あまりにも遠いふたりの世界に





うだるような暑い日のことだった。
遠い地平線の彼方から微かに漁船の汽笛の音が聞こえる。次いで村の小さな教会の鐘が正午の刻を知らせると、思考を手元の書物から浮上させた。
どんなに暑くても適度な潮風が心地よく熱をさらってゆくので、熱中症になる心配もない。滲む汗はあっという間に蒸発して空気の一部に溶けてゆく。人々が太陽の主張に負けて室内に篭もりたがるこの時間に、丘の上の一番大きな木の陰での読書がお気に入りだった。
おとぎ話や詩集、子供が目を回しそうな史書を眺めるのも好き。我が家はあまり裕福な方ではなかったので、大抵は村一番の資産家の村長から拝借したものだった。若い頃は各地を奔放に飛び回る冒険者だったのだと豪語する村長は、世界各国から掻き集めた珍しい蔵書などを所持しているので、彼の書斎はちょっとした図書館のようだった。
村に続く小さな一本道を人が歩いてくる気配がする。軽快な足取りに視線を上げると、見知った顔が、飄々とした表情でこちらに向かってくる所だった。
「やあ」
にっこりと片手を上げて挨拶を交わすと、わたしの横に腰を下ろす。木陰から漏れる日差しがきらきらわたし達を囲んで、一人分増えた熱を風が一生懸命さらおうと躍起になっている。一人だけの空間を乱された気分になって小さなため息を落とした。
「何かよう?」
自分でも棘のある声を出してしまったことには気が付いていたが、相手は気にする素振りもなかったので罪悪感も沸かなかった。
「丁度ここに来る途中で君の母上にばったり会ってこれを預かってきたよ」
手渡されたのは昼食の入った小さな籠だった。大好きな鶏肉と野菜がたっぷり挟まったサンドウィッチ。この地方で伝統的なアエーシと呼ばれる香ばしくて平べったいパンは、母の得意料理なので思わず頬が緩んだ。丁度小腹も空いてきたところだったので素直にお礼を口にするとにっこり微笑まれた。その様子に緩んだ頬が引きつる。最近どうにもこの少年はわたしに対して笑顔を安売りしてくるので落ち着かないのだ。普段こんなに優しくしてくれる人なんていないから、免疫のないわたしはうっかりするとすぐ動揺が顔に出る。無理矢理難しい顔を作ってサンドウィッチにかぶりつくと、美味しくないのか?と心配されて反応に困る。そうやって観察されては食べ辛い。気まずい沈黙が流れ、どうするべきか思案し始めたところで彼が先に口を開いた。
「5日後に大きな商船が来るっていう話はもう聞いた?」
「商船?」
さっきから何かを話したそうにうずうずしていたのはこの事か。小さな村で滅多にこんな大イベントはないので噂は瞬く間に広まり、もちろんわたしも知っていた。遠くの国から来る大きな商船がしがない田舎の村の港に寄港する。燃料の問題が主な理由との事だが、久しぶりのめでたい祭事に村人全員が浮き足立っていた。異国の嗜好品が手に入る滅多にない機会に胸を膨らませているのはわたしも同じだった。
話に食いついてきたわたしに気分を良くした彼は、満面の笑みで、その商船がどこの国で何を運んでいるのか、その船が国随一の大きな商船で、船長が胸に名誉の勲章を幾つも下げた、どれだけ偉大な人物であるのか等事細かに語って見せた。わたしは知らないうちに、絵巻物から飛び出してきたような彼の話にうっとりと耳を傾け、見たこともない異国の船に思いを馳せた。
「それでさ、もし良かったらなんだけど――
「やあ、君がこんな所にいるなんて珍しいじゃないか」
途端に夢は頭の中から散らばっていき、目の前に現れた大きな影を見上げると、珍しく息を切らせた様子の幼なじみがそこにいた。話に夢中になっていて、目の前の一本道を駆け上がってきたことにもちっとも気が付かなかった。
「や、やあ…」
隣の少年は気まずそうに腰を浮かして、わたしから半歩ほど離れた。幼なじみは滅多に見せない鋭い眼差しでわたし達を見下ろしている。全身から滲み出る不機嫌のオーラを隠そうともせずに仁王立ちする様が太陽と重なって目が眩みそうだった。こんな様子は滅多に見せないから、偶に見ると心臓が吃驚して縮み上がる思いだった。何があったのだろう、気迫に押されて居住まいを正すと、さっきまで血色の良かった少年の顔がみるみる青白くなり、
「ごめん、用事を思い出したからもう行くよ、じ、じゃあ!」
止める間もなく走り去っていった。この状況でわたしを置いて行くのか!薄情な仕打ちに恨みがましく背中を見送っていると、乱暴な仕草で、少年が座っていた場所に幼なじみが腰を下ろした。
「まったくは隙が多すぎる!」
「はあ?」
勢いよくこちらに向き直ると、人差し指をわたしの米神に突き付けて怒鳴った。
「もうちょっと緊張感持てよ!あんな相手を調子に乗らせるような態度をとるな!」
「あのね、そんなこと君にだけは言われたくない!」
首を竦ませつつも、いつも女の子達侍らせてへらへらしてる癖に、と反論すれば、一瞬怯んだが、俺は男だからいいんだよ、と開き直られたので呆れを通り越していっそ感心してしまった。
「俺は男だからいざって時は自分でどうにかするけど、は女の子なんだから、何かあったら遅いんだ」
「はあ…何かなんてないと思うけど」
そう、あるわけがない。だって本当のことを知っている。わたしがあの少年になびくかどうか村中の子供達が賭けをしていることを知らないのは君だけ。事実はなんてことない、こんなにもくだらないこと。君が知らないだけ。
「そういう意識の低さが問題だって言ってるんだろ…まったく、これじゃ心配で旅にも出れやしないじゃないか」
ため息混じりの声に混ざった予感に気付かないふりをして、何でもない風を装って、強張る肩はずっと木に寄りかかって読書をしていたせいなのだ。
「商船が来る話はもう聞いたんだろ」
顔をしかめてじっとこちらの反応を伺ってくるので緊張して頷く。じりじりと太陽が体中を焦がすように心地よい日陰を奪っていくから、身を縮こませて息を潜めた。心は嵐の前のように凪いでいて、これから沈没することを予感させるように目の奥がどろりと渦巻いている。
ついにこの日が来た。

