祈るように夢を見ている


長い夢を見ていた。

目が覚めたとき、発作的に笑い出したい気分と泣き出したい気分が同時に込みあげてきた。
始めに見えた天井が目に染みるほど白く、体を包むシーツが目に刺さるほど白いからだ。
気を抜くと、瞼が再び閉じてしまいそうになるのを必死に堪え、目を凝らすと、入ってくるのはどこを向いても白ばかり。染まらない色が、わたしという異物を排除しにかかるのも無理のない話だと思う。何故なら自分自身が一番、この色が似合わないことを誰よりも自覚している。視界の端に自分の髪が映ることさえ我慢がならない時がある。
しばらくじっと天井を見つめていると、扉が開かれる音と共に誰かが入ってくる気配がした。少し離れた位置にある窓から入る柔らかい風が、開け放たれた扉の風と入れ替わりに飛び出していく。それを感じながら、わたしは金縛りにあったように首の向きすら動かせない。意識ばかりが先行して、体は自分のものではなくなってしまった感覚。

「まあ!お目覚めになったのですか!」

始めに耳に入ってきたのは知らない女性の甲高い声だ。突然の驚愕と歓喜に満ちた声に、覚醒しきれないわたしの体は対処しきれずに瞬きを繰り返した。
「まあまあ!どこかお辛いことろはございませんか?わたくしはずっと様のお世話をさせて頂いておりましたが、これ程にまで嬉しいと感じたことが今までにございましたでしょうか。直ぐに医師の手配を…ああ、それよりも王にお知らせしなくては…!」
枕元に立った女性は質の良い衣を纏い、健康に焼けた小麦色の腕を伸ばしてわたしの乱れた髪を整えた。歓びの様子を隠そうともせず、涙ぐみながら、当の本人のわたしを置き去りにして女性は一人興奮した様子で今にも走り出しそうな勢いだ。
「待って下さい…あの、ここは」
自分でも驚くほどの小さく掠れ声だった。それでも聞き届けられた声に振り返った女性は、まあとても可愛らしいお声ですこと、目尻を下げて微笑ましそうにわたしを見た。壮年の女性は微笑むと両頬にえくぼが浮かぶ。母が生きていたらこの女性のようであったのかも知れない。
様が居られますのはシンドリア王宮でございますわ。数ヶ月前に先のバルバッドでの一件に因ってお倒れになった様を王の手ずからこの王宮に運びこまれたのでございます。先程も申しましたように、こちらにいらしてからずっとわたくしがお世話をさせて頂いております。様は何ヶ月もずっと床に伏されて、負われた傷は痛々しく、それは重傷にございましたが、少し前に殆ど完治したと医師からお墨付きを頂いております。だのに一向に目を覚まされないご様子に有能な医師達でさえ匙を投げる有り様でして、お体は健やかであらせられても、お心が何かお辛いことに儚くなってしまわれたのではと皆で心配しておりました。なかでも王におかれましてはわたくしどもの胸が痛むほどお心を砕いておいででしたよ。王宮に居られる日は見舞いを一度も欠かすことなく、暇さえ見つけては様のご様子を伺いに熱心に通われて、今朝も何時ものようにこの椅子にお座りになって、愛おしそうに様のお顔を眺めておいででしたわ。貴方様は本当に王に大切に想われておいでですのね。お世話をさせて頂きながら、いつの日かこうして様の目を見てお話が出来ることを心待ちにしていたのです。皆様が仰られたとおりのお美しい蒼い瞳でございますね。本当に我が王の想いが報われる、このような良き日がようやく訪れたことを、全身全霊で嬉しく存じます。
どうか様におかれましてもそのように畏まられずにお心を健やかになさいませ。直ぐに王と医師を呼んでまいります」
わたしは女性の話をどこか他人事のようにぼんやりと聞いていた。一体どこからどこまでが真実であるのか判断ができそうにない。所々くすぐったい気持ちになるのは、これだけ丁寧に扱われた経験がないからで、この人はわたしのことを深窓の令嬢かなにか貴い存在と勘違いでもしているようだった。
丁寧に、慎重にわたしの心を落ち着かせるために優しく髪を梳き、手慣れた様子で身の回りを整えた女性は、優雅に腰を折った。それでは暫しこのままでお待ち頂けますよう。
「ほぼ完治とは申しましたが、完全に癒えたわけではございませぬゆえ、しばらくは絶対に安静にして頂きます。王より様は大層ご無理をなさる方と聞き及んでおりますので、くれぐれも尊い御身にご無体などなさいませぬよう」

