秒速で息ができない
は、はーっくしょん!
生理現象を止められるはずもなく、大口を開けて盛大にくしゃみをしたところを、たまたま通りかかった幸村に目撃されたのが運の尽き。卒業式を翌日に控え、少しだけ浮き足立っていた校内はあっという間にすれ違う人もまばらになっていき、ほんのり哀愁を感じさせる。まさかこのタイミングで幸村に出会うとは予想外だった。部活をしていた頃は毎日嫌という程顔を合わせていたのに、引退した途端に疎遠になっていき、こうやって顔を合わせるのも久しぶりだった。
自分のくしゃみが静まりかえった廊下を一瞬だけ脅かし、再び静けさを取り戻した時には数メートルの距離に迫っており、目の前で幸村が目を瞬かせた。私はくしゃみをした体勢のまま固まっている。こんんちは、お疲れ様、さようなら?まず何から話せばいいのか、今までどうやって普通に会話をしていたのか突然分からなくなる。そんな簡単なことすら全部、くしゃみに持っていかれたのかもしれない。
我ながら大胆且つ豪快なくしゃみだったことは認めよう。だって鼻がむずむずしたのだからしょうがない。なのに幸村はそれはそれは神妙な顔をして言った。
「時々お前の性別が、本当に生物学的に女子に入っているのか疑わしくなるときがある」
大げさに眉なんか顰めて見せて、とても珍妙なものを見たと言いたげに、実際に口に出すあたりが幸村なのだが、とにかく私が女の子であるという遺伝子全てが蒸発しかねない勢いで目の前の生物学的に男子に分類される、女子でさえ羨む美形な人に敵意を剥き出しにした。しかし、返す言葉も見つからずに押し黙る私に追い打ちをかけるように
「お前に絶対的に足りないのは慎ましさだよね」
とも言われた日には項垂れるしかなかった。慎ましいくしゃみって何だ、生理現象くらい好きにさせて欲しい。
「ほら、ぐずぐずしていないで行こう」
「行くってどこに?」
「部室に決まってるだろう。全員部室に招集かけたのを忘れていたの?」
有無を言わさずに手を引かれて視線を上げれば、呆れたような幸村の顔。まるで世界で一番残念なものを見たみたいに見下してくるくせに、掴んでくる手は世界で一番温かいものみたいに感じるからとても厄介な人だ。
「流石に覚えているけど、だってわたしが皆に伝達したわけだし。てっきり部員だけだと思ってた」
「まったく、マネージャーも含まれているに決まっているだろうに」
随分前に引退した筈なのに、昨日の事みたいに思えて、実は部室に行くのがちょっとだけ怖かったんだって言ったら、鼻で笑われそうな気がしたから言わないでおいた。
すると見計らったようなタイミングで
「ほんと馬鹿なことしか考えないよね」
と言われてぞっとした。この人は一体何者だ。エスパーなのか。人の心が読めるなんて聞いてない。真顔で「聞かれなかったから言わなかった」なんて言われたら立ち直れなくなりそうで、これも心に留めておくことにした。
そんなことを考えていたらあっという間に部室の前に来ていて、これも全部幸村の陰謀なのかもしれないと思ったらもう一度ぞっとした。
扉を開く直前で、幸村は私の手を解放し、その変わりに開いた扉に私を押し込んだ。
「もう遅いっすよ!幸村部長も先輩も!二人そろって何してたんですか!待ちくたびれました!」
「うお!」
無理矢理押し込まれ、たたらを踏みながら室内に入ると、大きな物体が飛びかかってきた。姿勢を正すタイミングを完璧に逃して変な体勢でのけぞり、背骨が変な音を立てた。飛び込んできた赤也の目はほんのり赤く、まさかこんな時に悪魔の悪夢が再来するのかと身構えたら
「赤也はさっきからお前達が来ないからと半べそをかいていた」
と柳が事も無げに言い「ちょ、柳先輩!」と慌てる赤也は耳まで赤く染まった。
「つーか二人共どこで道草食ってたんすか!今日は最後だからって俺、一時間も前から待ってたんすよ」
内心ではいくらなんでも張り切り過ぎじゃ…と思ったが、それだけこの時間を大切に思っていてくれたのだと考えると可愛い奴め、と頭を撫でてやった。もちろんエスケープするつもりだったことは伏せておく。普段だったら全力で嫌がるくせに今日ばかりは大人しく撫でられている。時々こうして忠犬のように私に懐いてくるこの後輩とも明日でしばらくお別れになるのかと思えば、こちらも自然に目頭が熱くなる。感傷の波に引きずられそうになり、ぶわっと膨れあがったところで急に温かいものに包まれた。視界が固くて黒いものに遮られると一気に涙も引っ込んだ。あれ、と瞼を忙しく上下させたところで壁はどんどん私に迫ってきた。
