見慣れたテニスコートの丁度中心に設置されたベンチの前に来ると幸村はようやく腕を離した。そこは部員達の練習を眺める幸村の定位置だった。私はマネージャー業務をこなしながら、時々このベンチ越しに広い背中を見ていた。2年の冬にその姿がなくなった時の例えようのない喪失感は今でも覚えていて、思い出す度に鼻の奥がツンとなる。
人気のないコートは時間が止まったように静まりかえっていて、目を閉じるとボールの跳ねる音だとか、部員達の賑やかな声が聞こえてきそうな気がして黙って耳を傾けてみる。3年間ここで走り回っていた事が嘘のように誰の気配も感じられないコートは、明日が来れば私の知っているコートではなくなる。
「座りなよ」
促されるままに腰を下ろせばいつもとは違った角度から見るテニスコート。幸村の定位置だった場所に自分が座るのはなんだか変な感じがした。人に座れと命令しておいて、自分は立ったまま無人のコートをじっと見つめている。何を考えているのだろう。無言の背中を眺め続ける。こうやって何度この背中を追ったことか知れない。
じっと座っていると冷たい風があっという間に体中の体温を攫っていき、まだ冬の去らない寒空の下で、コートもマフラーも部室に置いてきたことを既に後悔していた。それでも幸村はいつまで経っても喋らないので
「寒い」
口に出したらその事実が体中に纏わりついてきて居ても立ってもいられなくなる。
「確かに寒いな」
まだ3月なのか、もう3月なのか。去年の今頃の事を思い出すと、目の前にいる幸村が本物なのかを確かめたくなる。夢じゃないのだって信じたくて手を伸ばしたくなる。
「いやそういう意味で言ったんじゃなくて」
「どういう意味でもいいよ、俺が寒いんだ」
幸村は寒い、寒いと私の隣に座った。真田4人分の広々としたベンチに、数ミリの距離すらない位置に腰を下ろす意図とはなんだろう。必然に触れ合った太腿を意識すると確かに温かくて落ち着かない。どう考えてもこの距離感はおかしいと思うんです、非難の声は受け入れられることなく、風邪をひいたらいけないからね、とにこやかに返された。元はといえば無理矢理連れ出した幸村が悪いのに、いつもの調子で言われれば、意識している自分が滑稽に思えて脱力した。
「もう意味がわからないよ」
「わからない?」
本当に?幸村は首を傾げる。わからないのではなくて、分かりたくない、が本当だろう。見透かされたくなくて自分の吐く白い息に隠れてしまいたいと思った。すぐ横でそんな私をじっと観察するような視線を感じる。
「最近良く思うんだけど、俺って結構忍耐力があるよね。思春期で多感な時期の男子がこの辛抱強さって並々ならぬ努力をしていると思うだろ?真田じゃあるまいしな、って思うよな。
まあ、それでさ、さっきもお前の反応次第では逃がしてやるつもりだったんだ。いつもみたいに「何冗談言ってるの」なんて打ち返してくれば、不満はあるけど放してやるつもりだった。だけどあの時、お前は「間違えた」だろう?だからもう泳がしてやらない」
観察対象から捕食対象へ。泳げない私は地上で呼吸することも許されないのだろうか。幸村はとても辛抱強い人だが、その反面、自分の我を押し通す強かさは誰もが認めるところである。
「悩んだって待たないよ」
「何それ、言ってることが」
「わからない?」
本当に?ふふふと幸村は笑った。至近距離で笑うから、白い息が私の顔に届きそうで思わず顔を背けた。今年の冬は例年になく寒い。都会の地が珍しく白銀に覆い尽くされた何日か前の事を思い出す。白い大地を踏みしめながら白に染まれない自分と、翌日にはあっという間に溶けてしまった雪を重ねてほっとしたこと。
「そもそもこの後に及んで付き合っているだとか付き合っていないだとか言うこと自体が愚問だと思うけど、曖昧にしているといつまでも逃げ続けるだろ。俺からしてみれば随分あからさまに態度に出していたのに、それでも不満だと言うなら仕方ないよな、この際はっきりさせようよ。言葉が欲しいならいくらでも伝える準備もある」
はっきり言って私達の関係は今、とても微妙なところにあった。うっかり触れるとヒビが入りそうな危うい関係を形にするのなら友達以上恋人未満、幸村の私に対する感情は、友情ではあり得なかった。かと言って恋心と認識するには圧倒的に重要な何かが足りていない。曖昧などろどろした水に浸かり始めたのはいつからだろう。私が立海のテニス部のマネージャーにならなければ決して交わることも、すれ違うことすらなかったこの危うい関係は。
「ま、待ってよ、大体幸村は私のどこがいいの」
