ありもしない答えを知ったふりして

 

扉を通り抜けると大きな都市の真ん中に立っていた。
風の吹きすさぶ音も消え失せた、異様なまでの静けさは人の気配を一切感じないせいなのか。生の息遣いが無いというのに風化した様子もない都市は、厳かにわたし達を迎えた。何も無いのに全てが整然と整っている街は、粛々と物を語ることなくそこに存在しているのだ。信じられる?いいえ、まるで夢の中のような、絵空事のような現実味のないこの都市のことをアラジンは「死者達の街」ネクロポリスと言った。呆然とするアリババくんとは対照的に、自分はどこかで、多分だけどその意味を知っていて、だからとても胸が痛んだ。何も在りはしないのに、全てが在る様に振る舞う空虚な都市は理想とは程遠いこと、そして自分ではどうにも出来ない、半分は生理的な痛みに震えている。漠然とした戸惑いの正体に答えを出したら、二度とここから抜け出せなくなるのではないかと錯覚しかけた心臓が主張をはじめたからだ。予期せずして足を踏み入れてしまった。後悔しているのだ、何を置いても、逃げ出すべきだったのだと。
見上げた空は青いというのに造りものめいた雲がそよいでいる。その空に向かって、大きな竜の石像が轟々と火を噴いていた。

「大丈夫か?」
存外アリババくんは面倒見がいい。支えてくれる腕は見た目に反して逞しく、鍛えられた働き者の腕だった。気遣うように肩に置かれたその腕を離すものかと必死にしがみつくわたしを、ちょっと引いた目で見ている。だって、少しも大丈夫じゃあない。全く、大丈夫ではない、と頑なに首を振ると、アリババくんは益々呆れた顔をして、それでもわたしの腕を振り払わなかった。
おねいさん、もう少しだから頑張ろうよ?」
「そうなんだけど、そうなんだけどね」
おとぎ話では、空を飛ぶ魔法の道具は質の良いペルシャ絨毯であると相場が決まっている。多くの子供達が空想の世界に浸る時、そんな神秘的な魔法道具で一度で良いから空を飛んでみたい、と思うことだろう。アラジンはまるで絵本から抜け出してきたような不思議な力を持つ少年だった。彼は、扉の向こう側を自力で攻略する術のないわたし達をいとも容易く空中散歩へと誘った。事実は小説よりも奇なり、とは上手くいったもので、彼の魔法の品は絨毯ではなく、ターバンだったのだけれど。
自分はかつて、空を飛びたいと願ったことがあっただろうか。わたしは天を仰ぎながら、聞いて欲しいことがある、と言った。
「実はわたし、高いところ苦手なんだよね」
「「いまさらっ?!!」」
今の状況を意識するだけで眩暈がするんです、と俯きがちに。ずっと怪我のせいで具合が悪いのだと思っていたとアラジンが言った。
扉の向こう側が目が回るほどの塔の最上階だなんてどうして想像出来ただろう。「死者達の街」ネクロポリスを一望出来る程の高所に降り立った瞬間、思わず引き返そうかと思った。しかし街に足を踏み入れた瞬間に扉は消失したので引き返すことは叶わなかったのだけれど。一体どういう仕掛けになっているのか、という好奇心よりも、自分が高所にいるということへの恐怖心が勝った。なにしろ、意識的に見下ろしてはいないが、足元に広がる下界は、底が見えない深い闇に繋がっているように思え、腰の引けた様子のわたしを、二人は体力の限界がきたのだと勘違いしたらしい。立ち竦むわたしの背を押して、さあ行こう、と手を引いてくれたのはアラジンだった。
「ばっか!なんでそんなこと黙ってたんだよ?!」
「アリババくんは初対面にも関わらず、わたしに対して一切遠慮がないですよね。わ、あまり動かないで、揺れる…わ、揺れてる!」
「あんたがそんな態度だから…うわ、ちょっ、俺の腕で吐くなよ?!」
顔色の悪いわたしを見てアリババくんが悲鳴を上げた。
「だ、大丈夫、昨日から何も食べてないから」
「それは大丈夫とは言わない!」
こんなところで絶対に駄目だ!我慢しろ!頭を抱えるアリババくんにアラジンが無垢な瞳を輝かせてにっこりと笑った。

