或いは罪と呼べるもの



「アリババくん、貴方は本物のアリババくん?」
壊れ物に触れるようにそっと手を伸ばす。髪の毛、顔や首や肩や腕、全身の触り心地全てはアリババくんを形成していると頭ではわかっているのに、口からついて出た言葉は疑問だった。
「アリババじゃなかったら俺は誰なんだよ!」
「そうだよねえ、変なアリババくん」
「変なのはお前の頭ん中!」
ぷりぷりと怒り顔のアリババくんを見て、ああこれは本物だなあと実感する。怒りっぽくて、お人好しで、若人らしく未熟な危うさがあるけれど、それ以上の未知の可能性を秘めた、とても芯の強い人だ。
「チーシャンで別れた時は、残念だな、ちょっと寂しいな程度だったんだけど、バルバッドでアリババくんを見た瞬間に吃驚するくらい喜んでいる自分がいたの。なんかね、思っていた以上にアリババくんのことが好きみたいなんだ」
君の方を向く希望だとか羨望が複雑に混ざり合って、眩しくて手を伸ばすのがやっとで、虚空を彷徨うわたしの手を、座り込んだわたしを無条件で引っ張り上げてくれるような気がして、そんなことを期待してしまうくらい君に「希望」を抱いている。
「はぁ?」
「だからハグ」
「しねえよ!」
「違うよ、今回は僕がしたいの」
逃げ腰の少年に思いっきり抱きつくと、抱き心地もアリババくんだった。久しぶり、と耳元に声を寄せると、観念したのか体の力が抜けて、照れくさそうに本当に久しぶりだな、と返ってきた。その言葉だけで、最初に感じた違和感がどうでもよくなるくらいに満たされた。「さん、そろそろアリババさんの魂が抜けてしまいます」とモルジアナに注意されるまで自分が彼を締め上げていたことに気付かないくらいに満たされていた。ずっと足りなかったものに気付かせてくれる温もり。それはわたしを正しい方向に向かわせてくれる。
「二人はとっくにアリババくんに再会してたんだね」
日中、盗賊退治の会議にすら参加させて貰えなかったわたしは、アリババくん探しを兼ねて街を散策していたのだ。早く教えてくれれば良かったのに、と拗ねた気持ちも含まれていた。
「だっておにいさんは夜になっても宿に帰ってこないし、伝えようがないじゃないか。ずっと帰って来ないから心配したんだよ。どこで何をしていたんだい」
「どこで何って…」
ごほん、と態とらしい咳払いに振り返ると、米神を抑えながらジャーファルさんが立っていた。
さんも彼とお知り合いだったんですね。よろしければ僕達にも状況を出来る限り詳細且つ綿密に説明して頂けると有り難いのですが…と我が主が申しております」
その横でシンが大仰に頷いた。
「とりあえず君たち二人は速やかに離れなさい。周囲が吃驚している」
わたしとアリババ君は冷たい視線を浴びせられると、揃って首を傾げた。周囲を見渡せば、確かにわたし達を中心に遠巻きながらも垣根が出来上がっていた。「シンドバッド王はなんで不機嫌なんだ?」と尋ねられると「さ、さあ?」視線を反らすしかなかった。








湿気がねっとりと絡みつく熱帯夜。わたしはずっと視線を伏せて俯いていた。隣に座るアラジンが困惑気味にこちらを伺っている。本当は言いたい事が沢山あるのだろうに、何も言わずに成り行きを見守っている。一番事情を飲み込めていないアリババくんは最初こそ居心地悪そうにしていたが、話が進むにつれすっかり無口になってしまった。
こういう時に何に縋ればいいのかわからない。伏せた視線の先に薄黒く煤けた自分の膝がある。教会で祈りを捧げたときの名残だ。手で払っても消えない染みのようにまとわりついている。都合の良い祈りに対する罪の証のようだ。口を開けば陳腐な謝罪がついて出そうだったから、もう随分前から唇は結ばれたまま。何を弁明したって彼はもう、わたしを許したりはしないのだから。浅はかだった?そうだね、とても浅はかだった。決定的なとどめを、刺してしまった。突き刺さったナイフを無理に抜こうとすると、沢山の血が溢れてくる。ならばそのナイフを埋めてしまえばいい?埋めてしまったらずっと痛みを抱えたまま身動きが取れなくなる。つまりもう、わたしにできることなど何もなかった。息をすることすら罪の証のようにただ唇を強く結びつける。時間ばかりが無情に過ぎていく。

