「テニス部全国大会ベスト4やって!?凄いなぁ」
「大健闘やな、おめでとさん!」

全国大会が閉幕すると同時に暑かった夏も終わりを告げ、残暑の熱気に気怠さを感じるあの日、クラスに戻ってきたテニス部一向はクラスから熱烈歓迎を受けた。
私自身も友人である謙也の応援も兼ねて東京まで観戦に行ったので結果は勿論知っていて、関東強豪の立海大附属に負けた時も一緒になって手に汗を握った。決勝に進めなかったとは言え、彼らの健闘は賞賛に値する。だから私もクラスメイトに混ざって興奮冷めやらぬ勢いで白石君に話しかけたのだっけ。
彼に苦手意識を感じ始めたのは、あれからだと思う。





どうしたものか。視線は宙を泳ぎ、ありもしない空を泳ぐ魚を夢を見る。世界の裏側ではもしかしたら極彩色の魚達が大きな口をぱくぱくとそれは綺麗に泳ぐのかもしれない。空想に溺れる私は大きくひとつ、深呼吸をした。
さん、こんな時間までどないしてん?自分が居残りなんて珍しいな」
数学の小テストの結果が担当の教師のお気に召さなかったらしく、こんな時間まで特別課題を消化中である。実は私にとって珍しくもなんともないのだけど、今回は珍しく彼と遭遇してしまった。昨日といい、何か悪運のようなものがあるのだろうか。テニスを何よりも愛する彼がこんな時間に教室にくるなんて珍しいこともあるものだ。
広くて埃っぽい教室に1人取り残されたように座り、頬杖をつきながら、解ける予感がちっともしないプリントを眺める作業。たった1人の為にストーブを点けるのはエコではない。室内なのにマフラーを首にぐるぐる巻き、そろそろ手がかじかんで辛い。シャーペンを握る指の感覚が危うく、声をかけられた瞬間に手にしたそれが指からこぼれ落ちていった。からん、からん、と机の下をくぐり転がる音が静寂の教室に響く。
私が立ち上がるより早く、しなやかな動作で回収された哀れなシャーペンはきっと芯がボロボロに折れているに違いない。ペンケースに予備の芯があっただろうか。

「前から思ってんけど、さんて結構そそかっしいな。気いつけな」
「あ、うんごめん」

何で俺に謝るん。浮かしかけた腰を再び椅子に落ち着けた。再び手元に戻ってきたシャーペンが数秒離れただけなのに、もう自分のものではなくなった感覚。手渡された無機質な塊は誰かの体温で生暖かかった。

「ありがとう、白石君」
「大したことしてへん」

手元のプリントを覗き込まれる。数学の課題やっとったんか。昨日謙也が来たときに数学が苦手だとクラス中に公表してしまった手前居心地が悪い状況である。今更隠そうにも後の祭り、引きつった笑いで誤魔化しながら未だ白紙に近いプリントをさりげなく手繰り寄せた。

「ちょっとテストの結果が思わしくなくて、ね。もうちょっとで終わるし。白石君はこんな時間に教室にくるの珍しいね」
「こんな時間ゆうても、もう部活動も終わる時間やで?こんな時間にまで居残り且つほぼ真っ白な課題抱えてるさんの方が心配やねんけど」

そろそろ電気を点けないと目が悪くなるような気はしていた。恐る恐る視線を黒板の上の時計に這わせると、なかなかにありえない時間を示している。何度か瞬きを繰り返すと、目の前に白石君の頭が降ってきた。え?と思う間もなく彼は向かいあうように前の席に腰を下ろした。とても自然な動作に目を丸くする。こんな所も苦手だ。構わないで欲しい、と全身で訴えても彼はそれをなかったことにしてしまう。

「しゃあないな。このままではさんが帰れなくなってしまう。女の子が暗くなってから1人で帰宅なんてマズイやろ。どこが分からないん?」
「え、部活は・・・?」
「ええから君は自分の事にだけ集中しなさい。ホンマに帰れんなるで」

目の前のプリントを取り上げると、それを恐るべき早さで右から左へと視線を流し、成る程な。さん、数学が相当嫌いなんがようわかったわ。とため息を吐かれた。同級生にまで駄目出しされると、とても辛い。

