「ねえ謙也、こないだ言ってた映画の件なんだけど…」
リビングの扉を開けると、正面のソファの端から謙也の派手な頭が視界に飛び込んできた。
冷蔵庫の扉を開けて目当ての飲料水を探していると、箱の中から涼しい冷気がを包み、心地良さにこのままこの小さな箱の中に住み着いてしまいたいと思う。天気予報で今日の温度は35度以上の猛暑になると言っていた。そんなの人が生きていける世界じゃない、とテレビに向かって文句を言ったところを謙也に目撃されたのは数時間前の話である。
「こら、目当てのモン取ったらすぐ閉めなさい!夏場の冷蔵庫は10秒開けるだけで温度が1度も上昇するんやで」
降ってきた声に慌ててペットボトルを掴み、扉を閉めて勢いよく振り返ったところで固まった。唯一瞼だけが忙しく何度も開いたり閉じたりを繰り返し、眠たいん?と尋ねられた途端にの時間は動き出した。
「げげ!」
「とってもわかりやすい反応をありがとう」
眠くはないが、出来ることなら今すぐに二度寝をしに行きたい。
「1度くらいとなめたらあかん。地球の気温が一度上がるだけで北極の海水が融けて、海面が2mも上昇してしまうそうや」
ええか、こういうのはな、自分一人くらい、やなくて一人一人の意識が大切なんや。突然現れたエコ大使はを窘め、地球の未来を憂いだ。
時計の針は午前11時を指している。小腹が空いているので油断をするとお腹から奇妙な音が鳴り出しそうだ。腹筋に力を込めたのは爽やかな笑顔がを見下ろしているからでは断じてない。そして涼しい自室からわざわざ出てきたのは、嫉妬をしてしまいそうな相変わらずのお綺麗なご尊顔を拝みたかったからでもない。冷蔵庫の省エネ対策どころか、たった一秒で氷点下まで自分の体温が降下した気分である。これが本当のエコか、とは思った。
「あのね…」
「おん」
「ここ、忍足家なんだけど」
「知ってます」
「なんでここに白石くんがいるのかちょっともうやだ謙也説明してよー!」
早々に敵前逃亡を決断したはキッチンから飛び出し、呑気にソファに座る謙也に突撃した。ポロシャツの襟首を掴んで揺すぶると、ぐぇっと潰れた蛙のような呻き声をあげ、苦しい苦しいと顔色を青くした。
「お、おま!俺を殺す気か!?」
「場合によってはやむを得ない!」
「こらこら、やめや」
容赦なくを謙也から引き剥がした白石は笑顔でペットボトルを手渡してきた。
さんが探してたのはこっちのみかん味やんな?それと取り替えっこしよ」
「え」
びっくりして自分の手元をを見ると、ペットボトルだと思って持ってきたそれがめんつゆの瓶であることを知った。いくらなんでもそれを原液で飲んだら体に悪いと思うわ。あ、うん、ありがとう。は素直に白石から自分の好きなみかん味のミネラルウォーターを受け取った。せっかく下がった体温が一気に急上昇していく。
やっぱりエコじゃない。は力無く項垂れた。
今日はとっても暑い日だ。




◇ ◇ ◇




「何しにって勉強しに来とんねや」
白石はテーブルの上に几帳面に並べられた見覚えのある問題集と参考書を指さした。の自室の机の引き出しの一番奥に埋まっている、数字で埋め尽くされた分厚い冊子と同じものが白石の目の前にある。その横で謙也がうんうんと頷く。
「それって数学の課題だよね…信じられない…。夏休み始まって3日目にもう課題に手を付けるなんて…しかも数学…」
は嫌なものを見る目で二人を見下ろし、夏休みの課題とは8月の終わりに半泣きになりながらやっつけるのが学生の醍醐味なのに、と言い、白石に残念な目で見られた。
「それはスケジュール管理が出来てない駄目な学生の悪いお手本や。醍醐味やなくて悪習慣」
「俺は毎年夏休み前半には全科目終わらせるで。こういうのは早いとこ片付けな落ち着かん」
「謙也はただのせっかちでしょ」
「年中ぐうたらなに言われたないですぅ」
「うっわ腹立たしい」
「はい、はい、二人とも静かにしなさい」
授業中の真面目な姿より幾分か格好を崩した白石は、行儀悪く頬杖をつきながら優しい声での名前を呼んだ。左手で自分の横を指し示しながら、その目はコート上に立つ時の厳しく真摯な色が宿っている。それは笑ってるって言わない、は白石が次に何を言うのかを想像して血の気が引いていくのを感じた。白石はやっぱりエコな男だ。
さん、君が毎年どれだけ怠惰な夏休みを謳歌していたかよーく理解した。クラスメイトとして、テニス部の部長として君の根性を一から十、果ては百まで鍛え直したるわ。今年の夏は今までとは違って部活があるぶん目が回るくらい忙しくなるし、終盤なんて勉強する元気も残ってへんで。せやから今日は一緒に仲良うお勉強しよな」
「謙也のばか!なんで白石くん連れてきたの!たまの休日に上司とばったり遭遇してしまった立場のない部下の気持ちって考えたことある?」
「じ、上司ってなんや、白石のことか?」
謙也に掴みかかったを再び容赦なく引き剥がした白石は、残念な部下の教育をする上司の気持ちを考えてみたことはあるか、と言った。
「ほなさん上司命令や、早う問題集持っておいで。課題の山の一番下に埋もれてる数学をな」
「何故それを」
さんって苦手なモンは最後まで残しとくタイプやん」
「何故それを」