釘を刺して出て行った女性が再び扉に手をかけると、「まあマリカ様!」僅かな隙間から素早く一匹の狼が室内に飛び込んで来た。驚く女性に見向きもせずに枕元まで静かに駆け寄ると、動けないわたしの代わりに身を乗り出して、目を一杯に見開いたわたしの頬を優しく舐めた。
それは夢の中と同じ温かさだった。

「マリカ、本当に心配をかけたね。目が覚めたら真っ先にありがとうって言わなければと思ってた。ずっと、わたしに付き添ってくれてありがとう」

目を細めた砂漠狼が鼻面を首筋に押しつけてくる。体が自由でさえあれば直ぐにでも抱きつくのに。ゆるやかに時間をかけてようやく動いたのは左腕で、鉛のように重たく、自分のものとは思えない青白く細い腕で逞しいマリカの背中を撫でた。

「10年間も貴方を縛り付けてきて今更だけど、あと少しだけ、わたしの我が侭に付き合ってくれるかな?」

幸せな夢を見ていた。ずっと共にあった中のとりわけ幸せだった時の思い出がいくつも混ざり合い、次々と現れては過ぎていった。長い月日をかけて歩んできたものを駆け足で息もつかずに通り抜けた。昔よりずっと上手に笑えるようになったし、ずっと早く走ることもできる。何時になっても器用に立ち回ることだけが難しく、不器用に躓くわたしを、何も言わずに支えてくれたのはマリカだ。全てを知りながら、巻き込まれることを厭わなかった、抗う術がなかったのだとしても、いつしかわたし達の間に流れるものは温かい親愛の情だった。立ち止まりたがる背中を押してくれるかけがえのない存在だった。
気難しいマリカが、珍しく甘えるように鼻を鳴らした。

「ありがとう。次にわたしが目を覚ました時にね、お願いしたいことがあるんだ―――

開け放たれた窓をいっそう強い風が吹き抜けた。そのうちの小さな渦がわたしの周りを飛び回り、せっかく綺麗に整えてもらった髪が視界を舞った。記憶よりも少しだけ伸びた髪は病人らしくくすんでいる。目を細めなければ焼かれてしまいそうな日差しが雲の合間を縫って飛び込み、白だけで整えられた室内を眩く照らした。横に身を横たえるマリカからは柔らかい太陽の香りがして、少し前まで死の香りを纏っていたわたしの体が浄化されていく様だった。

これ程までに穏やかな気持ちは久しぶりだ。動かない体の意味を考えてみたとしても余りある、満たされた体内に、暖かい空気をいっぱいに吸い込む。そうすることで欠けていたものが良い具合に補われて、幸せを実感できるのだ。わたしの求めていた幸せとは、こうやって不足を継ぎ足して、誠実に向き合い、包まれることだった。

眠る癖でもできてしまったのか、今は酷く瞼が重い。

ありがとう、それから、ごめんね。わたしは静かに言った。でももうこれ以上目を開けていられないの。

遠くから慌ただしい足音が聞こえてくる頃、寝台に寄り添うようにマリカが丸く、蹲る気配を感じた。









拝啓、親愛なるシンドバッドさま


お元気ですか、と尋ねるのはなんだかおかしい気がします。
わたしの方が先ず、元気です、とお伝えするべきですね。
眠っている間、随分とご心配とご迷惑をかけたことを聞きました。
申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちをどのようにお伝えしたらよいのかわかりません。
今回の件だけではなく、出会った瞬間から、今筆を執っているこの瞬間まで、全てにおいて感謝を。
本当に、ありがとう。
これが貴方の目に止まる頃、きっとわたしは貴方の大切な国にはいられなくなっている筈です。初めから、そういう約束なのです。
恩を仇で返すようなことになってしまってごめんなさい。
アラジンやアリババくん達にも何も言えずに出てきてしまったので、他の皆にも謝罪とお礼を伝えて頂けますか。
特にモルジアナには、約束を果たせなくなってごめんなさいと伝えて欲しいのです。出来ることなら彼女と、これからも一緒に旅を続けたいと思った気持ちは本物だったのだと。けれどももうモルジアナの周りにはアラジンやアリババくん、沢山の仲間がいるので、彼女の未来については心配していません。日に日に成長していく彼らを見ていて、雛鳥の巣立ちを見送る親鳥のような気持ちを感じていました。
これだけ短い期間に、これだけ大切な存在と、温かい気持ちを得ることができたのは、運命に違いないと勝手に思いこんでいます。わたしが本当に欲しかったもの、それを与えてくれた彼らと、懐かしい幼なじみへ、何も残せないどころか、面と向かってお礼も言えないことをお許し下さい。

