本当は傍で死にたい



やあおにいさん、いやおねいさん?随分と久しぶりな気がするね。最初に無茶なことをしたのはおねいさんの方だったけど、僕も長いこと皆に迷惑をかけてしまったのかな。怪我の具合はどうだい?顔色は良いみたいで安心したよ。僕?僕は今までウーゴくんと会っていたのさ…。うん、大丈夫、何が起こっているのかちゃんとわかっているよ。とにかく今は急いでアリババくんのところにいかなきゃいけない。でもね、その前に一つだけいいかい、ウーゴくんからおねいさんに伝言を預かっているんだ。ウーゴくんから聞かされるまで、まったく気付きもしなかったな。ねえ、おねいさんはウーゴくんとは初対面じゃあなかったんだって?とっくの昔に君たちは出会っていたんだね。水くさいなあ、言ってくれればよかったのに。それでね、僕には託された言葉の意味がわからないけれど、おねいさんには伝わるはずだって――


* * *


「王宮の方で暴動が…!!我を忘れた国民達が押し寄せて、敵味方関係なく攻撃している為に城下は大混乱だ!」
隔てられた空間に隔離されていたわたしの耳にもはっきりと、焦燥混じりの一報が届けられた。張りつめた緊張の糸を一瞬にしてつんざく第一声の後、扉の向こう側が一気に慌ただしくなり始める。尋常ではない様子に何事かと身を起こして窓の外を窺うと、王宮のある方角の空を中心に渦を巻くようにして、暗雲が立ち込め、目を覆いたくなる負の色に拮抗するように眩い光の群れが飛び交っていた。
アリババくんを助けに行く、と飛び出していったアラジンは全ての中心、光と闇の渦中にいることだろう。王都から少し離れた位置にあるこの場所には、暴徒の波はまだ及んでいないけれど、ようやく城下の惨状が届けられるようになると、残された者達の不安と恐れは一気に肥大していく様が扉越しでもありありと感じられた。
いつまでも怪我人面をして、悠長に寝ている場合ではないのではないか。数日も寝込めば、体調は周囲が思っている以上に快調だった。信じられないことに、たった数日でほとんど痛みは引いていた。シンドバッド王が手配した医師が余程の腕利きであったのか、それとも奇跡的な治癒能力でも備わっているのか、どちらにせよ自力で身を起こしても、数日間寝たきりだった為の倦怠感と、傷口が僅かに引きつるくらいで手も足も健常時と変わりなく動かすことが出来る。痛覚が麻痺しているだけで、怪我事態が快復したわけではない、と医師は何度も念を押してきたけれど、痛みさえ引いてしまえば後はなんとでもなるという確信はあった。むしろ、時間をかけたところで治らないものは治らない。失ったものは元には戻らないのだから。
「アズィールが見当たらないのだけど、誰か知らないかしら?」
「さっきまで中庭で他の子供達と一緒にいたのを見たけど」
「いないのよ」
「子供達で隠れて遊んでいるんじゃないのか」
「他の子達に聞いても知らないっていうから心配で。あんな事があってから最近塞いでいたでしょう」
「母親が死んだのは国のせいだって…、まさか街に出たんじゃないだろうね?!」
喧騒に混ざって聞こえてきた会話の中に聞き覚えのある名前を捉えて眉を潜める。あれからアズィールとは一度も顔を合わせていない。床に伏せって自分の事もままならない状況だったのと、顔を見るとお互いに辛い感情が思い出されてしまいそうだという弱い気持ちが、無意識に少年との出来事を頭の隅の方に追いやっていた。殆ど面識のない彼の母の最期は、想像以上にわたしの心に深い影を落としている。
「あ」
わたしの小さな呟きに足下に蹲っていたマリカが顔を上げた。暫く警戒心を露わに神経を尖らせていた砂漠狼には鼓動の速ささえ把握されているのだろう。
視線の先、古びた木製の窓から見えるのは丁度廃墟の出入り口の辺り、崩れかけた石造りの壁の切れ目に小さな体を見た瞬間、わたしは素早く身を起こしていた。その先に続く王都への道に消えていく後ろ姿には見覚えがある。向けられたあからさまな嫌悪、失望、その影には常に絶望と憎悪が複雑に混ざり合い、年端もいかない子供が見せる表情とは思えず、きつく結ばれた唇、気丈に肩を怒らせて握りしめた拳が震えていた――思い出すだけで眩暈がする。
「アズィール…どうして」
今、小さな子供が街に出るのは自殺行為だ。誰かに知らせなくては、そう思いながらも足は既に寝台から離れ、数日ぶりに床に下りていた。まだ腹に力を込めることは出来ず、よろけた体をマリカの大きな体が受け止めると、そのまま咎めるように寝台へ押し戻そうとする。
「ああマリカ、お願いだから――
砂漠狼は取り付く島もなく首を左右に振った。
「マリカ」
名前を呼ぶと、動きを止め、凪いだガラス玉のような瞳でわたしを見つめた。ありがとう、もう大丈夫なんだ、零れ出しそうな感情のいくつかを飲み込んで、どうにか整えられたわたしの声に耳を震わせた後、逆立っていた尻尾がだらりと床に落ちた。
どうか、後悔のないように。溜息を吐きた気な顔で、彼は結局わたしに従順で、最終的に甘やかす。
「マリカ、夢を見たよ。君がわたしの元に在るべくして在ったその時から、わたし達の過ごした嘘偽りのない10年間。マリカはとっくに気付いていたんだね。それでも一緒に居続けてくれてありがとう」
砂漠狼は恭しく頭を垂れ、そこには10年分、育まれた恵愛が篭められている。身を寄せ合って歩いてきた、呼吸をするように共にあった、短くもあり、長い時間の全てが。

