どうでもいい話をしよう



「お母さん、今夜もあの話を聞かせて、星の神様のお話」
眠りにつく前、こうしてせがむと、こないだもお話したばかりでしょう?と母は困った顔をしながら寝台の端に腰を下ろした。
あの頃、わたしは百千の星々の王アン・ナスル・アル・ワーキウの存在を盲目的に信じていた。それこそ世界の全てのように称えては幼なじみを呆れさせた。何がわたしをそこまで駆り立てたのか今となってはよく分からない。一種の憧憬に近かった。形のないものを信じるよりは、確かに在るものを見ている方が安心できた。頭上にはいつも星が輝き、広がる銀河の何処かにこびり付いた記憶の中の世界が在り、その星々を束ねる存在が百千の星々の王アン・ナスル・アル・ワーキウだと言う。それは一筋の希望の様だった。遙か彼方で地上を見下ろす星だけが、真実を知っている。信じることで救われたいと思っていた。小さな子供が、手を伸ばせば一欠片くらいは手に入るのではないかと希望することにどれほどの罪があるというのだろう。母の子守唄にも似た語りは優しくわたしの見る世界を包み、地上と宇宙との境界線を滲ませていく。滲んだ部分だけわたしは呼吸をすることを許されているのだ。

百千の星々の王アン・ナスル・アル・ワーキウは世界の理
愛する者を愛し、愛されたいと願う者に愛を与える
希望の芽を 希望を持て 我が愛し子らよ
わたしはお前達に忠告を授けよう

双眸から涙が崩れ落ちて 至福のうちに微睡むその時に
安らぎの 安寧に満ちた光が地上を照らすだろう
忘れてはならぬ 我が愛し子らよ
新しい希望が その身を焦がし 焼き尽くすその時に
お前は忠告を受け入れ 永遠の安息を手に入れるだろう

幸福を流し込む先が 未来でなくともよい
過去がお前を憂い 慈しむのならば 我が愛し子らよ
ただ身を委ねればいい そこは お前が意味される場所
然らば 未来の訪れを恐れる間もなく
眩き星々に渡りをつける只中で全てを終えることだろう


「お母さん、星の神様は願い事を叶えてくれるって本当?」
「ええ、が良い子にしていたらきっと叶えてくれるわ」
ただ、祈れば良い。祈りに沈めば気分を良くした神様が気まぐれですくい上げてくれるかもしれない。百千の星々の王アン・ナスル・アル・ワーキウは気まぐれな神様。気が向けばわたし達の頭上に現れるが、肝心な時に姿を現さないこともある。真面目に祈っても当の神様が気まぐれじゃあ意味がないね。それは違うわ、百千の星々の王アン・ナスル・アル・ワーキウはとっても寂しがり屋なの、自分を見ようとしない、祈らない人の元には決して姿を現さない。自分を愛する者を直向きに愛する神様、愛されたいと思うなら愛しなさい。でもお母さん、今日はお星様が見えないわ。百千の星々の王アン・ナスル・アル・ワーキウは時々恥ずかしがり屋。からは見えなくても、あちらからは貴女の事が良く見えているわ。だからいついかなる時も祈りを忘れては駄目よ。が空を眺めることを止めてしまったら、あちらから貴女のことが見えなくなってしまうから。
「お母さん、星の神様は何でも願い事を叶えてくれるの?」
「例えばどんなことを願うの?」
「死んだ人を生き返らせることはできるのかな」
その時母は困ったように笑った。年々刻まれていく皺を深くして、昔は艶やかだった髪が母の頬を滑る。あかぎれだらけの指がわたしの頬を撫で、しとしと大地を濡らす窓の外を眺めた。止まない雨はもう3日間も降り続いている。わたしが踏みならしてもびくともしなかった地面はふやけた泣き面を晒している。雨雲の上の空はすっかり覆われて、懸命に目を凝らしたところで、強固な膜はわたしと空を切り離す。窓硝子には幾度も雨水が打ち付けられ、滴は形を失って落ちてゆくので、窓越しに映った母の顔は泣いている様だった。
は神様が万能だと思うかしら。神様はたった独りで地上の数多の人達の生活を見守らなければならない、とっても忙しい方なの。数多の人達がと同じように祈りを捧げるわ。その中から、の願いをすくいあげて貰えるのは、本当に奇跡なのよ。百千の星々の王アン・ナスル・アル・ワーキウが誰の願いを叶え、誰に手を差し伸べるのか、それは尊いかの方にしかわからないこと。でも、が誰よりもうんと強く願えば、その願いはきっと届くのだと信じるわ」
雨雲が張った膜の下からでも、祈りは届くのだろうか。
本当は、母にこんな質問をぶつける時点で答えなど、わかりきっていた。
母は誰よりも誠実に生きた人だった。真っ直ぐに前を向くことが出来る人だった。小さい頃から屈折した歪な線を辿り始めている自覚のあったわたしは、時々その眼差しに恐れを抱いていた。少女のようでもあり、円熟した女にも見える母が語るとこしえの神の存在は現実の狭間から飛び出した夢想だと最初の頃は思っていた。綺麗事だけでは生きていけない世界で、浮き世の戯れ言を語る母はどこか突出していた。その危うい中で絶妙に保たれる均衡が好きで、きっかけはそんな些細なことでわたしは母と頭上を見上げる。いつかこの均衡を崩す者が現れることを密やかに願いながら。