「二人はほんとうに仲良しなんだね!うらやましいよ!」

隣のアリババくんが固まった。



* * *



いつの間にか意識を飛ばしていたらしい。
気が付くと朽ちた神殿にいた。白で統一された建築物は長い間人の手に触れていないのだろう、所々が崩れ落ちている。古びた、ただし完全に朽ちてはいない冷たい石畳の上で一人、無防備に寝ていた。冷たく硬い石の上で寝ていたからなのか、それとも単に血液が足りていないからだろうか、未だに安定感のない空中をさまよっているような気がして、自分の三半規管が信用ならない。
置かれた状況が理解出来ずに呆けていると、物々しい騒音に我に返った。頑丈に閉ざされた空間に狂ったように喚く声が響く。地鳴りのように囂々と全身を掻き回すその声には聞き覚えがあった。
体を起こすのも億劫だと全身が悲鳴を上げているけど、全てを無視して寝ていられるほど図太くもなかった。さっきまで一緒だったアラジンとアリババくんはどうしたのだろう。

「…モルジアナ?」

その時、見慣れた赤毛が視界を過ぎった。それから忌々しい声の主も。
男は狂ったような声で少女に呪いの言葉を吐く。その一角だけを切り取ったように、わたしの思考は急激に冷えていった。他には何も動かない景色を捉えて、自分の両目が、彼らの感情の全てを見透かせるのだと錯覚して、瞬きを拒む。
視線の先、幾度となくわたしを助けたモルジアナの手には、領主の剣が握られていている。その先にはアリババくんが、瓦礫に埋もれるようにして倒れていた。
何が起こっているのか、分からない。頭が真っ白になる。モルジアナは苦しそうに顔を歪めていて、アリババくんは瓦礫に体を強かに打ち付けていて、可哀想に、あれはとても痛いに違いないね、と誰かが言った。
王座に君臨することが許されるのは、栄華を約束された王のみである。神殿の中央、倒壊を免れた最上部に鎮座する台座は、かつてこの街の統治者のものだったのだろうか。何処からか射し込む矢のような光を浴びて、再び己の役割が訪れることを待ちわびている。
その台座の上で膝をつき、最期の審判を待つ傾国の王者の様に、アリババくんは驚愕に両目を見開き、対の壁には小さなアラジンが倒れている。しかし台座の下で狂ったように喚く男は革命の先導者には到底見えなかった。
アリババくんの視線の先、彼らの中央に立つのは赤毛の少女だ。「殺せ」と叫ぶ領主に背中を押されるように剣を握りしめるモルジアナの表情には躊躇いがあった。何て異様な光景だろう。見知った二人が争っているのだ。それも本人達の意にそぐわぬ形で、第三者の手によって。見えない鎖が絡みついて、少女は未だ抗う術を知らないというのに、その柔らかい心臓に狙いを定めている。
止めなくては、と思い、咄嗟に石畳を蹴り上げた。が、重力の操り方を忘れた体は気持ばかりが急いで前のめりに膝を突いてしまう。些細な痛みなど気にしている場合ではないというのに、肋骨が悲鳴を上げた。
それは、一瞬の躊躇いと、永遠の後悔を天秤に掛けた一撃だった。
切り取られた映画のワンシーンみたいに、振り上げられた刃がギラギラと光り、ついにその剣の切っ先がアリババくんの頭上に下ろされる。
子供の頭を優しく撫でる優しい手が、仲間を、怪我人を気遣うことができる小さな背中が震えている。誰かを傷つけた分だけ自分も傷つく少女に、絶対にそれだけはさせてはいけないと思った。
「モルジアナ!!!」
咄嗟に手を伸ばしたが、届くはずもなく、その先には剣を振り下ろす少女の背中があるというのにわたしの手は虚空を掴むだけ。彼女はわたしの声に振り返る事はなかった。
しかし、その瞬間、わたしの藻掻くような声は突如現れた広量な光の渦に飲み込まれた。
「!!」
数多の光の粒がみるみるうちに溢れ出し、少女の元へと集う。光は彼女を傷つけるだろうか。止める術を知らず、また止める必要はないのだと知らずに理解した。光の一部が、わたしの頬を撫でた時、言い知れぬ温もりが全身を走ったからだ。
誰もが驚愕に固まる中、不思議な光が意思を持ってモルジアナの剣に収束し、刃は瞬く間に霧散した。
視界の端で、事象の中心であるアラジンが静かにアリババくんの元へ歩み寄り、それを見守るように光はアラジンの周りを舞っている。
何が起こっているの?問いは、みるみる室内を満たしていく光の渦にかき消される。わたしは多分この光の正体を知っている。小さな粒子の塊は鳥の形をしている。伝説のフェニックス、ガルーダ、いいえ違う、これは、ルフ鳥だ。運命の導き。魂の還るところ。
そっとため息を吐いて、ずるずるとその場に座り込んだ。きつく握りしめていた拳をゆっくり緩める。わたしが危惧していたことは全て悪夢の中に沈められたのだ。
柄だけが残ったそれを呆然と見つるモルジアナ。彼女自身も、心も全て、護られたのだ。これ以上彼女の名誉を穢すことなど、例え領主であっても許せはしないのだから。
あっという間にルフ達の光はモルジアナを包み込んだ。
おねいさん、大丈夫かい?」
いつの間にかアラジンに顔を覗き込まれていた。どれだけ情けない顔をしていたのだろうか、頬の筋肉を緩めて応じると、あんたって…と呆れたようなアリババ君の声。
「ああ、あのね、モルジアナは…」
「うん、大丈夫、知っているよ」
優しく頭を撫でられる。助けて欲しいのはモルジアナの方なんだ。そのことをアラジンはわかっていると頷いて、光に拘束された彼女を見上げた。
アラジンが導くのなら大丈夫だと思う。
「ねえアラジン、今ね、生まれて初めて誰かを信じられるって思っているんだ」


