例えば私が海に浮かんだとして



走っている間に嫌な汗が体中から噴き出して、手袋の中の手が汗ばんでくるので鞄に押し込んだ所で視線の先に目的の人物の姿を見つけた。普段は制服かユニフォーム姿ばかり目にしているので私服姿は新鮮で、目を奪われると自然に速度が緩んだ。黒いコートにジーンズとラフな格好なのに周りの視線を引きつけるモデルのような佇まい。オフの日位あのオーラはなんとかすればいいのに、歩いていったら怒られそうだったので慌てて速度を速めた。

「まさか呼び出した張本人が遅れてくるなんてな」
「うっ、ごめん。でもたったの5分だよ」
「お前はたったの5分と言って試験にも遅れるのか。少しだけ、少しだけと自分を甘やかして最終的にろくでもない人生を歩む覚悟があるなら何も言わないけど、俺にもお前に対して少しくらいは愛着心もあるわけだしこうして忠告してやっているんだ。なんだその胡散臭そうな顔は、大体真冬だというのになんでそんな薄着なんだ、冷え性の癖して。手袋もしないで見ているこっちが寒くなるじゃないか」

我がテニス部の元部長は本日も絶好調で、時々柳か真田が乗り移ったのではないかと思うほど口うるさく言ってくることがある。鬱陶しいけれど、他の女子達にはこんなことは決してしない、あくまでも物腰柔らかな優しい幸村を演じている。演じるというのには語弊があって、幸村は本来優しい人間だ。そして同時に厳しい人だ。誰よりもストイックな姿勢を私は尊敬しているし、それを他人に強要するのもその優しさから派生してくるのだと思っている。つまり本気で体当たりで向き合ってくれる位には彼の中で私という存在は意味のあるものだという傲りが少しばかり私を優越感に浸らせるのだ。

「何にやけているんだ、気持ち悪いな。お前は俺より冷え性なんだからもう少し気を遣えよ。ほら、手袋」

差し出される手袋を、走って来たから暑くて外しただけと事情を説明して断るとようやく眉間の皺がなくなり、代わりにと元は幸村の首にあったマフラーをぐるぐると巻かれた。

「お前が寝坊するなんてわかっていたら家まで迎えに言ったのに。そもそも近所なのにどうして駅前で待ち合わせなんだ」
「こういうのは形から入りたかったんだもん」
「まったくお前の考えていることは一々意味がわからないな」

これがデートと呼べるものだと言って許されるのなら、形から入りたかった。毎朝の通学と一緒で家の前からスタートなんてそれだけで減点だった。

「それで今日はどこに連れていってくれるのかな?」
「暖かかったら最近出来た庭園に行ってもよかったんだけど」

幸村が好きなクラシックのコンサートも、なんとかという外国著名人の絵画展も私にはさっぱり意味も良さも分からなかったのでポケットから2枚のチケットを取り出した。

「ここ」
「まあ、この駅で待ち合わせした時点で想像はついていたけど。にしては合格点をやってもいい選択だな」

正確に言うと自分の意見ではなく他人からの助言であるのだけど、この際それは言わなくてもいい。そうだ、私にだって世の女の子らしいことの1つや2つどうってことないのだ。神奈川県随一の水族館の名前が書かれたチケットを手にした私と幸村は、どこから溢れてくるのか分からない無数に増え続けるカップル達に混ざり、その流れに任せて歩き出した。自分達がまるで群れを成して泳ぐ魚達のように感じられ、水族館にすいこまれるように入っていく人々は海に帰りたがっている人の形をした違う何かなのではないかと思った。幸村はお手本のように上手に陸を歩き、私が少し出遅れると直ぐに振り返り、何ぼんやりしているんだ馬鹿、と私の腕を引っ張った。実際人混みに流されかけていたので、私は人の形を保ったまま世界に留まることができたことに感謝を伝えて水族館に入場した。



「水族館ってなんかいいね」
「確かにこの独特で日常から切り離されたような感覚は新鮮でそう体験できるものではないな。試合前の精神統一に良いかもしれない」

本当に幸村の頭の中にはテニスしかないのではないかと思う。
既に部長の座を退いた今でもこうして常にテニスを中心に世界は回る。幸村どころか我が立海のテニス部の面々は呼吸をするか、テニスをするかの2択しか選択肢がないとでも思いこんでいるに違いなかった。かく言う私もテニス部のマネージャーというポジションについてからあっという間の3年間で、もしかしたら幸村を中心にテニスは回っていると、本当にそんな事を考える事がある。彼はテニスを愛したし、テニスの神とやらも彼を愛している。そうとしか思えなかった。去年難病を克服して戻ってきた時は確信に近かった。