何から話をすればよいのか、きっとわたし達に足りなかったのは確りと向き合うことだったのでしょうね。今はもう、あまり時間がないので、あの夜に伝えられたかった事を話します。貴方が気に病んで、眠れなくなってしまわぬように。

最後の夜、わたしは夜盗に因って致命的な傷を負ったことは、あの晩の話の通りですが、確実に生きてはいられない傷を負いながらも助かったのは、あの時、目の前に神様が現れて、すくってくれたからです。人は誰しも、死ぬ直前にこのような不思議な体験をしているのかしら。いいえ、自分が特別だなんて思わないけれど、あの夜だけは、わたしの与り知らぬところで、予期せぬ意図が蠢いていて、それが形になって現れた。あの夜だけが特別だったのです。それが正しいことだったのかについては今でも答えが出ないけれど。嘘みたいだけど、本当の話。
神様はわたしに、一つだけ願いを叶えてくれる、と仰いました。おとぎ話の魔神は3つ叶えてくれるのに、神様は少しだけ意地が悪いのね。たった一つだけなら、何でも叶えてくれると仰って、しかも、神様は万能ではないので、叶える手伝いをするだけ、また、成約にはいくつか条件があることを付け加えて。
おとぎ話よりも現実的な話で笑ってしまうでしょう、わたしは提示された等価に値する条件を呑んで、普通ではない体を手に入れたのです。
願いが成就するまでは決して死ねない体を。これに関してはお腹に穴が空いても平気だったところをみているでしょう。アリババくん達には無謀だと散々怒られたけれど、こんなに拍子抜けしてしまう背景があったのです。
わたしが望んだのは、叶わぬ夢を見ること。
死ぬ瞬間に脳裏に浮かんだのは、懐かしい貴方のこと。
別れてから何年も経って、立派な貴方の後ろ姿を想像した。
何度も手を伸ばして、一度も届くことのないシンドバッドの歩む未来が見たいと願った。
望んだのは、夢を見ること。つまり、夢から覚めたら貴方と関わることは出来ないのです。
夢の終わりは、貴方と会うこと。貴方のつくったおとぎの国に辿り着くこと。
命を賭して建てた国をおとぎの国なんて言ってごめんなさい。わたしの中ではシンドバッドの全てが、昔一日中語り合ったおとぎ話みたいに眩しくて、夢に落ちる偶像のようだということです。それはいつまでも変わらないまま、貴方はわたしの夢で在り続けるのです。
けれどもわたしは長い間、シンドバッドの存在を避けるようにして、世界中を歩いて回りました。貴方の噂は世界中に広まっていて、その影を追いながら、また、避けながら、気が付けば10年以上も月日が流れていた。
旅はシンが語って聞かせてくれたように、全てが新鮮で珍しく、わたしに足りないものが沢山詰まっていて想像よりもずっと素晴らしいものでした。飽きることなく、生きていた頃よりもずっと活き活きしていて、信じられないことの連続で、ねえ、日がな一日引きこもって書物ばかり読んでいたわたしが、毎日毎日旅をするなんてシンは信じられる?自分では今でも吃驚しているわ、想像もしていなかった、心の中でずっと望んでいたものを手にしたのだから。
旅をしている間だはではなく、として。とは神様の居場所に最も近い星の名前。覚えているかな、子供の頃、初めて一緒に村を飛び出して、手を繋いで見上げた夜空で一等輝いていた星のことです。それを目印に、村まで帰ることができたでしょう、あの時からわたしを導くのはだった。

