それからあっという間に時間は過ぎて行き、やっぱり自分の置かれた状況に自覚もないまま気が付くと新学期が始まって一週間も経っていた。謙也の予言した通りは同じ2年2組の生徒となり、クラス替えをしたばかりのどこか落ち着かないクラスの中にほとんど苦労なくすんなりと溶け込む事ができた。しかし、本来ならばもっと自然に溶け込むつもりだったのだが、初日の自己紹介で謙也が大きな声で「俺の従妹が東京から越して来たさかいよろしゅうしたってや!」と宣言した為に一躍時の人と化したは謙也を大いに恨んだ。そのせいでますます好奇の目で見られたし、同じ日本とはいえ東と西の文化の違いに戸惑ったりもしたのだが、クラスメイトは皆謙也と同じ世話好きの性分であるらしいということが直ぐに分かったので、数日もすればすっかり気も楽になって、仲良くしてくれる友人も出来た。大らかな生徒が多いのはこの学校の特色なのだと謙也は言う。
兄の新からも早速大阪の可愛い女子高生と仲良くなったと破顔して報告を受けた。高校デビューも幸先のよい滑り出しのようである。

「謙也は今日も忙しそうだね」
「おー、あいつなかなか渋といねん。今日こそ入部させたるけどな!」
「期待の新入生、まだ粘ってるんだ」
新入生勧誘の為になにやらおかしなことをやらかしているらしい。
「そういうもええ加減部活に顔出しや」
「却下却下。早く行きなよスピードスター」
「はぐらかしよった!ほいじゃあまた後でな」
謙也がせっかちだと思っていたのはの気のせいではなかった。スピードスターという異名を持っていると知ったのは昨日の体育の授業でのことだ。体力測定の100m走で吃驚するような早さで駆け抜けて行った謙也に目を丸くしていたらクラスの女子が笑いながら教えてくれた。ふうん、と何気なく目で追っていたらクラス1の記録を叩き出していた。得意気な顔で、こんなん朝飯前や!と友人に自慢をしている。聞くところによるとクラスどころか学校1番の記録保持者でもあるらしい。なんで陸上部に入らないのだろうと疑問に思っていたと言えば、帰宅早々謙也に「自分どんくさいんやな!」と真顔で言われた。走っている最中に転んだところを目撃されていたようだ。しっかりと整備されているグラウンドには石一つ落ちていなかったというのに、はスタート直前に、まるでコントみたいにつんのめった。気合いを入れすぎて空回りしてしまったのだと思う。恥ずかしくて俯いたの膝小僧には絆創膏がでかでかと貼ってある。風呂に入った時、傷が染みて大変惨めな思いだった。

放課後、は図書室に向かった。別に読書が好きだからというわけではない。新学期が始まって早々に行われたクラス会議の結果、図書委員になったからだ。基本お祭り騒ぎが大好きなクラスにおいて、図書委員という比較的地味な仕事は言うまでもなく不人気だった。人気の委員会に立候補して争うのも面倒だったは真っ先に立候補してすんなりと図書委員の座におさまったのである。
当番初日で少しだけドキドキしながら扉を開けると、放課後だというのにちらほらと生徒の姿があった。生徒達はマナー良く静かに本を読んだり自習をしているので、毎日がお祭り騒ぎのようなこの学校には珍しく、不思議な光景に映った。それを横目にカウンターまで歩いていくと、そこには既にこれからの1年間相棒になるであろう男子生徒が座っていた。あからさまに怠そうに頬杖をついた男子生徒はちらりとの姿を見上げた。1年生だと聞いていたが、気の強そうな生意気そうな吊り目がちな瞳が一瞬だけを射抜いて、それから直ぐに興味をなくしたように視線を本に戻した。戻したといってもただ本を無造作にぺらぺらと捲っているだけで、読書に集中している様子もない。全体的にやる気が欠如しているように見える。
「あの、です。よろしく」
立ち上がる様子も、挨拶する様子すらなかったのでから名乗ると、また少しだけ視線をあげて
「ああ、財前です。どうも」
素っ気ない返事に呆気にとられたが、あんまりじろじろ見ると睨まれそうな気がして黙っていることにした。耳に幾つもピアスが下がっていて年下なのに雰囲気が少し怖い。図書委員でなければ図書室にだって近づかなさそうなタイプにみえる。変なの。そう思ったがやっぱり黙っていた。当番の間は同じカウンターの中に座らなくてはならない。財前の隣の空いた椅子をそっと引いて、心なしか離れて腰を下ろした。