「わたしはこれから、間違えるかな」

間違えたとしても。踏み外したとしても。立ち上がれなくなっても。歩けなくなっても。君はこうして、支えてくれるだろうか。弱々しく問うと、鼻頭を押しつけられた。
視線を再び窓の外へ向けると、数多のルフ達が空に弾ける。
その先に、想像も出来ない未来が待ちかまえていて、それが自分の罪の重さに値するものであるようにと願う。







走っている間は痛みを忘れていられた。

わたしを背に乗せたマリカが、傷に気を配りながら王都に向かって走り抜ける。
騒ぎの中心部の宮殿の方角から轟音や、雷鳴、炎がたち上る度に肝を冷やし、アラジン達が無事であるようにと祈った。街中は想像以上に混乱を極め、敵味方関係なく傷つけ合う尋常ではない光景が広がっている。まるで何かに操られているかのように。
「アズィールの匂いをたどれる?」
マリカはかぶりを振った。これだけ火薬と血の臭いが充満した空間は、鼻が利き過ぎる砂漠狼には辛いのだろう、苦し気に鼻を何度も鳴らした。
「ごめんね」
鼻を撫でてやりながら周囲を見渡した。この混乱の最中、見失ってしまった少年の姿を探すのは困難に違いなく、しかし一刻も早く保護しなければ、我を忘れた民衆や兵士達は、幼子であっても見境無く手をかけてしまうかもしれない。
「とにかく、もう少し進んでみよう、まだそこまで遠くへ行っていないはず」
戦場と化した街は、以前の活気のある様子を想像できない程に荒廃していた。負傷して苦しむ者の呻き声、罵り合う怒声、逃げ惑う市民、地に伏して動かない者、今すぐにでも駆け寄りたい場面にいくつも遭遇したが、アズィールを優先すると決めた。喉元から込み上げるものを必死で抑え、口元を手で覆いながら走り抜けた。
戦争なんてろくなものではない。この中のどれだけの人間が望んでいるというのか。
中心に集まる二色の光に逆らうように、渡り鳥の群れが頭上を駆け抜けた。地上の愚かしい騒動を高みから見下ろして、我先にと海の方角へ力強く羽ばたいていく。その先に、平穏な地があることを確信した、しっかりとした足取りで。
翼が欲しい、と思ったことがある。けれども、今必要なのは、たった一人の少年を護る力だ。
この世界の流れが全て、運命によって予め決定付けられているのだとしたら、今、この瞬間の、この場所でのわたしの役割とは何なのだろう。選択肢がいくつかあって、それを選ぶことが許されのであれば、その中に少年を助ける、というものがあるのならば迷わず選ぶのに。
アズィール達と出会った懐かしい教会の前の広場を通り抜けた辺りで、ふと、視界の端に蹲っている人が目に止まった。怪我人などきりがない程沢山居るというのに、気が付くとマリカを止めて、傍に駆け寄っていた。
「大丈夫ですか!」
建物の影に蹲っている女性がいた。突然現れた見ず知らずのわたしと、大きな狼を見て目を丸くしたが、直ぐに声を震わせながら涙を浮かべた。
「こ、この子が…!!」
胸にしっかりと抱かれているのは、産まれて間もない赤子だった。おくるみから覗く顔の額の辺りから血を流し、ぐったりとしている。母親は真っ青な顔をしてしきりに子供の名前を呼ぶが、呼びかけに応える様子はなかった。
「ちょっと見せてください」
赤子の顔を覗き込むと、出血は多いけれど、傷口は浅く、命に別状はないようだった。持ってきた鞄から消毒液と、止血用の清潔な布を取り出して、丹念に血を拭き取ってやると、殆ど血は止まりかけていた。
「一体何があったんですか」
「わ、わからないんです。突然市民の一部と王兵達が衝突を始めて…逃げようとしたところを突然襲われて、この子も傷を負わされて…!!血が沢山流れて、ずっと意識がなくて…、だ、大丈夫でしょうか?!助かりますか?!」
「大丈夫ですよ。この子はちょっとびっくりして眠っているだけです。傷も浅いし、消毒もしたので、この布で傷口を押さえてあげて下さい。目が覚めて痛がるようだったら、この鎮痛剤を飲ませてあげて下さい。とっても良く効くので、小さな赤ちゃんにはほんの少量だけ」
