分厚いコートが薄手の生地に変わり始めた頃、都会の春ももうすぐそこまで来ている事を実感する。毎年の事ながら近所の桜並木が薄く色付き始めるとはそわそわし始める。桜が満開になると母親が買ってくる桜餅を楽しみにしているからではない。桜餅と一緒に買ってくるみたらし団子を楽しみにしているのだ。老舗の高級な団子が、庶民代表の家にやってくる確実な機会をは5年前から把握している。
「お母さん、お兄ちゃんが変なこと言ってるんだけど!母親としてエイプリルフールは一週間後だって教えたげてよ!」
兄は桜餅を、はみたらし団子、今年も兄妹連携のもと互いに好物を手にしていた。団子にたっぷりかかった絶妙なとろみと甘みに恍惚としながら頬張っていると、今年高校デビューをすると張り切っている兄が妙な事を言い出した。
あらた、今日はまだ一週間前よ」
「適当に相槌打たないで理由も聞いてよ!」
「つーか母さんまだに話してなかったのかよ。春休みもあとちょっとだって言うのに」
「あらた君冗談キツいんですけど」
「だから冗談じゃないって言ってるだろうが」
呆れ顔の兄、新は二つ目の桜餅に手を伸ばした。テーブルの上には母が知人から貰ってきた桜が一枝、満開にほころびながら花瓶に活けてある。
その横で母がお気に入りの器で抹茶をたてている。近所に都内で有数の桜並木が一年に一度の晴れ舞台を披露しているというのに、家の花見はとても地味だが、異論を唱える者は未だ誰一人としていない。母に出された抹茶をずずっと飲むとほろ苦い味が口に広がった。
「だってに言ったら反対するでしょう。だから言わなかったのよ」
「流石にそれはマズいだろ。てっきり知ってるもんだと思ってた」
「そうね、じゃあもう言ってしまいましょう。あのね、良く聞いてね、貴女の大好きなお父さんが転勤することになりました」
「私の大好きなお父さんに転勤なんてしないでって言って下さい」
転勤?一体どこに。嫌な予感しかしなかった。は兄が自分を哀れんだ目でみていることに気が付かないフリをする。
「お仕事だからね、そう簡単にはいかないのよ。お母さんも出来れば引越なんてしたくなかったのだけど。しょうがないわよね、イギリスなんてお父さんを一人で行かせるわけにはいかないもの」
「い、イギリス?!こ、国内ですらない…!ちょっと待ってよ急にイギリスとか言われても困る!」
「そうよね、そう言うと思ったから、と新は日本に残って貰おうと思って。特に英語が苦手なは生きていけないものね」
葉月の英語がいつも赤点なのを母は心配しているが、葉月はあまり心配していなかった。そもそも日本人なのだから日本語が話せれば生きていけると信じている。
「私達まだ未成年なんですけど」
「だから親戚のお家に預かって頂くことにしました」
「預けるってそんな犬猫みたいに…やだやだ!転校なんてしたくないよ!皆と離れたくない!あらた君は賛成なの?なんでそんなに平然としてるの?」
「俺は今年から高校生だし、仲の良い奴らともどうせ離れるしどっちでもいい、というかもうあっちの学校の受験受かってるし」
「裏切り者…。というかあっちってどっち?」
「忍足さん家」
「忍足家ってお父さんのお姉さん家?」
あれ、それならここからそう遠くないではないか。の目が一転して輝く。
「お父さんのお兄さんの方よ」
「うそ!お父さんにお兄さんいたの?!なんで侑士くん家じゃないの?!侑士くん去年からこっちに引っ越してきてるでしょ!」
去年親戚の忍足家が東京に越して来てから、互いの家を行き来する位には仲の良くなった同い年の従弟の名前は侑士と言った。は彼のことを中学生らしからぬマセたやつだと思っている。庶民の学校に通っている自分とは違って超が付く名門金持ち校に通っている所も鼻持ちならない。けれども伯母さんの事は大好きだった。遊びに来る度に高級そうなお菓子を手みやげに持ってきてくれるし、何よりも羨ましいくらい美人だ。いつも上品なスーツを身に纏って極上の笑顔でやってくる女神様みたいな人なのだ。
「義姉さん家は共働きで毎日忙しいからあなた達の面倒を見ていられないのよ。侑士君だってあんなに放ったらかしにされて可哀想だわ」
「ああ、それで侑士くん性格歪んじゃったんだ…」
「さらっと酷いこというな」
