幸福を海に沈めて



「どうにかしなければならない、ずっと考えていて、躊躇している間に結局全てが終わっていて、その瞬間からどうにかしなければならなかった、に変わっていて、そうなるともう悔いる以外に出来る事なんてない、後悔なんて結果を変えてくれるようなものでもないし、後ろめたい気持ちを緩和する為だけの自分に都合の良いものでしょう」

馬鹿みたいな習慣だ。
法廷で罪を告白する被告人にでもなった気分で重々しく言葉を発するが、肯定も否定も返ってこなかった。無反応、それが何よりも堪えることだと知っているなら、今正しく罪人として立っていることを実感せずにはいられない。貴女の罪とは何か、問われるわけでもないが、責め立てられるように再び口を開いた。
「後悔によって過去は変えられないが、未来を変えることが出来る、と言った人がいます。何通りもある未来から正しい方向を導く為に、わたし達は後悔を繰り返してゆくのだと。果たしてそれは正しいのでしょうか。わたしは、この過ちの先に未来をみることが許されるなんて思えないのです」
「君は一体何をそこまで憂いているのかな」
時々、全てなかったとばかりに笑っている自分が滑稽に見える。泣いても笑っても過去は戻ってきたりはしないが、それはどんな時でも心臓の隣にいて、時々きつくきつく締め付けてくる。わたしにとって過去は過去ではない、現在もこうやって続いている。
「最も最悪な事は、自分で声を上げない限りこの過ちは暴かれないということ。証人となる人々が既に去ってしまった今、わたしは誰にこれを打ち明けるべきでしょうか、一体誰に裁かれるべきでしょうか」
「そんな期待を込めた目で見られても私には君を裁くことはできないよ、愛しい
高くも低くもない、ただ優しいだけの声がわたしの頬を撫でるから、再び沈みゆこうとする瞼をこじ開けかぶりを振った。
「ええ、知っています、貴方は残酷なまでに優しいお方だから。それに貴方は後悔などしたことがないのでしょう」
すると高らかな笑いが降ってきた。小さなつむじ風が起こり、暖かくわたしの周りを舞った。
「私が後悔などできる筈がない。そんなことをしたら君たちの世界がすっかり沈んでしまうだろう。けれども、君たちの憂いは私も同じように感じてきたよ」
「情けないことに、つい最近までそのことに気付かなかったんです」
「それも仕方のないことだよ。私は特別君のことを気にかけていたからね、そしてそれは君の両親の願いでもある」
思い至って顔を上げると、数個の星が頭上を滑っていった。神様はああやって溢れた哀しみを流すのだと教わった。どうして哀しみは光輝を放って落ちていくのか、拾い掬うことの出来ない彼方へ向かうのか、その結末は天上の神しか知り得ないことだ。
「君の両親は今時珍しく私に敬神だったね。私など時代と歴史のひだに埋もれた名ばかりの古参者だから、自分でも久しく忘れていた使命を思い出させて貰うくらいに彼らの声は良く良く届いていたよ。最も君に入れ込んだのはそれだけが理由ではないが」
「わたしを生かして下さったのは貴方ですね」
「…さて、どうだろう。半分正解で半分が外れ。真実は君が思っているほど美談とは限らないよ。例えば私達がこうして直接会うのは3度目であるとか、私が君に抱いている感情の一片が君の命に直接繋がっているとしたら、そうだな、この感情が人間の言う『後悔』により近いものかもしれないな。それぞれの要因が絡み合って、私は君にいくつか干渉することにした」
「わたしはその事に気が付く為に10年もの年月を要しました」
「気に病むことなどないよ。そのようにし向けたのだから」
「病んでいるのではなく、咎めているのです。一体いつから貴方はわたしに干渉していたのか、一体いつからわたしは貴方に蝕まれていたのか、…わたしの正常な思考を奪っていたのか」
沈黙が支配する間、また幾つかの星が流れていく。小さい頃、流れ星が欲しいと両親にねだったことがあるが、今となっては滑稽な話でしかない。あの頃はただ美しいものが好きだった。人の業が何よりも煌々と輝くことさえ劇的に神秘的に映っていた。流れ星に願う、それは人の哀しみの上に望みを乗せるということだ。
「核心を突く質問だね、しかしまだそれを知る時期ではない。君にはまだやるべきことがあるだろう。それを成し遂げるまで、というのが私達の約束だからね。まだ暫くの猶予があるだろう」
「ええ、あと少し、ほんの少し」
