雨降りて誰かが悲しい夢を見る

 
村を出てから十年と少しの月日が流れた。
目まぐるしく流れて行ったその間、休むことを忘れた渡り鳥のように国から国へと飛び回り、数多の人々の生活や時代を流れを目にしてきた。それは一方の記憶のどこにもあてはまることなく、此処が全く別の世界だということを実感させられた。旅に出る目的の一つが、無知な自分の知識と見聞を深めることだったから、それなりに充実した日々はあっという間に過ぎていって、何年経っても一人で見知らぬ街にぽつりと佇んでいるが、不思議と寂しくはなかった。そうであると思いたいだけかもしれないけれど。
孤独を感じる余裕などない程に未知の世界は眩く新鮮で、そして残酷で美しく、わたしは何かから追われるように、逃げるように無我夢中で飛び回った。気が付けば現実を知るための旅が、現実から逃れるための旅になっていたのだから皮肉な話だ。
前世の記憶からくる価値観の違いに、しばしば頭を悩ませることもあったけれど、異質とも言えるその知識達が、物事を慎重且つ客観的に捕らえる楔の役割を果たしてくれたので、結果的に良い方向に捉えることにした。頭の片隅にあっても手を差し伸べるくらいの歩み寄りが出来るくらいには。
平和呆けの嫌いがあるわたしが、この物騒極まりない世界で五体満足でいられたのは神の思し召しか、それともこの慎重過ぎるくらい慎重ないつまでたっても垢抜けない性格の賜物なのか。どちらにせよ、その幸運はここにきて尽きたわけだ。残念なことに。

「そもそも今までが奇跡みたいなもんなんだよね」
姉ちゃん、さっきから百面相して気持ち悪いよ…」

見てはいけないようなものを見るような微妙な表情を浮かべた男の子がこちらを見ている。
小さい部屋にぎっしりと人が詰められている。そこに集められた人々は粗末なボロ布を纏い、足首には忌まわしい金属が光っていた。目の前の小さな男の子にさえ例外はない。もちろんわたしにも。
いわゆる奴隷小屋である。数日前、とある街に滞在していたわたしは、その日珍しく体調を崩していて、いつもの慎重さを欠いていた。この世界では、ちょっとした気の緩みがその後の人生を大きく揺るがす事態を引き起こすということを嫌と言うほど知っていたというのに、これは思わぬ失態だった。一瞬の隙を突いて、奴隷狩りに襲われたのだ。
奴隷で栄えている街だと聞いていた。奴隷は主に遠くの国から送られてくることが多いが、時々わたしのように身よりのない旅人を襲う奴隷狩りが当たり前のように世界中で大手を振るっている。非力なわたしが最も気を張っていたのが奴隷狩りと盗賊だと言うのに、人生とは思うようにはいかないもので、碌に抵抗も出来ぬまま、今までの人生が冗談みたいにあっさりと捕らえられ、自分の与り知らぬところで競売にかけられ、狭く暗い部屋に押し込められた。
話には聞いていたが想像以上に劣悪な環境。まるで家畜同然の扱いだ。
まだ自分の置かれた状況を完璧に理解しきれていない小さな子供の純粋な好奇心に、にこりと笑顔で応えると、狭い奴隷部屋を見渡した。
全員が疲れ切ったように顔を伏せ、理不尽な悪意に歯を食いしばり、またそれすらもできない人々は長い夢の終わりを願うように目を瞑っている。

