はらわたにまじる



結論から言おう、少年の母親がなくなった

その時わたしは長い間呼吸を止めて、息を引き取るその瞬間を感じようとして、目の前の人に肩を叩かれるまで息苦しさで視界が溢れそうになっていた。
母親は朝日を待つことなく、仄暗い帳の中に隠れるようにして静かに眠るようにルフに還っていった。幼い子供は母の傍で生まれたての赤子のように泣きじゃくるが、宥め、抱きしめる温かな手はもうどこにもない。涙の下で、二度と開かれない母の瞼も、唇も、彼女を脅かす脅威から解き放たれて穏やかに和らいでいるように見える。もう悲しむことも苦しむことも歓ぶこともない体は、魂が解放されても尚、生暖かく、その僅かな熱が子供の繊細な絶望に拍車をかけた。
「僕はあなたに歌を聴いてもらうためにここに呼ばれたんです。ようやくこうしてその役目を果たすことが出来る」
一つの終わりに、はなむけをおくること。
もう何年も前からわたしは亡骸の前では歌を捧げることを決まり事のように課してきた。それは、ここに在るはずのない鎮魂歌だ。わたしはそれが何処にも、誰にも響かないのだと知りながらも歌う。公用語でもトラン語でもない、誰も知らない言語で歌うそれは不安定且つ神秘的なただの音素として散っていく。理解など必要ない、ただルフに還る為の追い風になれば良かった。すくうようにして寄り添えるものが歌という媒介しかなかっただけで、自分の歌声が特別素晴らしく万人を惹き付けるような才があるからという謂われはない。凡庸な歌とて心があれば伝わるのだとお目出度い気持ちが少しだけ、他に出来ることなどないのだから多少のことは目を瞑ってもらいたい。死人に口なし、未だに咎められたことはないが、恐ろしいまでに自己満足だった。何故なら、多言語の鎮魂曲にこだわるのは知りたかったからだ。死者はルフに還るというが、わたしの前世の記憶のように、ルフには還らずにどこか他の空間に、例えばこの言語を操る世界に紛れこむことはあるのだろうか、僅かな期待を一緒に埋めてしまう。ずっと遠い昔、或いは未来で滅び去った世界の中心だった帝国の言葉は知らずして蘇り、死者と共にまた眠りについてゆく、わたしと彼らの神聖な儀式のような錯覚に陥る。恭しく撫でつけた歌声は奇跡を起こすこともないけれど。

餞の歌が終わり、室内が再び静寂に包まれると、それから暫く口を開く者はいなかった。
胸の上で交差された手を取る。指の先端から冷たくなっていく手は2倍は重く、縋り付いても握り返してくることはなかった。その手をとって祈りを捧げるように跪いたのは、隣の少年への罪の意識かもしれない。アズィールは一度もこちらへ顔を向けることはなかった。
わたしは白い花を一輪、彼女の胸の上に置いて、暫くの間黙祷を捧げ、レクィエム、晴れない靄を振り切るように呟くと、それはどういう意味だと尋ねられ、安息を願う言葉だと答えた。君はもう充分に祈ったのではないかな、充分すぎるくらいに届いているはずだよ、頷くことに躊躇い瞼を落とすと、わたしは自分のわかる限り喉がからからに渇いていることを知った。充分が過ぎるなどということはこの世にはないと思っている。