「どこってそりゃあ」
まじまじと至近距離から見つめられると、臆病な心臓が叫び出しそうだった。
「だからそういう…」
「待たないって言っただろ。のそういう顔、可愛いな」
あ、死ぬ。
誰だってこの人にそういう顔でそういうことを言われたら落ちるに違いない。それをわかってやっている幸村はたちが悪い。それに耐えられる私ではないのですかさず距離を取ろうとすると、ラケットを握るみたいに自然に頭を鷲掴みされた。言っている事とやっている事が比例していない。
「幸村くん、私の頭はテニスボールではありません」
「知ってるさそのくらい」
幸村の手は、態とらしく耳をかすめて肩に回った。それほど力は込められていない筈なのに、どんな鎖よりも頑丈で抜け出せない檻の中にいるように感じる。たった一つのふりほどけない檻に囲われた私は周囲にどのように映るのだろうか。人気のないコートで心底安堵している。
幸村が他の女の子にこういうことをしている所を見た事がない。幸村は誰にでも万弁なく優しい顔をするが、その殆どの優しさの延長線には未来がない事を知っている人はどれだけいるだろう。この人は無条件に振る舞う優しさには未来を求めないのだ。
女の子達は彼に優しくされると、微笑まれると舞い上がり、恋を錯覚するけれど、私は優しくされる度に震え上がり、地獄に堕ちるような気持ちになる。少しでも彼の領域に踏み込みそうになると、途端に足がすくんで動けなくなる。幸村は優しさで世界が救えるとは思っていない。しかし、自分が優しさを見せるだけで回る世界があると知っているから笑ってみせる。
ある時、こっそり柳に聞いてみたことがある。
幸村が他の女の子に対して特別に優しく触れることがあるのかどうか。
こうして隙間なく座ってみたり肩を抱いてみたり手を繋いでみたりそれから、キスをしたり。
柳はどうしてそんな事が気になるのか、とは聞いてこなかった。私は平静を装ってじっと明日の天気のことを考えながら答えを待っていたし、柳はもしかしたら明日の気温のことまで親切に教えてくれるかもしれないと期待した。
『見たことはないな。あいつがそんな軽率な事をする奴ではないことも、何に一番興味を持っているかもお前が一番良く知っているのではないか』
実際の柳はちっとも親切ではなかった。
『それに、これを俺に聞くのは間違っていないか』
そんなことわかっているから聞いたのに。落胆の表情を浮かべた私に、聞いてもいない明日の天気から気温、湿度まで完璧に予測してみせた柳が怖いと思った。翌日、晴天にも関わらず一人だけ傘を持参した私に呆れ顔の柳を見て少しだけすっきりした。世の中、理屈じゃない感情だってあるのだ。
「はさ、俺が入院してた時に見舞いに来てくれただろう」
倒れた日の事を思い出すと、見計らったみたいに手を握られた。冷え性の私の手は想像以上に冷え切っていて、うわ冷たいなあと、一回り大きな掌に握り込まれてしまう。
「テニス部の代表として行っていたけど」
日々の鍛錬に忙しい部員達に代わって、比較的スケジュールの調整がしやすいマネージャーに白羽の矢が立ち、今はもう卒業していった先輩マネと交互に週1,2回ほど顔を出していた。
「ふふふ、それだけじゃないだろ、毎日来てくれていたくせに」
その言葉に、思わず肩が跳ねれば肯定しているようなものだった。
幸村の言う通り、実は毎日病室に通っていた。実際に顔を合わせるのは半分にも満たなかったが、彼が寝ている姿、来客中で廊下に漏れる声、処置中の重苦しい空気、まるでストーカーじみていると思いながら、真っ白な空間での出来事を全て心の中に納めていた。それが自分の義務のように感じていた。
本当は、私が顔を出すのを嫌がっていたのを知っていた。当時、誰よりももどかしく悔しく情けなく思っていたのは本人以外に他ならず、私を見ると否応無しにテニスのことを思い出し、現実を突き付けられたことだろう。誰よりも強い男が現実を背けたくなる地獄のような日々とはどれほどのものなのか想像もつかない。この人からテニスを奪ってしまったらどうなるのだろうと、最悪の結末が脳裏を過ぎったこともあった。しかしそれは想像してみても想像もつかないことだった。テニスと幸村は切っても切り離せない。コートに立てなくなったらもう死ぬしかない、他人の私でさえそう思った。ああ、幸村はいったいどれだけの血と涙を犠牲にして、今こうして私の隣にいるのだろう。時々感情が爆発しそうな煮えたぎった瞳で私を睨み付けくることに気付いた時、その瞬間だけは誰よりも彼の傍にいて、誰よりも彼の気持ちに近づいているのだと思った。だから知っていながら無神経に通い、義務だからといって淡々と事務的に部の様子を伝え続けた。その陰で心が冷える思いだった。多分、お互いに。
「ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ」
私はあの時、あの幸村にもこんなドロドロした感情があるのだと知ってから目が離せなくなったのだ。興味の切欠が相手の絶望だなんて歪んでいる。
完璧ではない、やせ細った幸村を見て胸が高鳴っただなんて伝えられるわけがなかった。
「確かにが見舞いにくる度に苛々してたことは認めるよ。俺は病室に縛り付けられてるっていうのに毎回嫌味のようにテニスのことばかり報告してくるから腹が立ってさ。口を開けばテニステニスって、なんなのこいつ空気読めないのかよって、男だったら殴っていたな」
「だって部の事で見舞いに行ってたわけだし、それに毎回私だったわけじゃない。先輩だって同じ…」
「あの人は要領いいから、その辺は上手く立ち回ってたな。俺の感情を逆立てないように配慮してくれていた」
「うっ」
「まあのそういう不器用で無遠慮な所が俺の琴線に触れたんだろうな。いつも視線の先にちらちらいるから段々興味を持つようになってさ、何だこいつ面白いなって。最初は苛々してストレスの対象だったけど」
あ、死ぬ。
いい所無しではないか。自分でも上手く立ち回っていたつもりなのに、全部バレていたなんて。もし私が幸村ならストーカー行為で訴えていたかもしれない所業である。あの赤也にまで蔑まれることになったら生きてはいけない。
「段々さ、が来ない日にさえ苛々し始めたんだ。扉の向こう側にいるのに入って来ない日なんて怒鳴ってやろうかと思った。かと思えば翌日何食わぬ顔でやってくる姿を見ても苛々したし、たまにテニス以外の話をしようものなら、の知らなかったの一面を見せつけられたようで知らない感情が腹の中を引っ掻き回すんだ。これってなんだろうね。あの時は全部病気のせいだと思っていたんだけどな」
「ごめんなさい穴を掘ってもいいですか」
しかし幸村は続けた。
「退院の日には泣いただろう。俺が皆に囲まれている端でこっそり泣いているをみて俺の中で答えが弾けたんだよ。ずっとモヤモヤしていた気持ちの正体に気付いたんだ。誰だって自分の知らない不確定要素が腹の中にあったら苛々するのは当然だろう?」
「同意を求められても」
退院してからだった。幸村の態度があからさまに変わったのは。最初は私の反応を見るように緩やかな変化だった。あれ?と思う内に二人きりでいることが自然なことになり、次第に手を繋ぐことにも違和感がなくなっていた。全国大会が終わった翌日、部室の裏でファーストキスを奪われた。茹だるような暑い昼下がりに、私の頭は沸騰しかけていたと思う。違和感なく合わさった唇は冷静で、ひんやりとした感触がとても幸村らしいと感じた。病床にいた頃より顔色は比べ者にならない位良い健康的な肌の色と、女子も羨む長い睫が伏せられていて、その距離があまりにも近く、今にも触れそうで、正しくは唇と唇は既にくっついていたのだけれど、自分がされている行為も忘れて魅入っていた。
そんな事があった後も、私達の関係に劇的な変化はなく、冷たくも暖かくもない、ぬるま湯の中をゆるゆると漂っているような感じ。幸村が陸の上から釣り糸を垂らして待ちかまえている姿を見かけると、釣り針に刺さった餌は美味しいのだろうか、それとも猛毒?その周りをぐるぐると周り目が回って動けなくなる。その繰り返し。
幸村が他の女の子にこんな事をしないという事を知っている。彼にとって私が特別なのだろうということも。
「それで、どうしようか」
「ここで私に振るの?!」
「当たり前だろ、俺の気持ちは固まっているからな、後は次第だよ。と言っても逃がしてやるつもりは毛頭ないって再三言ってる事も加味してよく考えて欲しいな」
「それってつまり一択…」
すると幸村は、今日一番の笑顔を見せた。
「あ、解った?」
全力で脱力して項垂れると、ぐ、と肩を掴まれ、重心を幸村の方に奪われてしまい、広い肩にしなだれかかる。これではどう見てもカップルの図だった。神聖なテニスコートで破廉恥な行為だと抗議の声を上げれば、真田じゃあるまいし、と鼻で笑われた。この人は本当に言っている事とやっている事がおかしい。
頬に集まる熱と、肩に篭められた幸村の熱が同時に攻めてきて顔を上げる事が出来ない。
病室に囲われた幸村を見た瞬間に氷り漬けになった心にも炎は灯るのだろうか。誰でもいいから教えて欲しい。氷に火は点くのか試したことはある?