思えば、避けるようにして歩んできた旅の終盤でアラジン達に出会い、それからシンドバッドに出会ったのは必然だったように思います。
世界は効率よく回っていて、終わりは必ずやってくるのです。わたしはいつもその終わりが怖くて仕方なかった。夢の終わりを望みながら、終わってしまうことが怖いと思うほどに馴染んでしまっていたから。
この10年間、その終わりに向かって歩いていたけれど、いつも満たされない何かについてずっと考えていました。その答えがこの、最後の出会いに詰まっていて、全てが真っ直ぐに繋がっていて、導かれるままに迷うことなく辿り着くことができた。
捨てるばかりだった人生で、初めて大切したいと思ったのです。小さなシンがわたしのことを導いて、護ってくれる、と言った時のことを思い出したわ、あの時の貴方の気持ちがようやくわかった気がします。こうした他愛もない気持ちを繋げて、未来があるんだね。
この事を予期して最後に指定した神様は、もしかしたら本当に凄い存在なのかもしれないと思いました。同時に、やはり意地が悪いな、とも。どうしてそう思うのかって?どうしてでしょうね。
以前、貴方が問うた『幸せであったか』について、今なら迷わずに頷くことができます。わたしは充分すぎるくらい幸せを知ったし、それに負けないくらい、悲しいことや辛いことも経験した。全てひっくるめて満ち足りた10年間でした。
だから、あの夜起こった悲劇は、わたしが招いた厄災で、それについてシンが気に病むことなど万に一つもないのです。
こればかりは全部、わたし自身が向き合い、償うべきことなのだから。


それから、今だから言うけれど、実は貴方に手紙をしたためたのはこれが初めてではないのです。
シンが村を去ってから、こっそり少しずつ、貴方宛の手紙を書いてきました。
宛先がないので、一生貴方には届かない手紙を。
だから、シンにとっては最初で最後の手紙、わたしにとっては最初に届く、最後の手紙です。
あの頃に比べると字だってずっと上手に書けるようになったことを感慨深く思いながら、そろそろ筆を置こうと思います。
わたしも少しは成長出来たかな。ああ、もう時間がないみたい。さっきからマリカが急かしてくるの。最後だと思うと、緊張して手が震えるわ。

わたしの旅はもう終わりを迎えるけれど、最後に、立派になったシンをこの目で見ることができて、本当に良かった。
おとぎ話に出てくる王子様や王様よりもずっと、ずっと素敵な王様だね。

長い間ずっと、この日を待ち望んでいたのです。誰よりも民を思う、尊敬すべき立派な王様になった貴方に手紙が届くことを。
世界中を旅して、貴方の足跡を辿り、貴方にこれを渡すことを。
その為にわたしはついに、約束をしていた海を渡り、大陸を渡り、ずっと遠くまで来ることが出来ました。
その間、沢山の叶わない夢を見ることが出来ました。貴方を一目見ることが出来た。
これ以上望むことはありません。わたしはもう、夢を見る必要がないのです。

ああ、一つだけ訂正、願いならまだあったわ


どうか、これからも、貴方や、皆に星の導きがありますように

親愛をこめて、





手の中の羊皮紙に綴られた文字は未だ乾き切っていなかった。規則正しい文字が後半になるにつれて、霞み、波打ち、滲んだりしている。書いている途中に、泣いたのだろうか。残された手紙はお世辞にも綺麗とは言えなかった。文字が滲んでいる箇所を指先でなぞると、さらに黒く広がり、指の平に染みを残した。長い間、清潔に保たれた室内の主の姿が忽然と消え、数刻前までそこにいた痕跡だけが残り、寝台の中心は僅かに温もりが残っている。
数日前、一度目を覚ましたと侍女から報告があり、駆け付けた時に見たものは、穏やかな顔をして眠りに落ちたの姿だった。白かった頬には僅かに色が差し、唇からは呼吸をする息遣いが聞こえてくる。まるで生きているみたいだ、頬に手を伸ばすと、相変わらず、自身の指先よりも冷たいわずかな体温。その横に寄り添うマリカは、が眠りについてからというもの、彼女の精神に連動するかのように一切の活動を停止していた。昼夜問わずの眠る扉の前で蹲り、忠実な姿勢で在り続け、アラジンが話しかけても反応を示さなかった。死んでいるようだ、と誰かが言ったが、狼の体は温かかった。その砂漠狼が久しぶりに顔を上げ、シンドバッドの一挙一動を黙って観察している。それを見て、あと数日間が勝負だな、と王は言った。頬を撫でていた手が馴れた手つきで髪を梳き、一房すくって、髪はこれだけ伸びたのに、君はちっとも戻ってこないな、今、どの辺りにいるんだ?あとどれくらい眠るんだ?耳元に囁いた。反応はないが、毎日こうして話しかけることが、一番正しいことなのだとシンドバッドは思っている。