「ああ、モルジアナ」

その中に一人の少女の姿を見つけると、周囲をかき分けるようにして近づいた。
赤髪の少女とはわたしがここに来てから知り合った。
捕らえられて早々、高熱を出して倒れたわたしを献身的に介護してくれた心優しい少女である。自分の保身だけで精一杯である奴隷達の中で、彼女のわたしへの施しは尊い行いだった。モルジアナの看病がなければ、役に立たない病持ちの奴隷などとっくに処分されてこの世にいなかっただろう。体が回復した後、感謝の言葉を述べる以外、何も持たないボロ布と同等のわたしに、御礼を言われたのは初めてです、と首を傾げた少女は、本来ならば青春を謳歌しているべき年頃の女の子なのに、この数日間、彼女が笑っているところを見たことがない。
声をかけると、礼儀正しいモルジアナはわたしにでさえ律儀にお辞儀をした。
「大変だったって聞いたよ!砂漠ヒヤシンスに襲われたんだって?大丈夫?怪我はないの?」
「ご心配ありがとうございます、さん。幸いにも強くて親切な方が助けて下さったのでこの通りピンピンしてますよ、それに私は他の人よりもずっと丈夫に出来ているんです」
喜ばしい報告にも関わらず、感情を出すのが下手なモルジアナの瞳が困惑気味に揺れた。それは本当に些細な感情の機微だったが、目聡く察知したわたしの心は大きく跳ねた。彼女は感情を殺しているのではなく、表現する方法を知らないのだと気付いたのはいつの事だったか。
もちろん彼女にだって心を悩ませる事が当たり前にあるのだというのに。モルジアナがモルジアナとして生きることを抑圧する権利など、何処にも、誰にもありはしないのに。そっと頭を撫でる。モルジアナは不思議そうにわたしを見上げた。優しくされることに慣れていない不器用な少女の笑う姿を見てみたいと思う。自分の考えを口にすることに馴れていない少女が再び口を開くのを、辛抱強く待った。
「…実は、あの方達に助けて頂いたのはこれが初めてではないんです」
「前に聞いた足枷を断ち切ってくれたっていう…?」
「そうです。2度までも自分達の立場も危険も顧みずに私を助けて下さったんです。どうして奴隷の私なんかにここまでしてくれたのかがわからなくて」
困っている。
いつもの必死で背伸びをして自分を殺している健気な姿が一転して、年相応の女の子に見えた。
自我が芽生え始めたばかりの幼い頃から奴隷として虐げられてきたという。こんな小さな体からは想像もつかない身体能力を持つ彼女の力は重宝され、わたし立ちの主であるという領主ジャミルに一目おかれる存在。
人の心は環境に殺されるというが、モルジアナの心はすっかり理不尽な圧力に縛られてしまっている。
奴隷制度。人の呪われた業の象徴だと思う。自分の地位や権力を誇示するために、誰よりも優位で在りたいが為に、或いは富の象徴として。他者を虐げることによって己を確立することしかできない人間の最たる例がジャミルだ。執拗なまでに権力に固執し、征服欲に駆られる彼も時代の象徴なのだろう。人は、自分より下位の存在を見下すことで自分の価値や立場を計る生き物だ。わたしだってそうだ。村を出て初めて奴隷を見たとき、恐ろしくて、残酷な現実に吐き気を覚えた。胃の中の全てを吐き出したところで、体のもっと奥で燻る、どろどろのもっと汚い感情の全てを押し出すことは敵わなかった。それは体内に収まることで、ずっと自身を戒めておく為に留まっていなければいけないのだ。目の前の現状をどうすることもできない自分はその時点で共犯者で、質の悪い偽善者で、心のどこかで「自分はこのような酷い仕打ちを受ける奴隷でなくて良かった」と安堵していているのだから。他人にその役目を押しつけることで自分はのうのうと不自由なく人生を謳歌している。なんと汚いことか。汚い自分はモルジアナの純粋な困惑を正面から受け止める資格はないのだと思う。