「でもこの課題、結構難問だと思う」
「・・・これ、基礎問題やんな」
「え」

再度落としかけたシャーペンを今度は器用にキャッチされた。
だから気ぃつけなさい。再び忠告を受けて、もう一度ちらりと時計に視線を向けた。視界の端で口元が綺麗に弧を描く様を目撃してしまったのを都合良く消去して頭を下げた。

「ご教授お願いします」

ああ満面の笑み。他の女の子だったら一瞬で恋に落ちる甘い誘惑である。だというのに私は恐ろしくて目を合わせることすらできない。体の芯から冷えてくるようで、内履きの中の親指と人差し指を擦り併せた。つま先の感覚もそろそろおかしい。
私の心中なんてまったくお構いなしで、プリントに視線を落とす白石君の長い睫が上下に動くのを暫く眺めて再び数字の並びに思考を戻した。
なんて言うのだろう、この感情。

「何?俺の顔に何かついとる?」

こういう時に目聡く聞いてくるのも苦手だ。確信犯なところが特に。
切り取られたように静寂に包まれた空間で、白石君が真っ直ぐにこちらを見つめる気配に思わず目を伏せた。白い包帯がそんな私を咎めるように目に付く。

「考え事する時にちょっと猫背気味に頬杖つくの白石君の癖なのかなあって思った」

一瞬呆けた顔。ああ白石君もこんな顔するんだ。初めて、人間らしい部分を見た気がする。いつも作られたような表情の彼をサイボーグか何かと勘違いしていたかもしれない。まるでこの世の終わりを覗きみた気分。感情なんて深く沈んでしまえばいい。
しかしそんなもの一瞬の出来事で、瞬く間に普段通りに戻ると、やっぱり歪んだ世界は正そうともせずに、仄暗い空間は仄暗い形を纏って私を脅かす。

さん、寒いやろ?」

こんな真冬にストーブも点けんと寒い教室でよう頑張るわ。今日も天気予報雪や言うとったし。女の子が体冷やしたらあかんで。まるでオカンのような説教である。謙也が「白石はほんまテニス部のオカンやぞ」と言っていたのを思い出す。よく謙也に説教している姿をまるでコントのようだと眺めたことが何回かあったけど、自分がいざやられると少し面倒臭い。

「ほら、こんなに冷たくなって」

確信めいた眼の奥で、何かがカチ、と光った。相変わらず底の見えない二つのそれは、一度私の手を彷徨ったあと、再び私の呆然とした顔へと注がれる。挑発するでもなく、訴えかけるわけでもなく静かに、ただ奥に何かを秘めて反らすことを許さない。これは、駄目だ。やっぱり宇宙かもっと遠いどこかに続いているんじゃないかと思う。とても恐ろしい彼の瞳は、一瞬で私を地獄へ突き落とす。繋がれた部分から段々と感覚がなくなっていって、このまま全神経が吸い取られてしまったら私は死ぬのだろうか。それはまるで嫌悪感に似ている。
ゆっくりと、何かを探るように私の手のひらを撫でる感触に耐えることができそうにない。
なんだ、私は苦手なんじゃなくて、白石君が嫌いだったんだ。
確信した瞬間、するりとそれは離れていった。
元通りになった途端に彼は何事もなかったように、ほな早く終わらせよか。私のことなんて興味がないような素振りでプリントに集中し始める。驚くことすら許されなかった。

でも本当は知っている。
彼はこっちなんか向いてなくたって、ずっと私を脅かし続ける。
冷たい、と言った白石君の手の方がよっぽど冷たかったこと。
掴まれた手が自分のものではなくなったような気がして、そっと机の下に隠した。






ようやく課題を提出し終えた頃にはすっかり陽も落ちていた。数学教師のお小言にうんざりしながら教務室を出ると、校内には殆ど人影はない。ほとんどの部活は既に活動を終えていて、私の足音だけが廊下に虚しく響いた。
下駄箱で靴を履きかえて校舎を出たところで、足早に学校を後にする生徒達を見送るように1人、校門に背を預ける人物が目に入った。暗がりにかこつけてその横を通り抜けようとした所でがしりと腕を掴まれた。

「わかってて無視するんなら悪い子やな」

暗がりの中でも白石君の瞳はぎらりと光って見えた。普段の彼からは想像もつかない獲物を狙う獰猛な猛禽類のように鋭く、薄く笑うような表情が実はまったく笑ってなどいないこともしっかりと解る距離。油断をするとあっという間に捕らえられてしまうのだと、頭の中で赤いランプが点滅して、警告を発する。