曰く歪んだ性格の従弟は兄の新と仲が良かった。高校デビューをすると言う兄が従弟のように道に外れないようにと祈るばかりである。
「それでお義兄さん家がね、是非いらっしゃいって仰って下さって。折角だからご厚意に甘えることにしたのよ。も一度遊びに行ったことあったでしょう?息子さんが二人いて、侑士君とと同い年の男の子がいる大阪の忍足さん家」
「お、お、大阪…!!」
そうだった、忍足侑士は去年、大阪からやって来たのだった。侑士が大阪弁を話すだけで胡散臭ささが増すなどと思っていたけれど、大阪育ちなのだから、あれは標準装備だったのだ。呆然とするに追い打ちをかけるように母は、もう転入手続きも済ませてしまったから変更はきかないのだと言った。
「新学期からだからそんなに構えなくても大丈夫だろ。父さんも数年もすればこっちに帰って来れるみたいだし、ちょっとの辛抱だよ」
「あらた君は気楽でいいよね、どっちにしろ新入生なんだから」
「そんな落ち込むなよ、これ食べて元気出せよ」
ほらほら、手に握らされたのは歯形のついた桜餅。は桜餅に付いている桜の葉があまり好きでなかったのでますます項垂れた。
友達に何て言おう。


◇ ◇ ◇


「ほんとにエイプリルフールじゃなかった…誰か嘘だと言って!」
奇しくも4月の1番始めの日。慌ただしく住み慣れたマンションを追い出され、親しい友人との涙の別れもそこそこに、実感も沸かないうちに新幹線であっという間に大阪に運ばれてしまった。東京と比べてみるとまるで別世界のような街に降り立ったのはこれで2度目。1度目は小学生の頃に家族で遊びに来た時。実は母の実家は大阪で、母は就職と同時に東京に出た為に、大阪弁をしゃべる様子がまったく想像できないくらいに関東人に染まっている。
気が付いたら荷物と一緒に親戚の忍足家に転がっていたは、そこで数年ぶりに従弟と再会した。小さい頃の記憶など曖昧なもので、侑士と同じように変わった人だったらどうしようと思っていたら、こちらの忍足は良い意味で印象がまるで違っていたので驚いた。あの二人は本当に従兄弟同士なのだろうか。爽やかに白い歯を見せて「よろしゅう」と屈託なく笑った従兄弟を見ながら思った。
「お前おっきくなったなぁ。一瞬誰かと思たわ。前に会ったの何年前やったっけ。侑士からちょくちょく話を聞いとったからあんま久しぶりな気せえへんわ」
「侑士くんなんて嫌な予感しかしない」
「いやおもろい奴や言うて褒めてたで」
女の子に面白いは褒め言葉だと思わないで欲しい。
しみじみと眺められて逃げ越しのは、あいにく目の前の男の子のことをちっとも覚えていなかった。ヤンキーみたいなキンキンの髪がところどころ跳ねていて、女子の平均身長はあるがちょっと見上げるくらいのひょろっとした体つき。思春期の少女のことをじろじろと眺めてくるデリカシーの無い所はその変の近所にいそうな悪ガキと変わらない。
「俺ら同じクラスになれるとええな!もう何組か聞いとる?俺は2組やねんけどもし同じやったら俺の友達紹介したるわ。うちの学校皆気さくなええ奴らばっかやからあんまり気張らんでも大丈夫やで。校長のムアンギも話のわかる奴やから俺らきっと同じクラスになると思うし――っとここやここ!」
到着早々制服の採寸に行かなければならないと家を追い出され、右も左もわからないの為に暇を持て余した従弟が道案内の任命を受けた。目当ての学校指定の洋裁店は思っていたよりも忍足家から離れた場所にあり、たどり着くまでにはすっかり疲れ切っていた。というのも道中ずっと話っぱなしで、は専ら聞いているだけだったのだが道を覚える余裕がまったくない程のマシンガントークだった。さらにはこの従弟、歩くのがとにかく早い。はついて行く為に殆ど小走り状態になっていて、店の閉店時間はそんなに早いのか、時計を確認するとまだおやつの美味しい時間だった。
「うちの学校の女子の制服は結構可愛いんやで!」
試着した制服はセーラーカラーのワンピースだった。清楚な気もするが、は自分自身が着ることを想像して、うっ、と呻いた。
「こういうのが好みなんだ」
「え?!なんで?!あかんの?!男子には結構評判ええねんで」
「可愛い子が多いからそういうこと思うんだよ」
そもそもワンピースだからスカートの丈とかアレンジもできないしあれは着る人を選ぶよ、とが口を尖らせると