「行くんだね」
はなんでもお見通しだな」

そんなことはない。全部知っていたら、今日だってここには来なかったわ。
風はいつの間にか止んでいて、二人の間の熱をちっともさらっていってくれない。再びねっとりとした汗が背中を伝って、奪われていく体中の水分に喉が渇く。

「なあ
「わたしは、行かないよ」

真っ直ぐに見つめられれば、こちらも真っ直ぐに返す。心臓の悲鳴を悟らせないように真剣に。自分達が頑固なことは互いに知っている。知っていても尋ねたのは、自分の気持ちに確かな形で決着を付けたいからだ。
先に緩んだのは幼なじみの顔だった。力なく、寂しそうに笑った顔は、自負心の塊みたいな彼には不釣り合いだ。
「だよなあ。分かっていたけど、と一緒に旅するのは夢だったから」

それでもわたしが首を横に振れば、あなたは平気でわたしを置いてゆく。

触れそうで触れない今の距離が全てだ。触れそうで触れない未来は、笑ってしまう程簡単に遠く離れていく。
こんなに近いのに、本当はずっと遠い世界に住んでいる。
「離れても応援してるよ、君が望むものになれるように。望む未来を手にいれられるように」
言葉にしてみればあっけなく、抱えてきた全ての感情をそこに詰め込んで、切り離された開放感さえ芽生えていた。
途端、強い力がわたしの手を掴んだ。存在を全身に刻みつけるように強く、痛みをも忘れられないように。驚いて喉の奥が鳴る。
「俺をみて」
言われて初めて自分が俯いていたことに気が付いた。意識すると顔を上げることが怖くなり、ずっと強い力で手に握力が篭められると、弾かれるように上を向いた。