それからしばらくの間、雨は断続的に降り続き、それがいつ止んだのかをはっきりと思い出すことはもう出来ない。
思わぬ形で均衡が完膚無きまでに崩されることを知っていたら、祈りはしなかっただろう。

これは罪深いことだ。
こんなことを願ったのではない
鉛色の空の上で何をどのようにして裁くのか。

「あなたは生きなくてはいけないわ」
間違えないで、生きることは、幸せになるということ
濁りゆく眼に宿った光が途絶える瞬間まで、一秒すら途切れることなく、隙間なく祈りは捧げられたのだから。

百千の星々の王アン・ナスル・アル・ワーキウは慈悲深く、決して人を裁かない。いつの世も人を裁くのは人自身である。神にすら出来ぬ行為をただの人が行うのは傲りではないか、赦されない、と誰かが言う。けれども神様、だとしたら一体誰が罪を暴くのです、あなたの慈悲で包み隠せるほどわたし達の罪は大人しくはない。わたしの胸を渦巻く困難な抗い切れぬ苦悩を取り除くのは一体何者なのでしょう。湛えたうみが今にも溢れそうなのです。だからわたしはそれを罪と意識した瞬間に、裁かなくてはならないのです。神が人を裁かないのだとすれば、天に召されるその時までに速やかに厳かに行わねばならないのです。赦されない行為だというのなら、地獄に堕ちるのでしょう。煉獄の炎と違わぬ苦しみが、今この身に降りかかった人間にとって、その戒めは優しすぎるのです。

、お前は生きろ」
いつかわかるだろう、生きると言うことは、愛に包まれるということだ
呪いに似た祈りの行き先は、何処に届けられ、誰の心を動かしたのか、動かすことが出来たのか、それとも奇跡に近い必然であったのか。
わたしは意識が途絶える瞬間まで、祈りはせず、ずっと考えていた。
答えなどないのだからずっと考え続けていた。

眼前の赤い溜まりはどこからもたらされたものなのか、粛然とした赤は物語らず、全てを飲み込んで、全てを許し、全ての犠牲の下に、わたしはここにいる。

ここにいる
ここは、あなたの望む世界ではなく、望まぬ世界でもなくとも
目を背けてはいけない
然りと、見届けなさい、貴女を愛した人の生き様を
しかし、希望に寄りすぎてもいけない
寄るのではなく、自らで手にいれなさい、あなたの手足は飾りではない
粛々と、受け入れなさい
望むことなら何とでも、求めさえすれば、今すぐにでも

