妄想の中に生きている




取っ手が錆び付いた扉を開けると、途端にふうわり芳しい匂いに包まれた。

「あらおかえりなさい。遅かったのね。日が暮れる前に帰ってきなさいって言ったでしょう?」
玄関をくぐって直ぐ正面にある食卓には既に料理が並べられてあり、母の手に抱えられた鍋からは香辛料の利いた美味しそうなスープの香りが漂ってきた。野菜と魚介をじっくり煮込んだその中には母の愛情もたっぷり詰まっている。思い出したように空っぽのお腹が主張を始める。
「ごめんなさい、読書中にうっかりうたた寝しちゃって気付いたら暗くなってたの」
「まあ、珍しいこと。でも気を付けないと駄目よ、最近この辺りも物騒になっているのだから。この間、隣の村から来た商人が盗賊に襲われたって話をしたばかりでしょう?」
「はあい気を付けます…。手を洗ってきて手伝うね」
「じゃあサラダを盛りつけるのを手伝って貰おうかしら」
普段は眠りの浅いわたしが時間を忘れて眠りこけるのは珍しいことだった。太陽が頭上にある時間から瞼が魔法にかけられたみたいにくっついて、意識が戻った頃には地平線の向こうに橙色の光が沈んでゆくところだった。
「なんだか今日はご機嫌ね」
母と並んで台所に立つと真っ先に言われ、頬をぺたぺたと触りながら確認をすると
「顔ではなくてね、貴女の周りの空気がいつもより柔らかくて嬉しそうだったから」
何か良いことがあったのかしら?
わたしの生活サイクルはほとんど変化がない。家の手伝いがない限りは木陰の下で読書をする。飽きないのかと聞かれたことがあるけれど、他にすることがないから飽きる以前に選択肢がこれしかないのだ。もちろん読書は好きだけれど。あと数年もすればわたしも働きに出る歳になる。もしかしたら結婚することになるかもしれない。それまでに好きなことをして知識を蓄えておきたかった。小さな村では将来の選択肢があまりにも少なく、殆どの女の子は適齢期が来れば結婚して家庭を持つ事が当たり前の風習で、わたしのように結婚せずに働きたいなんていうのはほんの一握りしかいない。もっと言えば日がな読書ばかりしている子供なんてわたしくらいなものだ。同年代の女の子達は花嫁修業の一環として女子らしい事、料理や繕い物、お洒落をしたり、お喋りに花を咲かせたりと毎日忙しそうにしている。素敵な相手と結婚する為に自分磨きに余念がない女の子達。わたしはと言えば、そんな輪に加わることもなく、今日もダラダラと読書をして過ごした。
「そういえばね、今日は珍しく長い夢を見たの。そのせいかな」
「その様子だと素敵な夢だったのね」
母が庭で育てた新鮮な野菜を適当なサイズに切り分け皿に載せていく。隣の家にお裾分けしてもらった果物を最後に並べて今日の夕飯の準備は出来上がり。そろそろ父も帰ってくる時刻が迫っていた。
「うん」
目が覚めても鮮やかに褪せることなく覚えているなんて妄執に駆られているみたい。メインとサラダを並べただけで食卓は一気に華やいだ。質素な食材でこれだけのボリュームを毎日作る母の料理の腕はやはり素晴らしい。貴女も大きくなったら大好きな旦那様にこうして料理を作ってあげるのよ、と耳にたこができるほど言われているけど、作るより食べる方が好きな自分には難しい話だと思う。
席に着いて目を閉じると、心臓の音がやけに響いて聞こえた。未だ熱は残っていて、ひょっこり夢が顔を出すのではないかと、探し回っているのだ。
「夢の中ではね、わたしは世界中を旅しているの。不思議な男の子と優しい女の子、それから色んな人に出会って、一緒に旅をしてた。おとぎ話みたいに知らない世界を見て回って、信じられないような体験を沢山したんだよ。夜の砂漠を歩いたり、山を幾つも超えて大きな川を泳いで渡ったりしたわ。信じられる?」
「毎日読書ばかりしている貴女が?とても素敵な夢ね」
「うん。楽しいこと以上に辛いことだらけだったけどね、自然と苦しくないの。いつもどこか満たされていて、それも丁度良い具合に。満腹になるとそれ以上許容できない事に慎重になりながら、いつも幸せそうに笑っていたよ」
例えば初めて母の手伝いをして、失敗したけど最後には頭を撫でて貰えた時。転んで膝を擦り剥いて、痛くて泣いた後に見上げた空から鳥の糞が額に落ちてきた時。大好きな母の手料理を頬張った時。笑うという事は幸せだと言う事よ。両親の口癖は成長するに連れて当たり前のようにわたしの中に染みこんでいた。夢の中でも、形は違えど同じ気持ちを感じていた。思い出して、次第に笑顔が浮上してくる。
「毎日幸せだったけど、ある時これが夢なんだって唐突に気付いたんだ。それで目が覚めた頃にはすっかり日は暮れてたけどね」
一瞬で通り過ぎていったが、その瞬きの瞬間に、燃え上がるようば幸せを感じた。
母は向かいの席で穏やかに頷く。
「旅の途中で騙されたり、知り合いが亡くなったり、自分自身が死にかけたり、辛いことばかりなのにどうしてこんなに穏やかにいられるんだろう、って思ったときにね、わかったんだ。辛いことより幸せな思い出の方が圧倒的に自分の中を占めているのはどうして?それはね、怖いことは全部切り取って、少しずつ土に埋めながら進んでいたからだったんだ。気付いた途端に、ああこれは夢なんだなあって理解した。都合の良いように出来てるんだなって。
実際、嫌なことを全部切り離せたら、とても生きやすいだろうなあ」
「それはどうかしら?」
「どうして?」
誰だって嫌なことや辛いことはない方がいい。安寧な人生を望むことは悪いことなのか。いつも穏やかで荒事や苦労とは無縁に見える母はやんわりと首を振った。
「辛いことを切り取ってしまったら、その瞬間は幸せになれるかもしれないわね。けれども痛みを忘れてしまったは、その先の苦しいこと、悲しい事に気づけないままではない?人は未知の事に対して鈍感だわ。痛みに鈍感になって誰かを傷つける事があるかもしれない。私はの他人を気遣える、幸せを伝えられる優しさが好きだわ。痛みを知っている人は幸せよ。それを知っている分だけ幸せを実感できるのだから。痛みのない幸せなんて本当に実感できるものなのかしら?お母さんは桃源郷に行ったことがないからわからないのだけれど、泣いたり笑ったり、楽しいことも悲しいことも家族三人で共有できるこの生活がとても愛おしくて、それこそ夢を見ているみたいだわ」
時々母は恥ずかしい事を平気で言う。ストレートに伝わってくる母の愛というものを噛み締めながら、くすぐったい気持ちを隠すように数回頷いて、俯いた。夢の余韻が一気に醒めて、浮き足だっていた心が途端に落ち着いていく。
「辛いことに向き合うことで人は成長するものよ。お母さんも、若い頃は失敗や辛い経験を沢山したけど、だからこそ今はやお父さんと一緒にいられるわ。貴女は私に似て、立ち向かう勇気も、乗り越えられる力も、誰かを愛する優しさをちゃんと持っているの」
だから怖がらないで、私の可愛い子。母の声が静かに耳を撫でていく。
「どうしても負けそうになったら、辛くて押しつぶされそうになったら、夜空を眺めなさい。どんな暗い夜も月とお星様はを見守っているわ。もちろんお父さんとお母さんもね。
苦しい時こそ下を向いていたら息ができないでしょう?だから空を見上げて祈りなさい。
百千の星々の王アン・ナスル・アル・ワーキウが貴女を護ってくれるから」