暫くしてジャーファルさんが小走りで戻ってきた。
少しだけ肩が震えた。

「どうだ?」
落ち着き払ったたシンの声すら歪んで聞こえる。もうこの空間自体が歪んでしまっている。
「ひとまず薬を飲ませたので容態は安定しています、が、予断を許さない状態ですね。薬と言っても鎮痛剤のみですので病の進行自体を和らげるものではありませんし、鎮痛剤もどれほどの効果があるのかどうか…」
鎮痛剤のみ、まるで死刑宣告のような言葉だった。
「どうもありがとうございます」
頭を下げると、いえ、僕は医者を呼びに行っただけですから、と困ったように言われた。
「シンドバッド王におかれましても感謝を申し上げます」
「…いや、当然の事をしたまでだ」
わたしの話を聞いて、アズィールの母親の為に医者と薬を用意するのを命じたのはシンドバッド王だった。有能な配下であるジャーファルさんの働きは実に迅速で、深夜だというのに半刻も経たない間に処置まで完了させてしまった。本当に感謝しきれない気持ちで溢れそうになる。
深々と頭を下げたので、彼がどのような顔をしていたのかわからなかった。
「ええと、ちょっと様子を見に行ってきますね」
これ以上、ジャーファルさんの説明を冷静に聞く自信がなかった。彼がこれから口にするだろう事実はわたしの望んでいるものではない。
立ち上がり、部屋の出口へ歩き出すと突然、腕を掴まれ、強い力に引きずられるようバランスを崩して振り返ると険しい顔をしたシンドバッド王がそこにいた。
「君はここにいなさい」
意味が直ぐにはわからず、一拍置いて室内を見渡すと、他の面々も似たような顔をしている。わたしの行動を咎めるような、視線。ああ、そうか。今あの部屋に行ったら、アズィールと鉢合わせになって、それはきっと良くないことだ。彼の神経を逆撫でしてしまうから。きっと、また彼を絶望させるから。広場で笑っていた時と、希望の光を断ち切られた時のアズィールの表情が同時に浮かんできて、全身の力が一気に抜けていった。そんな無神経なことをよくも出来たものだなと。つまり、そういうことだ。最後まで踏ん張っていた足の力がついに霧散していく。
「はは、そうですね。わたしは行くべきではない」
ぐっと、更に力は篭められ、無抵抗なわたしはあっけなくシンドリア王の横に腰を下ろしていた。この廃墟のどこにこんな柔らかく無機質なカウチがあったのだろう。鉛のように鈍る体を鎮めるともう動けそうになかった。与えられる力に従順に体が傾いていく。
「違う、そういう意味ではない。君は今自分がどんな顔をしているかわかっているのか」
ぐっと寄せられた顔を見る。瞬きをして、見る。
裁きの炎にこの身を焦がして燃え尽きる最期の瞬間まで、わたしを許さないでいて欲しい。
そんな真剣な顔をして、夢の中にいるみたいだ。虚無的な夢であるなら、僅かばかり救われても咎められないだろうか。お願いよ、お願いだからどうか―――

今度こそ手を伸ばしても許される?

「どんな顔って…」

掴まれていない方の手で、頬に触れた。本当はその瞳に触れたい。でも触れてしまったら見えなくなってしまうから。馬鹿みたいな矛盾だ。指の平で確認するように撫でると柔らかそうな頬は強張っていて、アリババくんのそれよりも硬くて、冷たい。冷たい皮膚の内側で波打つ体温が、わたしの指の動きを追って疾走を始める。追いつかれてしまわないようにわたしの指は彷徨って、留まるべき場所を探している。触れたかった瞳は月光を浴びているのに瞳孔が開ききった状態でわたしを映している。こんな顔もできるのね。貴方は冷えきった顔でとても、生きているみたいな表情をしている。

「シンドバッド王の方がよっぽど面白い顔をしていますね」

瞳越しの自分の顔を覗き込んで、これは酷いな、と思う。
ゆっくりと手を放すと、もう片方の腕の拘束はとっくに解けていた。指に絡まる風が生温い。遠くで亡霊が泣いているのだろう。

