欲しかったものがある

 

巻き込まれたとは言え、自分が迷宮に入ることになるなんて思わなかった。
しかも入って早々に部隊とはぐれるなんて思わなかった。

「ただの一平民がこんなとこ来ていいわけがないでしょう…」

さらに言うならジャミルはわたしに武器を一切与えなかった。迷宮に挑戦するというのに丸腰だなんてありえない。青ざめるわたしを嘲笑したジャミルは、本当に恐ろしい事に、わたしを人柱ならぬ盾として利用するつもりだったのだ。そもそも大の男ですら尻込みをする危険な迷宮攻略に、連れて来られた女子供はわたしとモルジアナだけ。迷宮と書いて地獄の入り口と読むこの場所に平凡なわたしが乗り込むなんて死地に赴くようなもの。ああ、そうか、死なせに行くのだ。平凡な日常に飽いた領主様は新しい遊び方を覚えたようである。「せいぜい頑張って僕を楽しませるんだな」と歪みきった酷い笑顔で宣った男の性根の腐った様は忘れることが出来ない。
「迷子にはなってないよ、迷子にはなってない」
迷宮なのだから魔物だとかトラップが至る所に仕掛けられているのではと冷や冷やしたけれど、先に行く領主一向が排除しながら進んでくれたお陰で今のところ無傷である。寧ろ迷子が正解だったようにも思えた。ジャミルと一緒にいては、真っ先に盾にされて、今頃生きてはいられなかっただろうから。
迷宮に来る直前にジャミルに痛めつけられた傷は簡単に癒える筈もなく、全くの無傷ではないのだけど。痣だらけの体に負担がかからないようにゆっくりと牛歩で歩く視線のあちらこちらに、新しい犠牲者が転がっている。ジャミルが連れてきた兵士や奴隷の人達だ。中には牢の中で見かけたことのある人も混ざっていた。何度か言葉を交わしたことのある男が、変わり果てた姿で転がっている。胸に去来する吐き気に近い感情は一向に引いていかない。我が儘領主は本当にこれだけの人間を本当に、ただの盾としか思わなかったらしい。行き場のない感情に支配されてしまわないように、とにかく余計な感情を追いやって、体だけを動かした。
最初こそは現実に起こっている惨状に、足が竦み、呆然と立ち尽くすばかりだったが、亡骸に手を合わせる行為を何度も何度も繰り返しているうちに、平静を取り戻しはじめた頭で考える。
わたしが今すべきこと。生き残る為に、すべきこと。
それは何よりも先に出口を探すことだった。力のないわたしにはそもそも攻略する、などという無謀な行為は選択肢にない。安全且つ速やかにこの場を立ち去る必要がある。しかし、そもそも迷宮に出口などあるのだろうか。世界に迷宮が姿を現して、人々の関心は迷宮の謎に一気に集中したが、ほんの一握りの例外の英雄達以外に、無事に抜け出せた者の話など聞いたことがない。一度足を踏み入れたら最後、攻略するまで抜け出すことが出来ない。中途半端な覚悟で挑むことは許されない―――
背筋を冷たいものが伝う。迷宮が迷宮たる、そして恐れられる所以である。つまり、生きて出るには
「攻略…しないといけない…?」
万事休す。
丸腰でどうやって攻略しろというのだろう。戦う術の一切を持たないわたしに出来ることなど、この迷宮の中では赤子の手を捻ることすら難しいことのように思える。
しかも満身創痍で歩きまわってそろそろ体力も限界にきているのだ。ずっと同じような場所をぐるぐると回っているような気もするし、闇雲に歩くのではなかったと後悔しても後の祭りで、自覚した途端に疲労感がどっと押し寄せてきた。ふらふらと壁にもたれると体が急に重力に負けて崩れ落ちた。
「いたたたた…ずっと気付かないふりしてたけど肋骨折れてるかもなあ」
触るのが怖いから確認はしないが、絶対何本か折れている。呼吸をしようとすると不自然に肺の周辺が苦しいのだ。
奴隷になったあたりからここ最近ついていないとは思っていたけれど、まさかこのまま迷宮で終わりとか縁起でもない話が現実になるのだろうか――いやだ、弱音まで出てきてしまった。悪い兆候だ。せめてこの場に誰かいてくれたらいいのに。不確かな心の音は連鎖して、負の感情を煽って絶望を喚びにいく。
此処に足を踏み入れてから、時々過去のことを思い出すのは心細さの現れなのだろうか。だとしたらわたしはとんだ臆病者である。ずっと、同じことをぐるぐると考えて、同じところをぐるぐる回っているだなんて。
全て同じ過去の話だ。忘れたくても忘れられない。鮮烈で、強烈でいてつんと胸を締め付けるかと思えば、断崖からこの身を捧げたくなるような痛みを突き付けてくる。時々、堰き止めていた最後の砦を突き破ってくる感情の流れは、決して穏やかなものではなかった。縛り付けるのに突き放す過去の断片―――
そういえばあの時、あの人はなんと言ったのか。