いつもならとっくに帰って来る時間なのに父はまだ姿を見せない。わたしのようにどこかで居眠りでもしているのだろうか。日が暮れると田舎の村はたちまち暗闇に包まれる。転々と不規則に民家の窓から漏れる光だけが忘れられた灯火のように道を標す。静寂と微睡みに包まれた村は夜の訪れと共に深々と眠りに耽る。一度泥酔して迷子になった過去がある父の様に、地元民でも夜に出歩くことは滅多にしない。夜は未知の領域だ。この村の子供達は「悪い子にしてると、夜の神様ザラームがお前を攫いに来るよ」と周囲の大人達に脅しつけられて育つ。どこの地方にでもあるような伝承だけれど、無垢な子供には絶大な効果をもたらし、日中どれだけ不遜にふんぞり返っているガキ大将でさえも、日が暮れ始めるとそそくさと帰路につく。確かに夜が来ると夜目の利く獰猛な獣が闊歩することもあるからあながち間違いではないと思う。何より最近では盗賊騒ぎを良く耳にする。わたしの思考を代弁するように母が「どこで道草を食っているのかしら」と首を傾げた。目の前の煮物はすっかり冷めきっている。俯いた目線から、母の荒れた指先がやけに目に付いた。主婦の鑑のようなその手は痛々しく見えるが、父はそんな母の手が大好きだった。わたしはあの手の痛みすらもなかった事のようにしたかったというのだろうか。自分が如何に甘くて稚拙な考えをしていたかを思い知らされ、恥ずかしさと情けなさでいっぱいになった。
頭を抱えながら、ふいに伝えなければ行けないことがあった事を思い出した。