「一緒にきて欲しい」

ここまで真剣に懇願されたのは初めてだった。知っている幼なじみの姿は、いつだって強くて自信に満ちて、子供の癖に他人に媚びる姿も、弱音を吐く姿も見たことがなかった。その姿は狭いわたしの世界の象徴のような存在だった。だのに目の前の姿は、今ここでわたしがナイフを突き立ててればあっけなく受け入れてしまいそうな位に無防備だった。繋がった手が熱くて汗が噴き出る。
全身を強張らせて、やっとの思いで首を横に振ると、彼の瞳が鈍く光り、今度は自分がナイフを突き立てられるのかと思った。
風が強く吹いて舞った亜麻色の髪が視界を覆って、再び元通りになる頃にはすっかり元通りの彼は「だよなあ」と呟いて、手の力を緩めた。

「なあ、俺が夢を手に入れて、とんでもなく臆病なに有無を言わせないくらいに強くなったら、片手で君を守れるくらいに強くなったら迎えにくる」

真剣な声に反してわたしは声を出して笑った。むっとする幼なじみの手から自分の手を引き抜くと、もっと笑いが込み上げてきて、お腹を抱えた。
「な、なんだよ…!」
「そう言うのは運命の相手に言ってよね」
本心で言っているのだから、尚更質が悪い。少しでも嬉しいと思ってしまったら負けで、自分がどれだけ幼なじみに依存しているのかに気付いてしまったら笑うしかなかった。そんなわたしの心中などお見通しで言っているのだとしたら敵わない。こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。憮然とした表情を見るだけで心が晴れる気分だった。もう早く旅立てばいい。遠い地で、わたしに夢の続きを見せて。物語の幕開けはこんなにもあっけない。
「絶対に迎えにくるから約束して。その時は逃げずに俺の手を取ってくれよ」
付かず離れずの距離で、今度は曖昧に笑った。小さな子供の約束など、これから歩む荒れ狂う嵐のような未来にどれだけ耐えうるのだろうか。

「だから、俺達の未来に星の導きを」

地平線の上に大きな雲を見つける。明日は雨がやって来るのだろう。きっと、彼が旅立つ日は今日みたいな快晴だ。

数日後、彼は大きな船に乗って旅立って行った。
結局楽しみにしていたその船を見に行くことはなく、伝聞でその噂を耳にした。彼が去ってからもわたしの日常に変化はなく、淡々と日々が過ぎていった。最初は沈んでいた他の子供達も時間が経てばあっという間に元通りだった。何も変わらないようで変わってしまった日常。彼がいない事が当たり前になった事が及ぼす影響なんて目に見えるもの中には一つもなかった。時々地平線を眺めて思い出すだけ。たったそれだけ。


それから、彼との約束はついぞ果たされることはなかった。

彼が去ってから数年後、村は盗賊の襲撃に因り、たった一晩で跡形もなく潰滅した。         

わたしは少しは期待していたのだろうか。

絵巻物にも残らない、小さな夢物語は始まる前に終わりを迎えた。






おにいさん起きてる?」
「うん、今目が覚めた」

寝台から起きあがると、太陽はとっくに昇っていて、大きな欠伸を隠すことなく一つ、アラジンに笑われた。
「こんなに天気が良いのに寝ているなんて勿体ないよ」
「うーん、こんなにいいとこに泊まっているんだから部屋でダラダラしたいよ」
「おにいさん、昨日と言っていることが違うじゃないか…」
あれだけ頑なだったくせに、せっかくの好意を無下にするのも申し訳ないからと存分に滞在を楽しむことにした変わり身の早さに呆れながら、アラジンはわたしの手から枕を取り上げた。二度寝をしようとした事に気付かれたようである。不満の声を上げても枕はもう戻ってこなかった。
「おじさんにお昼ご飯を誘われたから行こうよ」
「うーん」
昨晩は結局何も食べなかったというのにお腹はあまり空いていなかった。何よりもシンと昼食を食べるなんて気が進まない。難色を示すと掛け布団まで剥ぎ取られる。酷い、ここに追い剥ぎがいます。
お兄さんも誘われているんだからね!僕とモルさんは先に行くからちゃんと来ておくれよ。髪の毛が凄いことになっているからちゃんと直してきた方がいいよ」
そう言うと、返事を待たずにモルジアナを連れてさっさと出ていった。どうしたんだろう、随分と強引だな、しかし行くしか選択肢はないらしい。しばらくそのままの体勢で思考が完璧に戻るまで呆けて、ぐわ、と伸びてから顔を洗おうと水瓶に近づいて水面を覗き込むと