「でもね、自分でも吃驚するくらい、今の僕は正気なんですよ」





「一時期ね、自分が死に神ヤアスなんじゃないかって思うときがあってね、丁度アリババくんと同じくらいの歳の頃だったのだけど」
霧の団が街から去ると、綺麗な月の晩に様変わりしていた。夜空のよく見える回廊の窓の縁に腰をかけ、温い夜風にあたりながら半分ほど欠けた月を眺めていた。
結局、アズィールの住んでいた廃墟は、霧の団のアジトだったらしい。あの広場で見た子供達の姿を他にも何人か見かけた。小さな子供から大人まで行き場のなくなった者達が寄り添うようにして徒党を組んでいるのが霧の団の実体だった。
夜警の巡回の時にアラジン達はアリババくんと再会を果たしていて、まさかアリババくんが盗賊団の頭になっていたなんて聞いた時は驚いたけれど、同時に納得もした。彼はやり残したことを成しにバルバッドに戻ると言っていた。盗賊になることがやり残したことだとは思わないけれど、その先に彼の成し遂げたいものがあるのだろう。わたしに出来ることは詮索ではなく、その生き様を見守る事だけだ。アラジンやモルジアナもいる。アリババくんはきっと道を違えたりはしないのだろうという確信がある。
それから滞在先のホテルが襲撃を受けて、成り行きでシンドバッド王達は霧の団を支持することになったのだそうだ。やることが破天荒ですね、と笑ったら、君も人の事は言えないだろうと呆れられた。

背後に人の気配を感じて、わたしは歌うように独白を始めた。自分の影の横に、もう一つ影が並んだ。
「自分が行く先々で人が亡くなっているの。旅で知り合った人が亡くなることもよくあった。ずっと田舎の村で過ごしていたから、人の死があまり身近ではなかったから、最初は凄く狼狽して、どうしてなんだろう、原因は自分にあるのではないかって思っているうちに、もしかして自分は死に神なのかな?って思った。良く考えてみれば馬鹿みたいって思うようなことで真剣に悩んでさ。若くて無知だったっていうのもあるし、何よりも疲れていたんだろうな。色んなものを目にしすぎて目が回っていたんだと思う。元々そんなに許容量のある頭じゃなかったから、すぐにパンクしちゃって、もう駄目だって思った時に、砂漠でマリカに会ったんだ。今よりもずっと小さくて、親の庇護が必要な小さな体で、独りぼっちで砂漠に捨てられてた。殆ど息もしていないような状態で、自分よりももっと悲惨な状態なのに一生懸命啼いているマリカを見て目が覚める思いだった。なんて下らない弱音だったんだろうって。必死に看病してみるみる元気になってく姿を見守りながら、自分にも救える命があったことに感動したら一気に視界が広がったよ。許容量は少ないくせに一辺倒で頑固なところがあるから、視野の狭いところで生きていたんだって思い知った。ずっと理想と遠い現実も知った。現実を受け止める覚悟が出来た頃にはとっくに現実に慣れて、嫌っていうほど思い知っていたよ。沢山の死に遭遇するのは、自分が死に神だからではなくて、歩くよりも死が身近だから。その辺の石ころみたいに死は転がっていて、そこに偶然か必然か、居合わせているだけ。よく考えたら死に神だなんて随分驕っているよね。僕が人の生死をどうこうできるなんて笑っちゃうよ。今だって、たった一人の命の前に無力で、震えているしかできないのに」
言葉にすると思った以上に卑屈な話だった。愚痴とは押しなべて自虐的で倒錯的なものだ。答えを求めているわけではない、ただ吐きだして楽になりたいだけ。楽になるかと思えばそうでもない、足下は覚束ないまま、沈まないように水面をであえいでいるようなものだった。泳ぎが得意でないわたしは、どうすれば上手に浮かぶことができるか、そればかりを考えて、足に重い枷がついていることにちっとも気付いていない。
ため息で口を閉ざすと何も言わずに頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜられた。わたしは徐に両手を広げた。