「ねえお母さん、遠くの方に嫌な雲が見えた。近いうちに大きな嵐がくるかもしれない」

あら嫌だ、お父さんが帰ってきたら、屋根の雨漏りの修理をお願いしなくてはいけないわね、いつもの調子で呑気な返事が返ってきた。




「これは遠い遠い昔の、女王様と兵士のお話」

夕暮れの仄かな温もりが地上を照らすと、教会のステンドグラスから暖色を基調とした何色もの色彩が弾けるように褪せた石畳に降り注いだ。教会に赴いて祈るという行為をもう何年もしていないというのに、出迎えた神父は真っ白な法衣を身に纏い、慈愛に満ちた眼差しをわたしに向けた。背徳感に呵まれる心に「神はいつでも、誰にでも、その人が信仰を必要とさえすればいつでも門を開きます。神は貴方のいかなる愛を拒むことはないのですから」と初老の神父は皺だらけの手を差し出した。流石に司祭に顔向け出来るほどの厚顔は持ち合わせていなかったので街一番の大聖堂に行く勇気はなかった。街の片隅にある、くたびれた小さな教会。石造りの建物は所々に綻びが目立ち、最早殆どの人間の目にも止まることがないのだろう。ひび割れたステンドグラスからは鳥の巣が顔をのぞかせていた。正面の大きな扉の装飾だけは昔の趣を残していて、神々が浮き世を愁う様が精巧に刻まれている。その扉の前に、小さな赤子を抱えた女性がう蹲るようにして座っていた。女性の前に置かれた空のコップに銅貨を数枚入れると、ゆっくりと顔を持ち上げ、ひび割れた唇で、「ありがとうございます」と3回繰り返し、また同じように蹲った。至近距離でよく見ると女性が大事そうに抱えた赤子は、ボロボロに煤けた女の子の人形だった。
軋む扉を開いて中に入ると、わたしは声を失った。
忘れた筈の信仰は厳かに其処に在った。自分が祈ることを止めただけだったというのに、何もかも失った気でいた。実際は何一つ変わることなく全てが当然のように其処に存在していた。突き刺さるような神聖な冷気が室内に立ち込め、自然と背筋が伸びる。跪くことすら忘れ、夢中で小さな祭壇に近づくと、微かなお香の匂いが体中を包んだ。室内にはわたし以外誰も居らず、神の視線を一身に浴びている錯覚に陥り、たまらずに膝を折った。忘れたと思っていた祈り方を体は覚えていた。どんな小さな村にも必ず教会は存在する。欠かさず週末には両親に連れられて、義務のように祈りを捧げていた頃の記憶が蘇った。最後に祈った時は自分一人だった。原型を留めていない瓦礫と成り果てた祭壇の前で半日膝を折った。あの時、何を思って、何を祈ったのかは覚えていない。ただ、神という存在があるのなら、一体何の罪を罰せられているのだろうかと、そればかりが胸を抉り続けた。罪は償わねばならないと誰かが言う。ぬかるんだ地面を踏みしめて、必死に穴を掘った。無心で掘り続けた沢山の穴がすっかり埋まる頃には2週間経っていて、地面はとっくに乾いている。一晩だけ、一つの大きな穴の上で寄り添うように眠りについてから、日が昇る前に村を出た。以降、教会に足を踏み入れたのは今日が初めてだった。
わたしが俯いて、冷えた床にぽたぽたと染みを落とし続けている間、神父はわたしの為に嗄れた深い声で、歌うように祈りの言葉を紡いだ。後悔しに来たわけでも、懺悔しに来たわけでもないのに、泪はずっと止まらなかった。



