「なんすかさっきから人のことジロジロ見て」
「見てない、見てない」
「ほならこっち向かんといてください、鬱陶しいんで」
「いいじゃない減るもんじゃないし」
「つまり見てたんすね、先輩に見られると大事なモンが減る気がするんで止めてくれます?次こっち見たら見物料とりますんで」
なんとまあ。は財前の心ない言葉に大げさに傷ついて見せたが、財前は気にする素振りも見せずに横で頬杖をつきながら器用に携帯の操作をしている。そんな様子を少しだけ観察したところで一体何が減るというのだろう。財前が絶賛反抗期に入ってからもう1週間も経っている。話しかけても気のない返事、目を合わせてくれないどころか廊下ですれ違っても知らぬ存ぜぬで、こちらが話しかけなければをまるで空気のように扱う。しつこく構い倒すと今みたいに跳ね返される。そんな財前の態度に心が折れそうになったは謙也に相談をしたが、返ってきたのは「はあ?そんなん財前の通常運転やろが」なんていう身も蓋もない答えだった。言われてみれば普段からそんな態度だった様な気もしてくる。仲良くなったつもりだったのは自分だけだったのだろうか、は虚しさを覚えた。
「財前君、最近機嫌悪いよね」
恐る恐る聞いてみる。
「別に」
ぽちぽちぽち、携帯のボタンを押す指が止まることはなかった。それでもは辛抱強く話しかける。この後輩はの知る限り、大層気難しい性格に分類されている。それはきっと若さ故の照れ隠しにも似た、青臭い思春期の一つの形なのだと思っていた。
「機嫌悪いというか拗ねてるのかな、私がテニス部に入ったから」
「はあ?」
「だってそうでしょ、可愛い先輩を独り占めできなくなっちゃったから、それで機嫌悪いんだ。財前君も案外可愛いとこあるよね」
「先輩」
財前はようやく携帯を操作する手を休めての方を向いた。久しぶりに顔を正面から付き合わせることが出来たことには密かに喜ばしく思っている。
「いくらなんでもそれは図々しいと思う」
「うん、私もそう思う」
賑やかな昼休みだというのに、図書室は異次元のように静まりかえっている。本を捲る音、ペンを走らせる音、普段は気にならない些細な音が尖らせてもいない神経に触れては離れていく。最初こそ居心地の悪さを感じていた図書室で、こうやって静かに耳を澄ませることに安寧すら覚えている。
財前はしばらく無言でを見て、はそんな財前と彼を中心に広がる図書室という空間を見た。
「なんやアホらし」
「そうだよ、アホだよ。私はとっくに財前君と仲良くなりたいんだから、財前君だってもう少し意識してくれなきゃ私のアホも報われないと思うんだけど」
その時財前は、なかなかに面白い顔をした。狐につままれたような珍しく呆けた様子を見て、が内心ほくそ笑んでいることにも気付かずに、普段大人びてみせる財前には珍しい、年相応の姿に見えた。
「先輩といると調子狂うわ。委員会だけならまだしも部活でも毎日顔合わせなあかんなんてしんどいっすわ」
「本音が聞けて嬉しくないなんて。もうちょっとオブラートに包もうよ」
「そんなモン溶け「腐らないからね」」
財前は手元の携帯とを交互に眺めて、ため息を吐いた。人間はそう簡単に溶けたり腐ったりしません、真面目な顔をした謙也に説かれことをは戒めのように覚えている。白石に言われた時よりもモヤモヤしたので鮮明に脳裏に刻まれている。謙也って時々とっても残念だ。
「ところで財前君って携帯の操作凄く早いね、感心しちゃったよ」
「これ位誰でも出来るやろ、先輩はトロそうやけど」
「そもそも携帯持ってないし」
「せやろ…って、は?今時携帯持ってないんすか?」
は今日の財前君は良く驚くな、と思い、珍獣を見るような目をしている少年は口どころか表情もオブラートに包むべきだと考える。
「持ってないんだよね。操作とか難しそう」
「どんだけアナログや。考えられへん。つーか連絡取る時とかどうしてるんです?よう今まで生きて来れましたね」
暇さえあれば携帯ばかりいじっている財前は、そういえばこの先輩が携帯を手にしているところを見たことがない事に気が付いた。信じられへんわ、それは天変地異の前触れのように少年の心に衝撃を与え、はその反応に大きく頷いた。
「財前君は、携帯依存症っぽいよね。私は連絡なんて家電か手紙で済ませるよ」
「ここに化石がおるで」
もしや急ぎの用は電報か。
はようやく通常運転の財前に戻った、と安堵した。