言葉通りの数日後、埃一つない机の上に見慣れない書き置きを発見してからのシンドバッドの行動は早かった。
「直ぐに港中に停泊している船に連絡を。個人が所有している漁舟も全て漏れがないようにあたってくれ」
「既に国内中の船舶には確認済みですが、さんに該当する人物は港に現れていないとのことです、今は街中に捜索の範囲を広げて探させていますが、情報一つ入ってきませんね。傷が塞がっているとはいえ病み上がりの体ですし、まだそう遠くまでは行っていないと踏んでいるのですが」
「結界に反応は」
「ありませんでした」
「ふむ」
自分宛に綴られた手紙に目を落とし、シンドバットは沈黙した。申し分ない王の風格を維持したまま、黒い指先で顎を撫でる。何か、重要な手がかりでも書いてあるのか、ジャーファルは考え込む主の顔を覗き込んだ。
「あれだけ大事になさっていたさんが行方不明だというのに、随分と落ち着いているのですね」
「どうしてだと思う?」
含みのある笑みを浮かべて、手の平を広げて見せる。
「これは?」
「手紙に添えられていた。これを、俺に渡したかったのだそうだ。それ以外は何も望まぬと、行く先をたずねてくれるなとは、まったく無欲なことだ、が――

欲しがることに馴れていないから、わからないのだろう。
ジャーファルは自分の疑問に捕らわれたまま、シンドバッドの手の中で石が転がされる様を見る。
長年仕えててきた主の、本当に僅かな声の変化すら見逃せなくなってしまった自分の忠誠心が今は恨めしい。目の前の人が冷静であるだなんて、どうして思ってしまったのか。

「俺がそれで納得するなどと言うことがあると思うか?」

シンドバッドは一層笑みを深め、開け放たれた窓を見た。
人が一人余裕で通り抜けることが可能な、広い構えの窓の縁には純白の花が生けられている。外に向けられた視線と入れ違いに新しい風が通り抜け、花弁を揺らした。窓の外を横切る海鳥に目を留める。自由に空を駆ける鳥であれば、彼女に追いつくことができるだろうか。鳥が飛び立つ方角に、姿を消したの向かう先を想像する。それはもう過去ではない筈だ。
「いつも根拠のない未来を案じて、原因のない結果に答えを求めるんだ。一体何に追い立てられているというのか、隙を見せまいと必死になって、実際隙だらけの癖して。だが、ここまで追いつめてしまった原因が俺にもあるのだろうな」
いや、俺にあるのだろうな。それでも、訪れない未来について頭を悩ませることなど出来ない。何も考えられない。
傍にあろうとなかろうと、思いとは噛み合わず、ままならぬものだ。
悔恨に似た声が室内に響き、シンドバッドは恭しい所作で紅い石に唇を寄せた。




* * *


「旅人さん、その先は何もない行き止まりだよ。昔は小さな村があったんだがね、随分前に夜襲にあって廃村になっちまった。今じゃ荒れ果てた荒野にだだっ広い丘が一つあるだけさ」