「物語は、ある兵士が女王様に会いに行くところから始まるんだよ」

最初は恐る恐る、徐々に距離を縮めてくる子供達に笑顔を向けると、一人、また一人とわたしの周りに集まり、少し経つと小さな広場に子供達の輪ができていた。
「女の王様なんて聞いたことないよ。変なの!」
「遠い昔の、遠い異国のお話だからね。その国は女の人の人権も男の人と同じくらいに認められていたから、誰も女王様だからって悪口を言う人はいなかったよ」
発言した男の子は拗ねたように口を尖らせ、隣の女の子がそれを見て笑った。
「女王様は、とっても若い頃から王様になって、とても厳しい意思を持った人でした。何故なら国王というのは国の誰よりも強くなくてはならないから」
「女王でも強いの?」
「強いよ、君が思っているような肉体的な意味ではなくて、精神さえ強くあれば男女なんて関係ないよ。君だって産まれ持った力や暴力だけで人間の優劣を決めるのは好きじゃないでしょう?」
アズィールはいつも暴力ばっかりだよ、と女の子達に言われると、男の子は尖らせた口をそのまま閉じてしまった。わたしが苦笑しながら話を続けると、今度こそ子供達は静かに聞き入った。
「兵士は女王の部屋に案内されると部屋の扉をノックしてこう言いました。
『わたしはもうこれ以上、貴女の為に戦うことはできません』
女王はその兵士の顔をどこかで見たことがあって知っていたから、ゆっくりとその兵士を招き入れました――

遠い昔のおとぎ話。ハッピーエンドは好きだけど、現実は物語のようにはいかないことを子供の頃から嫌というほど知っていたから、めでたしめでたしでは終わらない話も好んで読んだ。それは現実味を帯びていて想像力を掻き立てた。
今、子供達にに話して聞かせようと思っている物語は戦時中のとある国のお話だった。子供達が好きな冒険の話や、童話でもない。魔法もジンも存在しない遠い世界のこと。遠い昔の異国の地がどれだけ遠いかなんて、わたし以外に知る人も知る術もない。曖昧に暈かせばそれだけ人々の好奇心を駆り立てる。それがこの世界ですらないだなんて誰が気づけるというのだろう。
それは強くて孤独な女王と、戦う意義を見出せなくなった一人の兵士の絡まらなかった物語。
無心で戦争に身を費やしてきた兵士は、ある時、一つの事を決意する。そして彼が女王の元へ向かったことで始まり、終わる物語。
孤独故に奇妙に歪み続けた女王に、真っ向からぶつかった兵士は、ついに彼女の事を理解できることなかった。だから兵士は女王に問う。
「明日、私はここを去ることに致しました。後は陛下のお好きなようになさると良い。けれども、たった一つだけ、貴女に問いたい。何故戦争をなさるのか」
この戦は一体何のために行われているのか、陛下はご存じなのか。この窓の向こう側で行われていることを。沢山の人間が理由も知らず、盲目的に戦地へ赴き、涙の変わりに血を流している。見たこともない陛下の為に命を散らしていく。貴女はそれをどのようにお考えなのか。孤高の存在でなければならない女王は兵士の問いに答えることが出来ず、最後まで心を閉ざし続けた。
「お前などにはわからない。いや、わかろうなどしない方が良い」
わたくしの中で引き裂かれるような苦しみ、流れ続ける血の苦しみがわかるはずがない。しかし貴女も貴女の作った殻の外で行われている血をも氷るような出来事を見ようともなさらない。
これからは誠実に在るために生きてゆくと告げた兵士を女王は許さず、兵士は二度と女王の城から出ることは叶わなかった。
そうして咎める者がいなくなくなった国で、女王は孤独に籠もり続け、戦争は続けられるのだ。物語はここで終わり、それ以降の事は誰にも分からない。
わたしはこの物語について考える度に、孤独とはどのようなものなのか、権利とはどのようにあるべきなのかを考える。兵士は権利を与えられなかったけれど、孤独ではなかった。反して国中の権力を手にした女王はそれ故に孤独であった。何かを得るために何かを犠牲にする。力を得るためには孤独でなければならないのだろうか。物語の女王が、自分の力以外から目を背け続けたように、バルバッドも今正に沈みゆこうとしている。何も知る機会すら与えられない子供達を巻き添えにして。