アラジンは縋り付く領主に背を向けた。
妄執に支配されているジャミルは野心を打ち砕かれ、脆い虚像で出来た心は簡単に折れてしまった。
意思無く座り込むその姿は愚者の虚しいなれの果てだ。あっけない幕引きは、彼自身の犯した過ちのどれほどを償えるというのか。彼の砕けた心には何の値打ちもありはしないので、犠牲になった人達の為に出来ることと言えば安らかな眠りを祈ることだけだった。
ねぇ、悪夢はようやく終わったよ。モルジアナの動きを封じていた光は徐々に収束していく。ね、大丈夫だろう?満足そうに、アラジンは笑うのだ。

それから、アリババくんの手を取って、冒険の続きをしよう、と言ったアラジンを見て、物語のページはとっくに捲られていたのだと気付かされた。
彼らの長い長い物語のプロローグ。その瞬間をこの目で見届けているなんて夢みたい。でも夢ではないのでしょう?
炎に包まれて現れた魔神はアモンと名乗り、迷宮攻略を宣言した。迷宮に住まう伝説の存在を目の当たりにして、あまりにも夢のような存在に、わたしの心は大きく跳ねた。近付くのも憚られる神聖な気を纏って、わたし達を見下ろしている。アモンは、迷宮を攻略した者に、自らの人智を超えた力と、莫大な富みを授けると言った。室内には一生を費やしても使い切れない財宝が転がっている。人々が命を賭けてでも欲する希望と力、欲望の全てがそこに揃っているようだった。
選ばれたのは当然ながらアリババくんで、彼を導いたアラジンはマギなのだという。マギとは何か。あまり聞いたことのないその名には特別な意味が込められていて、アラジンは特別な人間なのだ。
アモンは、マギは王の選定者であると言う。世界を統べる王を正しく選び、導く者の事。アラジンはこの世界において、誰よりも希有で尊い存在なのだと言う。その友達のアリババくんは魔神に選ばれた。手にした力は王になる素質があることを証明するかのように、世界を揺るがす鍵となる。
目の当たりにしていること全てが、非現実的で、おとぎ話を読んでいるみたい。何よりも、二人を見ていると心が落ち着かない――懐かしい気持ちがほっこりと顔を出しそうになって慌てて意識を反らした。
「おい、どうしたんだよ、ぼーっとして。ちゃんと聞いてたか?俺達迷宮攻略したんだぜ?」
「うん。ほっとしたら気が抜けた」
へらっと笑うと締まらねぇなあと笑われた。今のアリババくんには一番言われたくない。緩みきった顔で財宝を掻き集める少年の横ではアラジンが、笛から出てきたもう一人の頭のないジンとアモンにマギについて訊ねている。自分の正体が分からずに過ごすのはどれだけ辛いだろう。彼自身が抱える大きな問題に応える術がないわたしは目を伏せた。わたしに出来ることなんて本当にちっぽけなことだけだ。
そういえばモルジアナはどうしただろう。慌てて視線を彷徨わせると、彼女もわたしと同様、状況についていけずに呆けている。
見たところ大きな怪我はないようなので安心だ。こちらの視線に気が付いたのか、目が合うとぎこちなく会釈をされた。それを見て、わたしもようやく心の底から安堵の笑みを浮かべることが出来た。張り詰めていた全身の力が抜けていく。同時に自分の今の有り様に悲鳴をあげてしまいたい。
おねいさん、アモンくんが君に話があるみたいだよ」
「わたしに?」
「そうじゃお主」
吃驚して頭上を見上げると、立派な髭を蓄えたジンがわたしを見ていた。巨大なジン2人に見下ろされるのはなかなかの迫力で、なんとなく腰が退けたけれど、周囲はお構いなしでわたしを呼び寄せた。恐る恐る近付いていくと、深く重い声が頭上から降ってくる。
「お主からは不思議な気配がするが」
戸惑うわたしに、ジンは珍しいこともあるものだ、と言葉を続けた。
「お主は自分の役割を理解しておるのかな」
「役割、ですか」
「うむ。人は生まれ落ちた瞬間に役割を与えられるのだ。背負う役割の重さは千差万別、魂の輝きに比例すると言う者もおるが、器とは人となりを如実に映すものだ、違いないだろう。そのことを不公平に感じることもあるだろうが、これは人間だけではない、大地に根を張る草木とて同じように役割を持つのだ。命ある者は皆、世界に触れ、必然と影響を及ぼす。やがて全てを終えた後、ルフに還っていくのだ。お主も見たであろう、先程の眩い光を。あれは己の役割を全うした者達の誇るべき輝きなのだ。
だがお主からは何も感じぬ。本来持つべき生命の形が見えぬのだ。お主は何だ、それではまるで」
ああ止めて下さい。アモンは口を閉ざし、わたしを静かに見下ろした。それではまるで、まるで、なんだと言うのだ。