「俺、時々先輩のことマジでウゼえなって思うときがあったけど、これから会えなくなると思うと、ウザい先輩の顔が見れなくなると思うと辛いっす…」
壁はぎゅうぎゅうと私を締め付けて、絞め殺す気なのだと気が付いた。ここで死んだらずっとこの部室にいられるのかな、それはいいかもしれないと少しだけ思った。
「私も赤也のことしょっちゅうというかほとんどウザいなって思ってた。小さくてアホで、いや今もアホだけど、あの生意気な赤也が私をこうして包み込めるくらいに、こんなにおっきくなるなんて感慨深いよ。おっきくてもアホだけど」
気分は母親だった。切原家の母の苦労が目に浮かぶ。
「これって褒められてるんすかね?」
「貶されとるんじゃ」
赤也が項垂れると益々体重がかかり、囲われた私の背骨が再び嫌な音をたて、ぐえっと呻いた。
「先輩って酷いっすよね。どーせ卒業したら俺のことなんてあっという間に忘れちゃって、会いに行っても「あれ、君だれだっけ?」とか言うんでしょ」
「流石にそんなことしないよ…」
「いや、お前ならやりそー!」
丸井と仁王がげらげらと腹を抱えて笑い出した。ちょっと、笑ってないで助けてよ!抜け出そうと藻掻けばさらに赤也はしがみついてきて、やっぱり絞め殺す気なのだと確信した。
「先輩の薄情者ー!」
「違うって言ってるじゃん!つーか先輩を絞め殺そうとする赤也も酷い、離せ!」
「い や だ!!」
こうなるともうただの図体のデカい赤ん坊だった。何かとてつもない執念でしがみついてくる。
「ちょ、自分の体型考えてよ!君の可愛い先輩が完全に潰されてるから!ねえ!見て!そして離して!」
「い や だ!!」
背中に回った腕に更に力がこめられ、ぎゅうぎゅうと縛り付けてくる。赤也は私が女子だということを完璧に忘れているようだ。成る程、これが拷問か!お昼に食べたものが、内蔵共々逆流しそうだった。
ところでどうして潰れたカエルみたいになっている私を誰も助けようとしないのだろう。散々お前達に尽くしてきた大切な元マネージャーだよ?そろそろ真田あたりから鬼の一喝が入ってもいい頃なのに、待てども一向に救いの手が伸ばされることはなかった。流石におかしいなと思い、必死の攻防の末、顔だけなんとか脱出に成功した頃にはとっくに丸井も仁王も笑っていなかった。不自然な位に誰も一言も発しなかった。静まりかえった室内には懐かしい面子が揃っているというのに、朗らかな空気の欠片も存在していなかった。まるで異空間に閉じこめられたみたいな状況に、あれ?私と赤也は顔を見合わせた。
「お前らその辺にしておけ、幸村の前だぞ」
空気を読んだ柳が言った。そうだぞ赤也、幸村の前だ、いい加減にふざけるのはやめなさいと口を開きかけた所で赤也が首を傾げた。
「なんで幸村部長の前だと駄目なんすか?」
空気の読めない赤也の発言に、再び室内に微妙な空気が流れる。なんでってお前、ジャッカルの丸い頭から一筋の汗が流れた。
「人様のガールフレンドにむやみやたらにべたべた抱きつくのはどうかと思いますよ。しかも公衆の面前だなんて。慎みたまえ」
赤也は目をまんまるに見開き、私を見てから幸村へと慌ただしく視線を動かし、文字通り固まった。私は柳生の言葉にデジャヴを覚え、慎みとは一体何なのだろうと見当外れなことを考えている。私には本当に慎みが足りないのだろうか。幸村は部室に入ってきた位置から殆ど動いておらず、私の背後にいるので表情はわからないし、さっきから一言も話さないので答えを教えてはくれなかった。
「…まさか君は二人が付き合っていることを知らないので?」
「「え?」」
「待て、そこでなんでまで驚くんだ」
「だって誰とだれが付き合っているって?」
「お前と、精市だ」
「付き合ってないけど」
途端に室内の空気が氷点下まで凍った。
新手のドッキリかと思い振り返れば、幸村はやっぱり何も言わずににこにこと笑顔を貼り付けたまま私の後ろに立っていた。いつも彼が座っていた部長席は空席のままで、これからはもうあの席に幸村を見ることはないのだと思うと胸の奥がざわついた。少し離れたところで柳生が日本人の癖に「Oh my gosh…」なんて呟く。柳生はいつから外国被れになったのだ。そういえば柳生がカナダ人の美人英語教師に熱を上げているともっぱらの噂である。
丸井が膨らませた風船ガムがぱちん、と音を立てて割れたのを合図に、再び沈黙が訪れた。誰も身動き一つしないので、世界から音が消えたみたいだった。
そして、それぞれの感情を乗せた視線が一斉に幸村に注がれると、幸村は笑顔を止め、能面のような顔で私の腕を引いた。すると驚くくらいあっさりと赤也の手から抜けだし、勢い余って固い胸板にダイブした。その拍子に鼻を強かに打ち付け、またしてもぐえっと呻く。