「いま、頭の中で」

はっとして瞼を開けると違う部屋にいた。意識を飛ばしていたらしい。寝言を言ってしまったことの羞恥心よりも、自分が置かれている状況を把握することの方が何十倍も重要で、背中に当たる柔らかい感触、沈みすぎない体がもたれかかるように重力を傾けているものの正体を探ろうと視線だけを器用に動かした。頬に当たる感触が硬くて温かい。自分以外の息遣いだ。そっと自分の胸に手をあてると、ゆっくりと上下する鼓動に安堵する。まだ息をしているらしい。わたしの横にいる、この重い体を支える重心になっている人は、ずっと確かに誰よりもそこに存在していて、わたしが隠れている間も意識と感覚をじっと息が詰まるくらい保ってそこに居続けたのだろう、肩は凝らないのだろうか、声を出そうとして失敗した。
「うん?」
寝言への返答だろうか、覚醒したことへの確認だろうか、多分どちらも正解。その人はこちらに視線を向けることなく、手元の書物を難しい顔をして眺めている。わたしはそれを視線だけで確認した。深く深く息を吸い込んで、ゆっくりと体を起こした。 
「肩、すみません、ありがとうございました」
「ああ、どうってことない、それよりもう大丈夫なのか?」
いつかの座り心地の良いカウチに深く腰掛けていた。同じように腰を落ち着けている人は抑揚のない声で気遣いの言葉を口にする。気にも留めていない癖して形式ばかりの文句を垂れ流す、こういうところはわたしと似ているなと思い、風の音よりも小さく笑った。彼の手元にある書物をのぞき見れば、理解出来ない複雑な専門用語などがつらつらと紙面を埋め尽くしていたので直ぐに視線を泳がせた。こういうものばかり読んでいるからそういう風に眉間に皺が寄るのだ、一国の王ともなれは勤勉でなくてはならないらしい。大変だな、と思う。しかし彼は陰でこうしてひそやかに繰り返される努力や苦悩の後を少しもおくびにも出さずに表では飄々と笑ってみせる。それはとても王らしい。王らしい顔をする。それはこの人の事がどれだけ遠く感じられるという事実を暗に突き付けてくる。
「モルジアナからこの頃あまり寝ていないと聞いたが」
仕事の片手間で心配されるこの複雑な心境をどう表現したらよいのだろう。見せかけの気遣いは彼の人柄そのもの。
「昔から興奮すると寝れない質なんです。どうも久しぶりにみる海に感極まっているみたいで、寝てしまうことが勿体ないだとか案外くだらない理由なので真面目に心配されると困ります」
少しだけ声のトーンが下がる。この所上手に眠れなかったのは本当だ。それが同室のモルジアナにバレていたのは誤算だったけれど。彼女は勘が良い、そして優しい。そして、この事実をこの人に暴露するくらいに厳しい。
「ふうん」
彼はいつの間にか頬杖をついている。退屈はとっくに押し寄せてきていた。そう言えば君は、故郷が海の傍だと言っていたな、それは懐かしいことだろう。よくもまあ器用に二つのことがこなせるものだ、目はしっかりと書物の細かな文字の羅列を追っていて、その一方で気遣って見せる。聞いていないようでしっかりわたしの答えを聞いている。
「どのくらい故郷には帰っていない?」
「その答えは必要ですか?」
「答えたくないなら答えなくて良いよ。勝手に想像するから」
「……ざっと半生ほど」
「…それは長いな」
その半生は気を抜くと流されてしまうような速度で過ぎていった。
「それで、どうだったんだ?君からみた久しぶりの景色は」
「懐かしいですね、昔を思い出します。あの頃は、余所の国の海は違う色をして、違う香りがするのかもしれないって思っていたから、実際は何にも変わらないことを実感して、蒼く凪いだ地平線も、ざらついた潮の香りも同じ、とても懐かしい」
「そうか」
耳を澄ませば、波打ち際の水の跳ねる音が聞こえるのではないかと思える静かな空間はひっそりと隠れるようにわたし達を覆っている。
「シンドバッド王の国も南海の島国だそうですね、どうですか、そちらは」
「俺の国のことは聞いたことがあるよな?前人未踏の南海の島を開拓して建てたからな、物珍しがって様々な噂が飛び交っているのを俺も良く耳にするが。まだまだ出来たばかりの小さな島国だが君の知らないもので溢れた豊かな美しい国だよ」
そう言って、とても誇らしげな顔をした。研ぎ澄まされた鋭い瞳が、その時だけ優しく緩む。
「…それでも、やはり海は変わらないな、いつ眺めても同じだよ。ずっと遠くまで、このバルバッドとも君の故郷とも繋がっているんだ、何も、変わらないさ」
「そういうもの?」
「ああ」
緩まった表情のまま遠くを見つめ、頷く。
「ふうん、それはいいですね、いつか、機会があれば貴方の国を見にいくのも」
いいかもしれない。きっと彼の言う通り、豊かで美しく、幸せな国なのだろう、彼が与えうる限りの優しさでくるまれた国なのだから。バルバッドにいると余計に感じる。そう、きっと理想郷だ。子供の頃、夢中で語り合った、漠然としたおぼろげな幸福の予想図を広げてみては想像する。以前、かの国を訪れたという人の話を聞いたことがある。その人は夢の都だと称し、かつて未開の危険な海域だと恐れられていたそこには楽園があるのだと触れ回っていた。日々の暮らしに忙殺されている人々にとっては夢物語でしかなかった理想郷だ。すぐ横にいる人はそんな遠い国の王なのだと言うからおかしな話で、まるで真実味が感じられず、自分の声が浮ついて聞こえる。
「いつか?」
その時、初めてシンドバッド王はこちらを見た。手元の書物はそのままに、顔だけをこちらに向けて、部屋は薄暗いのに、燭台の炎が風が動くたびにゆらゆらと揺れながらわたし達の顔を照らすので互いの表情が手に取るようにわかる。驚くほど近い距離にその顔があることに今はじめて気が付いた。それもその筈だ、わたしはつい先程までこの人の肩を枕代わりにしていたのだから。
「なあ、聞いてもいいか」
「答えられることなら」
なら聞こう、シンドバッド王はゆっくり言葉を吟味する間を置いてから言った。