「小さい頃ね、雨が大嫌いだったんだ」
「え?」

モルジアナは顔を上げて目を瞬かせた。
「モルジアナよりずっと小さい頃だよ。海の近くの小さな村に住んでたんだ。家の近くにお気に入りの丘があって、毎日のように通ってた。そこで空と海を眺めるのが大好きだった。雨が降ると丘には行けないでしょう。雨が降るたびに不機嫌な顔をしてたみたいで、そんなわたしを見ては幼なじみは笑ってた」
わたしは目を閉じて、幾度となく刻みつけたその記憶の中の景色を思い浮かべた。いつまでたってもその空は青く、海は蒼かった。心地よく走り抜ける海風に乗って、雨の香りがする、と幼なじみが言い出すと、途端に不機嫌になって、今すぐにあの雲を追い返すように、とお願いする。俺は魔法使いではないよ、とカラカラ笑って、結局しばらくして予告通りに雨が降ると、わたしの横に寄り添うように、じっと雨が過ぎ去るのを待つ。
「けれどもこうして旅に出るようになって知ったのは、雨が降ると幸せになれる人達がいるってこと。彼らはね、泣いて喜ぶんだよ、雨が降って「ありがとうございます」って泣くの。チーシャンはオアシス都市だけど、砂漠の民に雨は貴重な宝だからね」
突拍子もない話に、モルジアナは真剣に頷いてくれた。生きるために流す涙と、歓びのために流す涙。両者にどれほどの違いがあるだろうか。
「面白いよね、雨ひとつで、泣いたり笑ったり怒ったりできるんだから」
さん…」
「ねえ、モルジアナ。人の価値って誰が決めるものなのかな」
モルジアナの小さな手をそっと取る。驚く少女の冷たい手を握る。温もりを知らない少女の幸せな姿を見てみたいと思う。わたしの手は、少女の手よりも冷たいので、温めてあげることは叶わないけれど。
「わかりません。私は子供の頃から奴隷だったので…」
「領主が決めるもの?そもそも誰かに決められるものなの?あなたとジャミルの違いってなに?」
「ジャミル様は領主様で私のご主人様で、私はただの奴隷です」
予め用意されていた答えのように、はっきりと言い切るモルジアナ。人権や、権利のみならず心まで奪ってしまう枷は、呪いのように未来をも絡め取っていくのだろう。奴隷達は、未来を望むことすら、知らない。
「モルジアナはこの手で砂漠ヒヤシンスから子供を助けようとしたんだよね。自分の身を投げうってまでして助けたいって思ったんだよね。それと貴女を助けてくれた彼らの行為と何が違うのかな」
「それは…」
「奴隷だから助けて貰う価値がない?ねえ、価値って誰が決める?何も違わないんだよ。貴女が小さな命を無償で助けたいと思ったように、わたしが倒れた時助けてくれたように、貴女を助けてくれた人だって同じ。命は皆平等だって知ってるから助け合うんだよ。見捨てていい命なんてない。優しくして、優しくされることに身分なんて関係ないんだよ。
わたしにはこの手がとても尊い。誰かを守る優しいモルジアナの手だよ。自由に羽ばたける手がね、貴女の手なんだ」

優しいモルジアナ。
誰にそれを阻む権利があるというのだろう。

「枷に捕らわれないで。貴女には沢山の選択肢がある」
「…それでも私は、奴隷です」

足枷を外す術を知らない奴隷なのだと俯いた。

「わたしが雨が尊いものだと知らなかったように、モルジアナにも知らないことが沢山あるよ。雨上がりの露草を弾いて歩くこと。日だまりの下のヤスミンの香。夕暮れの影を追って走る道。願えばどこにでも在るのよ。ささやかな幸せを望むことは悪いことなのかな?奴隷が幸せになる権利がないなんて嘘でも思わないで。
鳥籠の中で育った鳥は、籠の扉が開いていてもそこから逃げないって話を知っている?彼らはその身に立派な翼があるのに飛ぶ術を知らないから。つぶらな瞳は外の世界が自分にとってどれだけ美しいかを知らないから。
ね、モルジアナの扉はもう開かれているのかな」

扉を叩く音は聞こえているだろうか。
モルジアナを助けてくれた彼らは、扉の鍵と成り得るだろうか。

我ながら随分と綺麗事を言っていると思った。
生温い世界で育ってきた記憶が全身で拒否反応を発する。人はみな平等であるべきだとずっと教わってきた。正義で綺麗事だと思っていた。ここで世界を知って、それがもっともっと綺麗事だって知った。育ってしまった人の業は呪いとなって牙を剥く。人の欲は罪深い。しかし欲がないと人は生きていけない。何かの犠牲のもとでわたし達は生きていく。ひとつ踏み外すだけで、何が正しくて、何が誤りかが見えなくなってしまう危うい綱渡りを誰もが歩まねばならない。
だからこそこの時代から奴隷制度が完璧になくなるのは恐らく無理だろう。
ここチーシャンも例外ではない。領主であるジャミルは奴隷を扱うのが本当に上手い。チーシャンがここまで繁栄したのは、彼が集めた奴隷社会が背景にあるのだからなんとも皮肉な話だ。ジャミルは自分に決して刃向かわないモノをつくる術を知っている。自由になる希望を踏みにじって更に上から押さえつけ、牙をは全て叩き折る。心を折ってしまえばいい。周到に狡猾に容赦なく。少しのためらいは反乱を招く。奴隷は他者からの圧倒的な支配によって成立する。
わたしが今言っていることはモルジアナにとって重荷になるだろうか。希望ばかりを植え付けて彼女を傷つけるだろうか。口だけのわたしの言葉は無垢な心を迷わせるばかりだろう。
だけど、モルジアナやここにいる人達皆に綺麗な世界のことを知ってもらいたいと思った。ああ、それこそ偽善だと笑ってくれてもいい。