「本当にこれは稀な事だよ、私が特定の人間に干渉するなどそうそうある話ではない。私は人の宿命を憂うことはあってもそこに介入はしないし、ましてや運命を曲げることなどあってはならないことだから。しかし君に関して言えばそもそもの発端が私の落ち度に因るわけだから、咎められても仕方のないことだけれどね」
産声を上げたその時から、自分の運命など決められたものだと思って、抗う術すら考えもしなかった。のびのびと羽を広げる海鳥達の羽の一枚ほどでも夢を描けたら、この道はもっと違ったものになっていたかもしれない。君の歩んだ半生は幸せだったか――それを考えるにはさらに前に遡らなければいけない。自分の価値に従順に従ってきたその瞬間まで。
「…ある日から食事の好みが変わっていました」
「私は殺生ジビエは好まないんだ」
「……異常なまでの博愛主義に駆られるのは」
「それは元々君が持っている気質だろう?誇りたまえ」
そんな筈はない、と反論すると、君はもう少し他人の意見を聞き入れる寛容な精神が必要だな、と言われた。
「貴方の干渉は時々行き過ぎています。何度奇異の視線を浴びたことか」
「仕方がないだろう、人の営みを見守ることは出来ても直接に見聞することなどなかったのだから。そういった意味では良い経験になったよ。善も悪も含め人の一期とはとても興味深く、脆く愛おしい価値のあるものだ。人間ほど永遠に満たされることの無い欲望に忠実な生き物はないと思い知ったよ。それはつまり全て頂点に立つ私達に跳ね返ってくるのだと」
私はとても、欲深いようだ。その言葉がわたしの中に浸透して沈みきると、全身の力が抜けていき、沸いた心まで沈んでいった。自然と漏れた溜息に、おや、と首が傾いた。すると絶妙に保たれていた均衡は破られ、もっと沢山の星が流れて落ちる。
「落胆しているのかい」
星は流れるのに寂静が支配する。頭上で一際輝きを放つ一等星の名はヴェガと言う。古来より夜空を統べる崇高なる神なのだと教わった。
首を横に振ると、おや、声には笑いが滲んでいた。
「神とは完全な存在でなければならない、というのが人間達の持論だからね。私の事を知ったらさぞ落胆するだろう。最もそんな完璧なものが統べる世界があるのなら、君のような人間など生まれなかっただろうね。秩序と統制、それから理性が照らす愛だけの欲望のない純然たる世界さ」
それは理想郷だ。君が抱いている後悔の念など存在しない、完全に保たれた世界。どうだい、素晴らしいと思うかい?残念ながら、私の我侭に翻弄された君はそこで生きることは適わないが――
おや、慈愛に満ちた声だった。眼球を優しい風が撫で、瞼に暖かい熱が残る。懐かしい、と思った。
「誤解のないように言っておくけど、君の感情は君のものだよ。そこには一切干渉していない。今、君が感じていることは間違いなく全て君の中から生まれたものだ。だからそのまま大事にすると良い。大切にして、どうするべきかを考えなさい。私が思うに君の中の不安や哀しみは、君が一歩踏み出すだけで殆どがあっけなく解消されてしまうだろうね。躊躇せずに打ち明けてしまえば良い。ずっと大切にしていた彼に裁いてもらうのも本望だろう」
じわじわと頬に熱が篭もって、わたしはあてもなく視線を彷徨わせた。改めて自分のものだ、と言われるとくすぐったくて認めがたいものがいくつか混ざっている。
「大事に大事にしていた彼に否定されることが怖いのかい?」
違う、と首を振ったところで意味のないことだった。君の考えていることくらい、お見通しだからね、と優しく諭されて俯いた。耳まで熱く、これが羞恥心だと身震いする。他人に心を覗かれるとこんなにも恥ずかしい。ずっと目を背けて来た。大切、なのだろうか。知らない間に大切なものが沢山出来た。それに比例して不安も増した。それは何故か。
、君はとても臆病だね。君は誰よりも自分を否定したがっている。その上周囲にまで否定されたら生きていけないと思っている?そもそも受け入れられるわけがないと思っている?」
「わたしは」
強くて優しいものに憧れた。それは自分が持っていないものだから、気が緩むと誰にでも縋りたくなってしまう自分が嫌だった。憧れは眩しすぎるから諦めに変わっていく。器用でないから、周りの平等な優しさに勘違いをしてつけ込んで過ちをなかったことにして、一人何食わぬ顔で幸せになることが恐ろしい。許されたいが、許されて良い訳がない。一人で生きていこうと誓ったあの夜、心臓は凍えても生を刻み、後悔は現在を縛り定めた未来を促すのだと知った。