物語が終わると、子供達はそれぞれ不思議な表情を浮かべ「結局どっちが正しかったの?」と口々に言い、アズィールと呼ばれた少年が「そんなの兵士に決まっているだろ。女王は傲慢で我が儘な奴だ」と口を尖らせた。「でも、ちょっとだけ女王様も可哀想だな」と一人の女の子が呟いた。
「どちらが正しいかを言い争うのではなくて、自分自身で思う方でいいんだよ。争いは互いの正義がぶつかり合って起こるものだから、どちらにも明確な正解なんてないもの」
「難しくてよくわかならい!」
子供達が一斉に匙を投げてしまうと、やっぱり子供にはちょっと難しかったかなと反省する。
「うーんとね、兵士の事が可哀想だと思うことも、女王様が独りぼっちで可哀想だと思うことも君たち次第だってこと。君たちが正しいと思えばそれが正義だよ。誰かに押しつけられた正義なんて、押しつけられた側には正しいことかどうかなんてわからないよね。大事なのは自分で考えて、選ぶこと。僕はね、立場だとか難しいしがらみを取り去って自分自身の信念を貫き通した兵士は可哀想ではないと思う。彼は最期まで自分を誇っていたと思うよ」
同時に、命を賭してまで貫く誇りとは、信念とは何だろう、死んでしまえばそこで終わりなのに、とも思う。
「君たちも、これからこの国で起こる事を自分の目で見て、感じて、選択する時が来ると思う。その時に自分で納得のいく道を選択できるような基盤が出来ていればいいのに」
簡単な事がこんなに難しい。選ぶ権利も抑圧されてしまえば、後はもう盲目的に信じるしかない。しかしその崇拝の対象が歪んでしまえばどうなるのだろう。
女王と兵士。二人とも幸せだったのかもしれないし、不幸だったのかもしれない物語。
「それにしてもお兄ちゃんのお声はとっても綺麗ね。こんなに綺麗なお歌はじめてきいたの!」
一人の少女の言葉に首を傾げた。
「あなた達は賛美歌を聞いたりはしないの?」
「ううん、教会なんて入ったこともお祈りしたこともないよ」
あの寂れた教会の祭壇の少し離れた所で埃を被っていたパイプオルガンの事を思い出した。信仰は人々の希望の灯火にも成り得る。希望することや祈る意義すら知らない目の前の子供達。知らなければ幸せなこともあるが、知らないことでで絶望を押しつけられることもある。知ることから全ては始まるというというのに。
「お兄ちゃんはジョングルールなの?」
「ん?そうだね、大道芸人達のキャラバンに混ざって旅をすることもあるかな」
ジョングルールとは、各地を巡りながら芸を演じて生計を立てている旅芸人のこと。基本的に芸術家肌の者が多く、腕力に自身のない、身を守る術のない者達が寄り合ってキャラバンを組み、用心棒を雇うことは珍しくない。マリカに出会う前はよくキャラバンに混ぜてもらったものだ。そんな旅芸人達の足が雲行きの怪しいバルバッドから遠ざかりつつあるのは無理のない話で、子供達は珍しそうにわたしを見る。
「ふうん、じゃあとっても物知りなんだね!もっともっとお歌を聞かせて!旅のお話も聞きたいな!」
わっと目を輝かせた子供達に囲まれ、あわやひっくり返りそうになると、辺りは暗くなりかけていた。黒く染まりつつある空が視界に入ってくる。
「わ!でも今日はもう遅いからおしまいだよ。続きはまた今度にしよう。なんだか霧がかってきたし…嫌な雰囲気だな」
「お兄ちゃん知らないの?霧が出たってことは、霧の団のおでましだよ!」
あまりにも誇らしげに言うので、一瞬何の事かわからなかった。
「…霧の団って巷で噂の盗賊団のこと?だとしたら尚のこと早く帰らないと危ないよ」
「危なくないよ!霧の団は僕たちを救ってくれるんだ」
どういう意味なのだろう、質問をしようとした途端に、子供達は蜘蛛の子を散らすように走っていってしまった。呆然と立ち尽くしていると、服の袖を引っ張られる感覚に視線を降ろしてみれば、アズィールと呼ばれた少年が一人、困ったような怒ったような気難しい表情を浮かべて立っていた。何かを言いたそうに口を開いては閉じを繰り返している様子を暫く見守っていると、意を決したように力強い目でわたしを見据えた。
「なあ、頼みたいことがあるんだ」