「うわあ」

自分でも感心するくらい、頭の上が鳥の巣のようになっていた。



なるべくゆっくりと身支度を調え、どこで食事をするのかも知らされていなかった為に道に散々探し回り、ホテルのテラスに足を運ぶとようやくアラジン達と再会した。遅いよ!と頬を膨らませたアラジンは決して怒っているわけではなく、頬一杯に食べ物を詰め込んでいるからだ。リスみたいだな、と微笑ましく隣を見れば、モルジアナも似たような状況だった。可愛い。
「やあ、くん、良く来てくれたね。座りたまえ、今君の分の食事も用意させるよ」
そう言って促されたのはシンの隣の席だった。今はちゃんと服も着ているし、嫌だとは言えずに渋々と腰を下ろすと笑顔で頷かれた。父親のような図だ。
「紹介しよう、俺の部下のジャーファルとマスルールだ」
昨日の二人だった。小柄な青年に丁寧にお辞儀をされると自然と背筋が伸びる。
「どうも、こんにちは」
「昨日は主がご迷惑をおかけしました」
「いえ、お気遣いなく、といっても既にお気遣い頂いてしまっている状況ですけどね」
昨日も思ったけれどジャーファルさんは真面目そうで一番話が通じそうな人だった。主人が奔放過ぎると気苦労も絶えないのだろうな、とつい哀れみの視線も混じってしまう。他人事には思えず、心中察してしまうのだった。
体格の良いシンよりも更に大きな青年はモルジアナと同じファナリス出身らしく、髪の色や目元がそっくりだった。同胞に出会えたことに彼女は戸惑っているようだった。視線は落ち着きなく彷徨っていて、時々マスルールさんの方をちらりと見ている。何て初初しいのだろう。嬉しい変化の兆しに、この出会いはあながち間違いではなかったのだと思った。
「何か食べたいものはあるかな?アラジンくん達にも食べてもらったが、港町だけあって魚が特に美味い」
「ええと」
おにいさんは魚が食べられないんだ。というよりお肉もあんまり食べないよね」
こんなに美味しいのに勿体ないよね、とアラジンが言うと、シンが目を丸くしてこちらを見た。
「そうなのかい?」
「ちょっとした願掛けみたいなもので、食べられないというわけではないんですが。せっかく誘って頂いたのに我が儘言ってごめんなさい」
「…いや、気にすることはない。この国は貿易の中心だけあって、新鮮な野菜や果物も手に入るからね。何か特別なものを用意させよう。ファラフェルなら食べられるだろう?」
ヒヨコ豆のコロッケは母親の得意料理の一つで大好物だった。懐かしい単語を聞いて笑みが零れるとアラジンが目を輝かせた。
「それはそんなに美味しいのかい?僕も食べたいな!」
「アラジン…まだ食べるの?」
「まだまだ入るよ!」
大きく膨らんだお腹をたぷりと揺らして得意気に言った。彼には遠慮という言葉を教えなければならないようだ。