「あれなんかにそっくりじゃないか?」
「幸村・・・あれってどう見てもクラゲに見えるんだけど」
「そうだな、クラゲ以外には見えないな。
はさ、のらりくらりとしてるだろう、お前を海に放ったら間違いなくクラゲになるな。ふらふら水面を漂う姿が目に浮かぶ」
「幸村はまずその失礼な口を直すところから始めないと、私は安心して漂うこともできないな」
「嘘をつけ、俺の隣でいっつも気の抜けた間抜け面しかしない癖に。は俺の小言がないとクラゲにだってなれないだろう」

自惚れでもいいのなら、今の言葉はこれからも幸村の隣にいても良いという許可が下りたと思っていいのか、幸村はちっとも私のことなんて気にも留めずに大きな水槽の中を狭そうに泳ぐ魚達を眺めていた。クラゲはガラスの内側をただ漂うだけで、ガラスの向こう側で沢山の人間が自分達を観察していることなんて気付く素振りもみせない。だから私はクラゲではないと思う。ガラスの向こう側どころか手の届く距離にいる幸村の心を知りたいと思っているから。
それからその隣の水槽に張り付いたタコを指さしてジャッカルと言ったら失礼なことを言うものではないと怒られ、数分前に人のことをクラゲと言ったのは誰だったのか頭が痛くなる。


一通り回りきるとイルカのショーを見るために会場の後方の席に座った。前方だと水がかかるからというだけの理由だけど、会場全体を見渡せてなかなか良好なポジションに幸村も満足気である。観客の熱気の真っ直中に突っ込むよりはこうして少し離れた場所でそれらをひっくるめて観察したがるのも幸村の性分で、なかなかに機嫌の良さそうな横顔を見て、ずっと歩きづめだった疲れも吹っ飛んだので我ながら現金なものだ。
調教された賢いイルカ達が次々に観客を沸かせる姿にパラパラと拍手を送る。

「また上の空?」

気が付くと一緒にイルカ達を見ていたはずの幸村が少しかがみ込むように私の顔を伺っていて、その仕草に声をかけられるまで気付かなかったということは指摘通り上の空だったからで。非難する様子もなくただいつも通りのやんわりと微笑を称えて、こちらを見る目はいつも観察する人の目をしていて、興味深そうに目を細める。
どうせまたろくでもないことを考えてたのだろう?そんな事でも言うのだろう。
いつの間に最後の大技を決めてみせたイルカ達に高揚感を胸に抱いたまま、観客達はあっという間に散っていく。後ろの席なのにぐずぐずとその場に留まる私達を少しだけ視界に入れながら。でもそれは数秒もすればお昼は何を食べる?今度はクジラが見たい、彼らの日常に一瞬で埋もれていくのだ。

「さっき幸村は私のことをクラゲって言ったけど」
「うん」
「もし自分が退化したとしたらって考えてた。今は人間だけど、ある日目が覚めたら違う何かになっている自分、想像できる?人間ではない自分」
「それはクラゲに限らず?」
「うん。人間ではないの。猿かもしれないし、チンパンジー、犬でもいい、段々と自分から遠ざかっていく。最終的にはやっぱり海に還っていくんだと思うよ。幸村の言うようにクラゲになっているかもしれない。それって今の私と何が違うのかな」

自分が何者であろうとも、そもそも何者でもない、姿形が変わってもは結局そのままなのではないかな。幸村は私が人間でもクラゲでも変わらないよね。
質問に幸村は答えず、少し考え込んでいるようだった。そんな風にどうでも良い事を考えたわけだけど。さて、行こうか、立ち上がってぐっと伸びてから幸村を促す。コートの端を少しだけ摘む私の指はしっかり5本あったので笑みが零れる。
幸村はその五本の指をあっという間に攫って、昼食何食べようか、と言った。
いつのまにかショー用の水槽にイルカは一匹もいなくなっていた。