アズィールの頼みとはこうだ。
彼の母親が少し前から風邪をこじらせて寝込んでおり、元気付けたいからわたしに歌を歌って欲しいというのだ。早く帰らなければアラジン達が心配するだろうと思ったけれど、母親思いの優しい少年の直向きな瞳に二つ返事で頷いていた。わたしの歌なんかで人が救えるなど驕っているわけではない。それで彼に希望が宿るなら、出来ることをしたいと思った。
父親を早くに亡くしたアズィールは、女手一つで育てられたスラムの子供だった。バルバッドでは彼のような子供は珍しくない。スラムの子供達は小さい頃から自活を余儀なくされ、年齢も関係なく互いに助け合って生きている。案内された家は、家と呼ぶのも疑わしいスラムの一角にある廃墟だった。そこには沢山の人間が肩を寄せ合って生活をしている気配がある。よそ者である自分へ敵意剥き出しの視線をいくつも感じれば、居心地の悪さで自然と足取りが重くなった。
「アズィール、貴方のお母さんは本当に風邪をこじらせただけなの?」
少年の母親の床の前に立つと愕然とした。普通の風邪ではありえない、土気色の肌。かろうじて息をしている様子が弱々しく上下する肩から伺える。閉じられた瞼の下は窪んだ隈が深く刻まれていた。布きれに等しい布団から覗く腕には生気がなく骨が浮き彫りになっており、艶のない乱れた髪が枕に散らばる様を、枕元に置かれた蝋燭がじりじりと照らしている。わたしの問いにアズィールはきつく唇を噛み締め、焦げ付くような視線で母親を睨んだ。
「母ちゃんは前から体が弱くて風邪をひくことなんてしょっちゅうだったんだ。今回だってちょっと長引いただけに決まってるだろ!」
わたしは医者ではないが、これが風邪の症状ではないことは誰の目にも明らかだった。一番近くにいるアズィールがそれをわからないわけがない。悲痛な気持ちを覆い隠すように彼は声を絞り出した。息子が近くにいるというのに瞼を開く気配のない母親の顔には最早生気は感じられない。
「あんたの歌を聞かせれば元気になる、そうだろう?!」
再びわたしに向けられた視線は祈りに似た狂気だった。狂ったようにギラギラと瞳を光らせてもちろんだと、わたしが頷くのを待っている。偽りを現実にすげ替えたくて奇跡にすら縋りつきたいのだ。
「なあ頼むよ、歌ってくれよ」
返事を返すことができず、ひゅ、と喉の奥が鳴った。
わたしの歌は万能ではない。物語の主人公のように魔法も使えないし、奇跡だって起こせない。
人形のように立ち尽くしていると明らかな落胆の感情を浮かべたアズィールは、体を震わせて牙を剥いた。小さな体には耐えきれない鬱積が、ついに彼自身の世界を滅ぼしにかかった。
「なんでだよ!なんで母ちゃんなんだよ!どうして、どうして、まだ一緒にやりたいことも沢山あるのに、いつも辛そうな顔ばっかして、辛そうな顔して大丈夫って、大丈夫だって言ってたくせに、何がいけないんだよ…なんで母ちゃんが…」
「アズィール…」
血を吐くような悲痛な叫びだった。ぎゅっと拳を握りしめて俯いた少年の肩にそっと手を伸ばすと強い力で振り払われた。
「母ちゃんを助けられないなら出て行けよ!役立たず!」
弾かれた手の痛みよりも、突き刺さるようにぶつけられた感情の方がよっぽど痛かった。アズィールはわたしを追い払うと母親の枕元に蹲った。それでも母親は目を覚まさなかった。消えそうな呼吸をする為だけに生きている。息子の憤りを受け止める筈の手はだらりと力無く床の上に置かれたままだ。室内には嗅ぎ慣れた嫌な臭いが充満している。炎が尽きる寸前の救いのない嫌な臭い。アズィールが広場で見せた子供らしい表情を思い出して目頭が熱くなる。