国一番の高級ホテルの料理と言うだけあって、どの料理も凝っていて申し分ない美味しさだった。アラジン達と夢中になって食事に没頭している姿をシン達が満足そうに眺めている。ようやくデザートに手を付ける頃にはアラジンとモルジアナはすっかり食事を終えて、ファナリスの青年と楽しそうに戯れている。やはり、子供には大きな兄貴分の存在は大きいのだろう。わたしなんかは頼りないひ弱な少年にしか見えないから羨ましい。
「二人が気になるのかい?」
「ええ、まあ」
「マスルールはああ見えて面倒見がいいから安心するといい」
確かに彼は体格が良いから、ちょっと力を加えればアラジン達など一捻りされてしまいそうだけど、そう言った意味では一切心配していなかった。マギのアラジンとファナリスのモルジアナ。どちらも規格外の存在である。むしろ脆いのは自分の方だ。捻りつぶされない程度に、あの太くてがっしりした二の腕にぶら下がってみたいという願望を必死に抑えた。訝しげなシンに慌てて咳払いををする。
「ふ、二人が楽しそうならそれでいいんです。…あれ?これって」
「市場で話していた果物だよ。君も食べたことがないようだったから用意させたんだ。どうかな、味は?」
それはモルジアナが興味を示したピタンガと言う鮮やかな色の果物だった。口に入れると程よい酸味がじんわりと口内に広がり、次いで絶妙な果物特有のしつこくない甘味が舌の上を滑っていく。
「これは、好きかも…」
もう一切れ、もう一切れと夢中になって口に運ぶ様子をシンは満面の笑みで眺めている。これでは本格的に父親みたいだ、と思った時だった。

「君はそうやって笑っていた方がいいな」

ぴたりと食事の手を止め、発言の主を見上げると、惚れ惚れとするような笑顔を向けられる。生娘なら熟れたトマトのように赤くなりそうな笑顔に血の気が引いていく。服を着た途端にまともな人類に見えるどころか、実は極上のいい男だった。発言自体には大した威力がないのに、この男が言った途端にざわざわ鳥肌が立つような気障な台詞に変換されて聞こえる。そこらの女の子なら恋に落ちてしまうような甘い台詞に、何よりもその目つきが大変よろしくない。心臓を艶めかしく撫でられているようなこの感じ、これはただ者ではないと悟った。
「ん?」
沈黙が流れ、視線を反らすとジャーファル青年が呆れ果てた顔をしている。間違いなく、わたしも同じ表情をしているのだと思う。
「ジャーファルさん、貴方の主人は誰彼構わずこういった発言を?」
まるで女性を口説くときの手本みたいな所作を見せつけられると、寒気がして椅子ごとシンから距離を取った。全身で危険信号を発している。自分の姿を確認すれば、先程念入りに男装を整えてきた状態から変化はない。
「そんなことはない…と言いたい所ですが、まさか、そんな、貴方は中世的な顔をしているけど…いやいやそんなことは」
頭を抱えたジャーファルさんからは色よい返事は返ってこなかった。部下にまで白い目で見られても尚、シンは悪びれる様子もない。
「何を言っているんだお前達?そもそもくんは」
くんが何だって言うんです?」
「あ、いや何でもない…」
「貴方って方は本当に見境のない人ですね!今日という今日は――
ジャーファルさんの何かが切れたらしく、彼の説教は長くなりそうだと確信したので、そのままそっと二人の傍から離れる事にする。巻き込まれたらたまらない。


一緒に避難してきた果物達と共に少し離れたテラス席に腰掛けて街並みを眺めていると、さりげなくお茶が運ばれてきた。高級なホテルは気遣いまで一流である。
食事中に「マリカも来られればよかったのに」と零したアラジンをに習って、相棒の砂漠オオカミはどうしているのだろうと考えた。「大きな体の彼がこんな街中を歩いたら、皆びっくりしちゃうでしょう?」それでも納得のいかない様子のアラジンの為にも、後で市場で魚を沢山買って届けてあげようと思う。魚なんて食べたことがないだろうから、吃驚するだろうな。
この国のどこかにいるというアリババくんはどうしているだろう。元気にしているだろうか。それから昨日あった不思議な黒い少年のこと。名前も聞かずに別れてしまったけど彼との出会いには何か意味があったのだろうか。昨晩見た夢のことも、考える事が沢山ありすぎて自己処理が追いつかない状態だ。しかし、考えることがある間はまだ歩いていられる。もう少しだけ自分の足で、目でアラジン達の未来を見てみたい。