「もしが人間でなくなったら、こうして手も繋げなくなるな」


昼食はシーフードだった。さっきまで生きている魚達を見て感動したすぐ後にこうして彼らを食べている私達は残酷な生き物だ。罪悪感で偽善心は満たされるけれどお腹は膨らまないので黙って食べろと幸村は言う。ほんとうはパスタに混ざる甲殻類が苦手なだけで、どうにか向かいの皿に移せないかともっともらしい理由をつけてみただけなのだが、どうやらそれすらもお見通しらしい。私が苦手なのを知って注文した幸村がにくらしい。自分の皿と幸村の皿との間だを行ったり来たりする視線をさらりと流して、お前は好き嫌いが多すぎる、と母親面で言うところなんかも。

「まだは自分が猿になったら、何も変わらないって思ってる?」
「思ってない。もし猿になったらまだ幸村のこと覚えているかな。少しくらいは自分のことを覚えていられるかもしれない」
「じゃあ犬になったら?」
「今と変わらず幸村の忠犬になっているかな」
「俺はお前を忠犬に育てた覚えはないよ。まあいい、それから海に還るんだろう」
「うん、クラゲかもしれないし、プランクトンかも。全ての命の源に退化するってこと、不思議な感じ。確かに退化しているけど始まりでもあるでしょ。これって退化ではなくて逆進化じゃないかな。どんなに小さくなったって、私の遺伝子が幸村のことを覚えていて、いつか幸村の細胞の一つになるかもしれないんだよ、考えてみたらそれって凄い運命」
が俺の?そこまで遡るとちょっと食欲がなくなるな」
「そうかな、いや、うん、そうかも」

私は確実に告白の方向を間違えている。
ごめん、項垂れる私の頭を幸村は撫でる。なんで謝るんだ、苦笑をしながら

「やっぱり俺はのままがいいけど。クラゲになったらガラス越しにしか話せないし、手も繋げない、こうして頭も撫でられない。お前の喜怒哀楽もわからないだろ。俺の細胞の一つになるにしたって同じことだな。お前の存在は感じられるかもしれないけど、あまりにも曖昧が過ぎてどうにもならないよ。知っているだろう、俺は確かなものが欲しいんだ。俺がだって認識しているカタチもひっくるめて全部、髪の毛先からつま先まで全部がお前だろう。だのにその不抜けた顔が見れないなんて想像しただけでつまらない、ああつまらないな」
「は?」
「まったくお前は突拍子もないことばかり考えるから見ていて飽きないって言っているんだ」
「…結局、幸村は幸村だよね」
「また意味のわからないことを」
「幸村がもし退化するとしたら何になると思う?」

テニスボールかな、そう言うと、お前馬鹿なの?不機嫌そうな幸村は立ち上がって今度は先に私のずっと5本のままの手を攫う。

「俺は常に進化を続けるけど、退化はしない。絶対だ」

ああ幸村はこういう人だ。妙に不敵で自信満々に断言されると説得力があるし、本当は自身も同じことを思っていたので眩しかった。
それにテニスボールは生き物ではなかったと訂正するとテニス部元部長は肩を震わせた。あまりにも愉しそうに笑うから、水槽を泳ぐ魚達が一斉に彼に注目しているように見える。実は見られているのは魚達ではなくて私達人間の方なんじゃないかって思うのだ。水の中から陸を歩く私達はどんな風に映るの?人魚姫が陸に憧れたように、私達は海に焦がれて、いつかそこに還るんだよ、幸村は遮るようにやんわりと水槽から私を引き剥がして

「お前のそういうところ、嫌いじゃないよ」

ほらまた、そんな事を言う。幸村はよく私に対して「嫌いじゃない」と言う。その度に自惚れてもいいのか判断に迷うのだ。嫌われてはいないけれど、好きとも言われていない。
いつももったいぶった顔をしてこっちの反応を楽しむ人だ。一体何処の位置に立っているのか意地の悪いことに教えてはくれない。
そもそも幸村の好きなものって何だろう、テニス以外に考えられないし、幸村自身もテニス以外考えていないと思う。そのテニスの延長線でテニス部の仲間達のことを大事にしていて、元マネージャーの私もその中に入っている。でもその「好き」という気持ちは私の幸村に対する「好き」と種類の違うものだと思っているので、どうしたって「嫌いじゃない」感情の本意を尋ねることができなかった。
だからマネージャーでなくなった自分は彼にとってどの位置に入ってしまうのか、それが怖くて今日ここに誘ってみたのだけれど。握られた手からは答えは返ってきそうになかった。
もう一歩私に勇気があったら、若しくは冷静さを欠いていたらきっと私は答えを問いただしていたと思う。