「アリババくん、ハグ――え?」

その瞬間、強く強く抱きしめられた。
胸が苦しい、呼吸ができない。なのに、とても幸福を感じる。幸福に沈むことが出来るのは夢の中だけだと思っている。

「な、なんで?」

目を白黒させて視線を彷徨わせると、いつのまにか小さな影が二つ増えていた。

「なんで…」

わたしの声は月に届かない。霧がかかってしまえば星に祈ることさえできない。そして祈りは救いをもたらさない。なのに今、この身を包む温もりの正体な何だというのだろう。腰に回された腕の感触、背中にも、髪に触れる手の感触も、全部、どこからもたらされるのか、わたしは今、祈りを捧げてはいない。
震える手を支えるように伸ばすと、しっかりと握り返された。
「アラジン、モルジアナ…?」
しがみつくように前から、後ろから回された小さな腕がどれだけ強く縛り付けようとも苦しくはなかった。これでは駄目なのに、そんなことをされると、多くのものが欲しくなるから。
「アリババくん?」
わたしの手を握っているアリババくんの目は湿っていて名前を呼ぶと、ばかやろう、と怒られた。
「なんでもっと早く言わないんだよ」
アリババくんはわたしを殴りはしなかったが、繋がれていない方の拳を強く握りしめた。
正面のモルジアナが顔を上げると、猫のような瞳に透明に光るものをいっぱいに溜めて、声を震わせた。
「そうやって口にしてくれないと何もわかりません。あなたの、SOSは、とても、分かりづらい!」
声は震えていた。わたしはその声に震えていた。震える彼女の手を掴むことに、祈りは必要ではなかったというのに、わたしの視線はずっと遠くの宙を彷徨っている。
「ほら、そうやって何でもない風に取り繕うとする」
「な、にを―――
さんがヤアスなわけありません!そんなこと皆知ってます。あの少年の母親が危篤なのも貴方のせいでもなんでもないんですよ。貴方が負い目を感じることなんて一つもないんです」
おにいさんは、周囲の感情に敏感になりすぎなんじゃないかな。他人を思いやる気持ちは大事だけれど、そんなんでは息が苦しくてしょうがないだろう?」
背後にいたアラジンが正面に周り、いたわるようにわたしの頭をゆっくりと撫でた。
「…俺さ、今めちゃくちゃ腹が立ってるんだけど」
弾かれるように顔を上げると、骨が軋むくらい強い痛みを握られた手から感じる。見たことのないアリババくんがそこにいた。
「俺はお前が何を見て、何を思って生きてきたかなんて正直なんもわかんねえけど、想像もできねえけどさ、も自分のこと何もわかってねえよな。現実に慣れた?思い知った?本当かよ、お前ってそうやっていつも死にそうな顔して逃げ回ってるわけ?負わなくていいことまで馬鹿みたいにしょいこんで息を殺してうずくまってるわけ?一体何に慣れたつもりでいるんだよ。お前が慣れたのは、目を背けて、全部わかったふりしている自分自身だろ!」
「アリババくん、言い過ぎ…」
「いいから!」
目を真っ赤に滾らた少年は、驚くような力でわたしを二人の腕の中から引きずりだすと、俯きそうになるわたしの顎を乱暴に掴んだ。唇を噛み締めると鉄の味がする。
「こういうのははっきり言ってやらねえとわかんないだろ!お前と初めて会った時さ、体中血だらけで何だよこいつってびびった。見ず知らずの人間の、それも死んじまった奴らを偽善でで弔ったんだって笑って言ったよな。それがずっと頭ん中でもやもやして、変な奴だってずっと思ってた。言ってることとやってることがちっともかみ合ってないしさ。ちぐはぐな奴だって思ってたよ、肝心なことは何にも言わずにお構いなしでこっちの事情には首突っこんできてさ。そのくせいっつも空笑いしてるだろ」
「待って、アリババくんあのね…」
「待たない」
わたしを見下ろすアリババくんは、蔑むように続けた。
「じゃあ聞くけどさ、偽善ってなんだ?何が偽りだって言うんだよ。の言う善ってなんなわけ?この世に聖人君子なんているって本気で思ってんの、それってどういう現実なの?お前は何を偽っているんだ、自分自身?上辺だけの行為にいちいちそうやって神経すり減らしているわけ」
雷に打たれたように佇むわたしにアリババくんは静かにかぶせるように言った。一転して、撫でつけるように優しい声音だった。

「それってさあ、とっても疲れるよな」

わたしが呼吸を止めるよりも早く、彼はわたしを体ごと引き寄せた。ぎゅっと押しつけられたのは丁度胸の辺りで、高速で駆けめぐる心音に肩を震わせた。頷いてしまう前に瞼を閉じる。疲れているのかもしれない。自覚するとすんなりと受け入れられてしまって、息が苦しくなった。苦しい、と藻掻いても、アリババくんは離してくれない。

「偽善者だろうが善人だろうがどっちだっていいよ、そういう面倒くさいこと抜きにして呑気にに突っこんでいく無鉄砲なところががお前だろ。勝手に自己完結してないで我が儘だって言えよ、もっと俺達を見ろよ、辛かったら辛いって言えよ、頼れよ、もっと生きろよ」