物覚えの良くないだが、初日だけで図書委員の仕事内容は大体把握できてしまった。何しろ返却された本を元の棚に戻したり、本棚の整理をする以外は殆ど仕事がなく、たまにやってくる生徒の対応をする以外はずっとカウンターに座っているだけ。静かに座っているのが主な仕事。どちらかというとは進んで読書をするようなタイプではなかったので、面白そうな本を見つけてなんとなく眺めてみるけれど、少し経てばすっかり暇を持て余した。頁を捲ってもちっとも文字が頭に入ってこない。隣に座っている財前は最初から怠そうにしているから、それが伝染したのかもしれなかった。
あまりにも暇だったので勇気を出して話かけてみようと思ったが、なんとなく拒絶のオーラが漂っている気がしたので出来なかった。年下なのに、どうしてこんなに怖いんだろう。
それからカウンターのすぐ横にある窓の外をなんとなく覗くと、少し離れたところにテニスコートを見つけた。謙也がテニス部だと言っていたから少しだけ興味を惹かれて眺めていると、数人の生徒がコートに入って打ち合いを始めるところだった。
「あ」
その中に目立つキンキンの頭を見つけて声が漏れた。一瞬、隣から視線を感じたが咳払いをして誤魔化す。気を取り直して、視線だけでテニスコートを追えば謙也がコートの中を忙しく走り回っている。流石に表情までは見えないけれど、謙也らしく、しかし普段以上に活き活きと楽しそうに見える。対面で対峙している人はの知らない生徒だった。そもそもテニス部員は従弟の謙也しか知らない。テニスでもせかせかと動き回る謙也と違って、対戦相手は冷静にお手本のような隙のない綺麗なフォームで打ち返す。風になびくミルクティー色の髪の毛がとても印象的だった。素人目にも凄く上手いプレイヤーなのだな、とは思った。
「先輩、お客さん」
返却希望の生徒がやってきたのでテニス観戦は持ち越しとなった。
の脳裏には、以前、テニスが好きや、と目を輝かせて言った謙也の姿が浮かんでいる。

「う」
返却された本が年季の入った古書だったことが原因なのかもしれない。は鼻がムズムズするのを抑えられず、くしゅっ、と大きなくしゃみを二つ静かな室内に落とすと、今度こそ隣から視線を感じた。
「あ、ごめん」
謝ってみたものの、財前は凄く嫌そうな顔をしていた。
「風邪っすか、花粉症っすか」
返答によっては迷惑極まりないと目が語っている。
「どっちもハズレ。この本がホコリっぽかったから」
目の前に本を突き出すと、財前は本とを交互に見てからにやり、と口の端をつり上げた。
「くしゃみ二回って事は誰かが先輩の悪口言うてるのかもしれないですね」
「へ?そうなの?」
「知らんわ」