だから、名前を呼んで

そうしたら、わたしは貴方の元へ駆けつけるわ








「一体何が起こっているの?」

尋常ではない喧騒が聞こえてきたのは少し前の事。アラジンにまで出るな、と念を押されたからには出ていくわけにもいかず、人よりも遙かに聴力の優れたマリカがぴんとアンテナを張り、状況を伺う様子をただ見ているだけだった。むやみにわたしを不安にさせない気遣いすら板に付いているマリカは足下から離れることなくじっと体を横たえて、いつ何時事態が急転してもわたしを護れるように、立派な耳を忙しく動かし、全身で僅かな情報もすくいとる。研ぎ澄まされた二つのまなこは扉の向こう側、さらに先までを見通しているのだろう。彼がそうしている間は自分の身はどこにいるよりも安全で、心配する必要などないことを知っている。身を委ねて温もりを感じている間、わたしを脅かすものは何一つない。
すさまじい爆音と共に目の前の扉が破壊された時、瞬時に身を起こしてわたしの体に覆い被さったマリカを見て、事態は思った以上に深刻だということを悟った。気が緩んでいたわけではない。寧ろその逆で、随分前から冷静ではいられない速度で心臓が早鐘を打って、きつく握られた掌には爪が食い込み、うっすら血が滲んでいた。恐怖に似た感覚だった。破壊された扉の向こう側からうっすら月明かりが射し込み、カウチの陰に蹲ったわたし達を探し出して照らした。教会のステンドグラスのもたらす七色の光ではなく、白んだ月光は室内の惨状を薄く浮かび上がらせる。全壊した扉の破片、爆風で水差しは遠くに飛び散り、数刻前まで少し欠けていただけの水呑は、あっけなく粉砕されて欠片が足下に転がっていた。ぱらぱらと扉の残骸が煙幕となって室内を舞っている瞬間にも震えは止まらず、揺れているのは建物自体か、それとも自分なのか判断が付かなかった。そんな様子のわたしをマリカが引きずるように外に連れ出さなければ、ずっとそこにいたのだろう。ずっと、扉の残骸を見つめて、息を止めて、目の膜が乾ききるまで瞬きを忘れ、無造作に転がっていたことだろう。欠けた水呑のように。

外の空気を吸った瞬間にわたしの頭は冷静になった。屋内以上に張りつめた空気がわたし達を出迎えたからだ。
さん…?!こんな時にどうして出てきたんです!」
問いに答えたのはジャーファルさんだった。目聡くわたしの姿を捉えた途端に駆け寄ってきた。馬鹿ですかあなたは!そうして無理矢理建物の中に追いやろうとする。
「あなた達の与えてくれた鳥籠は倒壊寸前なんです!大きな氷塊が扉を、建物を破壊しました。それでも構わないと仰るのなら戻りますけど…!」
マリカが外の方が安全だと判断したのだから、わたしはそれに従う。大勢の人間が悲鳴を上げながら逃げ惑う惨状を目にしたとしてもだ。戸惑いに揺れたジャーファルさんの力は、建物を冷静に視界に入れると同時に弱まっていった。
「何ですって?それは申し訳ない事を…お怪我はありませんか?」
「この子が護ってくれましたから。マリカは?怪我はない?」
その艶やかな毛並みに怪我一つない事を確認すると、ほっとため息を吐き出した。
警戒心を更に強固なものに変えたマリカは優艶な毛並みを逆立てて周囲を見渡している。その様子に緊張感を引き締めるとジャーファルさんは頷いた。
「それなら良かったです。いいですか、今すぐのその狼と一緒にこの場を離れて下さい。彼の脚力ならそれが可能な筈です。ここは今とても危険な状況なのは分かりますよね?戦えない貴方は庇護の対象だ。ここではなく、安全な場所で」
その言葉に唇を噛み締めた。痛いほど理解できる。マリカは、わたしが命ずるのを今かと待っている状況だ。そのうち痺れを切らしてさっきのように無理矢理連れ出すかも知れない。
「でも、一体何が」
「厄介な相手が攻めてきていて、状況を説明している暇すら惜しいんです。シンの目に止まる前に早く!」
「でも待って、あれは、アラジンとウーゴくん?」
ジャーファルさんが態とらしく立ち塞がる先に、否とは言わせぬ、確かに見知った姿があった。押しのけるようにして前に出ると、言葉を失って立ち尽くした。一体、何が起こっているの、その言葉さえ喉の奥に引っ込んだ。
無数の氷塊が地を覆い、建物に食い込み、人々は逃げ惑う姿に足が竦む。数刻前までは静けさに包まれていた広場の散々たる有り様に思考が追いつかない。こんな時刻に王国軍が攻めてきた?底冷えする冷気が背筋を伝い、眩暈を催した。信じられないものが目に飛び込んできたからだ。