「残念なことに君が恐れている事と私の憂いは似ているようでまるで対照的だね。私は君に幸せになってもらいたいのに、願いを叶えてあげたいのに、それでは駄目なのかい?」
「わたしは」
「一等の中を占めているのは誰なのか、その人物は本当に君を否定するような者なのかよく考えてみなさい」
おや、これが親心というものなのだろうか、声は徐々に遠のいていく。

「わからない」

声はたちまち霧散した。








頬を中心に熱は痛みを伴って、抗う為に躍起になって手を伸ばすと体が引きつり全身を激痛が走った。
「いいいい痛い!!痛い!」
生理的に飛び出したのは声だけでなく、体内の水分が一気に飛び出し、汗となって体を伝った。きつく歯を食いしばるとほんの少し痛みが和らぎ息を吐くと再び頬を抓られた。
「いひゃい…」
「当たり前だろ、その為に抓ってんだから」
わたしは今、簡素な寝台の上に横たわっている。死人のように白い顔をしているのは大量の血を流してしまったから。腹に手をあてると何重にも丁寧に包帯が巻かれている。黒い少年に腹を貫かれてから二日間意識をなくしていたと教えられた。たった二日で3度峠を越したのだと目の下に隈をつくったジャーファルさんに懇々と聞かされ、頭を下げようにも体が動かないので口だけで謝罪と感謝を述べた。それを上から見下ろしている彼の顔はやつれていて、あの後一体何があったのかを気軽に尋ねる空気ではなかった。兎に角無事で良かったです、と力無く微笑まれれば居たたまれない気持ちで一杯になる。
それから間もなく駆け付けたアリババくんは開口一発、ばかやろう!と怒鳴ってわたしの頬をきりきりと抓っている。その横に居るモルジアナは口を一文字に結んでこちらを睨みつけた。つまり彼らはわたしの謝罪が聞きたいわけではなく、咎めに来たという事だけは確実に理解できた。ごめんね、ありがとう?何を伝えれば彼らの溜飲が下がるのか検討もつかないし、アリババくんの気が済むまで抓られ続ける頬はひりひりと熱を持って、すっかり伸びてしまったかもしれない。情けない顔をしたわたしの眉は下がるところまで下がることに決めたらしく、力無く垂れた腕を取ったジャーファルさんが脈を測った。
「アリババくん、気持ちはわかりますがそこまでにしてあげなさい。この人はこれでも重篤患者ですからね、なにせ腹に穴を空けたんですから」
棘のある一言にアリババくんは渋々手を緩めた。
「そうですよ、どうしてあんな無謀なことをしたんですか!」
モルジアナがわたしの手を強く握りしめ、あの時はもう駄目かと思いました、と唇を噛み締めた。生きているのが不思議な状況だった、というのはジャーファルさんから聞いていたが、初めてその時の周囲の状況に思い至った。二人の顔を見上げると、同じように目元を赤くして後悔、安堵、憤り、あらゆる感情が詰まった瞳と視線が合わさった。
「無事で良かった」
ゆるりと吊り上がった目尻が下がってゆくと、同時に肩の力を抜いて二人は寝台の横に置かれた椅子に腰を下ろした。身動きの取れないわたしに代わってモルジアナが頬にかかった髪を丁寧によけてくれる。
っていつも生傷絶えないよな。初めて会った時も血まみれだったし」
口を尖らせてアリババくんが言うと、ジャーファルさんが目ざとく「それは聞いてませんでしたね」と薄笑いを浮かべた。
「…心配ばかりおかけします」
「全くですよ。貴方のお陰でこちらの寿命も縮みました」
わたしが寝かされている場所は見る限り廃墟の一角の一室のようだった。寝台から少し離れた距離にある窓からは日差しが射し込み、積もった埃が何色にも輝いて見える。建て付けの悪い扉の向こうからは賑やかな人々の営みが漏れ聞こえ、わたしを囲む人達の様子からも今この瞬間わたし達を脅かす脅威はないのだと思い知らされる。けれども重苦しい空気が室内に蔓延していて、皆がわたしの愚かな行為を追求したいと目で物語っているのに奇跡的にそれを内に押し止めて口を結んでいた。数分前のアリババくんのようにわかりやすく行動に移してくれた方がいっそ気が楽になるのに、これではまるで精神的な拷問だった。身じろぎをするだけでも引きつる腹の様子は気になるが、それ以上にこのお通夜のような空気がひたすら重く、わたしの顔色を見たジャーファルさんが、痛むなら薬を飲みますか、と言って自然界には存在しないいかがわしい色をした薬をちらつかせた。うわあ、顰め面でそれを辞退する。