効果は僕のお墨付きです。母親の手に薬を握らせて、落ち着かせた。よく見ると、アズィールの母親よりも若く、母親というよりは少女のようだった。頭を撫でて、大丈夫、と声をかけると、ようやく安堵の息を吐いた。子供をきつく抱きしめる姿は少女ではなく、母親の顔をしている。突然訳も分からず乱闘に巻き込まれて酷く混乱したことだろう。徐々に蒼白かった顔色に赤味がさし、ありがとうございます、と何度も頭を下げられた。頑張ったね、赤子の頬を撫でてやると、鼻の形が母親にそっくりで、きっと貴方のように美人になりますね、と言うと少女のようにはにかんだ。
「ところで宮殿の方はどのような様子か知っていますか」
「いいえ…、でも、逃げてきた人達の話によると、恐ろしい化け物が宮殿内で暴れていて、城下はここよりもっと酷い惨状だったと」
「…そうですか。ありがとうございます。直にこの騒動も収束します。もう少しだけここに隠れていて下さいね」
宮殿の方角を見上げると、大きな火柱が空に向かって上っていった。もう空に鳥は羽ばたいておらず、地平線の彼方まで行ってしまった事だろう。わたしに出来ることは何か、火柱の先を見据え、拳を握った。腹の辺りから生暖かいものがじわりじわりと滲み始めている。マリカが心配そうに見てきたので、あと少しだけだから、言い聞かせて立ち上がった。
親子から離れて再び走り出そうとしたところで、突然、向かう先の裏路地から飛び出して来た子供の姿に、停止しかけた思考が一気に覚醒した。それは幻ではなく、探していた少年の後ろ姿。
「アズィール!」
名前を呼ばれ、わたしの存在を確認すると、びくりと肩を震わせ、反対方向に走り出した。
「ば、ばか!今は意地を張ってる場合じゃないでしょう!」
「来るな!」
病み上がりの体で、子供全速力に追いつくのは至難の業だった。わたしの姿を見て怒る、というよりも怯えた様子を浮かべた少年に苦笑する。見たところ五体満足で怪我もない様子に安堵しながら、息も絶え絶えの情けない姿を見かねたマリカが颯爽と駆け抜け、瞬く間にアズィールの行く手を阻んだ。突然目の前に現れた巨大な狼に度肝を抜かれた少年は、真っ青になって腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
「な、何なんだよ…」
「アズィール、皆が心配してるよ。帰ろう」
差し出した手を勢いよく弾かれた。我を取り戻したアズィールは今度こそ、明確な意志を持ってわたしを睨みつける。この目に弱いなあ、落ち着き無く疼き出した胸の辺りに蓋をして再び手を伸ばした。
「いやだ、来るな!俺は母ちゃんを救ってくれなかったこの国に復讐してやるんだ!邪魔をするなよ!」
「そんな丸腰で、どうやって沢山の大人に対抗するの」
勇ましい少年は立ち上がると、懐から短剣を取り出し、その切っ先をこちらに向けて威嚇してきた。
「これは死んだ父ちゃんの形見だ!父ちゃんが俺と一緒に戦ってくれるんだ!」
アズィールの父親は、彼が産まれてまもない頃に流行病で亡くなったと聞く。形見だと言う短剣は、子供が持つには少し大きい。刃物を握ったのはこれが初めてなのだろう、小さな戦士の手元は震え、気丈なのは二つの眼ばかりで、復讐に染まったそれは、ここに来るまでに見てきた沢山の市民や兵士達と同じ色をしていた。完全に我を忘れている。宮殿に近付くにつれ、嫌な空気が街中を覆っているのは気のせいではない筈だ。こんな小さな子供にさえ復讐心を植え付ける、戦とは、争いとはなんて残酷なのだろう。
「アズィール、そんなことをしてもお母さんは喜ばないよ」
「うるさい!お前に何がわかるんだ!お前だってあいつらと一緒だ、母ちゃんを見殺しにした癖に!」
「!」
一瞬の隙をついて、アズィールは直ぐ横の路地裏に飛び込んだ。慌てて追いかけると、どこに潜んでいたのか、一人の兵士が大剣を少年に向かって振り上げるところだった。
「あぶな――!!」
火事場の馬鹿力とはこの事を言うのだろう。
恐るべき速さで駆け寄り、恐怖に立ち竦む少年を素早く抱き上げた。
そこから先は時間の流れがこま送りのように静止して見え、振り下ろされた切っ先が、逆光で眩しく光り、避けきれずに右肩に食い込むと、肩からは悲鳴に似た鈍い音が聞こえた。
痛みより先に赤い水のようなものがそこから流れ出すのを見た。
アズィールが呆然とわたしを見上げ、それに少し困ったような苦笑で応えた。
一度だけ、まばたきをして空を見上げる。そこにはもう、黒い色のルフは飛んでいなかった。