も似合いそうやんか」
うわあ、とは眉を顰めて隣を歩く従弟を観察してみる。まだ初春の時期に薄いトレーナーが少し寒そうだがそんな素振りもなく、ジーンズにスニーカーとラフな格好なのに、なかなか端正な顔立ちをしているので様になっている。背も高いし、面倒見もいいし、良くみると健康的な体つきをしている。何かスポーツでもしているのだろう。学校でもモテるんだろうなと想像をしてみた。
「にしても自分も大変やな、突然両親が海外転勤なんて寂しいやろ。海の向こうなんて滅多な事ないと会われへんし。でもな、忍足家はおもろいで、父親だけはギャグセンスないけどな、息子の俺達は大したもんやで!毎日余所事考えてる暇ないくらい笑かしたるから覚悟しときや。それに新兄もおるしそんな暗い顔せんとなんとかなるもんやで」
どうやらが落ち込んでいると思っていて、彼なりに励まそうとしているらしい。さっきからずっと口が開きっぱなしなのは気遣いなのだと気付いた。
「まあさっきも言った通りうちの学校は皆仲ええから安心しとき。なんでも困ったことあったら俺になんでも相談せえよ。あ、勉強に関してはアレやけどな。友達に教える才能ないって言われてん。納得いかんわ。…なんやその顔、腹でも痛いん?」
「ううん、めっちゃいい人だなって吃驚してる」
「ん?こんなの当たり前やんけ、困った時はお互い様やろが」
「大阪人のあったかい心に感動するよ。先週まで死にそうだったのになんか頑張れるかも」
「よっしゃその意気やで!人生笑ったもん勝ちや!」
「テンション高いね」
やたらと熱いパッションに危うく絆されそうになっていたはやはり疲れていたのかもしれない。きっと疲れている。あれだけ早足で歩いたというのに、忍足家に着く頃には陽が暮れかけていた。それから家に着くなり玄関に大量に放置されたの引越荷物を部屋まで運んでくれたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた従弟の名前が、実は分からないなど本人に聞けるはずもなかった。聞くタイミングを完璧に逃した為にのらりくらりと名前を呼ぶことを回避しつつこっそり兄に確認をして呆れられるのだった。
「ああそうだった謙也君。そんな名前だったかも」
「お前の記憶力の無さは今更だけどさ、そろそろ脳トレした方がいいんじゃね?新しい学校でもバカ扱いされたら困るし。俺も兄として心底心配するわ。なんで謙也の弟の翔太の名前は覚えてるわけ」
「な、なんでだろ…」
「新兄と!俺今からテニスしに行くんやけど一緒に行かへん?」
兄の部屋で話をしていると、ひょっこりと金髪の頭が顔を覗かせた。
「おー行く行く!」
「私はいいや」
「お前さ、部活は運動部入った方がいいとお兄ちゃんは思う。最近太っただろ?」
「うっ」
「俺は別に太ってへんと思うけど。は運動あんまりせえへんの?」
「う、うん」
「あー、こいつ運動はからっきしでさ。家でもずーっとダラダラしてて動いてるとこみたことないもんなあ。そりゃあ太るぞ、思春期は特にな」
「ちょ、あらた君!!別に今言わなくてもいいじゃん!」
「今の内にお前の生態わかってもらっといた方が後々楽だろ」
はナマケモノかあ」
「謙也君まで!」
どうして納得したように頷いているのか。
「お、ようやっと名前呼んでくれたわ。自分全然呼んでくれへんから俺の名前忘れてんのかと思たわ。つーかこれから長い付き合いになるし君なんか付けんでええで。俺もって呼んでるしな」
にかっと笑う謙也に頬を引きつらせるだった。横で兄が吹き出しているところに素早く腹に頭突きをお見舞いすると、脳ミソない癖にこの石頭!と悶絶している。
「自分、結構ええ動きするやんか。部活決まってないんやったらうちらテニス部のマネージャーやったらええで。絶賛部員募集中やから大歓迎や!」
「部員少ないのにマネの募集て!」
「ええツッコミ!ますますテニス部に欲しいわ!うちの部活はお笑いにめっちゃ五月蠅い奴ばっか揃ってんねんけど、そや、これから部活の仲間に会いに行くとこやったわ、やっぱ一緒に行こうや」
「絶対いかない!」
「そうかあ?しゃあないわ。でもまあ部活の事は前向きに考えといてや!」
「おー、こいつ甘ったれだから鍛えてやってくれよ」
「あらた君!」




2013/04/29