生きているのだ。どうしようもなく。だけど、周囲がそれを認めてくれない。わたしはヤアスに魂を売ったとしても、生きていたいのに。闇に墜ちていった沢山のものが、許さない、と血をほとばしらせながら阻んでいても。かつて、無邪気に笑っていた事が遠い昔の出来事のように思えた。

「本当は、強くなりたいよ」
「うん」
「弱いからって諦めないで、誤魔化さないでいられる強さが、欲しい。大切なものを奪われないように、ずっと掴んでいられるように」

手を離さなくてもいいように、隣にいられるように。抱きしめて、実感できることならなんでも。
あなた達はとても優しく、眩しい。わたしは知らず知らずの内に、埋めてきた数々のものが、丁寧に少しずつ掘り起こされていく事に気がついた。耐え難い爪痕をナイフで抉られるようなこの苦しみはいったいどこからくるのだろう。かさぶたを一枚一枚剥がされて、再び血が滲む。痛みを忘れてはいけない、と言った母の流した血で、誰よりも清らかで、純白の世界で生きていた母を愛した父の流した血の温もりの中で、戒めのように流れるこの血潮が途絶えない限り、わたしはわたしを赦さないだろう。

「一緒に、叶えよう。おにいさんがもう俯かなくてもいいように、どうしたら良いか一緒に考えよう。僕たちはまだまだこれから、いくらだって強くなれると思うよ。そう思うだろう、モルさん」
「はい、もちろんです!」

アラジンとモルジアナが飛びかかってくると、3人分の体重を支えきれずに、うわあ、とアリババくんが崩れ落ちた。




「二人とも寝ちゃったね」
「色々あったからなあ」
アラジンとモルジアナが微睡みの世界に旅立つ頃には空がうっすらと白み始めていた。つかの間の静けさは霞みがかっていて、頼りない感情を覆い隠してくれる。わたしとアリババくんは、肩を寄せ合うようにして、直に顔を出すのであろう朝日を心待ちにしている風を装って、実は互いに別のことを考えている。
「さっきは、悪かったな」
「どうして謝るの?」
「本当はさ、あれは全部自分自身に言いたかったことなんだ。過去を清算する、なんて偉そうな啖呵切ってさ、結局行き詰まってるんだから格好悪いよな。またアラジンには助けられちまったしさ」
ほんと情けねえ、そう言って弱々しく笑った。
再会して感じた違和感、アリババくんらしくない表情を思い出す。アリババくんらしいって何だろう。結局自分の理想をを彼に押しつけていただけだった。
「人が真面目に反省しているのになんで笑ってるんだよ」
「ご、ごめん、だってやっぱりアリババくんだなって」
はあ?拗ねたように明後日の方を向く。思えば、わたし達は似ている所が沢山あると気がついたらおかしくてしょうがなかった。発作のように笑えば、泣くよりも簡単に明日のことを考えていられる気がした。
「そういう不完全な人間らしいところがアリババくんだよね。だから他人の痛みも苦しみも受け止められるし、思いやれる。そんな君だからアラジンも寄り添っているんだろうね」
だって同じだろ」
「かもね」
肩を竦めて笑みを深めると、それ以上追求をしてくることはなかった。お互い晴れ晴れとした表情をしていることに気がついていたから、必要なのは時間なのだとわかっているのだ。
「俺、明日王宮に行ってくるよ。それでこの状況と決着をつけて来ようと思う。俺に出来ることがあるなら迷わずやるべきだよな」
「そういえばアリババくんはこの国の王子さまだっだんだね」
「…まあな、つっても国の大事に逃げ出すような腰抜けだけどな。今だって似たようなもんだし」
「でもそれを克服しようと、変えようとここまで来たんだから、もう昔のアリババくんじゃないと思うけどな。僕は君が王子だって知って、驚くどころかすごく納得しているもの。自信を持って行っておいでよ、さっきみたいに、思いの丈をぶつけておいで」
「な、なんだよ調子狂うな」
人は出自で背負う運命が決められているのだとしたら、アリババくんは間違いなく世界を変えられる器を持った人間だ。買いかぶりではなく、それは必然だ。そんな彼が再びこの国に戻って来たということは、歴史が塗り替えられる時が来たのだということだ。どのような縁か、七海の覇王も彼の後ろ盾になった。これを希望と呼ばずしてなんというのだろう。
「そういや、ってシンドバッド王と知り合いなのか?」
「ん?!」
「だってさっきもただならぬ様子だったじゃん、お前と王サマ」
「え?!」
瞠目して、つい先刻の出来事を振り返ってみると絶句した。
「なあ、口開いてんだけど、すげえアホ面。ていうかそう思ってるの俺だけじゃないと思うよ。あの後、ものっすごく気まずい空気流れてたからさ、気付いてないのお前とシンドバッド王だけだからな」
なんて事をしてしまったのだろう!膝を抱えて蹲った。一挙一動、一言一句が鮮明に蘇ってくると、血の気が引いていく。
「ここに来る道中で色々と確執がありまして…うわあ」
「アラジンからその辺は聞いてるけどさあ、本当にそれだけかよ」
「そうだよね、初対面の印象から気安くなっていたけど、あの人あれでも一国の王なんだよね、どうしよう…うわあ」
アリババくんは疑惑の眼差しでわたしを見た。それから逃れるようにわたしは膝を抱える。変な汗が出てきた。記憶を掘り起こしてみても、どうしたってシンドバッド王の反応だけが思い出せなかった。
「それにさ、さっきシンドバッド王に呼び止められてさ」
顔を上げると、アリババくんは自分の耳を指した。暗がりでも確と光を放つ紅に目を奪われた。