「ウーゴ、くん?」

誰か、説明をして欲しい。どうして、彼の背中に鋭い氷柱が無数に刺さっているのか。人間ならば致命的なその状態で、痛々しくも彼が地に伏せることはなかった。アラジンの悲痛な叫び声が脳髄を揺さぶる。一体何が起こっているのか、一つも状況が理解できそうにない。掴まれた肩の力を振り切って前に出たのは無意識だった。アラジンやアリババくんが吹き飛ばされる状況なんて万が一にも想定できる筈がない。アラジンがモルジアナの手によって抱き留められ、アリババくんも無事に立ち上がった姿をみて胸を撫で下ろしたが、傷だらけの彼らも、どれも一つだって受け入れられないことばかりだ。「邪魔をするなよ、これはマギ同士の戦いだ!」誰かがそう叫ぶ。マギ、それを反芻してみても、実感が沸かないのだ、このような一方的な戦いの意義など。
「あれ?お前」
顔を上げると、見たことのある少年が宙に浮いていた。宙に浮く人間など一人しか知らないというのに。無垢な顔をぎらつかせてわたしを見下ろしている。
「はは、でっけぇ犬もいやがる。相変わらず存在感ねえから見逃すところだったぜ、つーかこんなとこで何やってるわけ?」
「君は、あの時の…」
すげえアホ面、ウケるんだけど。場違いな嘲笑を響かせた少年が眼前に迫ると、マリカが咆吼を轟かせてわたしの前に躍り出た。すかさず距離を保った少年は肩を竦ませて戯けてみせる。!誰かがわたしの名前を呼んだ。
「おっと、相変わらずお前の犬は怖えのな」
「君こそなんでこんなところにいるの、どうしてこんなことをしているの?」
見間違いでなければ、彼の手ずから放った氷柱がウーゴ君を貫いた。騒動の渦中の中心に彼は立っている。マギ?眉を顰めると、そうだぜ、俺様は偉大で崇高なるマギだよ、言ってなかったっけか?そうして一人だけ、楽しくて仕方がないと笑っている。この惨状をで引き起こした張本人であるというのに、その様子は数日前一緒に過ごした時と寸分違わず、無邪気ですらあった。
「こんなこと、止めなよ、誰も楽しくない」
「あ?何言ってんだ、楽しいに決まってんだろ!強い奴と戦うのってわくわくしねえ?俺ってすっげえ強いから、そこらの人間じゃ相手にならなくてよお、こんな爽快な気分は久しぶりだぜ。あー、お前はくそ弱えからわかんねえか」
信じられないバカ、と呟くと、じゃあお前の信じるモンってなんなの?少年は真顔でそう返した。
「で、なに、こんなとこにまで出てきて俺に殺されにきたわけ?つーかそもそも生きてんだっけ?」
思わぬ問いに、状況も忘れて目を伏せた。心臓に手をやると鼓動は感じられるし、掌に滲んだ血はしみているというのに、次第に足下の感覚が曖昧になり、血の気が失せていくのがわかる。忘れていた震えが再び走り出すとマリカが振り返った。大丈夫、言い聞かせる。
「お前、百面相すんの好きだよな」
「やめろジュダル!それに手を出すな!」
「は?何だよバカ殿と知り合いなわけ?」
「ジュダル!」
再び視線を上げると、怒気を露わにしたシンドバッド王がこちらに向かって来るところだった。彼が辿り着くよりも素早くマリカが威嚇をすると、今度こそジュダルと呼ばれた少年はわたしの傍から離れていった。
「あっちもこっちも怖え顔して」
不満気に零し、でもさ、やっとわかったぜ、嘲た目がわたしを見下ろす。
「お前が弱えくせしてしぶとく生きてられんのって、周りが強いからだろ?そうやってバカ殿や犬に護ってもらってのうのうと生きてんのな。弱い奴ってそうやって寄生して生きくのが当然って顔してっから胸くそ悪ぃんだ」
「やめないか!」
マリカと並ぶようにしてシンドバッド王がわたしを少年から遠ざけた。少年の口角が皮肉に歪み、場違いに軽やかな声音が響き渡る。
「ほーら、そうやってさ。
だけどさあ、お前はそれだけじゃないだろ?何かよくわかんねぇ別のモンにも寄生してやがる。違うな、寄生されてんのか?どっちでもいいけどよ、得体の知れねぇ奇妙なモン抱えてんのは確かってわけだ。そのお陰で普通じゃねぇんだよな、難しいことはよくわかんねえけど、お前、変だぜ?とっくに自分が気持ち悪いって自覚はあるんだろ?な?」
呆然とした。パズルのピースが一つずつ嵌っていくようですらある。欠片が一つ一つ、埋まり形を成していく。見てはいけない、続きを聞いてはいけない、耳を塞がなくては、しかし、いくら命じたところで腕は僅かも動かなかった。その間もウーゴくんの傷ついた背中から立ち上る煙は勢いを増して天に昇っていく、目を瞑ることすらままならない。夜空には爛々と輝く星があり、月は半分ほど欠けた状態でその中心にあった。息を止めて、一切の思考を遮断して