泣く泣く問題集を抱えてリビングに舞い戻ってきたは、白石の横に空いた空間に強制的に座らされた。エアコンが稼働する音は聞こえるのに室内が妙に蒸し暑い、と抗議をすると、温度を下げすぎるのは体に悪いので28度位が適温なのだと窘められた。エコ過ぎる男も考えものだ、と唇を尖らせる。
「そない畏まって正座せんでも取って食ったりせえへん。どうせ1分もすれば痺れるんやろ」
「失礼な、3分は持つよ」
「3分は短いな」
じゃあお言葉に甘えて、は足を崩す時にさり気なく白石の足を軽く蹴りつけた。それから、あ!ごめん、と態とらしく謝ることで溜飲を下げるつもりだったが、途端に白石が目を丸くして彼女を見たので、同時に複雑な気分にもなった。こんな足癖の悪い女の子初めてみた。目は口ほどに物を言う、とは正にこのこと。
ごめん…、謝罪は妙に重々しいものになった。
「…あれ、ところで謙也は?」
「昼飯買いに行った。ちゃんとさんの分も買うてくるからそんな顔せんでもええ」
「……」
謙也が逃げた。冷蔵庫の中に謙也母が茹でてくれた素麺があるのに。めんつゆだってある。不満が顔に出ていたのか、苦笑した白石が、急に焼きそばが食べたいと言って飛び出して行った、と教えてくれた。あいつはほんまに猪突猛進やねん。それについてはも全面的に同意したい。