「この耳飾りはどうしたんだ、って聞かれたんだよな」

わたしは無意識にシンドバッド王に触れた掌を握りしめている。ちゃんと付けていてくれたんだね、当たり前だろ、これでも大事にしてるんだからな、それはアリババくんの耳にすっかり馴染んでいる。
「まさか、これ盗品だなんて言わないよな?」
「あはは、失礼なことをいうな!」
ごつん、と鈍い音が響いてアリババくんが頭を抱えて悶絶した。わたしもひりひりと傷む額をこすりながら目の前の頬を抓ってやった。
「アリババくんのばーか」
「冗談にきまってるだろー!この石頭!見ろ、涙でてきた」
アリババくんとは対になる紅い石が自分の耳にも嵌っている。
「シンドバッド王がさ、これをどこで手に入れたんだ、って真面目な顔して聞いてくるからさ、別に後ろめたいことなんて何にもねえのに焦ったんだからな!」
「それで君はどう答えたわけ」
アリババくんはわたしを一瞥して、しかめ面をして空を睨んだ。頭上の月はまだ姿を現さない太陽に追いやられるようにして霞み始めている。わたしはいつだったか、月が地上に降ってくればいいのに、と思ったことがある。落ちてきたら拾って、大切にする。ずうっと自分の手の中に閉じこめておく。夜になったら空にかざして見て、手の中で光らない石の塊に落胆して、そのうちにその石が元はなんだったのか思い出せなくなるのだ。アリババくんは月が落ちないように見張っているのかもしれない。
「知り合いから貰ったって言った」
わたしが息を詰めるのを見計らったようにアリババくんは言う。
「別にお前の名前は言ってねえけどな」
それでいいんだろ、だからそんな顔をするなよ、今度はわたしが頬を抓られて我に返る。取り繕うように嫌がる素振りを見せるとアリババくんは笑った。
「やっぱり盗品じゃねえの?」
「違うよ、これは命のように大事なものだもの、もうずっと」
え?アリババくんの驚いた顔を一瞬滑って彼の耳に触れた。心臓のように紅い石は鼓動を刻まない。
「でもね、どこにでもあるありふれた石だよ。誰かにとっては命のように大事なものだけど、それ意外の人にとってはただの石。シンドバッド王は何か別のものと間違えたんじゃないかな」
よくある紅だ。心臓の中心のような紅だ。間違えるのも無理はない。
「…ふうん、それなら別にいいけどさ」
よくあることだ。この気持ちも、全部。自分でもどれが本物かわからなくなったら、ずっと手の届かない奥の方に閉まっておくのだ。
ほんの一瞬だけちりりと焦げ付くような痛みが全身を駆けめぐる。それはとても心地良い痛みのような気がするので、その一瞬に全てを傾けている。
それが罪の証しだとするのなら、わたしはその甘美な響きに溺れているのだろう。

視界の端に、シンドバッド王が映る。彼はこちらに向かって来ているようだった。お、おい、アリババくんがわたしの服の袖を引っ張るのを感じながら、ずっと頭を働かせている。数刻前の彼の表情すら思い出せないというのに、今のこの瞬間、彼がわたしに向ける視線の意図などわかるはずもなかった。
シンドバッド王は一人、確かな足取りでこちらへ歩いてくる。
ただ一つわたしがわかる事といえば、暗がりの中、獰猛に光る獣のような瞳がわたしの罪を暴こうとしているということだけだ。



2013.05.12 up.



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