「モルジアナに変なことを吹き込むな」

瞬間、痛みを感じる前にわたしは離れた壁に吹き飛ばされていた。

「ッ…!!!」
呻くより早く再度腹部に激痛が走る。それが男の足によるものだと認識すると、冷たく硬い壁に押しつけられ、何度も何度も執拗に蹴りつけられた。周囲が息を呑む気配、しかし助けの手は伸びない。自分の体が命を持たぬ物体のように思えてくる。
仰向けにされ、脇腹を踏みつけられると呼吸が出来なくなった。容赦のない暴力に顔を顰め、口の端から呻き声が漏れると、周囲の空気が一瞬にして凍りつく気配を感じる。いよいよ死んでしまうのではないか、彼らの危惧は、体中に走る激痛の上を滑っていくだけで、痛みを和らげる手助けに成りはしない。頭上には、唯一空気の読めない男が蔑みの篭もった歪んだ目でわたしを見下ろしている。
モルジアナの手が、一度、わたしに救いをもたらそうと伸ばされたが、それは男の声によって遮られた。
「まったく奴隷というやつは油断ならないな!ああ汚らわしい!」
自分が崇高な存在であると疑わない声、わたしが痛みよりも嫌悪感に顔を顰めていることに気付きもしないで。優越感に浸りきった男の暴挙を止められる人間がここにいるはずもなく、男はわたしの顔面を固い靴の先で踏み躙った。痛めつける為の残酷な音が、呼吸を止めたように静まりかえる室内に響く。狂った人間のたがが外れた耳に障る笑い声だけが木霊する。
こんなこと、女性にしていい行為ではない。ああそうだ、わたしは今奴隷だった。奴隷だから、しょうがない――そう考えてみるみる頭に血が上った。
「どうして奴隷の分際で勝手に喋る?勝手に呼吸をする?誰に許可を得てモルジアナに触っているんだ?お前は誰のお陰でこうして生きていられると思っているんだ、この僕が!情けをかけて!お前を飼ってやっているのだぞ!」
屈辱ではない。痣だらけの体が悲鳴をあげているからではない。沸き上がるのは純粋な憤り。人の尊厳を踏みにじる権利を持つ人間とは一体どのような人物であるのか。熱を持ち始めた瞼を必死に持ち上げると、そこにはこの街の領主であるジャミルがいる。権利とは、一体どこからもたらされるものなのか。
「このっ!!卑しいお前如きが僕の手を煩わせるなっ!!」
「やめッ…!!」
「なんだ?その反抗的な目は。随分と躾のなってない奴隷だな。それに見ない顔だ。新参者か?黙って大人しくしていれば暫くは可愛がってやったものを。ふん」
痛みに蹲るわたしから足を離し、今度はモルジアナの髪を乱暴に鷲掴みにする。少女の顔が僅かに強張った。
「おい、いいか?まさかこんな下賤の女の言うことなんて信じているわけではあるまいな。お前は僕に従ってさえいればいいんだ。頭の悪いお前でもそれくらいは理解できるよな、分かったか?」
「わ、わかりました」
「ふん、わかったのなら今から僕に付いてこい。それからそこにいるお前とお前、そうだな、お前も来い」
ジャミルが選び抜いたのは全員体力のありそうな年若い男達だった。それでもジャミルが従えている屈強な男達と比べると貧相で、風が吹けばふらりと倒れてしまいそうな痩せこけた体つき。まったく、ろくな奴隷がいないな、と舌打ちをして、それでも頭数を揃える為には仕方がないと容赦なく引っ張り出すと、怯える彼らを見て、可笑しそうに笑い、わたしを指した。
「今すぐ嬲り殺してやりたいところだが、今日は機嫌が良い。その幸運に感謝するんだな。おい、このボロ雑巾みたいな女も連れて行け。盾くらいにはなるだろう。
せいぜい僕の役に立ってみせろよ?そうすれば今少しお前の薄汚い命も延びるかもしれんな」
高笑いとともにジャミルが選ばれた男達を引き連れて部屋から出ていくと、張りつめていた空気がいくらか和らいだ。選ばれなかったものはあからさまな安堵のため息を吐く。しかしその瞳には少しも明るい色は宿らない。今日は無事に終えられても明日は我が身なのである。いつ訪れると知れぬ絶望に毎日脅かされている彼らをどうして攻めることができるだろうか。
さん!」
「…ッ、モルジアナ、ごめんね。迷惑かけちゃったよね」
「そんなこといいんです。私は人より頑丈に出来てますから。それよりさんこそ大丈夫ですか?!こんなに痣だらけになって、酷い…」
「あのね、大丈夫。わたしもなかなか丈夫に出来てるんだ」
自分のことは差し置いて、わたしの安否を気遣うモルジアナを見て、今にも溢れ出しそうな憤りが徐々に静まってゆく。冷静に状況を把握しようと周囲に視線を走らせると、選ばれなかった女子供達がわたしから視線を反らし、俯いた。その中に、先程話しかけてきた男の子の姿もあり、何の解決になりはしないが、安堵の息が零れた。
それにしても一体これから何があるというのだろう。これまでにも傲慢なジャミルの道楽で数え切れないほどの奴隷達が犠牲になったと聞く。卑しい表情を浮かべた領主の浅はかな言動に振り回されるのはいつだって立場の弱い、抗えない者達だ。すぐ横でモルジアナも不安そうな表情を浮かべている。