「君の故郷を出てから今までの半生は、幸せなものだったのかどうか」

情けないことに、わたしはどう答えたらよいのかちっともわからなかった。はい、そうですね、たった一言で済む言葉を導き出すことがこんなにも難しいことだっただなんて思わなかった。
「その答えは必要ですか?」
「必要だな」
今度は勝手に想像してくれないんだ、子供じみた言い訳は許される筈もなく、無意識に唇を噛み締めた。とにかく感情に思考が追いつかない程頭が重いのだ。最後の砦だった彼の思考の半数以上を占めていた書物はついに彼の手から離れ、少し離れた机の上に置かれてしまうと、興味の対象がわたしに移った合図のようだった。それはほんの気まぐれだったのかもしれない。晴れていた空から急に雨が降ってきて、すぐにまた太陽が顔を覗かせるような一時的な通り雨、移ろいやすい感情に流されてはいけない。にわか雨だったら過ぎるまで縮こまってじっと待てばいいというのに。わたしが困ることを想定して、意地の悪い質問だと思う。
「ならどう答えれば満足ですか?淀みなく幸せだと言えば満足?それとも不幸を貼り付けたような顔をして首を振ったとしたら、それで貴方は何を得られるんですか?わたしに何を与えてくれるんですか?何かを言ったところで結果論にしかならないと言ったのは貴方です」
「違う、俺は、」
「違わないでしょう、さっきからずっと不機嫌な癖して。文句があるのなら遠回しでなくはっきり言ってくれればいいのに」
貴方ってとてもわかりやすい。
シンドバッド王は乱暴にがしがしと頭を掻くと、深く息を吸い込んで吐き出し、カウチの背もたれに沈んだ。
「ああ、もう」
今度はわたしがその姿を見下ろした。この人に肩を貸したら支えきれずに一緒に崩れ落ちてしまいそう、そんなことを思いながら。恨みがましく眉間に皺を寄せた人が下から挑戦的な目を投げつけてくる。何しろ一国の王だ、その鋭さたるや到底太刀打ちできそうにもない。自分から挑発しておいて逃げ出したくなる。何だって手に入れることができる、疑いもしない態度で言う。
「そう言う屁理屈が聞きたいんじゃない。そうやって誤魔化せば誤魔化すほど俺は深読みするぞ」
この人は、何を言っているの?分かるのはもうずっと不愉快に歪められた機嫌の矛先がこちらに向いているということだ。
「勝手に深読みして導き出した答えを聞きたいと言うのならやぶさかではないが――
咄嗟に手を伸ばしてシンドバッド王の口を塞いでいた。
自分でも驚くほどの瞬発力にシンドバッド王の目も驚愕に見開かれている。追うように「やめて」と掠れた自分の声が滑稽で、意思を持って伸びた腕の力が根こそぎ抜けていきそうだった。その先は聞きたくない、言葉にしてしまったら現実よりも重いものが姿を現して堪えきれない。逃げ出すよりも先にやんわりと重ねられた無骨な手にあっさりと降参を示したわたしの腕は緩慢な動作で降ろされ、解放されたシンドバッド王の唇が再び開かれるまでに少しの時間を要した。互いに呆けて見つめ合い、先に視線を反らしたのはどちらの方だっただろう。
「…すまない、少し気が立っていた」
「いいえ、こちらこそ」
訪れた沈黙は息苦しく、気まずさに視線を落とすとやんわり手を引かれる。
例えば、選択肢がいくつかあって、今この瞬間は過去に選択した一つの結果に過ぎないが、もし数え切れないほど訪れた分岐点の中のたった一つでも選択を違えていたとしたら、今この瞬間は存在しないことになる。変わりに現れる道は今よりも幸せだという保証はないが、不幸だという確証もない。そんな不確かなもので幸せを測るなんておかしい。なら何と比較をするの?他人の幸せと?
「そんなに難しく考えるものかな、この質問は」
鈍る脳を回転させて、答えを探す。
「難しいですとても。けれども深く考えずにシンプルに答えを出すとしたら、幸せです。自分の選んで歩んできた道はこの上なく正しくて、だからこそ今に繋がっている。これまで幸せなものを沢山見てきたし、何よりもアラジン達に出逢えた今が愛おしく幸せなんです」
選ばなかった未来と今を比較したところで得られるものなんて何もない。今以上の幸せも後悔も望んではいないから。シンドバッド王は、笑いも怒りもせずに唇だけを器用に動かして、そうか、と言った。そうです、その言葉が何故かでてこない。彼はこちらを見ていないので頷くことも無意味だと思った。
「君自身がそう言うのだから、それは正しいのだろうな」