笑顔のままでいようと思うんです。
選んだのはわたしです。
望んだのはわたしです。
選び取るのが人の意志だとしたら
どんな結末であれ、笑って終えようと思うんです。







どういうことだ?シンドバッド王は表情を氷らせて、わたしに詰め寄った。
ならば、目の前にいる君は、一体誰なのだ――
観念して、ついに幼なじみであるシンドバッド王と向き合う決意を引っ張り出したわたしは、はしばみ色が強烈過ぎる、と俯き、慎重に言葉を探し始めた。本当は、今でも信じられない。目の前のこの立派な青年が、幼なじみであるだなんて。
「シンは故郷の村のことを、どれだけ知っている?貴方が去ってからの出来事を」
その言葉に顔色を変えたシンは、一度息を止めて、深く吐き出した。
「どうせ調べたのでしょう、殆どの事を知ってるよね」
「……俺が出て行ってから数年も経たないうちに、野盗に因って崩落したと聞いている」
「正確には野盗と奴隷狩りが徒党を組んで襲ってきたんだよ、たった一晩で、ひとたまりもなかった」
野盗達と嵐の去った朝に目にした光景は、目を覆いたくなるほどの惨状だったと言う。
シンは縋るようにわたしの両手を包み込んだ。自責の念に押しつぶされそうな顔をして、すまない、と声を絞り出した。迎えに行く、という約束が果たせなくてすまない。せめてその場に俺が居れば――わたしは指の先に力を込めて、彼の手を握りかえした。気が付くと、自嘲気味の笑みが零れる。そんな約束、とっくに忘れていたわ。だから少しも気にすることはない。
「あの時、わたしも村に居たよ。相手は村の総人口の倍以上で攻めてきた。不運なことに、働き手の若くて健康な男衆は殆ど戦争に連れて行かれてしまっていたから、そんな状況下の田舎の村を襲うなんて容易い事だったのは簡単に想像できるでしょう。いくらわたし達一家が里から少し離れたところに住んでいたとしても、逃げられると思う?戦う術をもたない非力な村娘が」
…!」
名前を呼ぶ声は酷く苦しげで、呼吸困難に陥った病床の人間の様だった。どんな状況でも当時の様子を鮮明に思い出すことが出来る。嵐の叫び声、怒号、見知らぬ男達、血の臭い、全部、昨日の出来事だったのではないか、錯覚して首を振る。脳裏に惨状を浮かべていながら、冷静な自分の声が非道にさえ思える。
「女子供残らず全て奴隷狩りにあったよ。抵抗するものはその場で切り捨てられた。村人の半分は殺されてしまったのじゃないかな。奴隷として一生、死ぬよりも惨めな目に遭うか、屈辱よりも死を選ぶか、抗う術のないわたし達には残酷な二択しか残されていなかった。わたしの家には3人の男が押し入ってきて、ああ、正確にはもっといたかもしれない。わたしの部屋に辿り着くまでに父が頑張ってくれたから、少なくともあと4,5人は」
自警団の一員であった父がどれだけ抗ったのか、死にものぐるいで家族を守ろうとしたのか、階下にいた母がどれだけ辱められたのか。或いは二人が抵抗せずにいれば命は助かったのかもしれない。しかし二人には元よりその選択肢はなかった。それは何故か。わたしの罪を暴くにはそこに遡らねばならない。暴いた後、この人は真摯な眼差しを翻して、異物を見るような目をするだろうか。
「…わたし、今とっても怖い顔をしている?」
「…いや、冷静だよ」
そう、なら良かった、呟いたわたしの頬をシンが慈しみを込めて撫でた。強張った頬が和らぐようにと何度も擦られながら、思考を巡らせる。いつか、軽蔑されることになっても、この人にだけは真実を伝えなければいけないと思っていたことについて。
「異変に気が付いたわたしは、寝台の下に隠れてた。今よりもずっと小柄だったから難しいことじゃない。息を潜めてじっとしていた。最初に入って来た男は、戸棚から引き出し、全部引っ掻き回して必死に何かを探しているみたいだった。そんな小さな引き出しにわたしが入れるわけないのに、なんて考えていたら、ついに男は寝台の下まで丁寧に覗き込んで――