「欲しいものがあるんだ―――

白昼の告白にただ瞼を瞬かせることしかできなったあの日。雨上がりの昼下がり。ぬかるんだ足下。虹が架からなかったことに少しだけ落胆した。遠くの方から聞こえてくる鳥の鳴き声に耳を傾けるふりをして本当は心臓の鼓動の速さを確認した。
遠くを見つめる瞳はずっと遠くない未来を見ていた。
あの時、わたしは何と応えたのか。恐るべき厚顔で何を言ったのか。
思い出せないのに何故こんなところに来てしまったのだろう。
ため息を一つだけ吐いた。一つだけなら許される。二つ目は絶望的。
今は現状を打破できる事以外の余所事は要らない。
一緒に入ったはずのモルジアナは大丈夫だろうか。迷宮に連れていかれることになってから離ればなれになってそれっきり。あの娘はわたしなんかよりもはるかに強くて実力もあるからきっと無事に違いない。領主にいいように使われているのを想像すると腸が煮えくりかえるけれど、無事でさえいてくれればそれでいい。
「こんな所でへばっていないで、わたしも頑張らないと……あれ?」
寄りかかっている壁には文字が刻まれていた。薄暗い環境に慣れてしまった目をじっと凝らして確認してみると心臓がどきどき嗤い出した。無機質な冷たさに触れた背中がじっとりと汗ばんで気持ちが悪い。迷宮という場所は挑戦者の生気を吸い取って成り立っているに違いない。

「これは…」

トラン語だ。規則的な文字の羅列。異質な過去の産物。
挑戦者が一喜一憂、絶望する様を見て嘲笑うのが迷宮に違いない。
ジャミルは正真正銘の愚か者だ。己の私利私欲、妄執に囚われて失われた沢山のものに気付いていない。沢山の命を踏み台にして、手に入れる地位と名誉の重さを、それを受け止められる器を量り間違えている。
この遺跡の中で、或いはそれぞれの心の中で、迷った先に答えを見出した者は、その先に何を見るのだろう。
無性に泣きたくなった。トラン語が刻まれた壁をゆっくりとなぞりながら、もう昔ほど泣き虫ではないのだ、と言い聞かせる。でも、無性に帰りたいのだ、それは何処へ?わかっている癖に。壁はざらついていて、なぞっている間に、自分の指も壁のように固くなっていく気がする。泣くべきではない、しかし、笑うべきでもない。ひび割れた唇を横一直線にくい、と結んで、額をこつりと壁に押し当てた。冷たく、固い。

迷宮は、人の本質を暴く。
人を前にして、パンドラの箱は開かれる。




* * *




少年は、友人であるアラジンを救い出してから、あのいけ好かない領主を欺いて見つけた正しい道へ急いだ。領主達に追いつかれる前に、あの扉を開けなくてはいけない。扉を開けるにはアラジンの力が必要なのだ。アラジンはとにかく、良く分からないが不思議な少年だった。本当のことを言うと、今まで散々迷宮を攻略してやる!と豪語していた癖して、心のどこかでは自分一人の力では攻略できないことを知っていた。そして、なんだかんだと言い訳をして腐っていた自分に、此処に来る切欠を与えてくれたアラジンの存在がこんなに大きなものに育つなんて思わなかった。いとも簡単に悩みや不安を吹き飛ばせてみせたアラジンと二人でなら、難攻不落の塔を攻略出来るかも知れない、不可能も可能に出来るのではないか、と思ったのだ。
少年の名前をアリババ、という。少し前までしがない商人だった彼が、古代王朝の秘宝が眠るという遺跡に足を踏み入れたのは時期尚早だと誰もが思っているし、自身も浅はかであると誰よりも感じているが、進むのならば今しかないのだ、と予感した。
芽生えた希望と不思議な高揚感に比例して歩む速度が速まる。