「お前らさっさと来い!」

ジャミルの付き人である屈強な男の一人が、身動きの取れないわたしに一喝を入れた。怒鳴られることに馴れていないわたしの体はびくりと跳ね、その瞬間に痛めつけられたばかりの痣が熱を持って限界を主張し始める。体が軋む。このまま立てなければ一体どうなるのだろう。今にも引きずり出さんばかりの剣幕の男が無機質な目でわたしを見る。彼とてジャミルの反感を買えば無事では済まされない立場なのだ。誰だって自分の命が一番かわいい。
さん立てますか?」
「だいじょう…ぶっ?!え?モルジ…アナ?」
あの、ええと。慌てるわたしを軽々と持ち上げるモルジアナ。
彼女はわたしより頭一つ分小さいはずだ。妹のような少女に抱えられる成人女性のわたし。どうにも立場がおかしい。歩けるよ、と断っても、彼女は頑なに首を横に振るばかりだった。こんな細い体のどこにこれだけの力があるのだろう。ありがとう、と言うと、モルジアナはほんの少しだけ、表情を緩めた。
「そそそその…重くない?」
「凄く軽いですよ。けが人なんですから遠慮なんてしないで下さい」

ああ、モルジアナはとてもたくましい。

「ありがとう」
「いいえ」

牢の扉が閉められる瞬間、男の子と視線が合わさった。怯えているような、後悔しているような複雑な表情を浮かべて、痣だらけのわたしを見ている。恐らく、わたしがここに戻ってくることや、再び会うことが二度と適わないことを薄々感づいているのだ。理解は出来なくとも、体に染みついているのだ。
せめて、最後の別れに相応しいものになるように、と口の端を持ち上げようとしたら、鈍い痛みが走った。腫れ上がった頬が引きつっているのだ。まともに笑うことも出来ないのか、と自嘲しながら、少女に抱えられる情けない自分の姿を思い出した。
「痛いな…」
大丈夫ですか?モルジアナの気遣いの声に大丈夫だ、と頷いて見せる。
腐臭の漂う地下牢からこの身を陽の光に晒す時、今とは比べものにならないほどの苦痛が訪れることを予感している。身を焦がすような灼熱の陽炎に太刀打ちなど出来ないのだから。

この時のわたしはまだ知らない。彼女の運命が動き出したことに。
ただ、モルジアナの足枷を断ち切ってくれたという彼らなら、彼女の心の深くへ潜りこんでしまった枷を取り払えるかもしれないと強く願った。



2013.01.20. up.
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