「暗かったから、あの時、男がどんな顔をして笑ったのか覚えていないのだけれど、今はその事にに感謝しているんだ。だって自分を殺さんとする人間の恍惚とした表情を、一挙一動を記憶するなんて悪趣味でしょう。他のことについてなら大体は答えることができるから何でも――
、わかったから」
制止の声を遮って、取り憑かれたように捲し立てた。
「引きずりだされて滅茶苦茶に抵抗した。訳も分からずに無我夢中で爪を立てて蹴りを入れて噛み付いてとにかく人の尊厳をかなぐり捨てて暴れた。野盗の男は大柄で頑丈でわたしの抵抗なんて痛くも痒くもないって顔をして、そうそれで、それで、丁度今の傷と同じところにね、男の手にしていた剣が」

「もういい!」

思考と感情が別々の方向を向いて、その狭間に置き去りになった感覚だった。
体を強張らせたわたしに、声を荒げたシンはきまりが悪い表情を浮かべ、すまない、と顔を反らした。途切れた言葉に続くはずだった罪悪感が喉の奥に押し込められ、その大きさと質量に息を詰まらせる。
「何か、気に障るようなことを言った?」
「違う、そうじゃない」
本来の彼らしくもない、力ない様子で弱々しく首を振り、こんなに手が震えているじゃないか、と言った。違う、シンの手が震えているんだよ。わたしの手は相変わらず冷たく、シンの手は燃えるように熱い。
「シンが謝ってばかりで変だね、謝るのはわたしの方なのに」
震える両手を握ったままのシンは、そのままそれを自分の額にあてて俯いた。祈りを捧げる仕草に似ている。導きがあと僅か終える事を知っているのか、それは熱心に捧げられた。
「わたし、今きっと凄い顔してるでしょう?」
「……」
辛そうな表情を浮かべながら、ゆっくりと顔を覗き込まれた。結局強張ったままの頬は、いったいどんな形を留めているのか自分では確認することは出来ないが、瞼の閉じ方を忘れてしまった二つの眼がからからに乾いて痛むのだ。こうして向き合うと、まるでここは教会で、告解礼儀に来た罪人を見ている錯覚に陥り、本当はどちらが罪人であるのかを忘れてしまいそうになる。
「…本当に申し訳ない。どうにも気が立っていて、配慮に欠けていた。こんな状態の君に聞くべき質問ではなかった」
「ねえ、シン、何か思い違いをしているようだけどわたしは」
「止めよう、これ以上言わせないでくれ。この話はが元気になってから改めて聞くことにする」
「シン?」
問いつめても、ただ首を振るばかりだった。わたしの気を逸らそうと、水を飲むか?と水差しに手を伸ばそうとするのを制して、ようやく目を閉じた。一秒、二秒、頭の中で数えると次第に冷静になっていく。
「それじゃあまるで、この怪我が治るまで、貴方の傍にいなければいけないように取れるけど」
「わかりきった事を聞くな、当面俺の傍で絶対安静に決まっているだろう。不満なのか?」
「不満というか、思いがけず執行猶予が付いて落ち着かない」
不満ではなく、不安だった。聞き捨てならない言葉があったことには気付かなかったふりをする。
「兎に角、この話は傷に障る」
まだ、肝心な事を告げていない、言い募ったところで、シンは頑として譲らなかった。有無を言わさず話を打ち切ると、わたしに水を飲むように促した。
「…シンは昔からわたしに対して詰めが甘いと思う」
「そうか?」
「さっきまで角生やしそうな怖い顔してたのに、あっさり引き下がってしまって」
わたしは、覚悟を決めたのに。
いつも詰めが甘くて、肝心なところでわたしを逃がす。もしシンドバッドが強引にの人生を攫ってくれていれば、或いは違った結末を迎えていたかもしれない。傍で生きることが出来た?傍で死ぬことが出来た?考えても仕様のないことだ。夢にも上らない戯言でしかない。
黙考していたシンドバッドはゆっくりと口の端を上げた。
「だが、今回は思い知るだろう」
誰が、何を、肝心な部分が抜けていたが、それを聞き返す気力も起こらなかった。言葉よりもその瞳が雄弁に真実を警告している。肯定も否定もせず微笑を浮かべ、これから訪れる幕引きを、自分の手で選ぶ猶予を与えられているのだと思うことにした。
「駆け引きなら俺の方が遥かに上手だからな」
確かに王様に敵うわけがない、瞬いて、笑った。
「わたしは、貴方より遥かに自由を手にしたわ」
ただほんの少しだけ、自由に手を取り合って歩いてみたかった。
違いない、シンドバッド王は今日初めての笑顔を浮かべた。
「ところで、怪我の具合はどうだ?薬はしっかり効いているのか?」
包帯の巻かれた腹のあたりを、労りをこめて撫でられる。2度貫かれた場所は空洞のままだ。これだけの傷で、どうして生きていられるのか、もう尋ねられはしなかった。頷くと、眉尻を下げて、良かった、と零した。
それから暫くして名残惜しそうに立ち上がると、わたしの腹の辺りに視線を落としたまま、ぽつりと独り言を言った。