「残念ながら、わたしは、その問いへの正しい答えを持ち合わせていないのです」
「己自身が理解しておらぬ、と」
「そう捉えて頂いて結構です」
哀れまれるのも、蔑まれるのも好きではない。わたしはほろ苦い微笑を浮かべ、目を伏せた。
「だが、理解せぬことと、理解を拒むことは同義ではあるまい」
アモンが重い言葉を吐いて、嘆息した。責めを受けるのは馴れている。自分自身が感じていた矛盾は、最早空気のように、親しみを込めて共に存在し、焼け付くような痛みを感じることもない。
「全てを知るのは只一人の神のみで充分です。唯一無二の御方がわたしをそのようにし向けたのであれば、それが正しいのでしょう。ジンが仰るように物事には必ず役割が存在し、偶然などあり得ません。わたしは弱い人間なので、ただ受け入れるだけです。
道理とは運命に導かれること。敷かれたレールから逸れるつもりも、ましてやその先に興味などありません」
「正しきことが全てとは限らぬぞ、浅慮は未来を狭めるだけじゃ」
「身の丈にそぐわぬ未来など望みません」
だって、ずっとそうしてきた。その結果の後悔だとしたら、しょうがない、と諦めることが容易くなると信じていたからだ。誇りを持って生きたい、と思ったことがあった。嘆くことはしたくない、これは願望だ。
首のないジンが困ったように肩を揺らした。
「…申し訳ありません。少し言葉が過ぎました」
「よい、お主も難儀な性格なようじゃの。まだ若い身、これからどうにでも変わろう。しかし儂も長いこと世界を見てきたが、お主のように全く視えない存在も珍しいものよ。さてこれが吉と出るか凶と出るか」
アモンはそれ以上は何も言わず、凪いだ瞳でわたしを見た。互いに何かを知っていたとしても、それをこの場で暴くことは利口ではない、と知っているからだ。少なくともわたしは、誰よりも己の真実に達している筈なのだから。足りないのは覚悟だけで。
「あの、わたしのことはいいのでアラジンの相談に乗ってやってください」
「そうだ、まだまだ聞きたいことがあるんだよ!アモンくん、移し身ってどういうこと?僕って一体何者なの?」
「それは…」
気まずい空気が元に戻りはじめたその時、突如として轟音と地鳴りが一帯に響き渡り、直ぐに震動がわたし達を襲った。
「うわっ?!」
「な、なんだ…?!!」
アモンが天を仰ぎ、途端に厳しい表情でわたし達を見下ろした。
「何者かが道を閉じようとしておる。このままでは外へ帰れなくなるぞ」
今までに体感したことのない震動は、古びた遺跡をそのまま飲み込もうとしている。崩落寸前の天井が悲鳴を上げていた。地鳴りが全身を襲い、立っていることが出来ずに膝を突く。
「喚くな。帰るものはこの中に入れ、この迷宮は崩壊する。取り残されれば死ぬるのみだぞ」
神殿の中央にアモンが組んだ魔法陣が出現する。陣の眩さに思わず目を覆ったわたしの直ぐ横の壁が崩れ始める。いくら丈夫な体であったとしても、壁に押し潰されてしまえばひとたまりもないだろう。
「うわっ!」
早くこいよ!」
「腰抜けたの!」
「ばーっか!何やってんだよ」
アリババくんが悪態を吐きながら駆け寄ってきて、財宝と一緒にあっという間に運ばれてしまった。力持ちだね、と驚くと、お前が軽すぎるんだよ、とはにかんだアリババくんはわたしを魔法陣に降ろした。財宝に埋もれながら一息吐くと、大切なことに気が付いて、慌てて立ち上がる。その一瞬で気が抜けてしまったのだろう、足がもつれてふらついた。
「待って!モルジアナが!」
赤髪の少女は、すっかり精神が壊れてしまったジャミルの横で、戸惑いながら立ち竦んでいた。わたしの声にびくりと肩を震わせ、後ずさる。怖がらせたいわけではない、駆け寄ろうとするわたしの肩をアリババくんが掴んで押し止めた。身を捩ると羽交い締めにされ、逃れようと暴れると、折れた肋骨が悲鳴を上げる。
「お前は本当に!いい加減にしろよ、自分でろくに歩けねぇくせに!」
「だってモルジアナが、モルジアナ!」
「おねいさん、はやく!」
さん…」
つり目がちの目が垂れ下がってこちらを振り返った。わたし達の呼びかけに応えるように首を左右に振ると、彼女の足は壊れた領主の方へ向いていた。どうしてどうして、わたしの言葉を代弁するように、横でアリババくんが必死に叫んだ。
「お前は戻らないのか?今まで散々嫌なことされてきただろう!?」
「おねいさん!」
声は届かないのだろうか。
頑なに背を向ける少女の意思を妨げる鎖なんてもうとっくに切れているはずなのに。