「ごめん、白石君誰か待ってるのかと思って」
「この流れで待つって言うたらさんしかおらんやろ。にしても声ぐらいかけなさい。こんな真っ暗になって1人で帰るつもりやったん?」
「暗いって言ってもまだ18時前だし」
「あかん。冬の18時は夜と言うんや。そんな時間に女の子が1人でうろつくなんて大概にしいや」
「1人で帰ってる子なんて他にもいっぱいいるよ・・」
「今はさんの話をしてんねや」

ぴりぴりと伝わってくる緊張感は、静電気のように私と白石君の間を弾ける。
白石はな、怒るとめっちゃ怖いで!謙也のあの言葉を思い出してぞくりとした。確かにこんな鋭い目で睨まれたら誰だって怖い。睨む?どうして人の事をこんなに真剣に心配出来るのか。他人の事を思うのって想像以上に面倒臭いものだ。ただの1クラスメイトでしかない私に対して向けてくる感情がとても重く感じられて、掴まれた腕がじんじんと痺れる。
今、この場で「放っておいてよ」と口にしたらどうなるのだろうか。鋭い眼差しは私を射抜いて殺してしまうかもしれない。若しくは掴まれた腕ごと二度と戻れない世界へ墜ちるのだろうか。
小さな声でごめんなさい、と言うと白石君は少し空気を和らげて、ほな帰ろか。そのまま腕を引いて歩き出した。テニス部の皆は?謙也は?なんて聞く切欠もなかった。

「随分遅かったな」

確かに部活に戻ると言った白石君と別れてから1時間近く経過している。

「先生に説教された」
「ま、自業自得やな。しかし先生も時間を考えてやるべきやと思うで。こんな遅くまで女子生徒を引き留めるなんて呆れた話や」
「ほんとだよ、30分くらいずっと立たされたもん」
「先生の気持ちもわからんでもないけどな。久しぶりに教え甲斐のある生徒やったわ」
「・・・否定できない。本当にどうもありがとう」
「ええよ、そんな頭下げてもらう為にやったんとちゃうし」

天気予報は今日も雪だったから徒歩できたという白石君と並んで歩く。
しばらくは商店街が続き、賑やかな雰囲気だったが徐々に閑散とした住宅街に入ると、人気も一気に少なくなり、途端に街灯の数も減り、少ししんみりとした気分になる。話をしているうちに我が家と白石君の家は意外に近いという事実が判明し、家まで送ってもらう流れになった。
そこまでに一悶着あったのは言うまでもなく。

「なんや、言いたいことあるみたいやな?」

言うてご覧、聞いたるわ。ほんの僅かな時間で最初の態度からかなり砕けたやりとりに変わっているのに、私の緊張は依然変わらない。
頼れるのは数メートル感覚で小さな光を灯す街灯のみで、うっすらと横を歩く白石君の視線を感じた。先ほどの鋭さは影を潜めているものの、底冷えするような感覚は相変わらず私の心を痺れさせる。つま先から髪の毛の先まで見透かされたような錯覚さえ覚える程。

「偉い緊張しとるけど、どないしたん。俺の事は気にせんと言うてみ?」

何であの時、私の手を握ったの。どうして待っていたの。
そんな事もう愚問でしかない。何故なら

「あのさ、そろそろ手、離して欲しいんだけど」

実は校門からここに至るまでずっと私の左手は彼の右手に捕らえられたままなのである。
まるで囚人のように監視されていることに耐えられず、俯くと鎖のような手と、ちっぽけな自分の手がある。

「それはあかん。離したら途端に逃げるやろ」
「そんなこと」
「ないとは言い切れんな。そんな怯えた目されると人さらいになった気分や」

喉の奥で笑う気配に、反射的に手を振り払いたくなるが、それを許してはくれない。
根拠はもちろんあるで、強制的に腕を引かれて立ち止まる私達を見守るのは遠くの月だけ。

「前にも一度聞いたけど君、俺のこと嫌いやろ?
やから離したら、脱兎の如く走っていってしまうんやろうなあ。
追いかけっこも楽しそうでええけども、もう暗いし止めとこな」