「そうでなけりゃあとっくに死んでるのに生きてるわけねえよな」

声は出なかった。落ち込みもしなかった。いつからかどこからか予感はあった。
だけど、聞かれたくなかった。誰に?誰にも。
泣いてはいないよ、そんな顔をしないで。だから聞かれたくはなかった。聞きたくもなかったけど。ゆっくり肩の力を抜くと、わかりやすく呼吸が上手くいった。考えてみて、この中に自分自身のことを完璧に理解出来る人間などどれ程いる?自分がどのような人間であるか全て正確に説明できる?きっと一人だっていない。それは月を手に入れることよりも難しい。そしてその中でもわたしはちょっとだけ特殊で、少しだけ常識から逸脱していて、笑えない程には歪んでいて、ああ、弁解できるほど自分を知っていなかった。怠慢だったことは正しく認めよう。過ちを犯す人はどうしてその只中で気付くことができないのだろう。いつだって気付いた時には手遅れ。人々が流す涙の数だけ雨が降るとしたら今頃世界は水浸し。だからわたしは泣いてはいないよ。赤い瞳の少年は、そんなわたしの顔を、今日一番のアホ面と称した。強張った頬は自分のものではなくなっていて、この状況に相応しい表情がどのようなものか少しも思いつかない。
「弱い奴は嫌いだけどよ、お前みたいな不確定要素は嫌いじゃねえ。ま、事情とかそういうのはどうでもいいけどさ、そうやって悩んでる顔みるの結構そそられるんだよな」
「ジュダルお前ふざけるなよ」
「だからさあ、俺様が直々にお前を殺してやってもいいぜ。そしたら謎も解けるかもしれねえしな!」
名案だろ!少年はにか、と笑った。わたしはそれに乾いた微笑で応じると、目の前の男は背後からでもわかりやすく肩を怒らせた。
「いい加減にしろ!」
シンドバッド王がついに声を荒げると、ようやく少年の視線がわたしから前の人に移り、態とらしく肩を竦めてみせた。わかりやすい挑発に焦ったのは周囲の方で、ジャーファルさんの「シン、いけません!」諫める声が怒気に染まった彼に届いたのかはわからない。背中越しでは彼の表情はわからないが、きっと、眉をこれでもかとつり上げて、鋭い瞳を尖らせて怒っているのだろう。他人の為に限りなく熱くなれる人だ。
「なんでシンドバッドが怒るわけ?だっておかしいのはアイツだよな?寧ろ俺は親切に忠告してやってるんだぜ、そんな顔するなよ、興ざめするじゃねぇか」
「…ジュダル、いい加減よく喋るその口を閉じてくれ。これ以上ある事無い事を言うようだったら流石の俺も堪忍袋の緒が切れる」
「は!丸腰で俺と戦おうっての?弱いお前に興味はねぇんだけど」
「ジュダル!」
今にも飛びかかっていきそうな腕を掴むと、シンドバッド王は驚き振り返った。指に力を込めることで抗議を制して一歩前に出る。凍り付く周囲と、一触即発の二人を見て、わたしにわかることと言えば、これ以上戦わせてはいけないということだけで、その為に自分が出来ることなど何もないということ。結局ジュダルの言い分は正しく、わたしはいつだって強い者に護られてのうのうと過ごすことを当たり前にしていた。いつも自分のことばかりで、今だってそう。
「君、ジュダルって言うの」
「ああ?」
「ジュダルは僕を殺すって、そう言った?殺せるって言ったよね?」
「言ったけど」
「そう、そっかあ…」
「何だよその顔、なあシンドバッド、こいつっていよいよ頭おかしんじゃねえ」