「俺には君が、死んでいると言うよりも、死にたがっているようにみえる」

瞠目した。

言い残して、扉に手をかけて出て行こうとする背中をじっと見つめる。また来る、と言ったが、彼の姿を見るのはこれが最後のような気がしている。だから然りとその姿を目に焼き付けようと必死になっているのだろうか。去っていく後ろ姿にかける言葉が見つからず、もどかしい思いをしているのだろうか。
本当は、本題に入る前に遮ってくれたことに安堵しているのだ。都合の良い逃げだという自覚はあるし、優しい彼が、まるで自分の身に降りかかった事のように心を痛める姿を見ていると、真実を告げることが果たして正しいことなのか、自己満足に過ぎないのではないかと不安になった。ただ、自分が楽になりたいだけだけで、懺悔して、解放された気分に浸りたいだけっだのではないか、この期に及んで浅ましいことだと思った。どうかしている、冷静ではない。そうやって甘やかすから、弱気になって、立ち止まってしまいたくなる。
言いたい事は沢山あり、まだ一つとして真実を告げられていなかった。最初で最後のチャンスを自ら手放して、もう後悔を始めて。貴方は未来を切り開く人だ、過去に囚われるべきではない、と言い訳を盾にして。

小さく息を吐いて目を閉じた。

「では最後に一つだけ。死んだはずの人間が、平然と歩いていられるとしたら何故だと思う?
執着と犠牲、それから奇跡、不可能に違いない要因が全て揃った時、それは呪いに変わるんだよ。わたしの未練は、子供の頃に過ごしたかけがえのない時間を覚えていることと、大切な人達の未来を見てみたかったこと。それに縛られている間は、仮初めであったとしても、少しは生きていられる。
本当はね、シンに会うのは一番最後にするつもりだったのだけど、当てが外れてしまったみたい。でも、順番はどうあれ、すっかり立派になった姿を見ることが出来て安心したよ。想像通り、とまではいかないけれど、素敵な王様になったんだね。幼なじみとして鼻が高いよ。
ありがとう」

貴方の夢はわたしの夢であった。

シンが虚を突かれて振り返る。
「まるで今生の別れのようなことを言う」
口に出してはいけない言葉が溢れそうになり、きつく唇を噛み締めた。見透かされたくない、その一心で平静を装う。
「出会いと別れは何時だって突然訪れるものでしょう。わたし達はそれを予知して抗う術のない人間なのだから」