自身に問いかけ、わからせるように静かな言葉だった。わたしはそれを反芻し、同じように体中に言い聞かせる。綻びが、矛盾がないように丹念に。横顔を眺めながら、眉間に寄っているだろう皺を想像して、喉まで出かかっている別の答えをしっかりと飲み込んだ。
「そうだ、喉が乾いているだろう?」
「いえ、そろそろお暇しないと」
「まあそう言うな、まだ早朝だし皆まだ寝ているよ。そういえば、前にした約束を覚えているか?君の時間が欲しいって言ったよな、折角だからゆっくり話でもしようじゃないか」
そう言ってどこからともなく持ってきた水差しから水呑に透明な水を注ぎ手渡してきた。ここまで周到だと突っこむ気も起きず、状況を嘲笑うかのようにわたしの喉はもう何日も水分を摂取していないのだと錯覚するくらいに乾いていた。
「本当は温かい茶でも用意したかったのだが、急だったものでな、すまないが水で我慢してくれ」
上辺だけの言葉を口にして、その実ちっとも気にした素振りもなく、たった今謝罪したことなんてなかった事のように笑っている。本当に申し訳ないと思っているなら、そんな挑戦的な目をしている筈がない。謝りはしても、荒立った気を収めるつもりは毛頭ないということらしい。それに気付かないふりが出来たら良いのに。半ば無理矢理握らされた水呑の口の部分が一部欠けていて、わざとらしく眺めてみたりしたが、喉の渇きには抗えずに一気に飲み干した。喉を滑っていく冷たい感覚に体が一瞬悲鳴を上げた。
シンドバッド王はそれを満足そうに見届けると、向かいの席には座らずに再びわたしの横に腰を下ろした。その拍子に柔らかいカウチがふうわり揺れるので自然にわたしの体も揺れることになる。じっと水呑の欠けた口ばかりを見つめていると、横から手が伸びてきて取り上げられてしまった。水呑が遠ざけられる様子を未練がましく目で追った。
「君は歌をうたうんだな、不思議な旋律だったが良い歌だった」
そう言えば、この人にも聞かれていたのだった。子供達に言ったように大道芸人ジョングルールとして歌をうたうこともあったが、最近では殆ど止めてしまった。特別に上手いわけではないわたしの歌の稼ぎなどたかが知れているから。他の人よりも沢山の美しい楽曲を知っているわたしは自分で歌うよりも作曲に専念した方がはるかに上手くいくことを知っている。優れているのは自分の歌ではなく、頭の中に記憶している楽曲そのものなのだから。
「レクィエムと言ったか。随分手慣れているようだが、こういう事は良くやっているのか?」
「そうですね、歌を始めたのは旅をする上で、何か一つでも取り柄がないと生きていけなかったから。勿論歌で食べていけるなんて思ってもいないですし、最近では生者よりは死者に聴かせる方が圧倒的に多いから殆ど趣味の域に近いですけど」
それを聞いた途端にシンドバッド王は複雑な表情を顔に滲ませた。
「変わってるって良く言われます」
死者からお金は貰えない。旅を始めたばかりの頃は、趣味の延長線だった。聞かせる対象が明確に変わり始めた頃から段々と趣味が義務に変わっていった。お前は意固地で変わり者だ、何度も言われた言葉だ。そういう行為ばかりしていると、遺族に八つ当たりされる事にも慣れた。
「あの少年も、時間が経てば気付くだろうさ。今は怒りと悲しみのはけ口が見当たらなくて君に当たっているだけだからな。俺もあの子が少しでも早く立ち直れるように出来る限りの助力は惜しまないつもりだ」
母親に縋る小さな背中を思い出してきつく唇を噛み締める。
「本当にありがとうございます」
「やめてくれ、君が頭を下げる事じゃないだろう」
一度下げた頭を、強い力が引き戻した。シンドバッド王はやはり眉を顰めている。
「もうやめてくれ、君がそんな顔をする必要はないだろう」
頭を下げたのは、この情けない顔を見られたくなかったから。何か反論しなくてはいけないと何度か唇を開いては閉じを繰り返し、刺さるような視線に耐えきれなくなると僅かに目の前の人から顔を反らす。すると、待ちかまえていた大きな手がわたしの頭を正面に戻し、そのまま固定させた。
「そんな顔をして幸せを語られても、ちっとも信用できない。この状況が君の言う正気なのだとしたら、こっちの気が狂ってしまいそうだ」
正確には、人を狂わせる危険を孕んだ瞳を滾らせている。