「アリババくん、あの扉かい?」
「そうだ、あれが…」

頷きかけて加速していたスピードが急速に下がりはじめた。
大きな部屋の中央に鎮座する巨大な扉。その向こう側にある命運を体現するように佇むその様は、今まで見たことがない荘厳で盤石な神秘を纏い、栄華の象徴のような装飾は見る者の心をその先へ駆り立てる。最初に見たときはただ圧巻の一言で、暫く足が棒のように立ち尽くした。ああやっとここにたどり着いたと言う興奮がやって来たのはそれから少し経ってからだ。
「ねえ、あそこを見て、誰かいるね」
「そんなまさか!俺の他にここに辿り着けた奴がいるわけ…」
アラジンの言葉を否定しかけたアリババは自分の目を疑った。自分達よりも先に、ここに辿りつけた人間なんているわけがないと思っていた。けれども、目指す扉の足元に、在るはずのない人の影は確かに在った。目を凝らすと、其れは壁に蹲るようにして背を預け、微動だにしない。もしかして既に死んでいるのだろうか――
二人は恐る恐るその謎の人物に近づいた。
「わ!この人、女の人だ!」
「そんなわけあるか!ここは迷宮なんだ…ぞ?」
アリババは再び目を見開いた。
視界に入ったのは、近づけば、どんな屈強な男も恐れをなす迷宮に不釣り合いな華奢な体。どこかに傷を負っているのか、自身を守るように丸く縮こまる姿は胎児のようにも見える。
「ああ良かった、息はあるみたいだよ」
「アラジン!あんま不用心に近づくな!」
先程、ジャミルと対峙した時に出会った赤毛の少女のような例もある。ゴール直前で気を抜くわけにはいかなかった。これは罠なのか?疑心暗鬼のアリババに構うことなくアラジンは何の疑いを持たずに、あっさりと目の前の人物に触れてみせるので、思わず舌打ちをした。
「おいアラジン!」
「このおねいさん、凄く傷ついてる…ボロボロだよ。何があったんだろう」
「ボロボロって…ここは迷宮だからな、満身創痍だって不思議じゃねえだろ」
「それにしたって…」
お人好しのアラジンが、血の気の無い頬に手を伸ばした時―――
「うわっ!!」
唐突に二つの目が開かれた。
予期せずして至近距離で見つめ合うことになった二人は互いに瞬きをした。アラジンはその二つの色が意外にも綺麗な碧だったことに戸惑いながら、おねいさん、綺麗な目をしているね、と的はずれなことを口走って――相手もそれは同じだったらしく、突然目の前に現れた二人組に目をまんまるに見開いたままのけぞった。
「あ」
「いっ」
不自然な格好で仰け反った先は、恐らく鋼よりも固いその扉である。勢いよく後頭部を打ち付ける小気味よい音が響いた。
「ったああああああい!!!」
「………」
「おおおおおねいさん大丈夫かいっ?!たんこぶが!大きなたんこぶができているよ?!」
「…っ大丈夫、絶望的に痛いけどきっと大丈夫…それよりも川の向こうにお花畑見てた!あっぶないたたたた」
「えええええ!!絶対にそれは大丈夫と言わないよ!!」
再び蹲る女と慌てるアラジンを見ていると、何かがおかしい気がした。絶対なんか違う。違和感の正体を確かめようとアリババは警戒を解かずに二人の元へ足を進めた。
「とにかく落ち着けよお前ら」
「だってアリババくん、おねいさんはこんなに血まみれなんだよ?!」
蹲っていた時は気が付かなかったが、間近で見ると、その女は異様なくらい赤かった。鼻につく鉄の臭いで、赤の正体が血であることには直ぐに知れた。髪の先あら爪先まで、全身を意図的に赤く染め上げたと言ってもおかしくはない姿に、違和感のの正体はこれなのか?と脳裏でけたたましく警報が鳴る。一体どのようにしたらこれほどまでに染めることが出来るのか、元の色が分からなくなるほど血にまみれた姿は見れば見るほど『不自然』だった。