「ねえおにいさん!大変だよ!おじさんが、おじさんが!」

慌ている割には頭に疑問符を浮かべたアラジンが飛び込んできて思考が遮られた。
「わ、どうしたの?」
「ねえおにいさんはシンドバッドって人を知っているかい?とても有名な人なんだ」
「有名なシンドバッドって言ったらシンドリア国王様のことかな?」
「ええと、多分そう」
「多分なんだ?」
二人そろって首を傾げているとモルジアナがやってきて、シンの方を指した。

「そのシンドバッドという人物があの方なのだそうです」

「へえそうなん、……だ?!―――え?」

何度瞬きをしてもそこにいる人はシンで、昨日出会ったばかりの青年で、モルジアナは彼の事をシンドバッドだと言う。固まるわたしに、彼は大きく頷いた。「そう、これが普通の反応だよ」「おじさんは本当に凄い人なんだねえ」アラジンとシンのやりとりが脳を素通りしていく。
「ち、ちょっとまって」
無意識に立ち上がると足が震えてテーブルに手をついた。モルジアナが心配そうに見上げている。自分の顔が盛大に引きつっているのがわかる。
「一体なんの冗談ですか?この人がシンドバッド?あの有名な『七海の覇王』?冒険書の著者のシンドバッドだっていうんですか?」
「貴方その言い方は聞き捨てならな――
「だって、初対面が全裸だった男が一国の王だなんて疑うなという方がムリです」
「う、何も言えない…」
ジャーファルさんが項垂れ、マスルールさんもため息を吐いた。
「不可抗力だからしょうがない」
「不可抗力ですって?!そもそも貴方の酒癖の悪さが問題でしょう!まったく信じられない、こんな小さな子供達にそんなはしたない格好を見せるなんて一国の主どころか大人としての尊厳に関わる由々しき問題ですよ!あれだけ飲み過ぎるなと忠告したのにどうして貴方はいつもいつも――
「わかった、わかったから!」
「それで、……本物なんですか?」
シン一人がもう一度大きく頷く。
「不本意ながら…」
「おいジャーファル、それはどういう意味だ」
疲れ切ったジャーファルさんの姿を見てこれ以上疑う気にはなれなかった。破天荒で威風堂々とした様はとても彼らしく、そうなのだと言われれば素直に納得出来るだけの証跡なんていくらでもあった。本当はただ自分自身が否定してしまいたかっただけなのだ。否定したところで事実は覆るわけではないから結局は悪あがきをしてみたいだけ。
自分の頬を抓ると、確かに痛覚が通っている。ああ、夢ではない。
おにいさん?どうしたんだい?」
「まさかあの伝説のシンドバッド王とこんな所でこんな形で会えると思ってもいなかったからとても感動しているところ」
「嬉しそうにみえないよ?」
「うん、よく言われる」
「そうなのかい?」
「うん」
生返事にアラジンは首を傾げているが、力なく重力のままに座り込むと、暖かい日差しが全身を包み込む。本当に、ここにマリカがいればいいのに。彼のふんわり柔らかな首筋に縋り付いて瞳を閉じたら、この不安定な気持ちも全部なかったことにできるのに。昔のことを夢に見るのも、知らない事を夢にみるのも、ただ現実から目を背けたい願望だ。けれど知りたくもない事実に直面して傷ついたり、惨めな気持ちになるのだったら、いっそずっと夢の中に浸って嘘をつき続けていたい。冷め切ったお茶の水面に、真っ白な自分の姿が映っている。雨が降る一歩前のような顔をしていたのが気に入らず、カップを揺らすと円を描きながら波紋の中に消えていった。
――それでね、聞いてる?」
はっと我に返るとそこにいる全員の視線が自分に向けられていた。
「ごめん、ぼんやりしていて聞いてなかった」
「具合が悪いのですか?顔色が良くないですね」
「少し食べ過ぎたのかもしれません。お腹一杯で少し眠くなっただけ。それで、なんの話?」
話を促すと、アラジンはあれだけ寝たのに?と驚いた様子だった。
「シンドバッドおじさん達が盗賊退治をするから、僕とモルさんはお手伝いをすることにしたんだ!」
「盗賊、退治?」