「俺の機嫌が悪いと言ったか?そりゃあ悪いだろう、不愉快極まりないさ。もっと自分を大事に出来ないのかって今すぐにでも怒鳴りつけてやりたい気分だよ。君は自分自身が思っているよりも脆いのだということを正確に自覚するべきだ」
頭はしっかりと固定されていて、頷くことができない。
「こんなところにのこのこやってきて。そんな無防備に誰彼構わずついていって人気のない袋小路に連れ込まれたらどうするんだ?大勢の人間に取り囲まれたら?背後から鋭い刃物を突き付けられたら?マリカもいない街中でどうやって非力な君は逃れられるというんだ。大体にして君は誰かに手をあげたりできるのか、出来ないだろう、抵抗もせずに諦めるんだろう、自分の事なのにまるで他人事のように正当防衛だって考えもせずに無抵抗なんだろう」
そんなんでよくここまで来られたものだ。肯定なんてしていないのに、確信の篭もった声だった。しかしわたしは否定もせずに、脳裏を過ぎったのは形容しがたい感情の塊だった。無意識に手を心臓の辺りに置いて言った。
「心配してくれているの、貴方が?」
「当たり前だ、他に何があるというんだ」
憮然とした顔でシンドバッド王は言った。それを間近で眺めたわたしはおかしくてしょうがなかった。七海の覇王のこんな拗ねたような表情は誰でも見られるわけではない。そもそもこの状況がまるで当たり前でない。
「泣くのか笑うのかどっちかにしろ」
そう言われて初めて、目頭が熱くなっていることに気が付いた。瞬きを堪えると視界が滲んで、シンドバッド王の顔が歪んでゆく。笑みの形に上がった口角が徐々に下がっていった。
「さっき、アリババくん達にも同じようにして心配されたんです。ああ、本当に、本当に、幸せものだなあ」
「……」
涙はシンドバッド王のかさついた指によってとっくに攫われていた。力を抜いてもわたしの頭は沈まない。委ねることに安心しきった思考は沈みゆこうとしている。泣くのか、笑うのか、今のわたしにはどちらも必要で、君は結局、どちらも許してくれる。
ゆっくりと瞼を閉じると、涙を拭った指がそのまま頬を滑り、探るようにわたしの耳に触れた。耳たぶの先の方に紅い石が埋まっていて、その周辺を優しく巡回する。
「これの対はどうした」
「その質問、アリババくんにもしたんですってね。大切なものを誰かと分け合うのって素敵なことだと思いませんか?自分一人がのうのうと護られているよりもずっと良い。これをくれた人もきっとそれを望んでいるはず。そもそもこれは授かったものではないから確認する資格もないけれど」
「…」
すると指は潮が引くようにあっさりと離れてゆき、支えを失ったわたしの頭はカウチの深うねりの中に潜っていった。乱暴な所業に訝しみ見上げると、最初の通りにこちらに興味を無くした横顔が一切の感情を消して虚空を見ている。その横顔を伺うように小さく囁いた。
「…だって、自分一人が幸せになるより、その方がずっと良い」
そうか、肯定も否定もない声は遠くの方から聞こえてきた。
「アリババくんは見ているとつい力を貸してあげたくなる不思議な魅力があるでしょう。それは貴方も強く感じているはず。これから彼と一緒に王宮に上がると聞きました」
「…ああ」
「アリババくんをよろしくお願いします」
「…君に言われるまでもない。俺を誰だと思っている」
「シンドリアの国王様、どうか彼を、この国をよろしくお願いします」
「本当に君には呆れるな…、何にもわかっちゃいない」
それは心の底からのありったけのため息だった。両手で顔を覆いながら体中の気力を全て吐き出しかねない深いそれに少しだけ慌てた。今日一番の大役の為にも、この人には元気でいてもらわなければいけないからだ。今日の国王への謁見は、バルバッドのこれからに大いに意義のあることで、こんな些細なことで少しだって可能性を潰したくはなかった。
「なんだ、その目は」
「いや、そのう、元気だしてほしいな、とか」
「は?」
シンドバッド王の目がまんまるに見開かれ、信じられないものを見ている、と言いたげにわたしを凝視した。
「君が言うの?それを、今、俺に?」
「駄目ですか?」
「ば、ばか、そんな風に首を傾げて俺を見上げないでくれ頼むから」
見るなと言われ、正面を向いた横で、シンドバッド王は脱力している。わたしは釈然としない思いを抱えながら目を擦った。しっかりと見張っていないと今にも瞼は落ちそうだった。随分と睡眠を貪った気がするのに、体は正直に気怠さを訴えてくる。嫌な夢を見るくらいなら起きていた方がずっと良いのに、さっきだって――