「…あの後、一体どうなったのでしょうか」
恐ろしくとも聞いておかなければならない。怖々と切り出すとアリババくんとモルジアナは顔を見合わせ、ジャーファルさんは隈の出来た目を見開いて言った。
「大変でした、の一言に尽きますね。貴方がお気楽に死にかけている間、皆は恐怖と動揺で大騒ぎ、混乱に乗じてジュダルも益々好き放題で怪我人は絶えず、アリババくんまで倒れるし揚げ句は煌帝国の姫君まで現れて絶体絶命だというのに怒りに任せて暴走しかけたどこぞの無謀な王を止めるのにマスルールと私は本当に骨を折りましたねそれから」
「わかりました、わかりました!ジャーファルさん、マスルールさん、ご迷惑をおかけしました……あの、それでアラジンと、ウーゴくんは?先程から姿が見えないようですけど」
鬼気迫る様子のジャーファルさんを制して室内を見渡すと、居るはずのアラジンの姿がなかった。最後に目撃したウーゴくんの後ろ姿ばかりが記憶にあるので、途端に俯いた二人の姿を見て嫌な予感が過ぎる。視線を反らしたアリババくんが拳を握りしめ、低く声を絞り出す姿を息をひそめて見守った。
「アラジンは魔力の使い過ぎでずっと目を覚まさねえんだ。ウーゴくんのお陰であの黒いマギは追いつめることは出来たけど、その後に現れたあいつの仲間の煌帝国の連中にやられちまってさ、結局…」
アリババくんは苦しそうに顔を歪めて項垂れた。圧倒的な力の差に為す術もなかった。勝手に巻き込んでおいて大切な人を深く傷つけてしまった。その言葉が深く残酷に胸に刺さる。しかし彼の瞳は死んではいなかった。直向きな少年の心は強く、後悔を未来に昇華できる人だ。わたしとは一体何が違うのだろう。持って生まれた抗えない魂の性質、眩しくて目が眩んでしまう。
「アラジンは大丈夫、アリババくんを置いていったりはしないよ」
「そうだよな」
言い聞かせるようにはにかんで、深々と頷いた。
「外傷はありませんし、恐らく魔力が回復するまで一時的に昏睡状態になっているのでしょう。彼は今、隣の部屋で静かに眠っています。さん、貴方より幾分もましですよ」
「あはは…マリカは?」
視線を彷徨わせるとモルジアナが躊躇い気味に口を開いた。
さんの傍を離れたがらなかったのですが、ジャーファルさんにそれは衛生上良くないと言われてしまって今はアラジンの部屋にいますよ」
「そんなことないのに」
「駄目です。貴方は一体ご自分がどのような状況だったか全く理解していないようですね!本当は暫くは面会謝絶にしたいくらいですよ!峠は越えたものの、只でさえ治療に不自由な環境で一番恐ろしいのは感染症なんですからね」
身を乗り出して捲し立てるジャーファルさんにおののき何度も頷いた。元々体は丈夫な方なので、言われてみれば大怪我だという実感がなかった。波瀾万丈な旅の道中で感染症なんて恐れていたら一歩も進めなくなってしまうから気にしたこともなかった。この十年間で驚くほど丈夫になった自信はあるけれど、それが過信だと言われれば否定できない。でも、そうやって誤魔化しながら生きてきた。
腹に空いた穴などどうやって塞ぐのか検討もつかないと呑気に首を傾げたら、たった2日で塞がるわけがないでしょう!と怒鳴られた。つまりわたしの腹は依然大変な事になっているわけなのだ。
「シンドリアから腕の確かな王宮医師を呼んでいますからそれまで辛抱して下さいね」
「そこまでして頂かなくても、それほど痛みもないですし、そのうち治るかと」
王宮医師という単語が出てきただけで穏やかではない。一介の旅人にそのような手厚い治療が必要か否かなんて明白だというのに。分不相応な好意に困惑すると気色ばんだジャーファルさんはわたしに指を突き付けて言った。
「痛みがないのは薬で散らしているからです!貴方は一体どういう神経しているんですか?まさか舐めておけば治るなんて馬鹿なこと考えていないでしょうね、普通なら助からない大怪我なんですよ、そうやって呑気に構えてるのがあり得ないくらいなんですよ?!」
「ジャーファルさん落ち着いて!」
「充分過ぎるくらいに落ち着いています!」
想像以上にジャーファルさんに迷惑をかけていたと知って、それはきっと他の皆も同様で、突然抗い難い後悔の念が込み上げてきた。彼らは何も聞かない。あの時、わたしが衝動的に死にたがったことについて、愚かな衝動に負けた弱いわたしを責めることもしない。