不自然な赤を纏いながら、女は困ったように笑った。頬や額、髪にまで付いた血はすでに固まり、赤というよりは赤茶けていたが、執拗に、こびりつくようにそこにあった。碧い瞳が鮮やかに見えるのは、そのせいだと気が付く。兎にも角にも存在から全てが不自然なのだ。
「ありがとう、君、これはわたしの血じゃないから大丈夫なんです」
「は?!」
なんだそれ、もっと危ねぇじゃねーか!どうやったらそんな全身真っ赤に染められるんだよ!アリババの心の内を悟っているかのように、女は笑った。片頬が痛々しく腫れ上がっているので歪に引きつっていたが、笑っているのだと認識できた。壮絶な風貌にも関わらず、目元が柔らかく緩んでいるのが印象的なのだ。あれ、でもやっぱり大丈夫じゃないのかな?痛む頭をさすりながら、首を傾げる。地獄から這い出てきたみたいな格好してる癖にその仕草だけが妙に人間じみていた。おねいさん、絶対に大丈夫じゃないと思う。アラジンがはらはらと瘤が盛り上がった後頭部を撫でてやる。
女は、アリババの困惑した視線をに気が付いて、ああ、と呻った。
「ここに来る途中に沢山の人達が眠っていたでしょう?これは彼らの生きた証」
迷宮に張り巡らされた罠は挑戦者にまるで容赦が無かった。至るところに無機質に転がった、犠牲者達の姿は嫌というほど脳裏に焼き付いている。
「そう言えば…死んでいた人達は皆綺麗に並んでいたけど――もしかして全部おねいさんが?」
「だってね、無力なわたしが彼らの尊い命に敬意を表すにはそれ以外に思いつかなかったから。そう考えるとこの色もなかなか」
満更でもないと頷く女はやはり異様に映った。全身は赤に染まり、瞳の色だけが碧かった。
確かにアラジンの言う通り、道中目にした亡骸は、殆ど原型を留めていないような者まで全て綺麗に並べられ、衣服は整えられ、胸の前で両手を組むようにして横たえられていた。それは明らかに人為的な手が加わえられた痕跡だった。あの全てをこの華奢な女がたった一人で供養して回ったのだとしたら、一体どれだけの労力を要しただろう。亡骸の殆どは屈強な男達だったはずなのに。
「嘘だろ…」
アリババは無意識に呟いていた。この状況でどうしてそんなこと出来るんだよ。
「彼らは自分の意思でここに来たわけではないんだよ。それなのに家族や誰にも看取られることなく、こんな悲しい運命を負わされるなんてあまりにも残酷だと思ったから。彼らの身体を家族の元に帰してあげることはできないから、せめてわたしだけでも弔ってあげただけ。特別なことでも驚くようなことでもないでしょう」
それにね、こういうの、馴れているんだ。女は自嘲気味に笑う。相変わらず、「笑う」と表現するには歪なそれは、今度は僅かばかりだが寂し気に映った。
「おねいさんは優しい人なんだね」
「ただの自己満足は優しいとは言わないですよね」
「それでも、彼らはおねいさんに感謝をしているから「優しさ」は成立するんじゃないかな」
アラジンの言葉に、女は瞬きをした。もしかして、もしかして、と呟いた。喉も痛めているのかもしれない。声は掠れて聞き取り難い。
「君は見えるの?」
「見えるよ。おねいさんの周りは不思議だけどとても温かいね」
そう言ってアラジンはにこりと笑った。女は肩の力を少しだけ緩めて、しばらくアラジンをじっと見つめ、本人も無意識なのだろう、眉間に皺を寄せながら「そっか」と呟いた。その声はやはり寂しげで、零れた瞬間に宙に溶けて消えた。かと思えばアラジンの頭を撫でて、そこら辺にいる女子供と同じ、屈託のない笑顔を見せる。なんだこの女。アラジンも変わっているが、こいつもなかなか変な奴だ、とアリババは思う。初対面且つ衝撃的な出会いだというのに、アラジンはあっという間に気に入ったようだ。いや、アラジンは誰に対してもこんな感じだ。どうしてだろう、一体、どうしたことだろう、二人のやりとりをただ見ているだけで、急に得体の知れない疲労感が襲ってくる。この空気読めない感じ!そっくり!この状況で和むな!埒が明かない二人のやりとりに、一刻も無駄にできない状況であることを思い出したのはアリババだった。