「あ」

小さな呟きにシンドバッド王は目聡く反応し、こちらを振り返った。続きを促す仕草に、抗う術を見出せず噤んでいた口を緩慢に開く。脳裏に浮かんだのはさっきまでの記憶で、うっかりするとあっという間に霧散してしまう微かなものだった。気怠さが輪をかけて増していく。

「さっき、頭の中で」
「そう言えば言っていたな」

夢の中の一片なのですが、そう切り出して目を閉じると鮮やかに思い出した。
濁りのない透明な水中に沈んでいく自分だ。広がった視界には眩い日差しが射し込んで、孤独も呼吸の出来ない息苦しさもなかった。出来損ないの水の中は温かくもなく冷たくもない、肌にまとわりつくのは生温い感触、口から流れ込んでくるのは柔らかい波に似た温もり。
そこまで思い出して息を吐くと、向けられていたシンドバッド王の視線がついと反らされた。
視界の端でそれを捉え、ゆっくりとカウチに体を委ねる。
あの時、海に沈んでいるのだと思った。透明な海の底だ。
沈んでいくのは、自分が泳げないからだと思い出して、でも藻掻く必要もなかった。導かれるように沈んでいって眠りにつくのだと思った。夢なのにおかしな話だ。

「唐突に頭の中で、誰かのレクィエムが聞こえて」

幸せな旋律だった。内側に響く歌声は安息を願い、わたしは多くを望まず、ただそれだけに全身を傾け、光輝にみちるほんの一瞬ですら逃さずに沈んだ。
まさしく、頭の中で夢だと理解して安堵した。