人気のない道を行こうとする旅人に声をかけたのは恰幅の良い農民の男だった。畑を耕す手を休めて、迷子になったのではないか、人の良い笑顔を浮かべて男は旅人を引き止めた。彼の住む村は決して裕福とは言い辛く、村人以外の人間を目にすること自体が稀だったので、好奇の目で旅人を見た。旅人に言ったように隣村は十年以上も前に夜盗に襲われて、一人残らず狩り尽くされ、たった一晩で廃村に追い込まれたという。当時はどの村も大体同じように貧困に喘ぎ、貧しく慎ましい有り様だったが、どういうわけか直ぐ隣にある自分達の村は、滅びた村よりはいくらかは裕福であったのにもかかわらず、夜盗の襲撃が一切及ぶことはなかった。実は津波の被害に遭ったのだ、いや、流行病だった、或いは夜盗ではなく国王軍の兵達が村に向かうところを見た、など根も葉もない噂が流れ、人々が真実を知るよりもいかに悲劇的な物語を作り出せるかに躍起になっている間に、実際に起きた事実はねじ曲げられ、次第に真実を知る者が消えていった。話には尾ひれが付き、曰く憑きだと噂が広まると、人々は故意に村の存在を忘れていった。
「親切に忠告をありがとう。でも、行き先はこちらで合っているんです」
旅人は立ち止まり、人好きのする笑顔を浮かべた。
「へえ、あんな何もない所に行こうなんざあんたも変わっているねえ。何か用事でもあるのかい」
「少し私用が。ところでさっき、この先は荒野しかない言っていたけど、草木は生えていないのかな」
「ああ、村が消えてから、どういうわけかあの辺り一帯はまったく植物が育たなくなってね。丘の上にあった立派な木もあっという間に枯れちまったよ。綺麗な丘だったのにもったいないねえ。今じゃ動物どころか虫一匹だって住んじゃいねえよ。村の連中は呪われた土地だって怖がっているみたいだがね、俺は変わり者だから、あの殺伐とした荒野がどうしても憎めねえんだよなあ。なんて名前の村だったかなあ、最近物忘れが酷いのかずっと思い出せなくてね。他の奴らにも聞いてみたんだが、誰一人として覚えちゃいなかったよ。そんな難しい名前じゃなかったはずなんだが、薄情なもんさ」
「…そうですか。あの、よろしければ畑の端にある、その可愛らしい花をいくつか分けて頂けませんか」
「ああ、これは野草だから好きなだけ摘んでいきな。なんだい、あんた墓参りにでもいくのかい?村の関係者かい」
「ええと、まあそんなところかな」
「小さいのに偉いねえ」
「こちらこそ、ご親切にどうもありがとうございます」
小さい、と言われた事に一瞬眉を寄せた旅人は、気を取り直して開墾された直ぐ横に群生する白と黄色の野草の脇に屈んだ。畑の養分の恩恵を受けた野草は他のものより一回り大きく、大輪の花を咲かせていた。実は僕、少し抜けているところがあって、ここに来るまで供える花のことをすっかり忘れていたんです。と照れくさそうに言った。そして一際大きな花を一輪手折ると、その白い花弁に鼻を寄せて、嬉しそうに表情を綻ばせた。この花、好きだって言っていたなあ、本当にここで声をかけてもらえて良かったです。
「うちの息子もあんたくらい礼儀がなっていればよかったんだけどね。それにしてもあんな辺鄙な所に行こうなんて物好きは本当に珍しいんだ。何年か前に、あんたみたいにこの道を通っていった旅人を見送ったのが最後だったかね。丁度あんたと同じくらいの背格好の娘さんだったな。たまに見かけるから何度か話す機会もあったもんだが、そういやここんとこめっきり見かけなくなったなあ」
「ああ、それはきっと僕の母です」
「なんだって?あんたみたいな子供がいるような歳には見えなかったがね」
「…あはは。母は昔から若く見られるんですよね」
「たまげたなあ、俺はてっきり10代そこそこの若い娘さんだとばっかり思ってたよ。そうかい、あんたはあの人の息子かい。もうあれから何年も経つんだなあ…俺も歳を取るわけだ。母ちゃんは元気かい?」
気の良い優しい娘さんだったなあ。そういえば、雰囲気がなんとなくあんたに似ている気がするな。男はきっと、今と同じ調子で話かけたのだろうと容易ににその光景が想像できた。
「…ええ、まあ」
「悪いな、込み入った事情なら深くは聞かねえ方がいいよな。ほら、久しぶりの墓参りなんだ、ありったけの花を摘んでってやんな。あの辺りの墓も昔はみすぼらしい寂しいもんだったが、随分昔にどこか遠い国のお偉いさんがやってきて、あっという間に立派な墓地を作っちまったからよ、こんなどこにでも咲いてる野草じゃ格好がつかないかもしれねえけどな」
「ありがとうございます、この花で大丈夫です」
寧ろこっちの方が喜ばれるかな、男には届かない小さな声で呟いた。鼻歌でも歌い始めそうな陽気な農民の男は、あんたも大概変わっているねえとしみじみ言った。もっと派手で綺麗な花だって見慣れているだろうに、近くでまじまじと顔を覗き込むと、少年は田舎の村ではみかけない、知性が滲み出た品の良い顔立ちをしている。
「しっかし本当に礼儀のなった子だなあ。よく見ると良い身なりをしてるし、いいとこの坊主なんだろう?親の躾の賜物ってやつかい、いいねえ」
「ええ、僕の母はとても素晴らしい人です!」
まだあどけない顔立ちを残した少年は、目を輝かせて頷いた。等身大の、年相応に見える表情は穏やかでまったく擦れていない。男は昔、これとよく似た表情をする人物に会ったことがある。
「でもあんた、顔はどっちかってえと父ちゃん似だろ?」
「……父は僕が物心つく前に亡くなったのでよく覚えていないんです」
手を休めて、旅人は遠くを眺める仕草をした。でも、確かに僕達は似ていないと言われることが多いかな。爛々としていた瞳はみるみるうちに陰を帯びて暗くなっていく。表情がころころと変わるのは未熟さゆえのものか、それとも親譲りなのか、男には判断が付かなかったが、根拠はないがなんとなく後者であるような気がした。
どんよりと、摘んでいた花が枯れてしまいそうな空気を醸し出した少年の肩を景気付けに叩いてやると、うわあ、少年は勢いよく前のめりになり、慌ててたたらを踏んだ。頼りないその姿に、一人旅など大丈夫なのだろうか、と不安に思う。
「ああっと、悪いな、息子にも加減ができてないってしょっちゅう怒られるんだよ。ほら、俺も花を摘むの手伝ってやるからあんまり暗い顔すんなって!仏さんだって笑顔の方が喜ぶだろうさ。こんだけ細くてちっこい体で一人で来ただけでもたまげたもんだが。こんな辺鄙なところまで来るのも大変だっただろう?」
「ええ、でも母との大事な約束なので」
少年はそう言って寂しそうに、懐かしむように微笑んだ。ずっと、母の見た景色を見たいと思っていたんです。
両手に抱えきれない大量の花を持った少年は、作業の手を休めてまで手伝ってくれた親切な農民の男に丁寧にお辞儀をすると、人気のない道をたった一人で歩いて行き、やがて見えなくなった。
農民は、旅人の姿が完璧に見えなくなる直前に、立派な体躯の白銀の獣が馴れた様子で彼の横に並ぶ姿を見た気がした。その仲睦まじい後ろ姿は、瞬きをするともう霞のように消えていたので、気のせいだったのだろう。
摘み残された小さな白い花が風にそよいで揺れている。男は久しぶりに温かく穏やかな気持ちになって、しばらくそれを眺めていた。