「今更そのように神妙な顔をしてみせたところで何も変わりませんよ。異論があるのなら我が王へどうぞ。今回の采配は全てシンの一存で決められたことですから」
その言葉に顔を顰めると、ジャーファルさんを宥めていたアリババくんが不自然に固まった。もう一度気を失えたらどんなに良いか、心の中で念じてみたところで頭は冴え渡っていく一方だった。不本意、を声に乗せると必要以上に冷たい響きになるので、出来る限り黙っていたかったというのに。
「その事に関してですが、さっきからずっと扉の横でこちらを射殺さんばかりに睨み付けている不機嫌な人を追い出してもらって良いでしょうか。あれこそ傷に障るんですけど」
「おや、ずっと無視なさっているから見えていないのかと思っていましたよ」
「いや、思いっきり視界に入ってくる位置ですし、最初っからあそこにいましたよね」
わたしの寝ている寝台の向かいに木製の扉がある。その直ぐ横に凶悪な目つきの男が腕を組みながら、不機嫌な様子を隠そうともせずに壁に体を預けている。目を覚ました瞬間からそこに居たので一体いつからあの体勢のままあそこに居たのかは定かではないが、少しでも視線を正面に向けると視界に入るので非常に恐ろしい。
「ばっか!お前どんだけ鈍感なんだよって思ってたら無視してたのかよ!」
「だって声かけたら呪われそうで怖かったから」
「知るか!俺の寿命が縮んだだろ!」
わたしが視線を反らす度にその人の指は神経質にとん、とん、と揺れていた。なんて堂々とした殺し屋か、などと軽口を叩いたら最後、本当に実行に移しかねない様相だったので出来る限り触れないでおこうと思っていた。しかしわたしの訴えは当然とばかりに黙殺された。
「まったく付き合い切れません」
ジャーファルさんは大袈裟に溜息を吐き出すともう一度わたしの脈を測り、そろそろ薬の時間ですねと薄笑いを浮かべている。
「さてと、私はアラジンの様子を見に行く時間ですので、ちゃんと薬を飲ませてもらってくださいね」
「えっと、誰に?」
冷や汗が吹き出るのを感じながら見上げると、にっこり笑ってジャーファルさんは出て行った。その後を追うようにマスルールさんがお大事に、と妙に生暖かい目をして去っていくのを呆然と見送っているとアリババくんが勢いよく立ち上がった。勢いが付きすぎて背後に椅子が転がると、モルジアナが甲斐甲斐しくそれを直してやる。
「あーっと俺もアラジンの様子見てから特訓しないといけないからもう行くわ!」
「私も他の負傷者の皆さんを看て回る時間ですので」
「アリババくん?モルジアナ?」
「じ、じゃあな!」
「マリカにはさんが目を覚ましたことを伝えておきますね。どうぞお大事に」
モルジアナが丁寧にお辞儀をしてから扉が閉められると、反動で木製の寂れたそれは情けない叫び声をあげた。まるでわたしの心の内を代弁しているように聞こえ、頭から掛け布団を被ってしまいたいと思った。実際に布団に手をかけたところで、不機嫌の権化のような男は無言でこちらに向かってきた。室内の重々しい空気の大半はこの人から発せられていたのだと今更に気が付いて、無視をすることが出来ずに身構えれば、わたしの枕元に静かに腰を下ろした。簡素な寝台は二人分の重みを受けてぎしりと傾く。向けられた突き刺さるような視線はずっと、わたしが意識を取り戻してから一秒たりとも反らされることはなかったので、恐ろしい執念だと思った。その視線の先が自分だと意識をするだけで気がおかしくなりそうで、ずっとそれに向き合えないでいることに罪悪感が芽生え始めている。まるで罪人の心理。
深く深呼吸をしてゆっくりと顔を傾けると、燃え尽きる寸前の流星のような二つの瞳、それに反して彫刻の如く無表情のシンドバッド王がいた。一体どちらが怪我人なのか、真っ白な肌が亡霊の有り様だった。ああ、酷い心労を与えてしまった。弾けた罪悪感に、布団を掴んでいた手を伸ばすと、恐ろしく熱い手の平に包まれた。
空いている片方の指はわたしの頬を滑った。
「赤くなっている」
「アリババくんに抓られたからね」
2日ぶりに聞いた声は少し掠れていてざらついて聞こえた。余所余所しく撫でられる頬はくすぐったいのか心地よいのか良く分からない。分かる事と言えば、いつもなら良く喋る男が無言になるとただでさえ重い空気が格段に悪くなるという事くらいだ。
「あの」
「なんだ?」