「モルジアナ」

希望はどこにでも転がっているじゃないか

望めばどこにだって。

そうやって俯いてたら自分の足しか見えないだろう?顔を上げてみろよ。この丘から望めばなんだって見えるんだ

手を伸ばせば誰かが掴んでくれる。

一緒に世界をみてみないか

その時、瀕死だったゴルタスと言う奴隷がモルジアナの足枷を砕き、領主の業も全て、自分が持って行くのだと言った。喋れないはずのゴルタスが、最期の言葉をモルジアナに託した。愕然と開かれたモルジアナの目に確かな色が宿るところを、わたしは祈るように見た。まだ始まっていない、始まるのは、これから。縋るように、祈る。
「故郷に帰れ、モルジアナ。それが俺の最期の望み」
扉は、開かれたのだ。あとはちょっと勇気を出して足を踏み出すだけ。

さん、私、雨上がりの虹が見てみたいです」

モルジアナはこちらに背を向けたまま、わたしの名前を呼ぶ。
表情は見えない。見えなくても良いのだ、答えは彼女の心にあるのだから。
爆風に混ざって柔らかな風が吹いた。握ったままの手を少しずつ解きながら、彼女が振り返るのを待つ。

「うん、一緒に見よう」
「まだ見たことのない町や花も食べ物も」
「うん、全部、モルジアナ、貴女を待っているよ」
「私は海というものを見たことがないのですが、南の海が透明だっていうのは本当ですか?それから、それから、さん、私――

振り返って

「うん。モルジアナ、帰ろう」

手を差し伸べて、今度こそ彼女の手をしっかりと掴んだ。



* * *



「俺はこの財宝を元手にシンドリアで一旗揚げるつもりだ」
横で二人の熱いやりとりを聞いていた。殺伐とした空気は一変し、わたしは漸く戻ってきた平穏を噛み締めながら、緩慢な動作で手や足にこびり付いた赤茶けた瘡蓋を剥がす。爪の隙間にまで入り込んだそれは、もっと深い所まで浸みてしまっているように感じる。
「シンドバッドドリームを実現するんだ」
アリババ君は力強く宣言した。
「君は勇気ある人さ」と言うアラジンの言葉に頷きながらずっとずっと遠くを眺めた。
二人の夢は遠く、想像もつかない程険しい道のりなのだろう。かつての偉人達が辿ってきたものと同じように。

「で、はなんで泣いてんだよ」
「体中が痛くて目から汗が」
「あんたって本当締まらねぇよな。素直に泣いてましたって言えばいいのにさ」
体中が痛いのは本当だ。自分でも良く生きているものだと感心している。アリババくんに指摘をされて初めて自分の目元が濡れていることに気が付いて、慌てて涙を拭った。少量の涙では流しきれない赤が体中に浸みついている。
「なぁ、も一緒に行かないか?」
「え?」
「聞いてたろ、俺達の話。一緒に世界中を旅するんだよ!」