「頭上で大きな鳥が一羽、わたしを水の底から引き上げようとしてた」

あれは、なんだったのだろう。

ぐらりぐらりと視界が霞んでいく。とても眠くて、何も考えられそうにない。体が飛んでゆきそうに軽くなって、重力を失った頭が再び傾げて自然と最初の位置に戻っていく。こつん、軽く触れる合図に瞼がとろりと溶けそうになる。
「なに、したの」
いよいよおかしい。胃の辺りが熱を持ったようにほかほかする。おぼろげな視線の先に先程自分が口をつけた水呑が目に止まった。口の一部が欠けた何の変哲もない水呑だ。その横にある水差しに入った透明なものはどうだろう、何の変哲もない水に見えるけれど。直ぐ耳の傍で、疲れているんじゃないか、とシンドバッド王の低い声がする。そうなのかもしれない、その時ばかりはその声に従順になって頷いた。わたしはもう一度シンドバッド王の肩にもたれながら、唐突に焦燥感に駆られている。瞼を閉じることに抗いたく、何度も何度も瞬きを繰り返すと、無骨な手が視界を覆った。倣うように瞼を落としてみる。彼はとても忙しい人だ。わたしの歩く道を掠めるようにして走っていく。
「もう、行くの?」
短い間の後、彷徨うわたしの手に温かいものが触れた。
「いや、行かないよ」
徐々に薄れゆく意識の奥の方で、その答えに安堵している。何しろとても体が怠いのだ。
行かないで、その言葉は眠りのずっと奥の方に沈んでゆき、口から零れることはなかった。温もりの正体を確かめようとした指先が無意識に力を篭めたので、反射するように熱は指先から体中に伝わっていく。生きている、縋るように生きている。

君に、星のご加護がありますように

意識が完全に落ちる直前に、額に温かいものが柔らかく触れた気がした。






目を覚ました時には日が沈みかかっていた。とは言っても窓一つない閉鎖された空間なのであくまでも想像のなのだけれど。足下に目をやると自然に口元が綻んだ。燭台の炎におぼろげに輝く白銀の獣がカウチのすぐ横に蹲り、その腹のあたりにもぐり込む少年がいる。二人で寄り添うように丸くなって安寧に浸っている。夢のようだ、あの人嫌いのマリカがわたし以外の誰かにこんなに気を許している。途端に愛おしさが溢れてきて泣きたくなった。わたしだけにしか懐かない独りぼっちのマリカのことがずっと切なかったのだ、視界がわたしだけに絞られて他に目を向けようとしない孤独がいつか彼を苦しめることを想像したら恐ろしく思っていた。砂漠オオカミは長命で、生態系はあまり明らかにされていないが、人の倍は生きるのだと言われている。わたしの時間は恐らくもう彼の半分も残っていない。近い将来、わたしはこの孤独な狼を残して逝く。マリカは半身のわたしが先に逝くことを許してくれるだろうか、わたしは彼を残して逝くことは許されるのだろうか。本来砂漠オオカミとは一切群れを成さず、生殖行動以外は一切別の個体と馴れ合うことはない、孤高な生き物だ。乳離れした瞬間から、厳しい世界に一人放り出さる。生まれて1年も経たずに生死のふるいに掛けられる。自然界の掟に従い、生き残った者だけが砂漠に君臨することを許される強く気高い獣だ。つまりわたしのした事はマリカを救う為とはいえ、生態系を歪め、彼の野生としての本来あるべき牙を折ってしまったという事になる。それがどれだけ罪深いことか。前に一度、「君は独りで生きていくことが出来る?」と聞いてみたことがある。マリカは肯定も否定もせず、凪いだまなこでじっとわたしを見つめていた。わたし達はずっと一緒にいたから、お互いの気持ちが手に取るようにわかる筈なのだが、マリカはその時だけは何も言わなかった。わたしはそれ以上何も聞くことは出来なかった。その目をみてしまったら。
自惚れで言うとしたらわたし達の依存関係はどちらかが欠ける事を肯定出来ない程に近すぎるところにある。心臓は半分欠けてしまったら機能できないように、そのようにわたし達は繋がってしまっている。それはマリカの生を狭めているのだと知っている。マリカは優しくて強いので、本能でそれを悟り、心からそれを望み、寄り添ってくれている。わたしはその優しさに浸りながら、ずっと考えていた。いつか、この子を解放してあげなければいけない、この子にとってわたしという檻は狭すぎるから。マリカは独りの寂しさを知ってしまった。わたしはそれが過ちだっとは決して思わないけれど、彼が生きていける道を示す責がある。
やがてやってくる近い未来を思って、それは寂しいだろうかと考えてみる。寂しさよりも喜びがまさった。体が引き裂かれるような喜びだ。苦痛は一瞬で過ぎ去り、歓喜だけがずっと尾を引いていけばいい。
張りつめていた肩の力が抜けていくように、擽ったい感情に身じろきをすると、衣擦れの音を敏感に感じ取ったマリカが顔を上げ、習うようにアラジンの瞼がゆっくりと持ち上がった。
おにいさん、よく眠れたかい?」
「うん、久しぶりにぐっすり眠れたよ、体がとっても軽いんだ」
目を覚ますと当然のようにシンドバッド王はいなかった。この頃、夢と現実の区別がつかなくなっている。どちらが夢なのか判断ができない。夢のことを現実だと認識して、現実のことを夢だと認識してしまう。果たしてどちらが現実なのか、それとも、と考えて首を振った。肩の感触を未だ覚えている。触れた手の感触が痺れのように残っている。わたしが眠りに落ちる直前に滑っていった彼の言葉が、然りと脳に刻まれている。
「マリカ」
名前を呼ぶだけで彼は体をゆっくりと、アラジンを潰してしまわないように慎重に起こし、突きだした鼻を甘えるようにわたしの膝に乗せて目を細めた。これは撫でて欲しい時の合図。鼻筋と耳の下を撫でられるのが好き。わたしは彼の艶やかな毛並みを撫でるのが好き。アラジンがマリカの腹から顔を出してにっこりと笑った。
「シンドバッドおじさんがね、おにいさんを野放しにしておくと何しでかすかわからないから、いっそマリカが近くにいた方が安心だねって言ってさ。マリカは強いからいざって時におにいさんを護ってくれるだろう?それにここならマリカが居ても問題にはならないだろうって。僕もその案には賛成だったから、僕とモルさんで迎えにいったのさ」
「マリカはアラジンにとっても懐いているね」
「ああ僕たちはとっくに仲良しさ!ね、マリカ」
もふ、とアラジンがマリカの胴に抱きつくと、マリカは耳をぴくりと動かしてじっとしていた。
「まったくおにいさんは危なっかしくて僕たちちっとも休まらないよねえ」
マリカは同意するように鼻を鳴らした。流石に居たたまれずに、ごめんね、そっとマリカの鼻の頭に唇を落とした。
「今どのくらいかな」
「もう夕方だよ、昼過ぎにアリババくん達は出ていったからそろそろ帰って来る頃だと思う。外でモルさんが様子を見ていてくれているから帰ってきたら直ぐに教えてくれるはずだよ」
大丈夫かな、そう零すとアラジンははマリカの体から身を乗り出し、ぐ、と白銀の大きな体が悲鳴を上げて強張った。
「大丈夫さ、アリババくんならきっと乗り越えられる。それに今回はシンドバッドおじさんも付いているから百人力だろう?」
「そうだね」
「まあそうは言っても心配してしまう気持ちは別物だよね。おにいさんはとっても優しいし。僕も心配はしていないけど、本当は少しだけ、心配なんだ」
「何それ、意味がわからない」
ははは、と笑うとアラジンも笑った。
「実は僕もなのさ」

