「うっわなんやねんコレえ!!」

テニス部の部室のとある一角には異様な存在感を放った奇妙なこけしが鎮座している。
通常の3倍に黒く塗り潰された双眼は可愛らしいというよりもバランスが悪く、底なしのブラックホールの様相で虚ろに部室を見渡す様は、異空間に吸い込まれそうな心地悪さを覚える。鮮やかな紅を引いた唇は歪んだ弧を描き、見る者の気持ちを不安定にさせた。無造作に塗られた薄桃色の頬紅は部員達を嘲笑っているのだと誰かが言った。一言で表すと、禍々しい、これに尽きる。
「このこけしはなんや、誰やこんな恐ろし気なモンを置いた奴は。負のオーラ漂わせ過ぎやろ」
「マネージャーがオサムちゃんから無理矢理押しつけられて腹が立つから自分色にそめてやる!言うて飾っとった」
「…あの子は一体何を呪うつもりなんや」
「そういう用途はないと思う、思いたい」
「ムダが嫌いな部長サマは何て言うてはるん」
「可愛ええな、って手放しで褒めてたで」
「アイツの美的センスはようわからん」



◇ ◇ ◇



「こないだは怖がらせてしもうて堪忍なあ、ホラ、ユウ君もちゃんと謝りや」
無理矢理引きずられてきた様を隠そうともせずにむすっとした表情を浮かべる人物を前にしてはごくりと息を飲んだ。坊主の少年は邪気のない笑顔を浮かべ金色小春と名乗り、その横で睨みを利かせる目つきの悪い少年は一氏ユウジという。
「こら、これが謝るモンの態度か、たいがいにせえよ」
「せやかて白石、この女、俺の小春に色目を」
「「つかってません!」」
白石との声が見事に重なると、なんや、二人共いつのまに仲良うなったん、小春が手を叩いて喜び、こいつら気持ち悪いくらいシンクロ率高いねん、と謙也が呆れた風に言い、はどういうわけか逃げ出したくなる衝動に駆られた。白石も否定してくれればいいのに、ははは、といつもの当たり障りのない爽やかな笑いでかわしたつもりでいるからは一人で二人分居たたまれない気持ちになる。謙也の言うシンクロ率とやらがなんの因果かたまたまピントが合ってしまったのだというのなら、今度からはアクションをとる時はワンテンポずらしてみようなどと真面目に考える。
「昨日テニス部に遊びに来てくれたんやって?言うてくれれば駆けつけたのになんでアタシがいない時に来るのよ」
「知るか!んなもん」
お前ら静かにしろや!と謙也が唸り、まだ半分しか埋まっていない問題用紙に消しゴムを乱暴に押しつけた。途端にくしゃりと紙がひしゃげて盛大なため息。昼休みだというのに真面目な顔をして机に向かう事が、落ち着きのない謙也に余程のストレスを与えていることは間違いなかった。
「なんで俺が忙しい時にお前らは邪魔しにくんねん、次の授業でコレ提出せな放課後補習が待ってんねや」
「別に謙也に会いに来たわけやない、アタシ達が用あるんはちゃんや」
「俺は別に用ないで」
「あー!もうお前らは存在だけで暑苦しいんや、視界に入るだけで気が散るんや!用が済んだならさっさと自分らの教室戻ってくれませんか!…さん、お前もなんでそんな顔して、」
三人のやりとりを他人事のように眺めていたは、謙也の手元を覗き込んで青ざめた。瞬きの間隔がいつもの倍早くなっている。
「ん?」
「まさかお前」
「いやいやまさか!終わってるよ、終わったに決まってるじゃん」
私の放課後が、と心の中で付け足した。明らかに挙動不審なを疑わし気に謙也が覗きこんでくる。は目を合わせることが出来ずに謙也の手の中の実用性を感じない奇妙な形をした消しゴムを眺めた。気に入っているのか、それとも謙也が乱暴に扱っているのか、消しゴムは半分ほど原形をとどめていなかったので元の形を想像出来ない。たった今、謙也の手ずからくしゃくしゃによれた問題用紙、それはよりにもよっての苦手な数学の課題だった。昨日は帰宅後、打ち付けた頭を安静にするという口実で速攻で眠りについたの課題が白紙なのは言うまでもなかった。謙也の様子を見て初めて思い出したそれを今から全力で取り組んでも3分の1解けるかどうか。幸いにして帰宅部なので居残りに関しては謙也より寛大だった。予定がないからといって数学の補習を受けるほど真面目なつもりもないけれど。
「ふうん」
謙也は一瞬視線を遠くに飛ばしてから納得がいったように消しゴムをシャーペンに持ち替えた。
「まあええわ、俺は今自分のことで頭がいっぱいやからの面倒までみれん」
は肩透かしを食らったようで釈然としない気持ちになった。謙也は薄情なやつである。
「謙也なんて置いといて、それで、ちゃんはテニス部に入ってくれる気になったん?どうやったテニス部は、アタシ達がおらんかったから面白さも半減しとったと思うけど、蔵リンはお笑いに関してはからっきしやからなあ」
「まだ保留中で…」
「なんでやねん!悩むことなんてあらへんでえ、ちゃんならきっと学校一のお笑い目指せるで」
「ん?お笑い?テニスの話をしていたんじゃあ」
「アタシとユウ君はね、お笑いのダブルスも組んでんねん、今度見せたげるわ、アタシ達のお笑いとテニスにかける情熱を」
小春の言葉に一氏がデレッと顔を緩めた。
「へ、へえそれはすごいな、想像もつかないすごさだな」
はすごい棒読みやな」
得体の知れない二人組にのカルチャーショックは頂点に達していた。目を丸くするのはばかりで、周囲の生徒達は気にする素振りもなく、この二人を空気として流せるこの空間は一体なんなのだろう、は常識と非常識がハイタッチをして入れ替わるのを感じた。慣れって怖い。悪寒が現実に鳴る前にと、ゆっくり二人から後退すると硬いものにぶつかった。
「変わった奴らやけど、テニスの腕もお笑いもなかなかの腕やで。慣れんうちは戸惑うかもしれへんけどな、さんならあっという間に慣れると思うわ、やからそない怖がらんでも大丈夫」
「あっという間に慣れたくな…い」
頭上から耳心地良い声が降ってくるとは固まった。それは直接脳に響く至近距離から。硬くて温かい。その正体は白石の鍛えられた胸板で、は運悪く白石の懐に逃げ込んだのだった。もとから背後に白石がいたのだから後退すればそれは必然なのだが、前方には小春や一氏がいるから選択肢は後方しかないと思っていた。逃げてきたを庇うように肩に置かれた手から無言の圧力を感じるのは被害妄想なのだろう。きっと他意なんてない、そう信じたいのに肩と胃が呪われたように重い。痛いです、そして近いです白石くん、ごめんなさい白石くん、言葉を喉の奥に押し込んで目を瞑ると優しい声が降ってきた。
「とりあえず仮入部ってのもアリやで?」
逃げ間違えた!は盛大に頬を引きつらせた。
「その前に数学の課題をやろうな」
「え」