一緒に世界をみてみないか

瞠目した。目尻から、最後の一粒がぽろりと零れる。それはずっと温めてきた、最後の一粒だ。
思い出が重なると、時々視界がぶれることがある。
あの日、わたしは同じように答えに窮して、そして断った。それは当然の選択だ、と思っていた。優しさと思いやりに流されてしまっては、もっと大事なものを失うことになる、そう言い聞かせて、背を向けたのだ。
「この丘から見える世界がわたしの全てなんだ」と言ったわたしに、寂しそうな顔をして「そうか」と頷いた。咄嗟に伸ばしかけた腕を引いて、跡が残るくらい握りしめた掌が痛かったのを覚えている。どちらが正解であったのか、あの時、迷わずに手を取っていたらどうなっていたのか、今でもわからない。わからない癖に、時々思い出して、その度に俯くのだ。
あの時はそれが唯一の正解なのだと信じたふりをして。そうして他の可能性を全部潰してしまいたかったからだ。
「もしかしてと思ったのだけど」
「なんだい?」
「二人は前にもこの娘を助けてくれた人かな」
わたしの膝枕で丸くなる赤毛の少女の頭をそっと撫でた。少し触れたくらいでは起きないほど深く眠りについている。信じられないほど濃い体験をした。特にモルジアナは精神的にも辛かった筈だ。表情には出さないからわかり難いけれど、誰よりも優しい子なのだ、どれだけ心を痛めたことだろう。
「あー…まぁ成り行きというか。感謝されるほど大したことはしてないけどさ」
照れくさそうにアリババくんは頬を染めた。
「大したことだよ。二人の行動がこの娘の可能性を広げた。暗い足下しか知らなかったこの娘に鮮やかな未来を見せてくれたんだよ。今回だって、二人がいなかったらわたし達は迷宮から抜け出すことすら出来なかったもの。ありがとう」
「おねいさんはこの娘が本当に好きなんだねぇ」
「うん。短い付き合いだけれど、妹がいたらこんな感じなのかなって思ってる。わたしもこの娘に命を助けられたことがあってね、自分に出来ることなら何でもしてあげたいし、絶対に幸せになって欲しいんだ」
「そうなのかい?てっきり二人は昔からの付き合いなのかと思っていたよ」
今は穏やかな寝息を立てる少女の髪をそっと梳くと、さらりと風に流れた。鮮やかで綺麗な赤髪はよく見るとモルジアナのように優しい色をしている。
わたし達は何処へ向かうのだろう。迷宮を抜けて、不思議な陣は光の筋を辿り、その先は誰も知らない。
膝の上のあどけない寝顔を眺め、今は夢も見ずにゆっくりとおやすみなさい。と心の中で呟いた。
「よかったらさっきの話、この娘にもしてくれないかな?あなた達の旅に、良ければこの娘を」
「もちろんさ!実は前にも一度誘っているんだけどね。旅は大勢の方が楽しいだろうね!」