◇ ◇ ◇



その日の夕食後、珍しく忍足の侑士の方から電話があった。
『新しい生活はどや?俺が傍に居らんから寂しいんやろうなあ』
「そう言えば侑士くんともう何週間も会っていなかったね、電話かかってくるまですっかり忘れていたけど」
『…あ、さよか、思い出してくれて何より』
「侑士くんは相変わらずで安心したよ」
『自分も相変わらず俺に冷たいなあ』
こんなに冷たくされて泣きそうや、と笑いながら言われても説得力がなかった。
『ちゃんと友達できたんか?イジメられてはおらんみたいやけど』
謙也と同じクラスになったんやってな、と耳心地の良い低い声が言った。
「なんか侑士くんお父さんみたいだね」
『こないイケメンのオトンなんて羨ましがられるで――ってなんでやねん!』
「うわあ出た、ノリツッコミ!侑士くんも伊達に関西人じゃなかったんだねうわあ」
『今褒められてるとこ?』
「え?なんて?」
『もうええわ』
「そういえば侑士くんてテニス部だったよね」
『おん、あれだけ一緒にテニスしようやって誘いをことごとく断ったからテニスの言葉を聞く日が来るとは思わなかったわ。どういう風の吹き回しや』
何度も誘われたことがあるが、結局観に行くことは一度もなかった。
「だって侑士くんとテニスってなんか」
『俺は女の子には優しいで』
「自慢気に言われてもドン引きだよ。いつか女の子に刺されても知らないフリするからね」
『はは、殺生やなあ。で、テニスがどないしたん』
「謙也がね、テニス部のマネやらないかって誘ってくれて」
突然電話の向こう側が無言になり、侑士くん?とが呼びかけると、むっとしたような、少し棘のある声が返ってきた。
『…俺のことは侑士クンなのに謙也は呼び捨てなんやな』
「張り合うとこ違くない?」
この二人は昔から色々と、それはそれは下らないことまで張り合っているらしい。謙也に侑士の話をすると、いつも顰め面になって、あいつほどアホな奴はおらん、と捲し立て始める。仲の良いことはいい事だとは思う。ただし、巻き込まないで欲しい。
『他にやりたい事はないんか?そういや一年の時は帰宅部やったなあ』
「うーん、これと言ってないんだよね。友達には家庭科部に誘われてるけど」
『それは止めとき。運動もせえへんとすーぐに太るで。女子は今の時期油断しとったら将来絶対後悔すんねや。入るなら運動部にしなさい。少しくらいは鈍くさいのが直って、スタイルもよおなって一石二鳥やんか』
「侑士くんて男の子なのに時々気持ち悪いこと言うよね。私はそんな侑士くんが気持ち悪い」
『なんで今気持ち悪い二回も言うたん…まあええわ、他にやりたいことないんやったら試しにテニスやってみたらどや?別にマネやなくても女子部に入ったってええと思うけど。俺がそっちにおったら手取り足取り教えたるとこなんやけどな』
「私が球技系苦手なの知ってて言ってる?」
にとって球技は鬼門と言っても過言ではない。思い出すだけで恥ずかしい数々の失敗談を兄が侑士に暴露していないわけがなかった。案の定、電話越しに侑士の大爆笑が届けられてきて、は携帯を耳から遠ざけた。
『せやったわ!は球技系壊滅的にアカン子やってんな!ボールさえあればどこにでも転がれる子やんな!自分のお笑い体質、絶対そっちで活かせるで、俺が保証したる』
「あらた君シバく…」
妹の恥は兄の恥でもあると教えてやらねばならない、とは決意する。
『まあ小難しいこと考えんで直感で動いてみればええ。最初はあんまりでもいつの間にかハマっとるっちゅうこともあるしな。何事もやってみなわからん。案ずるより産むが易し、って言うやろ』
「そういうもんかなあ」
『俺個人的にはにテニス知ってもらいたいねん。やから相談されてもオススメしかできへんで』
「何それ主観に基づきまくりじゃん…はっ」
『は?』
「っくしゅん!」
鼻がムズムズして今度はくしゃみが3回出た。
咄嗟に電話を遠ざけたが侑士にはしっかり聞こえていたらしい。
『風邪か?花粉症か?』
財前と同じことを聞かれる。別にどちらでも電話の向こう側の侑士には迷惑はかけないのだけれど。
「どちらでもない…はずなんだけどな」
『そらあれやな、くしゃみ3回は人の噂っちゅう』
「噂?悪口?」
『ちゃうちゃう、3回はええ噂やで。ちゃんて可愛ええな、とかアホそうで可愛ええなとかそういう』
「え、そうなの?」
『ま、噂してるとしたら俺やんな。離れてても一番にのこと思ってるで』
「そういうのいらない」





2013/05/04