◇ ◇ ◇ ◇


マネージャー業というのは思っていた以上に肉体労働だった。楽な仕事ではないと覚悟はしていたものの、今までの怠けた生活からかけ離れた厳しい世界に、の体は初日から根を上げそうになっていた。筋肉痛で悲鳴を上げるなんて遠足かマラソン大会の翌日くらいだと思っていた、自分の考えがどれほど甘かったかを猛省している。
季節は春からしとしと湿った露に移り変わろうとしている。汗なのか湿気なのか、部員達の熱気ともわからない空気に包まれ、は唇を噛み締める。雨上がりの湿った土の表面を蹴りつけるように歩く、体中をぬるくて湿った風が覆い、疲労と相まっていつもの何倍も重く感じるが、意外なことにこの感覚が嫌ではなかった。視線を上げると頬を汗が伝い、雲の合間から顔を出した太陽がの頭上を照らしている。
さん、頑張っとるな」
「おはようございます白石部長」
作りたての冷えたドリンクを抱えながら軽く会釈をすると、現れた人は端正な眉をほんの数センチだけ下げた。それだけでアンニュイな空気を醸し出せる人って凄いな、は逆光に目を伏せながら思う。
さんに部長って言われると余計に余所余所しく感じるな、今まで通りでええ、もしくは親しみを込めて名前で呼んで欲しいくらいやで」
「名前は流石に問題あるんじゃあ…そこまで仲良いわけでもないのに」
「そんな気にすることかな」
「君が気にしなくても周りが気にするからね!こういうのってケジメが大事じゃないかな、部長って呼ぶべきだと思うんだけど」
「そうか、マネージャー」
「…あ、凄くモヤっとした」
「せやろ」
「じゃあ白石くん」
が唇を尖らせると白石は笑った。
「それ重たいやろ?手伝うわ」
伸ばされた手を避けるようには身をよじらせた。抱えられた籠の中にはぎっしりと部員達のドリンクが詰まっているので、バランスを崩すと転びそうになる。避けた拍子に傾いたのことを白石が心配そうに見ていることに気が付く余裕もなく、よろけた体勢をどうにか建て直すのに意識を集中させている。
「大丈夫だよ!私の仕事をまさか部長に手伝ってもらうわけにはいかないよ。それに…」
「せやかて今よろけたやろ?さっきから危なっかしくて見てられへん」
「これは武者震いと言って、定期的に気持ちを奮い立たせる為の所作なんだよ」
「生まれたての子鹿みたいな武将もおるもんやな」
感心とも呆れともとれる白石の声に対抗意識を燃やしたは、目線を浮かせて凍り付いた。
「ひっ!!」
が悲鳴を上げて後ずさると、白石は怪訝な顔をして首を傾げた。この世の終わりみたいな真っ青な顔をしたは2,散歩下がった所で棒のように硬直している。
「て、手が」
「手?」
白石はの追い縋る視線に導かれ、目線を下げていくとの手が小刻みに震えていた。卒倒しそうな弱々しい声で、手に、手に、とうわごとを繰り返している。声を張り上げたらそのまま魂が抜けていくのだと信じている様だった。それを見た白石は、ああ、と頷き、目にも止まらぬ速さでそれをひょい、とつまみ上げ遠くへ放った。
「た、助かった」
金縛りから解放されると大きく深呼吸をした。未だに心臓は終着地を見失って暴走している。
は、木の上から降ってきた毛虫が自分の手に不時着する様を目撃していた。しかし手にはドリンクの入った籠が握られている為、振り払うことも出来ずにこのまま死んでゆくのだと思った時に思わぬ救世主が光臨した。本当に、本当にありがとう、全身から絞り出すようにお礼を口にすると苦笑された。よく素手で掴めたなあ、と感心する。暫くは白石くんの事を崇めて過ごそうと思う、と告げれば流石にそれは大げさや、と笑われた。ただの線の細い美少年だと思っていたが、意外にも男らしいところを見せつけてくれた白石は、鳥肌の立ったの頭をよしよし、と撫でた。これが謙也や兄の新などだったら、「見たか今のの形相!」と腹を抱えて大笑いしそうなものを、白石は慣れた手つきでを労った。そないに鳥肌立ててまでよう堪えたな。本当に頭が下がる部長様である。
「ちょ、毛虫摘んだ手で触らないでよ」
「恩人に向かってけったいなこと言うなあ、摘んだ手とは逆の方やから安心せえや」
「そう言う問題でもないような」
思えば頭を撫でられるのはこれで二回目だった。白石のペットにでもなった気分である。こんな自然な仕草で異性の頭を撫でる中学生がいてなるものか、いるとしたら目の前の、平然と眉一つ歪めることなく、寧ろ歪むのはこちらのハートの方だと非難の声すら上げたくなる、俺の手が君の頭に触れるのは自然の理なのだと言いた気な素晴らしく整えられた白石その人くらいなものである。クラス中の女子が熱を上げるのも自然な流れだった、はようやくその事実に思い至った。この人は非常にやっかいな天然タラシだ。なまじ顔が整っているだけにこの事実は夏の太陽よりも熱く年頃の女子達のハートに火を付けるに違いない。
「にしても毛虫が嫌いなんてさんも女の子やったんやなあ」
「手足が4本以上の生き物は天敵なんだ…ていうか、白石くん、私は最初っから最後まで女の子ですけど」