―――ただ守りたかっただけなのです。
―――その為にどうするべきなのかが分からなかっただけで。

優し気な目をして何度も、何度も繰り返される、その言葉は聞き飽きました。
望まれたもの、向けられたもの全てを受け入れることがどれだけ残酷であるか、この10年間悩み続けてきました。
後はただ、自分で全てに決着を付けるだけ。

瞼を閉じても、帰りたいと思う場所が一つも浮かんでこなかった。







訪れた衝撃に飛ばした意識を取り戻し、辺りを見渡すと、アズィールに向かって剣を向けた兵士の男が少し離れた所に倒れていた。直ぐ横にはマリカが控えていて、どうしてこんな無謀な事をしたのか、不機嫌を露わにこちらを睨み付けている。抱きしめた少年の体に傷が一つもないことを確認し、安堵に胸を撫で下ろした。
全てが終わったのだろう。宮殿の方角からもう爆音は聞こえてこない。争う声も収まっている。アリババくんとアラジンはこの騒動を無事に収めたのだろうか、誰も傷ついてはいないだろうか。皆の顔を見るまで少しも安心できそうにない、と苦笑いした。勝手に部屋を飛び出したことがばれて、その上傷まで増やしてしまって、過保護な彼らにまた怒られることを想像すると、このまま逃げてしまいたい気持ちも湧いてくる。
心配はするけれども、心は穏やかで、不安な気持ちは一切なかった。事態は良い方向に収束しているに違いない。何故なら不自然に静まりかえった街中は光で溢れ、不思議な光景が広がっているからだ。一体何が起こったのか、咄嗟にアラジンの存在を思い出し、光の正体がルフであると気が付いた時、人々は旧懐と慈愛の渦に包まれていた。
生前から愛する者達の元へと、ルフが寄っていく。涙を流す者、ただただ呆然とする者、抱きしめようと手を伸ばす者、街中が奇跡に染まっていく。
わたしは眩しさに目を細め、腕の中にいるアズィールに向かって見覚えのある女性が両手を広げる姿を見た。最期まで笑顔を見ることが叶わなかったアズィールの母が、今では全てのしがらみから解き放たれ、本来の日だまりのような微笑みを称えて、愛するわが子の元へと寄り添う。アズィールはわたしの腕から抜け出すと、今までずっと堪え続けてきた涙を溢れさせた。縋ることは出来ないが包まれることの出来る温もりに身を委ね、彼は子供らしく大きな声を上げて泣いた。親子の束の間の邂逅はわたしの心を揺さぶり、なけなしの理性を崩壊させるために絶大な効果を発揮した。込み上げる熱の正体を、愛と知る。胸をじりじりと焦がし、理性を覆い隠そうとする、厄介な感情だ。
そしてそれは見渡す限り、存在する全ての人々に等しくもたらされる。
これがアラジンの力なのだ。彼のマギたる所以は彼の持つ優しさと曲がらない強さに起因し、奇跡を呼び起こす。言葉に出来ない幸福をどうしたら、今ここにいないアラジンに伝えられるだろうか。君がもたらすものは、生者にも死者にも温かいのです。
「良かった」
アズィールが手元から離れ、護るべき対象がいなくなった途端に、わたしの体は正直にあるべき現状を突き付けてくる。人々が魔法の力に包まれる間に、わたしにはその全てが解かれ、力なく地に伏すと、マリカが寄り添うようにわたしの体を包み込んだ。
大丈夫、わかっているよ。わたしの元に還ってくるルフなどあるはずがないのだって。わたしにはこれ以上奇跡は起こらない。
「大円満、なのかなあ」
あとは王宮にいるアリババくん達次第だけど。
真っ白だった包帯はすでに真っ赤に染め上がっていた。少年を庇った時に負った右肩の傷に恐る恐る触れると、息を吹き返したように痛みが全身を駆け巡り、呻き声が漏れると、口の端から生暖かいものが伝った。傷口を押さる意味などとうになくなっている。口内に広がる鉄の味は吐き気を誘発させ、脂汗が滲んだ。けれど致命傷になるほどの傷ではない、言い聞かせてみるが、とっくに視界が小刻みに点滅を始め、もう瞼を上げていることも困難だった。形容しがたい虚脱感と忘れた筈の痛みが交互に押し寄せる。
頬を柔らかく温かいもので幾度も撫でられ、それがマリカの舌であると気付いた時、自分が涙を流していることに気が付いた。優しく、温かく涙を拭う仕草に、堪らず左手で大きな顔を抱き寄せた。殆ど力を込めることも叶わず、僅かに添えるだけのものだったが、抵抗なく寄せられた柔らかな熱に縋り付いた。