ああなんて生きづらいんだろう。

静かに部屋を後にすると、騒ぎを聞きつけた人々が数人集まってきていて「あの子の母親はよく頑張ったよ。もうあんな状態で1ヶ月近くも息子の為に堪えたんだからね。まだ若いんいのに大した精神力だよ」一人が慰めるようにわたしの肩を叩いた。慰めが必要なのはわたしではない。扉の奥から子供の啜り泣く声が聞こえる。この声は母親に届いているのだろうか。歳の頃は自分とそう変わらなかった。元気でいればまだまだ沢山の未来が待っている筈だ。アズィールだってまだまだ母親が必要な歳だ。「大丈夫かい?」ちっとも大丈夫じゃないのはあの親子の方だ。仮にわたしが名医だったとしてもあの母親はもう助からないだろう。周囲の諦めと同情の入り交じった空気はこの廃墟に馴染みきっていた。あの子には悪いけど良くあることさ、誰かのため息混じりの声。慣れきった目で「可哀想に」と言われるアズィールの気持ちをを理解できるものはここにはいない。きっと自分もそんな目で彼を見ていたのだと思う。

「あなたは…?」
ふいに騒がしくなった外の様子に顔を上げると、ようやく帰ってきたなと周り人々は建物の外へと走り出していった。真夜中だというのに空耳では済まされない場違いな喧騒が周囲を支配した。その中にあるはずのない声を認識して振り返るとそのまま固まった。
「え?」
「やっぱり、貴方はさんですね。どうしてこんなところに?宿にもいないから皆心配していたんですよ」
記憶の中よりも厳しい声音に叱られているような錯覚に陥る。確かに何も言わずに出てきたが子供でもあるまいし。訝しげにその名を呼んだ。
「ジャーファルさん…?」
「そうですよ、昨日の今日で忘れられていたらどうしようかと思いましたよ。にしてもさん、貴方はどうしてこんな所にいるのでしょうね?」
それはこっちの台詞だと呆けているとジャーファルさんの顔が盛大に引きつった。
「ええと、こんな所というと…?」
わたしはただアズィールの家に来ただけなのだけれど、外の人達といい、何が起こっているのだろう。
「状況が飲み込めていない所申し訳ないですけど、こちらも事情を説明する余裕がない位に戸惑っていましてね。…弁解なら私にではなくて彼にした方が賢明ですよ」
「彼…?」
是非ともそうなさった方が良い、と疲れ切った顔で言われれば、思い当たる節が多すぎて血の気が引いた。彼がいるということはつまり、
「ジャーファルさんあのう、ここで会ったことは出来れば内密にして頂けると大変ありがた――
「もう遅いと思います」
彼が指した方向には、この場に不釣り合いな満面の笑みでこちらに向かってくる人物。夜目にもはっきりとわかる姿に自分の顔が徐々に引きつっていくのがわかった。一人だけただならぬオーラを感じる。これは見つかりたくない!咄嗟にジャーファルさんの背後に隠れると「うわ、なにしてるんですか!巻き込まないで下さいよ」と目の前に差し出されてしまった。よろけるように躍り出た自分の前に大きな手が差し伸べられると内心悲鳴を上げた。その手を借りることなく体勢を整え視線を辿ると、手持ち無沙汰な手をひらひらさせながらわらって言う。
「……やあ、こんな所で会うなんて奇遇だな!月夜の綺麗な晩に出歩きたくなる気持ちもわかるが」
嘘だ、霧で月どころか星一つ見えなかった。
「宿で大人しく待っているように伝えた筈だが、俺の記憶違いだったかな、ん?」
シンの後ろでマスルールさんが、観念しろと肩を竦めた。笑顔が怖いなんて反則だ。笑顔を貼り付けた鳶色の瞳が弁明できるものならしてみろ、と挑発するようにわたしを射抜く。
わたしは泣くことも笑うことも目を反らすこともできなかった。教会で両手を重ねた、懺悔にも似た感情がぐるぐる周り始める。まるで神様と対峙しているみたい。
「この国が今どのような状況下にあるのかをよもや忘れたとは言うまいな?理由はどうあれ今回ばかりは見逃せな――
言いかけて、はっと瞳の色が変わった。突き刺さるようなものから動揺したように一瞬揺れて、ぐっと視線を近づけてきた。息をのんで瞬きを繰り返すと、眉間に皺を寄せて、わたしの表情を丹念に覗き込んでくる。真剣に思考を働かせる時、右の眉がほんの少し下がる癖が幼なじみにそっくりだった。よく見ると深いはしばみ色の瞳の形も似ている。わたしにちっとも答えを与えてくれない意地の悪い瞳、とても懐かしい。とても
「どうした、何があった?」