シンドバッド王は、わたしの顔を覗き込んで暫く何も言わなかった、正確には言えなかった。不可解なものを見る目。ジュダルの言葉が足の先から全身にすんなりと浸透していく。その通りだ、わたしはきっと、どこかおかしい。頭どころか体中。至る所から力が失われていく。自分から離れていく。不思議と嫌ではない、苦しくもない。頬筋はすっかり自分のものではなくなっていたが、それが緩やかに歪められていくのがわかった。もう心臓が動いているのか確認する必要はない。粛々と受け入れる。全部だ。
「だから、泣くのか笑うのかどちらかにしろって言っただろ」
シンドバッド王はわかりやすく困惑していて、わたしのことを持て余していた。
「じゃあ色んな感情が一度に溢れてきたらどうすればいい?」
「そんな器用なことが出来るものか」
憮然として言われれば、その少し子供じみた仕草に口元から笑みが零れ、目尻から雫が一粒流れた。
「それならこれは、二人分の感情なんだろうね」
目を細めて夜空を見上げると、点々と無数の光が見渡す限りに広がっている。これ以上の世界をわたしは知らず、これ以上の世界が広がっている事を知っている。一際輝きを放つ月の色によく似た自分の髪が風に攫われて視界を埋め尽くすと涙は乾いていった。
「なあ、結局なんなわけ?無視されんの好きじゃねえんだけど」
「ジュダル、君に殺すって言われてはっきりわかったことがあるんだ。今更だけどね」
目の前の少年と対峙する為に、もう一歩前に出ると、込み上げてくる感情に呑み込まれそうだった。移ろいやすい感情を上手に抑制するほど冷静な感情が残っていないというのに、心は凪いでいる。沈みゆく一歩手前の絶念に似ているのだろうか。
「君の世界は楽しいこと、つまり自分の快楽を中心に回っているね。それ以外に何が見えている?あらゆる命が尊いこと、命には苦しみも哀しみも幸せもあるということをジュダルは知らないんだよね。君は唯一自分自身で感じられる快楽のみに支配されているから。そんな君からしてみれば理解に苦しむだろうけど。君に存在意義を問われた時、不安でしょうがなかった。ジュダルの言うように実感がなかったからね、そもそも考えもしなかった。普通、こんなこと真面目にに考えなんかしないよ。それなのに疑念を抱いてしまったのは、自分の中でも同じ事を感じていたからなのかな。その答えがようやくわかったよ」
「君は何を言って…?」
シンドバッド王の戸惑いはわたしを止める障害にはならなかった。貴方はきっと、どうしてそんな当たり前の事を言っているのだと笑うだろう。そしてどうか怒らないで、わたしはそんな簡単なことすら忘れていたけど、同じくらい悩んだのだから。
「存在意義っていうのは、自身の為にあるときもあれば、他人により成り立つ事だってあるって考えた事はある?つまり、君が僕を殺したいっていう意義の基に僕は生きているって事だよ。君の言う事は正しい。僕は、沢山の人達の想いで生かされている。君が殺したいって思う限り、ねえ、ジュダル、わたしは

生きているよ」

この頃、昔の夢ばかりを見ていた。過去がわたしを呪うのだと想うと眠れない夜が続いた。しかし、呪いであろうとわたしが生きる意義に成り得るのだと気付いた瞬間に、それは戒めに変わるのだ。その意義さえ正しく理解するのなら、悪夢だって自分を留めておく楔になるのだ。
心臓の辺り、ぽっかり空いた穴を埋めていくのは他者から与えられたもの。与えられるものもあれば与えるものもある。そうやって互いに意味を求め続け、存在を確認し合う。
ジュダルの事は深くは知らないが、空っぽのままのように思えた。彼は与えることも与えられることも知らない。知っているのは壊すことだけ。純粋とも言えるが、空っぽのままでは永遠に満たされないのだろう。君は、無情の中に沈んでいるんだね。
そうしてわたしが口を閉じるとジュダルの表情が徐々に消えていった。