* * *




一羽の鳥が頭上を駆け抜けた。
みるみるうちに小さくなっていき、やがて影が残像となって脳裏に残る頃、昔見た鳥の正体が何者であったのかを思い出す。


ある墓標の前に立ち尽くす人影が一つ、まるで存在が曖昧な蜃気楼のように全身を黒で包み、時々裾が風の中で舞った。墓標の前には大きな穴が開いており、それは人が二人分入る大きさで、光が射し込まないどこまでも深い地層へ続いている様だった。片手を墓穴のちょうど中心まで掲げ、握られていた一輪の花をその中に落とす。花は時間を永遠に刻まない空洞の中に取り込まれ、二度と戻ってくることはない。佇むその人自身が墓標であるかのように、束の間周囲は沈黙し、人知れず黙祷は日が沈むまで続けられた。時々、黒い蜃気楼が震えるように、体が軋んで音もなく叫び声を発した。幸福とは程遠い、それと対を成す存在が咆吼をあげて、果てない底から手ぐすねを引いて、望まぬ者をも飲み込もうと躍起になっている。
翌日の朝にはすっかり穴は塞がれ、新しく盛り上がった土壌に白い小ぶりの花が添えられる。
それからなだらかな丘陵を上った。地肌をさらけ出した貧しい土地は、生きるものの息吹を一切感じさせない。捲れ上がった大地から垣間見えるのは、儚い世の慰みに値する、壮大で静寂な死の在るべき姿だ。
かつてこの一体が緑の海であったことを、もう誰も想像することが出来ない。死んでしまった地を踏みしめて、ゆっくりと足を進めた。
時々立ち止まって、何度も振り返る仕草を繰り返し、前も後ろも変化は訪れないことを知りながら、何度も、何度も。
足下を眺め、振り返っては地平線を覗く。青草を掻き分けて整えられていた細い道は、今やその面影を残すことなく、所々隆起した土が行く手を阻み、大小様々な小石が忘れ形見のように転がっている。そこは最早、人々に見捨てられた土地だった。生きるもの全てに背を向け、向かう先は死地とも違う、乾いた大地。踏みしめてもそこにはあらゆる実感がない。捨てられた感触は冷たくも温かくもない無機質なものだった。
ようやく丘の頂にたどり着いた時に、太陽は地平線の彼方へ沈みゆくところだった。
静かに瞼を閉じる。祈るように手を組み合わせ、大地に横たわった。叶わなかった夢を携えて、祈るように眠りにつくのだ。
息遣いが次第に収まっていく間に、抱えきれない思い出を飲み込んで。