うっすらと月明かりに照らされた彼を見る。なんて夜の似合う人なのだろう。なんて背徳的な笑い方をする人なのだろう。私を捕らえているはずの眼差しは、私を見ていない。もっと遠くの、知らないなにか。暗い帳を纏った触れてはならないもの。

「図星やんな?君ぐらいやで、こんなあからさまに俺のこと避けるんは。こういうの結構傷つくもんなんやで。俺君になんかした?」
「そんなつもり」
「ないって言うよなあ。しらばっくれる時の常套文句なんか今更やで、さん。
まあその様子だと、自分で気付いとらんみたいやからこの際はっきりさせとこか」

顔上げや、反射的に見上げた白石君はやっぱり笑っていた。
夜にまで溶けたような底冷えするような「完璧」を貼り付けた笑みだ。

「ようするに君は俺の瞳が嫌いなんやろ」

いつも視線が合った途端に反らすし、解りやすいわ。俺のここ、そんなに嫌い?嫌い言うより怖いんやな。せやろ?自分考えとること態度に出やすいってよう言われん?
なんでって顔しとるけど、君が解らないことまで俺はわかってんねんで。教えて欲しい?
白石君の声は呆然とする私の耳を冷たく通り過ぎていく。そんなこと知ったことかとおかまいなしで一方的に続ける彼に、いつもの皆が羨む「白石蔵ノ介」はどこにも見当たらない。
これは、なんだ。
どこか歪んでいて、正しいような、そもそも何が正しいのか。

「『白石君、準決勝惜しかったね!全国ベスト4おめでとう』目ぇキラキラさせて言うてくれた事今でも覚えとるわ。あん時の純粋な可愛ええさん何処いったんやろ。なあ、知らへん?」
「し、知らないよ」

本当は知っている。あの時はどうかしていたのだ。試合を見たときの、選手達のテニスに懸ける熱にやられてルールも禄に知らない癖に、高揚感ばかり一緒になった気になっていて、試合に負けた彼らの気持ちなんてお構いなしで、熱に浮かされていたのだ。私は何様だったのだろう、クラス中がテニス部を賞賛し、称える中で、一緒になって喜んだ。
過ちに気付いたのは、あの一瞬だ。「おめでとう」なんて上辺だけの言葉を伝えた瞬間。
どうして誰も気付かなかったのだろう。本当に一瞬で、熱が冷める体験をした。体中の熱が引いたその瞬間に、私は触れてはいけない帳に手をかけてしまった事に気付いた。
彼は瞬間、いつもの務めて完璧な笑顔で他のクラスメイトにしたように「おおきに」と言った。私が見たそれは幻かと思うほど隙のない動作だった。固まる私に「どないした?具合でも悪い?」と気遣ってみせる仕草まで完璧だった。ただ一点を除いて、彼は模範生で在り続けた。
気付いた時にはもう遅くて、その時から私は彼が苦手になった。
わざと肩を竦めて戯けて見せる白石君に見当違いだよ、と伝えると、やっぱりあの笑みで

「俺の事は化け物みたいによう避ける癖して、謙也には懐いとるやんな。君達なんであんなに仲良しさんなんや?」
「謙也は優しいよ」
「・・・へえ。俺も充分優しいやろ」
「白石君、手、痛いんだけど」
「ああ、悪い、さんがあんまりにも謙也贔屓なこと言うもんでうっかりしたわ」

嘘ばっかり。
一瞬跡が残るんじゃないかって位強く握られた手は謝罪の後直ぐに緩められたけれど、痛みだけは執拗にそこに残った。いくら睨んでも繋がれた手と、白石君の笑顔は変わらない。ため息を吐いたって変わらない。
「白石君」はこんなことしないよ。と言ったらこの人はどんな反応をするのだろう。

「白石君は、確かに誰に対しても柔らかいけど、本当の意味で心を砕くのは近しい人だけだよね」

そしてそんな近しい人間に対してでさえ、心の内を曝すことはないのだろう。
自分にも他人にも厳しい人だ。完璧を演じるには弱さも、時には自分の感情すらも殺して振る舞う。そこに至るまでの努力や葛藤は他人に推し量れるものではないし、それこそ私は知らずに綺麗なだけの白石君だけを見ていれば良かった。
だからこれはどういう茶番なのかと、問うたらこの人はどんな反応をするのだろう。