「今度は何を考えているんだい?」

私と幸村の距離について。なんてとても口には出せないけれど。

「例えば今この瞬間実は幸村の隣にいるのは夢で、とっくに海に浮かんでいるんじゃないかって」
のその考えを問いつめていくと世界は曖昧で混沌とするだろうな。例え話は謎かけよりも質が悪いから俺は苦手だ」
「だろうね、幸村は誰よりもストリクトなリアリストだもん」

わかっているじゃないか、可笑しそうにまた肩を震わせる彼の目の前を大きなジンベエザメが悠然と通り過ぎていく。その周りを沢山の魚達が泳ぎ、それがまるで私達の関係を現している気がした。今日はきっとこれが見たかったのだ。幸村がジンベエザメだとしたら私はその周りの名も知らない魚、もしかしたらプランクトン。お腹を空かせた幸村の口の中に入れるかもしれないし、それすらも出来ずにずっと周りを泳いでいるだけなのかも。

「俺がリアリストならはとんでもないイデアリストだな。せっかくだから今日ぐらい現実と向き合ってみないか?」

本当に今更な話だけどな、だからこれから例えばの話はなしで。
幸村の提案に素直に頷くことが出来なかった。だって私はとっくに海を漂う準備が出来てしまっていたから。

「今日は俺の誕生日だろう?祝ってくれる為にデートに誘われたと思っていたのは俺の勘違い?」
「違わないけど」

これってデートだと自惚れてよかったの?

「さて、現実的に考えて見る?俺が何とも思わない子とこんな日に出かけると思うかどうか。少なくとも他にも誘いはあったのに、それを全て蹴ってまで俺がを選んだ理由について」

意見を聞かせてくれないか。確信犯は答えを急かすように私の手を引っ張った。ジンベエザメは遠くに行ってしまって私を助けてくれもしない。

「駄目だ、思考がストップしたみたい」
「こんなに単純なことなのに?」
「うん、だって単純なことを回りくどく考えて迷子になるのが私だよ」
「嫌ってくらい知ってるよ。だから今回はシンプルに考えてみろ、お前の苦手な数学の問題よりも簡単だろ」

円周率を暗記することより造作もないことだろう。
目の前にいるのはちょっと真面目な顔をした幸村だ。試合前の選手としての面立ちと雰囲気が被る。彼と対峙した相手の気持ちがこんなところでわかるだなんて。これは真剣に答えを出さなくてはいけない。つまり自惚れなくてはいけない。

「つまり嫌いじゃないってこと?」
「ああ、そうだな」
「そっか、そっか」
「そう、それで?」

こうなった幸村はもう甘やかしてはくれない。
自分は曖昧にはぐらかした癖して、私にばかり答えを求めてくる。
意地悪だ、しかしこれでも譲歩していると言う。

「俺達さっきから結構凄いこと言ってると思うんだけどな」

ちょっとまって場所移動しよう、ジンベエザメがいつ戻ってくるか気が気じゃないから。
答えは深い海の中ではなくて、私達の繋がれた五本の指の中から辿って丁度左胸の辺りにある。急に存在を主張し始めたそこから熱が体中を包み込み、バクバクと動悸が世界中に響くのではないかと思った。赤くなった顔が真っ青な海に溶けることなく幸村が掬い出してくれることを願いながら、その願いは叶うと予感しながら。

「ねえ幸村」
「なんだい?」

「お誕生日おめでとう」

少しだけ目を見張って、それからありがとうと言った幸村は優しく促すように私を引いて、彼の中心に立たせてくれた。
どこに行き着くのかずっと不安だった気持ちがすんなりと繋がった。

私は私だからここにいるよ、うん知っているよ、もう寂しくないだろう?

もう一度、目を閉じて、海に漂う自分を想像してみた。
大きなジンベエザメが私を陸へ押し上げる、ぐんぐんと飛沫をあげて迫る空に私は両手を広げた。

「幸村、あのね…










2012.03.20

「でもどうしよう人魚姫は人間の足を手に入れて、最期は泡になっちゃうんだよ」
「安心しろよ、お前は姫なんていう柄じゃないから」
「は?」