ひとしきり笑うと、アラジンはぐっと伸びて立ち上がった。名残惜しそうにマリカの毛並みを数回撫で、最後にわたしの頭を撫でた。
「さてと、おにいさんも元気になった事だし、僕もモルさんと外の様子を見てこようかな。おにいさんはここに居てね。君を外に出したら僕がシンドバッドおじさんに叱られるんだって肝に銘じておいてくれるかい。おじさんはちょっと横暴だと思うけど、僕はこの件に関しては生憎とおじさん側に付くことに決めたのさ。おじさんって真剣に君の事が心配なんだと思うんだ。ホテルに襲撃があった晩もね、姿の見えない君の安否を誰よりも心配していたんだよ。だからこんなところで再会した時のおじさんの気持ちが僕にはよくわかるんだ。君たちがお互いに何を考えているのかはわからないけれど、シンドバッドおじさんの君への真摯な態度は信頼に値することだけはわかったからね。
ところでこれ、おじさんに渡されたんだけど、流石に扉に鍵はいらないよね?
アリババくん達が帰ってきたら真っ先に伝えにくるからここでマリカとゆっくりしていておくれよ、じゃあマリカもよろしくね」

アラジンの言葉にマリカがしっかりと頷くのをわたしは見た。



2013.06.09. up.

You catch a piece of me and the knowable.
Im not crying, not yet.. if so.. 

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