乱暴な仕打ちを非難するより先に頭上から舌打ちが聞こえたので驚いて見上げると、幻みたいな綺麗な笑顔を貼り付けた幸村が
「じゃあさ、俺達付き合おうか」
数秒前に舌打ちをした人間とは思えないほど爽やかに言った。「いいけど、どこまで?」思わずそう返しそうなくらい軽い調子だったので、危うく見落としかけたが、目は一切笑っていなかった。心臓が止まるかと思うくらい恐ろしい目には、赤い鼻の間の抜けた顔の私を映しているのだろう。慎みとは何かをもう一度考えて、慌てて開いた口を閉じる。幸村はもう笑ってはいなかった。ああ、失敗した、と理解した時にはもう遅く、幸村はもう一度笑った。
「ちょっと話をしよう、悪い、ちょっと外す」
返事を待たず、あっという間に部室の外に連れ出される。扉が閉まる瞬間に聞こえてきた「マジかよ…」という赤也の呟きが今にも泣きだしそうだったので、目をぎゅっと瞑った。前を歩く幸村は私の腕を掴んだまま振り返らなかった。
「参謀も酷なことをするもんじゃのう」
「なんのことだ」
二人が去った途端に息を吹き返した部室では、笑いを噛み殺した仁王が噛み殺しきれなかった笑いをぽろぽろ零しながら、入り口で固まっている赤也にのしかかった。不意打ちによろめいた赤也がようやく我に返り「え、え、え?なに、あれ?」混乱に目を白黒させて狼狽えはじめた。
「なんじゃお前さん、本気で知らんかったのか」
「つーかまだ話が読めないんすけど…」
「知ってたらあんな空気読めねぇことしねーよな普通」
「空気が読める赤也なんて赤也じゃねえけどな」
「どういうことっすか!部長が付き合えって言って、そんで先輩無理矢理連れ出して、二人は一体どこに行ったんすかってえええええ?!付き合う?!なにソレ!?」
「まあまあ落ち着きんしゃい」
落ち着きのない後輩を無理矢理椅子に座らせる。二人はしばらく戻ってこないだろうから、と柳生がお茶の準備を始める。我関せずと部誌をめくっていた柳の手が止まり、視線だけは手元に注がれたまま口を開いた。
「今回だけはお前も良い仕事をしたと褒めてやろう」
「どういう意味っすか」
わずかに柳が笑ったので、哀れな赤也は顔を真っ白にして震えた。
「全部知っとったくせによくもまぁ、あれだけ白々しいこと言えたもんじゃのう。流石参謀は面の皮が厚いこと厚いこと」
「流石の俺も今の状況にはいい加減うんざりしていたからな。精市にしてみれば余計な世話だったかもしれんが、最後くらい俺達が背中を押してやってもいいだろう。さてどっちに転ぶやら」
「は馬鹿だからな!ずーっと幸村くんの好意におんぶに抱っこで見てられなかったし。丁度良いタイミングだったんじゃね?あ、柳生、茶菓子ってもっとねーの?」
並べられた茶菓子を頬張りながら、あんな鈍感な女マジでいるんだよな、とぼやいた。
「丸井先輩、それってどういう…」
「それは少し違うな」
最後のページをめくり終え几帳面に冊子を閉じると、冷め始めた紅茶を手にとった柳に視線が集中した。そしてゆっくりと二人が去っていった方向を一瞥した後、勿体ぶってもう一度紅茶を飲んだ。
「真田はどう思う?」
丸井は見当はずれな人物の名前が出てきたことに落胆した。またそうやってはぐらかすつもりなのだ。終始黙り続けていた真田は赤也と同様に状況が理解できていないに違いなかった。
誰かがため息を吐く。
「俺は、あいつが悩んでいたことを知っている」
正確には何について悩んでいるのかまでは知らなかった。それはいつからだっただろう、昼休み、放課後、部活が終わった後、幾度もマネージャーの小さな背中を見ていた。女子なのだから小さいのは当たり前なのだが、時々とても小さく見えることがある。何度か声をかけてみたこともあって、肩を叩くと決まって「なんでもない」と困った顔をして言われた。困っているのに、悩んでいるのに「なんでもない」わけがないだろうとその度に思った。悩んでいる時のはとても小さく見えたのだ。それがどうにも釈然としなくてずっとモヤモヤしていたが、そういうことか。出ていった二人の姿を見て真田の中で一つの結論が浮かんだ。
「だが、あいつは馬鹿ではないだろう」
は馬鹿ではないし、幸村精市はどうしたってああいう男だ。
くくく、と仁王が笑い、柳生がため息を吐いた。
「え、つまりどういうことっすか?」
赤也がきょとんとしているので、丸井が哀れむように肩を叩いてやる。
「つまりお前はどうしようもないアホで、お前とはこれからもマネージャーと後輩ってことだよ」
2013.03.05