今までなんだと思っていたんだ。ははは、白石はそんなを見て笑うだけで答えは返ってこなかった。
「申し訳ないけど、こればっかりは慣れてもらわんとなあ。この辺りは春先は桜が満開で綺麗やけども、緑が茂るとたまに落としモノが降ってくるから気ぃ付けた方がええで」
「ソウデスネ」
こんなところに思わぬ伏兵がいたとは、は虚ろな目で遠くを見やった。
「涙目になる程嫌いやったんやな」
「これは武者震いからくる水分であって涙のようなものとは別のものなの」
「かわええ武将さんもおるもんやな」
勝ち負けにこだわるつもりはないのに、は負けた気分になって項垂れた。気を抜くと、死守したドリンクをひっくり返してしまいそうになる。
「わ、危ないなあ、やっぱり手伝わせて欲しいな」
「大丈夫だよ、私に出来る数少ない仕事の一つだもの、これくらい出来ないと」
テニス初心者のはテニスのルールもスコアの付け方も知らないので、目下出来る仕事と言えばこのような肉体労働くらいだった。少しずつテニスのいろはを習ってはいるけれど、まだまだ先は長い。最初に財前に言われた言葉を見返してやるにはこれくらい楽にこなせなくては先が思いやられる。財前の憎まれ口はの闘志に火を付けるために仕組まれたのだと都合の良いことを思っているが、実際、今のにとって前向きな起爆剤になっている。
「それに、白石くんには手伝ってもらうわけにはいかないよ」
なんでや?白石の瞳が訝し気に揺れた。
「だって、その左手ずっと包帯を巻いているでしょ、怪我人に重いものを持たせるわけにはいかないじゃない」
白石は目を丸くして立ち止まった。
「あー…これ、なあ」
珍しく言い淀んだ白石の口が、言葉を探るように開いては閉じた。撫でつけた左手に巻かれた白い包帯は、が白石を認識してからずっと変わらずにそこに在る。地雷を踏んでしまったのだろうか、内心冷や汗を掻いた。
「参ったな、そうきたか。別に怪我しとるわけやないんやけど、」
歯切れの悪い答えにが首を傾げる番だった。しばらく自分の左手を見つめていた白石が再び顔を上げた時にはすっかり元通りの表情で、少しだけ瞳の奥に物騒な光を携えて言った。
「これは誰にも言えん秘匿事項なんやけど、そやなあ、マネージャーのさんになら教えてもええかな、知りたい?」
薄い形の良い唇が綺麗な弧を描いて、そこを流れるように言葉が落ちてくると、は反射的に首を横に振っていた。
「知りたくない」
「でも気になるやろ?俺もずっと怪我なんて思われて気ぃ遣われるのも困るしな」
いや、だって包帯って怪我した時に巻くものだからな!はぐっと言葉を堪えて勢いよく首を振る。
「ううん、これっぽっちも気にならない、あの、ほんとに、お願いだから、その、ずうっと、秘密のままでいさせて欲しいな」
知らない方が幸せなことだってある。白石のいかがわしい微笑みを見ていると、きっと今がその最たる例なのだと実感していた。そもそもこの人と秘密を共有するという選択肢が胡散臭い上にまともな未来に繋がらない気がする。きっとろくなことじゃないんだろうなと思いながら、もう二度とこの話題に触れないことを誓った。
「残念やなあ」
伸びやかな声は空々しくの耳を突き抜けて、湿気った風にかき消されていく。時々頭痛がする鬱陶しい露の時期が嫌いだった。止んでもまた降り始める雨のじっとりとした景色が視界に膜を張る。耳を澄ましてみても聞こえるのが雨音だけで、自分の足音も時期にかき消されていく。露は嫌いだ。毎年この時期は活き活きと両目を繰り出し活動忙しいカタツムリの後ろで殻にじっと篭もっていたい。暑苦しい夏を迎えにいく露はげんなりするの影でうっすら笑っている。
ぬかるんだ大地にのっそりと足跡を残していくの一歩前を颯爽と歩く、背筋のぴんと伸びた白石の後ろ姿を見た。
天に向けて力強く伸ばされた肢体は、露にぬかるむ足下を言い訳にもせずに、然りと地に足を付けて軽やかに踏んで進んでいく。どのような道も彼を阻む障害には成り得ない。気まぐれに顔を覗かせる太陽すらも身方につけて、全身に光を纏わせた姿はとても眩しく、長いこと眺めていることが難しく、瞼を伏せると残像が瞳の奥の方に焼き付いている。
まるで若竹のように瑞々しくしなやかで強かな人だ。
助けを頑なに拒んだの頑固な一面をあっという間に吸収してしまった白石は、歩き難い道のりを先導することに役割を落ち着けたらしく、ここ、滑りやすいから気を付けてな、など気配りを働かせながらの歩幅に合わせて前を歩く。同い年の、成長途中のあどけない筈の背中が、予想以上に広くて逞しい。
ふいに来た道を振り返ると、重なったり離れたり、歩幅が微妙にかみ合わない二つの足跡が地面に跡を残していた。
二つの足跡は完璧に重なることはなく、当たり前だが、大きいのと小さいのと一組ずつ、確かに歩いた証を刻んでいる。

「次からはもう少し運ぶ量を減らした方がええと思うわ」

そうだね、横着して一度で全部運ぼうとしたツケが回ってきたようだ。
は白石の忠告に神妙に頷いて見せた。




2013/06/15