一人の青年が忘れられた地に降り立った。迷いの無い足取りで丘へ向かう。
昔、一人の少女が愛した丘だった。

いつか、この丘から飛び立ちたいと言った。
その手を取りたいと言った少年がいた。

しかし少年は少女を置いて丘を去り、月日が流れて、少年が歳を重ねて、懐かしい故郷に戻った時、彼が目にしたものは荒廃した丘の上に寂しく佇む枯れた大木と、その根元につくられた、小さな墓標だった。少女がいつも座って海を眺めた定位置にある、くたびれた木片に小さく刻まれた文字が難解な暗号に見え、たった一行の文字の意味を理解することに苦しむ。ようやく、ようやく迎えに来たというのに。
その時、まだ若かった青年は、世界がひっくり返る程の絶望を覚えた。はしばみ色の瞳に抑えきれない感情が走り、噛み締めた唇が震える。得体の知れない黒いものが体中を這いずり回り、吐き気を覚え、その場に蹲り、そのまま力一杯拳を大地に打ち付けると、大地が悲鳴をあげて、墓標として立てられた粗末な木片が泣いた。それを見て青年も泣いた。外聞も気にせずに大声を上げて泣いた。泣くと言うよりは絶叫に近く、悲しみよりも怒りに近かった。途方もない絶望に、世界はひっくり返ったのだ。一度ひっくり返ってしまえば、留まっていたものが真っ逆さまになて落ちてくる。抗える術はないので止め処なく落ちてきた。
しばらくして、涙も枯れ果てる頃、ひゅうひゅうと風が枯れた枝の隙間を走り回り、風の音よりも甲高い鳥の鳴き声が頭上で響いた。墓標に留まった1羽の鳥が青年に語りかける。
―――貴方は、大切なものを取り戻したいと望むか―――
青年は唖然として頭上を見上げ、縋るように頷いた。瞳の奥に、炎の色に似た熱が宿り、青年の前で鳥は確かに微笑んで見せた。
――では、賭をしよう。もし貴方が賭に勝ったとしたら望むものを与えよう――
お前は何者だ、警戒を露わに睨め付ける男の肩に留まった鳥は、くちばしを閉ざしたまま、暗闇の中でも一層紅く丸い眼をくるりと回して最初から全く抑揚のない声で囀る。
――名前などとうの昔に忘れてしまったよ。けれども、人々の中には私のことを神と呼ぶこともあるね。貴方はどう思う?救いの手を差し伸べない私を神などと呼ぶことになんの意味があるだろう――二つの眼には一切の感情が宿らず、不自然に紅いままであった。
――
私には知りたい事が山のようにあるのだが、思うに、切欠が足りなくてね――
賭に負けたら、どうなるのか、敢えてその問いを尋ねることをしなかった。賭に勝つ自信があったからとも言えるし、不利な賭に最初から乗るつもりがなかったとも言える。青年に信仰心はない。ただ幼い頃、少女が熱心に夜空を統べる神がいることを聞かせてくれたことを覚えている。そんな不確かなものを信じられるものか、と異を唱える少年を少女は眩しそうに見て、それでもね、藁にも縋りたくなる時があるんだよ、と言った。

それから青年は、縋るように墓標を暴き、それ・・を手にした。
気が付けばとっくに日は落ち、月光が煌々と丘の上を照らす夜が青年を包み込んでいる。鳥の気配は消えており、足下には不思議な色をした羽が一枚、残されていた。それを手に取った時、これでようやく約束が果たせることを思い知った。同時に、彼女が長い夢から覚めた時、誰よりも近くにあって、すくってやれるのは自分以外にはいないと確信して、笑いが零れた。優越感、独占欲、この腕の中に戻ってくるならなんでもいい。ひっくり返ったままの世界をそのままに、笑いはいつまでも止むことはなく、ずっと体中に留まり続けた。

さあ、あの時違えた道に戻って、今からやり直すのだ。

彼には確信があった。彼女が長い旅路を終えて、最後に選ぶ場所を。彼女は見えているものだけを信じて疑わないので、見えないところで未来が少しずつ、変化をはじめていることに気が付かないでいること。
力強く大地を蹴り上げ、なだらかな丘を一気に駆け上がった青年は、枯れた太い幹に寄り添うように立っている女性の元へと迷うことなく辿り着いた。どうして、唖然と目を見開く女性の前で、両手を大きく広げ、これ以上ないくらいに、強く優しく抱きしめた。包み込んだ華奢な体は相も変わらず乾いた大地のように冷たい。ああ、可哀想に、思遣りの言葉を捧げながら、唇の端を上げた。ずっと待ち望んでいたことを君は知らない。
遅くなったが、約束を果たしに来たんだ
――――
その瞬間、蒼い瞳が一瞬、眼下に広がる荒野とその先の青い海を捉え、選べなかった過去と未来を想い、抱いた広い背の標す未来を想い、一粒だけ涙をこぼした。

大人になった少女はもう夢を見ない。


END.


2014.01.19. up.

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