騒がしい人間が一人減っただけで室内はたちまち静寂に包まれる。エアコンが静かに回る音が神経質に耳に残り、はじっと問題集の数字を睨み付けた。隣からは一定のリズムでシャーペンが問題集を滑っていくというのに、の手は静止したまま。そうっと隣の人の手元を覗き込むと、白石の性格がよく表れた、きっちりと整った数字の羅列が魔法みたいに書き込まれていくところだった。部誌を任されるようになってすっかり見慣れた白石の字は数字であっても少しも曲がらない。
「そんなに見られたら恥ずかしいわ」
「白石くんって綺麗な文字を書くよね。私は悪筆だから羨ましいなあ」
「そうかな?俺はさんのちょっと右上がりの丸っこい字、結構好きやけど」
「こんのイケメンが!これだから白石くんは…1こけしあげよ!」
「さり気なくいらんモン押しつけようとしなや」
お返しとばかりにの手元を覗きこんだ白石は、綺麗なままの問題集を見て嘆息した。が課題に取りかかり始めてもう30分は経つというのに解けた問題は基礎の1問だけ。苦手なのは知っていたがこれでは先が思い遣られる。
「本腰入れてやらな映画に行けなくなるで」
「な、なんで知ってるの?」
「さっきリビングに入ってきた時に言うてたし。謙也と観に行くんやろ?明日から部活も忙しくなるし、チャンスなんて今日ぐらいしかないもんな」
白石はの顔を覗き込み、せやな?と同意を求め、観念したが頷くのを待った。白石は尋問官に向いている。口を閉じたり開いたりを繰り返して、最終的に項垂れるのを見届けて微笑んだ。
「あーもう、仰るとおりです」
「ほな午後まで頑張ろ。わからない所は何でも聞きや」
「え、いいの?」
心底驚いた顔のはあんぐりと口を開け、何か裏があるのではないかと疑り深い視線を白石に投げた。
「ええも何も楽しみにしてたんなら行くべきやろ」
そこで一度、言葉を句切った白石は長い睫毛を伏せて、左手に握られたシャーペンを置いて、呆け顔のと正面から向き合った。
「……実は前から言おう言おうと思っててんけど」
改まった白石は、真面目な顔をして、やっぱり格好良い。はぼんやりと、白石が女子の間でとても人気があることを思い出していた。人当たりも良いし、こうやって真面目な顔を見ているだけで、世の中の女の子は皆彼のことが好きになるに違いない。
さんには申し訳ないことしたなって謝りたいねん。
ちっとも乗り気やない君を何やかんや俺達が無理矢理テニス部に引っ張ったようなもんやろ。そのせいで夏休みやら貴重な時間を部活に割かせてしもうて堪忍や」
「白石くん?」
だって、だってな。白石は数秒間、から目を反らし、考え込むような素振りを見せてから、再びゆっくりと口を開いた。
「…時々な、他にもっとやりたいことがあったんやないかって不安になる。俺が君の可能性を潰してしまったんとちゃうんか。最初、小春やユウジ達のことも怖がってたし、俺達が強引に迫ったせいで迷惑かけてへん?無理してない?あれから一度も文句の一つも言わずに俺達に付き合ってくれてるよな。何も言わない君を見てると時々わからんようになる。
なあ、部活のせいで課題が終わらんようならこうして手伝うし、困ったことがあったら何でも相談してや。さんを巻き込んだからにはその分の、いや、それ以上でもええから責任を取らせて欲しい」
真っ直ぐにを見つめる白石の目はよく見ると困惑に揺れている。部員を率いる部長として自信に溢れ、人望もあり、1ミリも迷うことなくテニス部を正しく導く人。は白石とはそういう人だと思っていた。事実、彼の言うことはまったく正しく、言われた通りに動くと何もかもが上手くいった。鈍くさいが、初めて携わるサポート業務において、それなりに達成感を感じていられるのは、偏に彼の優れた手腕によるものだと思っている。未だ、彼の凄さを僅かほども知りはしないけれど、兎に角、人より突出して凄い人だ。立ち振る舞いすら眩しいと思う。
けれど、どういうことだろう。目の前の白石は、部活中では見せたことのない困ったような顔をしている。クラスメイトとはいえ、部活以外ではほとんど関わりのない関係なので、いつもの部活以外で見せる素の彼を知らないからこそは余計に驚いた。
「…白石くんってよく真面目すぎるって言われない?」
「いや、オサムちゃんに偶に言われるくらいや」
「じゃあ私も言うけど、白石くん、真面目か!」
は居住まいを正す。3分しか持たない、まるでウルトラな宇宙人並のデリケートな爆弾を抱えながら正座で白石を見上げた。戸惑いに揺れる部長の姿は貴重だ。
「たかだが部活に入ったくらいでそこまで気に悩むことないと思うよ。しかも私なんかのことでね、仰々しく責任とります、なんて言われたらちょっとドキドキしちゃうよ。一生分のプロポーズ運を使い込まれた気分でなんか洒落になんないんだけど…」
まだ成人すらしていないというのに今以上のロマンチックな、あれ、ロマンチックだっただろうか、は首を傾げ、急に黙り込んだ白石を見た。
「正直、私の行動が白石くんにとってどう映っているかなんて考えたこともなかったけど」
実は、このことが言いたいばかりにわざわざここに来たのだろうか、と自惚れた気持ちを抱えながら、は頬を掻いた。こんなこと、言うつもりはなかったんだけど。
「切欠はどうあれ、最終的には自分で納得して入ったわけだし、今は結構マネージャーの仕事楽しくなってきたところでね。まだ初めて数ヶ月だけど、出来ることも少しずつ増えてきたし、まあ出来ないことの方が多いけど。こちらこそ不束者ですがよろしくお願いしますって言いたいくらいだよ。何しろ白石部長には寧ろこっちが申し訳なくなるレベルでお世話になってるしさ、あんまり堅苦しいことは無しにしようよ。
大体、白石くんが言うほど、流されやすい人間じゃないもの…たぶんだけど」
意趣返しとばかりにが白石の顔を覗き込むと、世にも珍しい呆けた白石が力無く崩れ落ちた。
さんには敵わんなあ」
と言って頭を抱える。白石の柔らかな髪が、包帯の巻かれた左手の中でくしゃりと掻き乱された。落ち込んでいるのだろうか、それともはにかんでいるのか。そんな姿を見ているとまで気恥ずかしくなって、どんな顔をしたら良いのかわからない。
「えー、あー、じゃあ白石くんに敵わない私は一体どうしたら…ん?よくわかんなくなってきたから取りあえず真面目な白石くんには1こけしやろ!」
「そういうのいらん」

それから見計らったような抜群のタイミングで帰ってきた救世主謙也は、結局焼きそばを買ってくるのを忘れた、という致命的なミスを犯し、三者三様、複雑な顔を浮かべて仲良く素麺をすすった。
は、白石という少年は思っていた以上に気苦労の多い人なのだと認識を改め、濃縮タイプのめんつゆは1対2の割合がパーフェクトであることを学んだ。それは恐らく今日一番の成果である。
「そういや何の映画を観に行くんや?」
「あー…」
どうせ謙也と行くのだし、と実は最近少しだけはまっている、今時のイケメンが主人公の戦隊ものの映画が観たかっただが、白石に尋ねられると途端に言葉を濁し、世間で話題の切ない純愛ラブストーリーの映画のタイトルを口にした。
「へえ、さんも女の子やなあ」
一緒に観に行くのが謙也って言うのが何ともアレやけど。どういう意味や!俺かてラブストーリーくらい観るわ!謙也が素麺をずるずるとすすりながら反論した。




2013/03/19

「それでどうして映画に白石くんも付いてくるのか」
「実はこの映画、俺も気になっててな。いやあ人気なだけあって面白かったなあ。特にクライマックスの彼女が彼氏に遺言を残すシーン、うるっときたわ、謙也なんて鼻すすってたし。泣いた?」
「泣いてへんわ!」
さんも感動したやろ?」
「…うん、あのシーンはとても良かった。とても感動したよ!」
「けど一番気になったのは、俺の横に座ってた女の子が開始30分で俺の肩に寄りかかって寝息立て始めたことや」
「……数学の呪いが」