◇ ◇ ◇



「どうでもいいときばかり時間を奪っておいて、肝心な時にはなかなか連絡してこないとかどういうつもり」
『開口一番になんてこと言うんやこの子、電話切ろうかな、切ったろかな』
は定期的に連絡をしてくる従兄弟のことを暇な奴だな、と思っていて、時々空気を読めない電話を面倒だと思うこともしばしばあったが、その日ばかりはずっと電話の呼び鈴に敏感になっていた。この件に関しては謙也はアウェーだし、なんだかんだで愚痴をこぼせる気安い知り合いと言えば侑士しか思い浮かばなかった。その事実も苦々しい。
『なんや相談事があるならから電話してきてもええのやで』
「やだよ、そもそも侑士くんの電話番号知らないし」
『……そろそろ携帯を持つべきやと思わないん』
「別に」
クラスの大半の子が携帯を持っていて、ガラ携よりもよっぽとの方がガラパゴス代表なのだと散々に言われてもは携帯の必要性を感じていなかった。目にも止まらぬ早さで文字を打ち、絵文字を駆使する友人達を見るだけで頭が痛くなり、当面携帯は要らないと思っている。今時の老人の方がよりもよっぽど機械に詳しい。
『そやかて携帯ないと何かと不便やろ、親御さんかて連絡取りづらくて困るんとちゃう』
確かに転勤直前に両親からも打診はあったけれど、高校にいくまでは考えさせて欲しいなどと言うのはくらいなものだ。
「何かあればあらた君経由で連絡あるから問題ないもん」
『……ホンマに変わった子やなあ、携帯あったら寂しい夜も俺と連絡取り放題やぞ』
「寝言は寝ていいます」
『ははは、それで何があったんや』
侑士から連絡があるときは兄の携帯か、若しくは謙也の家に直接電話がかかってくる。風呂上がりに電話を受け取ったは子機を抱えて濡れ鼠のまま廊下にだらしなく座り込んだ。火照った体を冷ますには廊下の冷たさが丁度良い。
「こないだ部活の話したじゃない」
『おん』
「結局仮だけどマネージャーやってみようかなって思ってさ」
『おお』
「驚かないの?」
『話聞いた時から何となく分かっとったからな、は流されやすいからどーせ上手いこと丸めこまれるんやろなって容易に想像つくわ』
「そうなの!してやられたって感じでね」
事の顛末を話して聞かせると、侑士は大声で笑い出す。今日などは結局全力で数学の課題と向き合うことになり、自主的に付き合ってくれた白石の有り難い講義のお陰で補習は免れたのだが、できれば振り返りたくない昼休みだった。悔しいけれど白石は出来損ないのでも思わず目を見張るくらいに教えるのが上手だった。しかし貴重な時間を割いてまで親切にしてくれる意図を考えるとあの味を思い出す。ってそない焼きそばパンが好きやったん!恐らく腹を抱えているのだろう侑士にもの申したい。違う、焼きそばパンが好きなのではなくて、売店の焼きそばパンが特別だったのだ。
電話越しに大爆笑は止めてと何度言っても聞き入れてくれないので、は度々自分の鼓膜の安否が気になっている。対する侑士は、ひとしきり発作が収まると一人で勝手に納得したように頷いている。
『そうか!白石なあ…、あの白石が部長になあ、なるほど、なるほど、そら可哀想な話やけどは敵わんわ…そもそも初めっから退路はなかったっちゅー事やんな』
「なあに、侑士くんて白石くんと知り合いだったの」
白石と侑士が並んでいる姿を想像しただけでの眉間に皺が寄った。あまり想像したくない組み合わせである。二人に挟まれたらはきっと殺されてしまう、精神的に。
『…ああ、謙也繋がりでちょっとだけな!にしてもそない面白い事になっとるんやったら見てみたかったわあ』
「他人事だと思って!」