「と こ ろ で!あんたはどうやってここに?」
「ああ、何か不自然な像をいじったら偶然ここへ来てしまったんだよね」
「もしかして君も挑戦者なのかい?」
「まさか。そんな無謀なことするわけないじゃない!ただ巻き込まれただけ」
そう言って女は視線を自分の足下に落とすと、細い足首でじゃらりと音が鳴った。
「足枷…もしかしておねいさんも」
「そう。あのだだっ子領主のお守りで来ましたよ。こんな事さえなければこんな危険な場所近づきもしないわ。お守りといってもあっちはわたしのことを本気で殺すつもりで連れてきたみたいですけどね。ご覧の通り、丸腰で放り込むくらいだもの。だから金髪の君、安心してね、丸腰だから君達に害を為すどころか、何も出来ないよ。もっとも武器を持っていたとしても、使い方を知らないから、持て余すだけだったけれど」
「おねいさんは巻き込まれただけ…?」
「そう。ここにはわたしの欲しいものもないしね。…望むものも、望まれるものも。もちろんきみ達の道を阻むつもりもないし、邪魔する気力も体力も実力も欠けてるからそんなに睨まないでほしいです」
真摯に向けられた視線に、アリババはきつく握っていた拳を少しだけ緩めた。だけどさ、そんな言葉を簡単に信用するほどお人好しじゃないんだ。アラジンはとっくにそいつに気を許しているから、俺が正しい対応をとってみせるべきなのだ、と言い聞かせる。正しく判断をしなければ、何もかも信用ならない迷宮の中で少しでも間違えたとしたら、次に命を落とすのは自分達になるのかもしれないのだから。
女は緩慢な動きで身を起こすと、扉に手をついて立ち上がった。その一挙一動に不審な点がないか目を凝らす。
「大丈夫かい?とっても顔色が悪いよ」
血塗れでわかり難いが、女の顔はほとんど死人のような土気色をしていた。淡々と話す姿からは想像出来ないが、体だって僅かだが小刻みに震えている。アリババが咄嗟に手を差し伸べかけた手を慌てて押し戻した次の瞬間、女は信じられない言葉を口にした。
「ありがと。大丈夫、肋骨が2,3本折れてるだけだから」
「は?!」
「2,3本って全然大丈夫じゃないじゃないか!ふらついてるし!」
「これは武者震いと言って」
「んな死にかけの武者震いあるか!」
この女は馬鹿なのかもしれない。酷い有り様にも関わらず、脳天気に笑って見せる。僅かに眉間に皺が寄っているのは、やはり苦痛を堪えているのだろう。
「それともあんたもあの赤毛の奴と一緒で人間離れした能力でもあるのかよ?」
「君達はあの娘に会ったの?どこで?!」
「ああ、あの領主サマと一緒だったぜ」
「怪我は?!」
「ピンピンしてたな。そんで俺達に襲いかかってきて散々な目にあったんだ。あいつ凄え強いな。…知り合いなのか?」
血相を変えてアリババにに飛びついた女は、暫く放心したように立ち尽くすと何度か目を瞬かせてアリババの問いにうん、うん、と頷き、大きく深いため息を吐いた。
「良かった…」
「ちょ、おい!」
気が緩んだのか、ぐらりと傾く体を慌てながらも、今度は躊躇わずに支えた。肩を掴むと余りの細さに驚く。少し力を込めただけで、あっさりと折れてしまいそう。見た目以上に、いや、見た目通りに満身創痍で疲労も溜まっているのだろう。今まで丸腰で、しかもたった一人でここまで来たのだという。それは尋常ではない気の張り様だったに違いない。
「おねいさんは本当に変わっているね。自分の事には無頓着なくせに他の人の事には一生懸命なんだから」