「よくわかんねえけど、殺してもいいってことだろ」
「その快楽主義から抜け出せない限り、君には殺せないよ」
「へえ、じゃあ試してみる?」

誰が最初に叫んだのかわからない。わたしは然りとジュダルを見据えていたから、彼の手の中から氷塊が生み出される所を一部始終見ていた。魔法が身近ではなかったから感嘆すらしていた。一連の動作が流れるように自然だったので、背後のシンドバッド王も、横のマリカも反応が遅れて、もっというとわたしが彼らの手から逃れるように前に出ていたのが問題だったのだが、自分を庇って二人が傷つくことだけは我慢ならなかった。彼らの運動神経からすれば難なく避けられたかもしれないが、その時はそこまで考える余裕はなかった。
自分の腹から真っ赤な華が咲いた瞬間までわたしはジュダルから視線を外さず、彼は最後まで無表情を貫き、わたしに一切の感情を悟らせはしなかった。腹に刺さった氷のように冷たく見下ろしている。そして今日一番の気怠い声で言った。
「どう、死ねそう?」
「ぎりぎり及第点かな。君への課題は、こうやって尊い命を無闇に奪うことの罪深さを知ることだね」
返答は聞こえてはこなかった。段々と耳が遠くなっていったこともあるけれど、ジュダルは答える気がなかったように思う。
どうにかして氷を引き抜くと、不自然にぽっかり空いた穴から温かく赤い血が止め処なく溢れ出してきて、無意識に耳飾りに手を伸ばしていた。同じ赤だった。悲鳴のような、叫び声、名前を呼ばれる、誰かが泣いているのかもしれない。崩れ落ちる瞬間、暖かいものに抱き留められる。マリカ?ほとんど痛みは感じない。必死に誰かが耳元で叫んでいて、そちらの方がよっぽど苦しそうで笑った。上手に笑えないのはやはりおかしいから、至る所がふわふわとして変な感覚だった。笑っている場合ではないぞ、そのように怒られている気がする。眉間に皺の寄ったシンの顔が目に浮かび、懺悔よりもおかしさが込み上げる。この期に及んで怒られることばかり気にしている。
大丈夫、心配ないよ、上手く声が出てこなかった。刺されたのが肺のあたりで、口を開くとひゅうひゅう隙間風のような音が漏れるだけ。口をぱくぱく動かす自分は陸に揚げられた魚の様だ。魚だとしたら直に呼吸も苦しくなるだろう、わたしはエラ呼吸のやり方を全く知らないから。するとあっという間に口を塞がれてしまった。
無意識に赤く染まった手を伸ばすと、力強い掌に包み込まれた。温かくて硬い、この感触を覚えている。
噎せ返る鉄の臭いに包囲されながら、あと少しで消えゆく光を瞳に灯してわたしを見た
指先からすべてがぬるりと塗れたそれに包まれると生温く、けれども嫌悪感はなかった
掠れた声で最期にわたしの名前を呼び、わたしを見つめたまま事切れた人、
「お、とうさん」
瞬きなど出来なかった、わたしは父の濁りゆく瞳から目を反らすことが出来ず、数日間そのまま見つめ続け、父から流れ出た赤い血だまりの中で発見された。

あの時と同じようにわたしの手は赤く染まっていて、同じように悲しい。

そうだ、とても悲しかった
生きているのに
どうして忘れていたのだろう、あの夜の、百千の星々の王アン・ナスル・アル・ワーキウの言葉を
『君は何を願う?』
あの時、何を言われたのかを
どうしてこんなに哀しくて、苦しくて辛いことばかり起こるのですか
君を苦しめる全ての事から解き放たれたいのか
いいえ、そのような事は望みません
それとも復讐を
わたしは、
君に、星の導きを―――

ああ、神様、もうじきお返しします。


2013.06.23. up.
反転注意

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