実際他人事だけどね、と言うと侑士は笑った。キッチンから良い香りが漂ってきてのお腹を刺激する。今日はビーフシチューを作るのだと謙也母は言っていた。食い意地がはっているわけではないが、お腹が悲鳴をあげないように空いた手でさすってやる。ほな一つだけええ話したろ、と侑士は言う。
『真面目な話をするとな、俺もは結構マネージャー合うてると思うねん』
え?と驚いた途端にお腹の力が抜けて、ぐう、と情けない音が響いた。
は鈍くさいけども面倒見はええやろ、一度俺が熱出して寝込んだ時の看病、的確で感心しとってん。意外と細かいとこまで気を配れるし、情に熱いし、なんだかんだで体力もある、自分、長距離走は結構得意やろ?ただトロくて鈍くさいだけやねん、ええもんようさん持っとるの俺はちゃあんと知っとる』
「侑士くん?」
電話越しで本当に良かった、の顔はとても間抜けな顔をしている。湿った髪の先からぽたぽたと滴が零れて床を濡らしている。
『せやから胸張って頑張ってみたらええよ。物ぐさな君に足りへんのはきっかけや。いっつも短距離走のスタートで出遅れとるだってな、上手いこと背中を押して貰えばちゃんと走れるんやで、転んでも助け起こしてくれる腕があるんやから、何も心配せんと全力で走ってみたらええんとちゃうの、これはに必要なきっかけやと思うわ』
「侑士くんが恥ずかしいこと言ってる」
俺がのことどれだけ想ってるか伝わったやろか、なんて言わなければは絆されていたかもしれない。
「ありがと」
『おん、きばりや、何かあったらいつでも相談せえ、テニスのことだって何でも聞いてや』
「うわあ頼もしい」
『そらそうや、謙也と違うて俺は出来る男やで、特段女の子には優しいし』
「その発言がすでにダメ男だという自覚を持って欲しいな」
『にしても四天宝寺テニス部なあ、面白くなってきたとこで今度練習試合でも』
「絶対やめて!」
「え!」
抜群のタイミングで帰宅したばかりの謙也が、が座り込んでいる廊下へと入ってきた。扉を開けた瞬間にから怒鳴られたと錯覚した謙也はびくりと肩を震わせた。目を丸くした謙也はの手に握られた電話の子機を見ると、なんやねん、吃驚したわ、と言って去っていった。
『謙也か?』
「謙也って間が悪いね」
『あいつらしいわ』
謙也の驚いた顔を思い出して笑いが零れた。
は付き合いは短いながらも、謙也という人物の人となりを理解し始めていた。一癖や二癖もある侑士とは正反対でとても真っ直ぐだ。一直線過ぎるところがたまにキズ。裏も表もないから一緒にいて居心地がいい。
『せや、うちのオカンが今度遊びに来いって言うてたわ』
「ほんと?実はそろそろそっちに顔出さなきゃって思ってたんだよね」
『もうホームシックか』
「違う、私って携帯持ってないでしょう、転校が急だったから友達にろくな別れも言えなくてさ、その余波で山のように手紙が届いてね、毎日不幸の手紙かってくらいに沢山届くんだよ…、これはもう一度しっかり挨拶にいかないといけないなって思うでしょ」
『携帯持てよ…今時文通て』
「くどいな、そういうわけで夏休みあたりにそっちにお邪魔してもいいかな、伯母さんに聞いてみてくれる?」
『わかった、オカンも喜ぶわ』
廊下の扉がもう一度開かれて、今度は可愛い顔がひょっこりと現れた。
「侑士兄、そろそろ姉を返してよ、母さんが夕飯にするって言うてる」
顔を覗かせたのは謙也の弟の翔太である。兄の謙也よりもしっかりしている小学生はが未だ濡れ鼠なのに眉をしかめ、ちゃんと乾かさないと風邪をひくよ、と注意をして謙也を呼びに行った。
『ほいじゃあまたな、いくら腹空かせとっても食べ過ぎたらあかんで』
あ、やっぱりさっきの腹の音聞こえてたんだ。


2013/05/25