「薬を取って頂けませんか、ジャーファルさんに飲むように言われたので」
問題ないと強がって見せた手前、情けないことだけど体に力が入らず、自力で起きあがることもままならないがらくたの人形になってしまった。どうしてジャーファルさんはあんなに遠いところに薬を置いていったのか。するとシンドバッド王はわたしの背中に腕を滑らせ、ゆっくりと体を持ち上げ薬が飲みやすい位置まで固定させた。そのまま手渡された水呑にはどろりとした得体の知れない液体が入っている。
「うわあ」
その上酷い臭いがする。良薬は口に苦しとは正にこのことだ。息を止めて一気に飲み干すと想像以上の噎せ返る劇薬に意識が飛びかけた。これはきっと、ジャーファルさんのささやかな報復に違いない。
「み、水を――
それは一瞬で、呻き声は待ちかまえていたシンドバッド王によって塞がれてしまった。途端に生温いものが口の中に流れ込むと咄嗟に叫び出すことも適わず、くらりと体が傾いだ。それが水であると認識するまでに数秒の間を要し、気が付いた時には全てが手遅れだった。背中に回っていた腕はいつの間にか後頭部に固定されていて、怪我人のわたしには抗うことが困難であったし、もしそれがなかったとしても状況が飲み込めなかったために思考が石のように固まってしまい、すっかりシンドバッド王に飲み込まれてしまっていた。空いている方の手が無防備な首筋から鎖骨へ滑っていく。探るような手つきだ。少し力を込めただけであっさりと折られてしまう自分の首を想像してぞくりと背中が跳ねる。ああ、息も苦しい。わたしはこの人の手に因って死ぬのだろう。しかし大きな手はわたしの皮膚の上を執拗に滑るばかりで、一向にそれはやってこなかった。飲み干したばかりの薬はまだ効いていないのだろう、白い包帯の巻かれている腹部から心臓にかけて痺れるような痛みが走った。乱暴ではなく、かといって優しくもない、しかし執念深く重ねられたその熱さと冷たさに震えると、唇の端から水が零れ顎を伝っていく。意思を失った手元から水呑が転がり落ち、布団の隅の方でひっくり返った。まるでずっと正気を保っていたかった自分のように滑稽に転がる様子を目で追うと、咎めるつもりか荒々しく唇に噛み付かれ、思わず悲鳴が漏れた。
途端に我に返り、兎にも角にも苦しくて慌てて固い胸を押しのけるように叩けば、それまでの執念がが嘘のようにあっさりと解放された。羞恥心よりも恐怖心が芽生えている。何故なら今も尚、鼻と鼻が触れそうな距離でこの人は熱い視線をわたしから1ミリたりとも離そうとしないからだ。それはずっと、飲み込まれている間もずっと。目を離したらわたしが逃げ出してしまうとでも思っているに違いない。恋人同士の甘い熱とは程遠い、囚人を監視する厳しく冷ややかな眼差しをしている。
「ほ、欲しいのは水で」
すると再び顔が近づいてきたので慌てて手を僅かな隙間に滑り込ませる。
「いや、普通に、水を、ください」
薬の味などとっくに飛んでいたけれど半分意地になっていた。ようやく手元に渡った水で一息をついて冷静になると、折角取り戻した水分があっという間に蒸発していく様だった。たった今、何が起こったのか。目まぐるしく思考を働かせて、まだジャーファルさんのようにやかましく説教を垂れ流された方が、いっそ精神衛生的に好ましいと思う。ここまで終始無表情、恐るべき無言の圧力に耐えられなくなるとついに頭を下げた。
「ごめんなさい」
「反省は」
「猛省しています」
だから睨まないで、消え入りそうな声で言うと大きな溜息が降ってきた。恐る恐る見上げれば、多少棘は残っているものの、普段のシンドバッド王がいた。
「本当に反省しているんだろうな」
「はい…」
しおらしく項垂れると頭に重たいものが乗せられた。頭上から声がする度に震動が伝わるので、それはシンドバッド王の顎だと直ぐに分かった。怪我人にもたれかかるなど、先程からこの人のわたしに対する仕打ち重病患者に対する思いやりからかけ離れているのではないか、当の本人までどこか病気でもあるのかと疑いたくなる弱々しい声に呆然とした。
「悪夢なのかと思った」
数秒前までの猛々しさはどこへ消えたのか。重力を伴っているかのような重い声は頭上から爪先まで落ちていく。悪夢ならばいずれ醒めると教えてあげることが出来れば良いのに、一番に疑っているのが自分だから、ごめんなさいと謝ることしか出来ないなんて。