いつの間にそんな物騒な話になっていたのだ。屈強そうなシン達を見ていると頷けるが、どうしてアラジン達まで?わたしの為にもう一度説明をしてくれるらしい。シン達がこちらに寄ってくる。
「巷を騒がせている盗賊「霧の団」の事は知っているかい?」
「霧の団って…義賊のことですか?昨日聞きましたけど、どうしてシンドリア国王が他国の問題に口を挟むんです?」
「今回の件はシンドリア国としてではなく、一個人として動いているんだ。だから兵を動かすわけにもいかなくてね、本当は俺達だけでどうにかしたいところなんだが、諸事情で金属器が一つもないんだ!」
「………全部、盗まれたんですか?」
「ああ!」
清々しい笑顔だった。胸の辺りがむかむかするのはやはり食べ過ぎたせいなのだと思う。
「…アラジン、モルジアナ、この人を見ているととても良い勉強になるね」
横でジャーファルさんがごめんなさい、と項垂れた。
「わかりました。それで二人の力を借りたいというわけなんですね。盗賊問題が解決しないとこの国は不安定なままだし、船が出ないと困るのは僕達も同じ。だから協力するんでしょう?」
二人を見ると、決意を固めた頼もしい表情をしていた。
「そうです。それに、この問題を解決したらアリババさんを捜す手助けを国に取り計らって貰えるよう約束をして頂きました」
聞いた噂によると霧の団は国も手を焼く手強い盗賊達らしい。不思議な力を使うとも聞く。前回彼女が壊滅させた盗賊達とは比較にならない強さなのだろう。わたしの気持ちを読み取ったモルジアナが、ぐっと拳を力強く握って、大丈夫ですよ、と言った。
「そっか。なら異論はありません。そうしたら僕は――
「君は駄目だ」
途端、強い力で肩を掴まれ体が傾げると、目の前には険しい顔をしているシンがいた。
わたしが何かを言おうと口を開くと
「君は参加させない。戦闘要員ではない君を危険にさらすわけにはいかないからな」
反論しようものならこのまま首まであっさりとへし折られてしまいそうな剣幕だった。戸惑ったジャーファルさんが声をかけるまでシンはわたしを親の仇みたいに睨み付け、それを口が半開きな状態のまま唖然と受け止めていた。肩に食い込む力が現実を縫いつける。
「シン?」
「あ、ああ!すまない、こんな細腕でモルジアナのように戦うと言われたら心配だったものでな!」
「まだ何も言ってないでしょう。肩、痛いんですけど」
「悪い」
焼け付くような肩の熱が引いていくとため息が零れた。こんなの、あんまりじゃないか。
「わたしだって自分のの能力くらい誰よりも分かっているよ。感情に任せて皆の荷物になるようなことはしないから安心して」
誰かの重荷になるくらいなら潔く身を引く。ずっとそうやってきた。悲しい位に無力な自分がどうしてこんな所にいるのかと何度思ったか知れない。黒い少年にからっぽだと言われて、ちょっとだけ安心した。からっぽならしょうがないじゃないか。諦めてしまえば楽になることを知っている。言われなくたって知っている。だけど――
立ち上がって指を突き付けると、目を見開いて困ったような顔をする。
「ねえ、アラジンはマギだし、モルジアナはファナリスで、二人とも未来を切り開くだけの充分な才能を持った子達だけど、まだまだ未熟で危なっかしいところも沢山ある。何よりもわたしの大切な家族みたいな子達だから、危険ななことがあったら全力で護ってくれる?」

突きだした手が暖かい温もりに包まれる。揺らいだ海を捉えると、ずっと捜していた懐かしい潮の香りが鼻の奥に広がる。最後の夜に感じた虞と似た感覚がそっと背後から迫ってくる。胸騒ぎは現実から目を背けたがるわたしに警告を発する。
滅びゆく町の老人の濁ったガラス玉みたいな瞳と、夢の中の彼が別れ際に見せた強烈な瞳が追い立てるように脳裏に絡みついた。

こんなの、あんまりじゃないか。

本当は、その手を取って一緒に歩いてみたかった。

どうしてそんな顔をするの。

刻みつけるようにゆっくりと指先を撫で、言った。

「約束しよう」




2013.04.14. up.


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