「それは違うよ、わたしはいつも自分のことばかりだもの。呆れるくらい、他人を思いやることが出来なくて、傷つけてばかり。
…そんなことより、その娘がどの辺りにいたか教えてくれる?」
「おいおい、その体でどこにいくつもりだよ!あんたもこんな仕打ちをされても領主サマに逆らえないっていうのかよ」
「幸いにもわたしは新米奴隷なのでこの足枷にはそれほど頓着してない。他の人達のようにこの鎖が価値のあるものとは思えない。もとより従うつもりもなかったし。わたしが助けたいのはあの娘だけだから安心して教えてくれるかな?」
支えていた筈の体が今にも掴みかからんばかりの勢いで意気込んでいるが、アリババがかろうじて支えている手を離したら、立つ事もままならない自分の状況を理解しているのだろうか。この状態であの危険な迷宮に引き返すだなんてどうかしてる。アリババより少し低い位置にある頭に、さっき出来た大きな瘤が見えた。想像通りの、少年の力でも簡単に折ってしまえそうな華奢な体には、骨折の他にも沢山の見るに堪えない傷があるようである。正気とは思えない格好をしている癖に、蒼い目だけが誠実に、力強い意志を持って、真っ直ぐにアリババとアラジンを見た。
今更だが、アリババはこんな脆い人にどう接したらいいのかわからなくなり、体中が熱くなるのを感じた。死人のような姿をしているくせに触れる体は温かく、生きている者の鼓動がはっきりとわかる。ただこの手を離してはいけないという感情が強く浮かんだ。
「教えてくれないのならいいです。自分で探しにいく」
「え?!」
痺れを切らしたのかありばばの手をふりほどこうと身をよじる。
「おねいさん、そんなことしなくても君の友達はここに来るよ。だって目的は一緒だから、彼らもこっちに向かっている筈だろう、ね、アリババくん?」
「ああ!そうだった忘れるところだった!こんな悠長なことしてる時間なんてないんだった!アラジン、あいつらに追いつかれる前に急いでこの扉を開けねぇと!」
「うん、だからおねいさんもひとまず一緒にいこうよ」
アラジンの一言で、ぴたりと暴れるのを止めた。
そしてアリババの方へ向き直るとまた目を瞬かせた。この仕草、この人の癖なのかな。ちょっと小動物みたいだ、と思う。そうすることが当然のように、アラジンを凝視した。
「ほんと?」
「ほんと。あいつらにここの居場所もバレてるからなぁ」
「じゃあ連れて言って下さい」
素直にお願いしますと頭を下げ、急に大人しくなったと拍子抜けしていたら、今度は「いたたたた」と呻きだした。緊張の糸が切れたのだろう。重傷に違いないというのに、自分の痛みは後回しにしていたなんて器用なのか愚か者なのか判断に困るというものだ。
「…あんたってつくづくお人好しだなぁ」
です。というか、あれ?あなた達はだれ?」
「「いまさらっ!?」」
本当に今更だよねえ、と朗らかに言う。聞くタイミングを逃したのか、若しくは名乗る必要性を感じなかったのか、は曖昧にはぐらかした。
「あはは!おねいさんって面白い人だね!僕はアラジンだよ、こっちは友達のアリババくんさ。よろしく、おねいさん!」
は驚いたように目を丸くして俺達二人を交互に見た。
「ア、アラジンにアリババ…?」
信じられない、そう、そんなんだ…何かブツブツと呟いてから急に項垂れる。
変わってるけど悪い奴ではないのだと思う。これだけ特殊な出会いだというのに緊張感が抜けていくのはアラジンの影響なのか。そのアラジンといえば「お人好しって言ったらアリババくんと一緒だね!」と嬉しそうにとんでもないことを言い出したのでアリババは少しだけ慌てた。





2013.01.28. up.


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