「あの一瞬でどれだけ俺の寿命が縮んだことか。どうしてあんなことをしたのか説明してもらおうか」
正しくそれだ。ジャーファルさんやアリババくんにも言われたように、わたしは他人を不幸にして、命を吸収して生きている死に神なのではないか、少し前にアリババくんとモルジアナに打ち明けたことを思い出しながら、真実はありのままに残酷だと気付いてしまった。
「あんなことって、こうして怪我をしたこと?」
「当たり前だろう、どうしてこんな無謀なことをしたんだ、一歩間違えば死んでいたかもしれないんだぞ」
「それは大丈夫だって確信があったから。あの子、ちゃんと急所は外したでしょう」
「そんなものは結果論だ」
「違うよ、これは決定論。死なないって確信はあった。正確に言うと、それを確固たるものにするために必要だったんだ」
頭上の空気が氷る気配がして、シンドバッド王の表情が見えないこの位置がとてもありがたいと思う。こうなることはね、故郷をなくした瞬間からずっと歩いてきた道程すべて決められていたこと。少ない選択肢のなかで、最良のものを選んできたつもりだけれど、その陰で犠牲にしてきたものの多くについては償わなくてはならない。
「どういう意味だ」
強張った声と共にわたしの体は再び寝台の硬いうねりの中に静かに横たえられた。監獄の絶望を感じさせる床にも似た布越しの冷たく硬い感触は怪我人であるはずのわたしを受け入れない。傷に気を遣って姿勢が楽になるようにと敷き詰められたクッションに埋もれるようにして沈んだ自分の頭の直ぐ正面には一際険しい色を携えたシンドバッド王がいる。彼の手が先程のモルジアナのように乱れた髪を手櫛で整えると、そのまま頬に添えられた。
「もし氷柱が心臓を貫いていたとしても、今と状況は変わらなかったということ。という人間はずっと前から死ぬ事を諦めてる」
その象徴がこの腹の傷だ。永遠に消えない戒めに寄り添う位置にある心臓はまるで寄せ集めのまがい物のように余所余所しい。刻む鼓動は他人行儀で一向に狂いをみせない。それが全て。
「想像が及びにもつかない無慈悲な恩恵のお陰でね、こうして大事な事に鈍感になってしまったみたい。心配される度にちぐはぐに噛み合わなくなっていく。皆が優しすぎるから、そこにつけ込んでいる気にさえなる。ジュダルははっきりと気味悪いって言ったでしょう。あまりにも的を射ていたものだから、もしかしたらマギなら、って思ったんだ。偉そうな事言って結局あの子の暗い部分につけ込んだんだから酷い話だよね。
あの瞬間、周囲の状況なんて構わずに自分の事ばかりを考えていた。全てを捨てて逃げ出すこととか。今までやってきたことが全て台無しになるけれど、それでも良いかも知れない、と一瞬でも思ったこと、それが叶わないことも許されないこともきっと計算に入っていたのだと思う。兎に角、冷静だと思って信じてきたものが見事にひっくり返った時、お粗末な顛末が滑稽で惨めだった」
償いをせずに自由になどなれるわけがないのに。頬に添えられた手をそっと引き剥がすとそのまま腹の位置に持っていった。包帯の下は触れただけで不自然に窪んでいるのが分かる。大人しく従ったシンドバッド王の手は触れた瞬間に強張り、頭上で息をのむ気配がした。そこにあるものがない。臓器の損傷はつまり死を意味する。即死は免れたが、それでも何故平然と生きていられるのか。彼の手が熱いのではなく、自分の手が冷た過ぎるのだと気が付いて泣きそうになった。
「もしかしたら、なんてなかった。結局は神様に愛されているんだ。たとえどんなに汚れた魂だろうとも許す、と仰るからこの傷もじきに癒えるよ」
「君は」
「どこから突っこんだらいいのかわからないって思ってるでしょう。正義感の強い貴方のことだから自分の事のように罪悪感すら感じている。でもそれは全部勘違い。全部自分勝手に自作自演で悲劇を演じただけなのだから、さっきのように怒りこそすれ気に病む必要はないのに…といっても無理なのかな。貴方は時々律儀で優しすぎる」
腹から離れていく指先を名残惜しく見ていると、何一つ理解出来ている筈がないのに、不思議と確信の篭められた瞳がすっと細められ、そのただならぬ気配にわたしは口を噤んだ。本当ならこの人が口を挟まないうちに全てを畳みかけてしまうつもりだった。それが視線一つで見事に崩れ去った。ご丁寧に人払いがされているのだろうか、先程まで賑やかだった扉の向こうがすっかり静まりかえって、人の気配すら感じさせない。なかなか口を開かない癖に視線ばかりが鋭い人の威圧感に気圧されて、静寂と視線に包まれる中、息を殺してじっと待った。
