたけど、町中も結構怪しいかんじだなあ…」

そもそもこんな夜更けに一人でフラフラとあてもなく出歩けるような治安ではなかった。自分が今、少年の格好をしていて本当に良かったと思う。子供もこんな時間に出歩いたりしないだろうけれど、女の身であればどうなっていたか分からない。着の身着のまま飛び出してきたので、丸腰のわたしは、せめてもと気を引き締めて周囲を伺いながら、それでも半分意地になって町の中心部まで歩けば、中央には干からびた噴水があった。かつては町民達の憩いの場だったのだろうその場所は、今や水は絶え、中心にあった筈の美しい女神の彫刻は人為的に破壊されていた。昼間通った時になんとなく気になっていて、こうして改めてみると無惨な有り様だった。当時の面影は殆ど残ってはおらず、ただ捨てられたように放置されているのは人々への戒めの意を込めているのだろうか。町のシンボルの変わり果てた姿に胸が痛む。今や胴体の一部だけが残った町の繁栄を司るとされていた女神像は、管理する人間を失った途端に苔生して寂しそうに佇んでいて、まるでこの町を象徴しているようだった。
枯渇して本来の機能を失った噴水の縁に腰をかけると、空には少し欠けた月が昇っている。あと数日後には満月になるだろう。その横で地上を照らす数多の星達の光は、実は何万光年も昔から今へと届けられた瞬きだと知っている。以前、誰かに話たらなんと馬鹿らしいおとぎ話だと笑われたけれど、それが本当のことだと知っているのはこの世界ではわたしくらいなのだろう。今のわたしと、染みついて剥がれない前世の知識は、あの星のように、もしかしたらそれよりももっと遠い何億光年の隔たりがあるのだと思う。

「お坊ちゃん、随分と寂しそうな顔をして空を見上げておるね」

振り返ると、くたびれた様子の老人が立っていた。昼間に一度、すれ違ったかもしれないし、気のせいかもしれない。老人はほとんど掠れた声でわたしに尋ねた。隣に座っていいかね。頷けば一緒になって噴水の縁に腰をかけて、しばらく沈黙が続いた。わたしなんかよりもずっと疲れていて、痩けた頬とくぼんだ瞳は寂しそうだった。漸く口を開くと、先日、お前さんと同じ年頃の孫が死んだ、と言った。

「それはとても、ご愁傷様です…」
しかし、この老人にはこんな安っぽい哀悼の意は、哀れみは、必要ではないのだろう。だけどわたしにはそれ以外にかける言葉がなかった。今の世の中、老人のような人間は珍しいことではない。何時からだろう、初めはこうではなかった筈だ。だけど旅を続けているうちに、わたしのそれは機械的なものになっていた。見ず知らずの他人に心を傾け、磨り減らしていくことにすっかり疲れてしまっているのかもしれない。
「お坊ちゃんは、ここがかつてどのような町だったか知っておるか?」
「昔、一度、訪れたことが」

老人の目が軽く見開かれた。窪んで見える瞳の奥の深い部分が一瞬、光を取り戻したように見えたのは気のせいだろうか。老人は深々と嘆息した。

「そうか、そうか。ならばもうわかっていよう…。ああ、もう随分と昔ののことのようだが、かつては賑わい、栄えたこの町を知っている者がまだいるのだなあ」
感慨深いことだ。まるで時代の流れに取り残され、忘れられてしまった町のようだと、その中に自分は取り残されたのだと自嘲気味に嗤った。それは過去を懐かしむ人の表情ではなかった。
くたびれた老人は皺だらけの手をじっと見つめた。
「忘れられてしまったらもう駄目なのだ。人々の記憶から消えてしまったのなら、それは死と同然なのだ。孫は死んだが、その孫をを覚えているのも今は儂のみ。君の目から見てこの町は死んだように見えるかね」
わたしは答えずに朽ちた銅像を見た。かつての繁栄の象徴。その視線を追って、老人の目が暗く濁った。
「当然のことながらかつてはこの広場も生きておったな。町には人が溢れ、物で溢れ、声に溢れておった。それが町という一つの集合体のあるべき姿なのだろうがね。しかし、町に人がいなくなったら、それはもう町ではあり得ない。殆どの人間がこの町に見切りを付け、出て行った。儂は最後までこの町にしがみついたが、そのせいで孫は亡くなった」

独白は、わたしの応えなど求めておらず、老人は虚空を見ている。
孫は病気だった。しかし病を看る医者はもうこの町にはいないかった。
もうこの町は駄目なのだ。
とにかくもう、全てが遅いのだ。

「君はこの儂を愚かだと嗤うかね」
「しがみつき、希望することは、生きているということです。執着心は足が地についているということ。何かのために必死に足掻き、欲することは悪いことですか?僕にはそれは人として当然の業だと思います。たとえそれが自らを滅ぼす行為だとしても」
「…歳の割には随分と達観しておるのだな。しかし儂には過ぎたことだ。何もかもが」
後悔することは、死んだあの子に対して最も失礼な行為だ。町が死にゆくことも、全てがもう遅すぎるのだとしても。老人は手を伸ばす。そんなことをしても星は掴めないことくらい知っていると言う。だが、その下に可愛い孫が埋まっている。
「だから儂は明日、この町を出ることにしたよ。ある人物が儂にまとまった金をくれると言ってね。その金でこの町を出る」

老人の目はもはや何も映してはいなかった。その目がわたしを捕らえる。

「わかってくれるかね」

「ええ、わかります」

ゆっくりと頷いて、その視線から逃れるように瞼を閉じた。

瞼の奥ではまだ夢の残像が燻っている。




2013.02.24. up.

欲しいのは答えではなく応えなのだと

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