「俺のどこが不満なんだ」
「うわあその自信、時々頭に来る。反論できないから余計に腹立つ。いいよね、幸村は怖いものなしで」
「怖いものなら、あるさ」
あ、と自分の失言に気付いた時には幸村はコートの方を見ていて、強張った声でごめん、と小さく謝ると、だからどうして謝るんだよと薄く笑われた。何よりも自分の無神経な所に腹が立つ。気にする素振りのない幸村を見ると余計に辛かった。泣きたくなる。本当に、これは何に対する謝罪なのだろう。真っすぐテニスコートを見つめる幸村はとっくに前に進み始めているのに、私の頭の中ではずっと、病室で白い顔をした幸村のままだった。不満があるとすれば、怖いものだらけの癖して一番怖い存在の幸村の手を振り解けないことだ。優しさに甘えてずるずるしがみついてしまうことだ。あの時のようにずっと私の事を睨み付けてくれていれば良かったのに、そう思ってしまうこと。
「怖がることは悪いこと?」
「そう思ってた」
けれども今は?と問われればどう答えたらいいのかわからない。病気を克服した、克服しようとした幸村の顔は晴れ晴れとしていて、退院したあの日、私にとって病院に通う最後の日に、浅はかで意地っ張りな自分の気持ちに涙した。自分の気持ちだけここに閉じこめられたまま、彼は私を置いてさっさと歩き始めてしまうのだと思うと胸が張り裂けそうだった。でも、
「ところでさ、俺、これでもすっごく緊張しているんだけど」
うん、知っている。だって肩に触れた手が燃えそうに熱いし、幸村の心臓は私の心臓と同じスピードで全力疾走を始めている。一緒に走ったって、先に力尽きるのは私の方なんて不公平だ。私の顔は火傷したみたいに真っ赤だというのに、幸村の顔はちっとも変わらない。
「俺の気も知らないで赤也に無防備な態度を取るし、そもそも今日の集会だってサボる気だったろ、お前を見てるといつまでも苛々するんだろうな」
「え?」
強張る肩をゆっくりとさする幸村の手は、言葉以上にダイレクトに気持ちを伝えてくる。
「でもさ、考えて見ろよ、苛々するってことはそれだけに興味があるってことだろ。そもそも関心のない人間にはそんな気も起こらないしな。さらに面白いことに気付いたんだけどね、こうやって苛々することも案外嫌いじゃないんだ」
「…なにそれ」
困ったことに、私もこうしてこの人が自分だけに感情を剥き出しにしてくる行為が嫌いではないのだ。嫌だったら毎日病室に通うなんて自虐的なことをする筈がない。そうだろう?満足そうに二度頷かれる。私が一歩出遅れると、いつもこうやって振り返ってくれる。ちゃんと立ち止まって歩幅を合わせてくれる。
「苛々しても尚の事が好きだなんて心の広い男、他にいないと思うけど」
「す、好きって単語、初めて聞いた気がする。幸村っていっつもお前はとっくに俺の者!みたいな態度だから、そうやってストレートに言われると吃驚する」
「好きだよ、付き合って」
耳を掠めるように、幸村の掠れた声が届いた。地球上で、この言葉を聞いたのは私だけ。ぎりぎりまで耳に寄せられた幸村の唇が、触れるか触れないかの距離で私に問いかける。
「 」
こんなに近い距離なのに、何を言ってるのかさっぱりわからなかった。頭の中は、近すぎる距離のことだとか、自分の顔が真っ赤なことだとか、遠くにジャッカルのつるつるの頭が見えるのは幻覚なのだろうかとか、赤也の泣く幻聴が聞こえることだとか、私以上に顔が真っ赤な真田の蜃気楼まで見えてしまってパニックになっていた。怖いことも、悩んでいる時間だって惜しい位に走り出した心臓。お互いの鼓動がよく聞こえる位置で止まらない。置いて行かれるのは嫌だ。置いて行くのも嫌だ。だから
ねえ、知っていた?先に溺れたのは俺(私)の方なんだよ。
秒速で息ができない
「の観察に関しては柳にも負けるつもりはないんだ。だからこれからは聞きたい事があるなら俺のところに直接来ること」
「は?ええ?!や、やなぎ!!」
2014.04.24
浅ましいことに、対等でありたかった