シンドバッド王が静寂を破るのはそれから間もなくのことで、わたしの内心に反して恐怖を覚えるくらいに落ち着いた声だった。
「優しい、か。本当にそう思っているなら未だ君は幸せだな。いい加減君のその謎かけに付き合う余裕もなくなってきたからもう優しくしてやれないかもしれないが」
それはわたしの思考が凍りつくのに申し分ない前置きだった。この人の「すまないな」ほどお飾りで心ない言葉はないと思う。国王という大層立派な身分を得ると謝罪がなんたるかを忘れてしまうのだろうか。意識を飛ばしかけたわたしは次の言葉に心臓までをえぐり取られるくらいの衝撃を受けることになる。

「一つだけ確信を持っていることと言えば、君の名前はではないだろう?」

咄嗟に伸ばした両手はあっさり拘束されて、口封じに失敗した唇は綺麗な弧を描いて、わたしの頭上を滑っていく。為す術なく、お願い、やめて、と懇願したところで、優しくしてやらないと宣言をされてしまった直後では免罪符にもなりはしなかった。耳を塞げば良い、けれども両手は頭上で拘束されてしまっている。
全身で拒否を示したところで救いはやってこない。そんなわたしを見たこともない顔をした人が見下ろしている。



体中を得体の知れない電流が走った。張りつめていた緊張感が効力を失い、体中から力が抜け落ちて、一番最後に心臓が止まる。全てを寝台に投げ出すと瞼を開くことすら億劫で瞳を閉じた。



もう一度呼ばれる。どうしてこのタイミングで思い知らされるのか。一番恐れていた筈なのに、気が狂いそうな程安堵している自分がいる。静寂に包まれた室内で彼の声はよく響く。耳元に優しく降ってくる。雨が大地を叩く恐ろしい音でもなく、海が陸に上がろうとする愛おしい音でもなく、わたしを現実に突き落とす呪いに似ていた。
「こんなのって酷い、あんまりだよ」
超えてはならない境界線、暗黙の了解だと思っていたのに。酷い裏切りを感じて憤りたいのに心臓は止まってしまっている。だというのに置き去りにされた時間は新たに時を刻み始めようとしているなんて。
「酷いのはどちらだ。目の前で自殺未遂までされてみろ、これでも穏便に済ませてやったつもりだ」
絶句した。穏便の意味が理解できない。わたしが固まっている間、何度か名前を繰り返され、懐かしさと虚しさが同時に込み上げてきて、もういい、止めてと声を絞り出すまでシンドバッドは止めなかった。この名前を持った少女のことを覚えている人間は後どれ程いるのだろう。忘れられた神と同じ、とっくに故郷と共に忘れ去られた記憶の欠片。自嘲気味に笑うわたしの顔をシンドバッドが訝しみながら覗き込んだ。真実を知ったらこの人はどんな顔をするのだろう。悪戯を思いついた子供の気分で、しかし気分は少しも上昇していかなかった。
「なあ、教えてくれ。俺の知らない君の過去全て、何があったのか、何を見て何を思って何を背負ったのか。何一つ知らされないままでは我慢がならん」
何故貴方がそのような顔をするのか。同情なんて最も要らないもの。
本当に告げるつもりも、巻き込むつもりもなかったんだよ。綺麗な思い出のままやがて風化していくその時まで、時間を止めていたかった。それを誰よりも望んでいたのは自分自身。卑屈なところなんて見せたくない、煩わせたくない、その眩い一生のたった一瞬重なっただけの関係だ。時々思い出してくれるだけでいいの。それ以上は望まない。だのにどうして君は覚えているの。わたしは今でも強くて優しいものに憧れている。その羨望の視線の何歩も先で、君は大きく胸を張って沢山の人を支えて世界を動かす人だ。だから決して振り返ってはいけない。

なのに、あんまりだ――

未だ完治していない傷の部分を撫でながら瞼を閉じた。痛覚は遠くに追いやられてしまった。白い包帯が再び赤く染まり出す前に沈めてしまおう。
幸せだと感じるものを全て海に沈めて、その中を漂う夢。
胎児のように丸まって、溶け込んで。
全て打ち明けてしまえば良い。脳裏を過ぎったその言葉をやんわりと追い出して言った。

「残念だけど、貴方の知っているという少女はとっくの昔に死んでしまった」




2013.08.25. up.

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