どうしようもなく、苦しい。悲しいんじゃないの。大丈夫。とてもとても疲れただけ。

人々が歓びに浸るただ中で、誰にも気付かれることなく、片隅でじっと息を潜め、穏やかな眠りについた。


――おねいさん、ウーゴくんはね、こう言っていたよ。

君の原点は夢の中ではない、外にあるんだ
――


ああ、そうか。
わたしの辿ってきた10年間は、夢の出口を探し当てる為であり、
今、正にその目の前に立っている。
決して遠い道程ではなかった。目まぐるしく過ごした日々は苦しくも愛おしくもあり、一つだって欠けていたら、此処にはいられなかっただろう。


初めて門の前に立った時、まだ何も分からずに、ただ呆然と見上げた。
大きな魔神が、君はここに来るべきではなかった、と言って、わたしの体よりも大きな手をこちらに伸ばし、そっと小さな両目を覆った。視界は閉ざされ、残ったのは自分が両足を着けて立っている感覚。
ごめんね、と謝ったのは彼ではなく、燦々と輝く巨大な鳥であった。彼が、気まぐれでここに遣わした。顔を上げると見たこともない夜空が広がり、知らぬ間に足下にも空が敷き詰められている。つまり、わたしは単なる気まぐれでこんなところに落とされたと言うのですか。
巨大な鳥は答えず、世界を覆い尽くさんばかりの羽を広げ、一枚の光の粒をわたしの手の中に落とした。羽の形をした粒は手の中で眩い光りを放ち、体中を包み込むと、音もなく消えていった。
君は一度死んだのだよ。そうして今、この時から新しく生まれかわる為に渡りを始める。
それは彼女の望むものなのか、魔神が鳥に問うた。
それは貴方の知るところではない、鳥は鳴いた。
では、貴女はどうしたいのか――その時、わたしは答えを一つも持っていなかった。ただ目の前に広げた手に消えた光の残像を見つめ、死にたくはないのだ、と思った。
君は海が好きかい?頷くと、わたしの二つの眼は一等綺麗な深い蒼に染められた。


――今の貴女なら、道を正すことが出来ると信じているよ、正しく選び、正しく周りを信じることだ

おねいさん、ウーゴくんが、さようなら、って、もうこちらに来てはいけないって言っていたよ



二度目に門の前に立った時、わたしの体は真っ赤に染まっていた。他の誰のものでもない、自分の体から流れたものの色だ。与えられた蒼い眼だけが、自分がで在る為に保たれている。
再び相見えることになった魔神は、こちらを憐情の意の込もった表情で見下ろした。ご心配には及ばず、痛むところも疼くところもないのです。ただ、空虚であるようです。魔神は大きな手で自らの目を覆い、
やはり、君はここに来るべきではなかった、と嘆いて、わたしと門の間に、そびえ立つ荘厳な門からわたしを遠ざけるように立った。
ごめんね、と謝ったのは彼ではなく、燦々と輝く巨大な鳥であった。わたし、貴方を知っています。紅い目をした気高き御方。
鳥はみるみる小さくなり、わたしの右肩に止まった。間近に見る眩さに瞼を閉じると、瞼の中でも鳥は光を止めることはなく、わたしが光に囚われている間、囀るように、
、君は今、渡りを終えるところだよ、と告げた。
貴方は一体何がしたかったのだ、貴方ともあろう御方が、長く長く虚ろうとこしえの時に飽き、分別を失い、自身の渇きを潤す為だけに、無垢な雛を弄ばんとするのか、魔神が鳥に問うた。
鳥は空虚な紅い目を湛えたまま、答えなかった。
では、貴女はどうしたいのか――その時、わたしはただ一言、熱に浮かされたように、こう答えた。

叶わない夢を見てみたいのです

魔神は息を飲み、肩を落として再び両目を覆ってしまった。
鳥は再び夜空へ羽ばたき、良いでしょう、貴女の望みを叶えよう、と囀った。

激しい嵐が吹き荒び、傾きかけた西の帝国の、名も残らぬ小さな村がひっそりと消滅した晩の出来事である。


2013.11.04. up.

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