触れてみたいと思った。

あ、と我に返った時には中途半端に手が伸びていて、冷静にその手を下ろすと後悔が波のように次から次へと押し寄せてくる。何もない、何でもない、うわ言のように繰り返して顔を背けて距離を取った。
隙間風がびゅうびゅうと遊ぶように舞っていく。
「ごめんなさい、何でもないです」
「そんな顔して何でもないわけがあるか」
一体どんな顔だ。シンが驚くほどの間抜けな自分の顔を想像して、止めた。気を引き締めると、再びシンの眉間がぴくりと動く。
「どうして下がるんだ、こちらに来なさい。まだ話は終わっていないだろう」
「そんな怖い顔されたら近寄れないですよねえマスルールさん」
「俺を巻き込まないでください」
「君だってそんな顔をして放っておけるわけないだろうが」
「子供じゃないんだから放っておいてくださいよ!この顔は生まれつき!」
勢いに任せて声を張り上げると、ぴた、と攻防を繰り広げていたシンの動きが止まり、そのまま腕組みをしてわたしを見下ろした。ほっと安堵もつかの間の事、背後に控えたマスルールさんが視線を反らしたのを見て冷や汗が頬を伝った。
「…ほう、子供じゃない、ねえ」
シンの視線が上から下までゆっくりと巡回すると、今度はわたしが動きを止める番だった。今の自分はどう見ても年端もいかない少年の装いをしている。失敗した!と打ちのめされていると「だからさっさと弁解してしまえば良かったのに」とジャーファルさんのため息が聞こえた。
やるせない気持ちと共にしつこそうな説教を覚悟した時だった。

「あ!」

疑問よりも、気付いた時には体が走り出していて、シンの制止の声も飛び越えて力一杯飛びついた。
視界の端に捉えた金色の懐かしい人。久しぶりに見る姿は随分と大人びていて別人のようだった。自分でも気付かないうちに彼への思いが募っていて、話したいことが沢山あった。目を丸くして弾丸のようなわたしの突撃を両手受け止め、きれるはずもなく、二人でゴロゴロと地面を転がった。

「アリババくん!」
…?!」

うん、そうだよ。転がったままぎゅっと抱きつくと、その横に同じように目をまんまるに見開いたアラジンとモルジアナがいた。
背後で誰かの舌打ちが聞こえた。



2013.05.03. up.

The Queen and The Soldier by Suzanne Vega


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