モルジアナと同様に、世界を全く知らないのだというアラジンの目は爛々と輝き、直視できないほどに眩しかった。彼を見ていると、かつて彼のように無垢な目をした少年がいたことを思い出す。あの頃のわたしはどんな目をしていただろう。目を閉じてみても、少しも思い出せそうになかった。今、自分がどんな目をしているのかも想像できない。赤く染まった体だ、月明かりの下さえ憚れる身だ。
「それで、はどうすんだよ」
「え、わたし?」
アリババくんはわたしから目を反らして明後日の方向を向いて、頬を掻いた。彼は照れを隠そうとすると、こうやって反らす癖があることに気が付き、可愛らしいことだと微笑ましい気持ちになる。
「嬉しいお誘いだけれど、わたしの旅はそろそろ終わりなんだよね」
アリババくんに倣い、遠くの彼方を見ながら告げた。わたし達はとても不思議な空間の中を飛んでいる。果たしてどこに向かっているのか、辿り着く先には幸せが待っているのだろうか。
「え?」
「こう見えてももう10年くらい旅をしているんだよ?そろそろ終わりが見えてきたところでね」
「なんだよそれ!さっきこいつと約束してたじゃねーか。破るのかよ」
「もちろん一緒に見れたらいいなって思ってるよ」
だけど彼女の未来とわたしの未来は重ならないのだ。
見送ることは出来ても、共に歩くことはできないのだ。
でも、きっとわたしが心配しなくてもモルジアナは自分で然りと迷わずに進んでゆくのだろう。この二人と出会えたのだから。共に歩む仲間が出来れば、迷わずに進んでゆけるだろう。
「でもまあ、アリババくんがわたしがいないと寂しいって顔をしてるから、前向きに考えてみようかなあ」
「はぁ?!そんな顔してねーよ!」
照れ屋なアリババくんと過ごす時間がとても楽しいと感じているので、彼らとの旅を想像したてみたいと欲が芽生えた。そこに笑顔のモルジアナを想像して幸せな未来。心地よい風だ、地上から、空から、抗えない流れを感じる。アリババくんは必死に顔を背けるけど、耳が赤いのが丸見えだと指摘したら、今度こそ本当にいじけてしまいそうなので黙っていることにした。
そんなやりとりを静観していたアラジンがわたしの名前を呼んだ。

「ねえ、それはおねいさんの鍵が見つかりそうだということなのかい?君は、何のために旅をしているんだい」
「え?」

君の旅は、鍵を見つけることなのではないか、と、アラジンは尋ねる。
アラジンの周りの凪いだ風が、わたしの心を落ち着かなくさせる。
わたしはもう泣いてはいないというのに、視界がぼやけて、滲んだ視界の向こうで、アリババくんが驚いた顔をしてこちらを見ていた。

「僕には、おねいさんも何か見えない鎖に縛られているようにみえるんだ」

そんなこと、わたしが知りたい。
鍵なんてとっくに諦めていたのかもしれない。
問われて気付いてしまった。もう十数年も経つのに、結局自分のことをなんにもわかってはいないのだって。

2013.02.04. up.


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