「…随分と俺のこと観察しとるみたいやな」

今となっては彼がどんな気持ちであの時、周りの歓声を受け止めていたのかわからない。そしてそれを気付かせない程白石君の仮面は完璧だった。注目される度に、パズルのピースを一つ一つ埋めていくように「白石蔵ノ介」という偶像が作られていくのを感じた。そして彼はその期待を違えない。筈だった。

「ま、さんにとってあの時から俺は天敵になってしもうてんのやろ、しゃあないわ。
君は綺麗な世界で泳いでいたいもんな」

その方が楽しいやろ、楽でええもんな。
確かにあれは白石蔵ノ介という人間の感情だった。テニス部の部長としてではなく、1人の人間として。普段は絶対に表に出ることのない、周到に隠された彼の本心。

「知っとるで」

だとしたらどうしてそれを何故私なんかに見せたの。
恐ろしくてしょうがないんだ。
私が知っていたのは、完璧な、綺麗な白石君。それ以外は必要なかった。
知る必要もなかった。

「なんで解るかって?簡単なことや。君のその感情、なんて言うか知っとる?

同族嫌悪、って言うんやで」

ああ今、気付いてしまった。
全て嵌ったパズルを粉々に砕かれてしまった。
気付いてしまったからには、彼は私を「殺す」のだろう。

「いっつも澄ました顔しとるやろ、君。クラスで盛り上がっとっても1人我関せず?関係ありません?東京モンはクールやなって皆言うとるで。
面白いなあ、君みたいな人間の事、世間様では「クール」言うんやって。格好ええな。
やからあん時、その仮面が剥がれた時は驚いたなあ。あんなあっさり崩れるとは思わへんかったわ。さっきも言うたけど、そそっかしいとこ気いつけなあかんで。世の中、君の大好きな綺麗なモンばかりやない。もうわかるやろ?
ああ、せや、試合応援に来てくれて嬉しかってんはホンマやで」

この人は誰と話しているのだろう。眩暈がしそうだった。
陸に上がった魚のように上手く呼吸ができない。魚は水の中でしか生きていけないように、私もこのまま死んでしまうのではないかと思った。
白石君はまるで小さな水槽の中を泳ぐ魚を観察する無垢な子供を装って私を追いつめにかかるのだ。

「ところで教えてくれへん?君の中の理想の「俺」と今の「俺」何が違うてるん?
どっちが正しい?」
「なんで」
「そんな事言うのかって?今更なこと聞くな。今更取り繕ったところで意味ないやんな。だって君は気付いてしもうたんやろ?」

なあ、はよ答えてや、さん。耳元で囁かれたらもう終わりだった。
君が大好きな、お綺麗な『完璧』って何やと思う?
俺が君の想像する完璧な理想の白石クンやなくて、俺かてドロドロした感情をもった泥くさい人間やって気付いて、どう思った?
目前に迫る白石君の瞳はやっぱり、宇宙のように不思議で、けれど確かにその中に私を映していた。
なあ、俺の何をわかっとるん?何を見とるん?
答えられるわけがない。
あの瞳を見た瞬間、泣くのかと思った。それとも泣き出すのかと思った。若しくは、もっと深い何かが零れ出すのかと、底の知れないドロりとした感情を剥き出して。およそ彼には似つかわしくない感情を刹那に、私には堪えられる筈がなかった。
あれから、綺麗な世界でしか生きられないと思っていた私は、完璧な彼が一瞬だけ見せた「白石」という人間に触れたあの日から「仮面」なんてとっくにヒビが入っていて、それをとっくに見透かしている目の前の人は僅かな歪みも見逃してはくれないだろう。
完璧でない彼なんて、認められない。白石君のあの深い心の底は私を脅かすから。
本当は彼だって怒ってみたり、悩んでみたり、好きな子ができたり、なんてことはない、普通の人間なのだって気付いているのだ。完全に優秀なように見えるのは、それだけの努力をしているからだ。私はそんな彼の努力に目を瞑り、自分の理想の形を勝手に押しつけて、一喜一憂して、別の世界の人なのだと思いこんでいたかった。白状します、私は、綺麗なものが好きです。完璧なものに憧れたし、自分自身でさえも心のどこかでクラスの皆とは違うのだと驕っていたかった。私が求めるものの中で、白石君という存在はおよそ模範的だった。上辺だけを観ているだけで満たされた。足の爪から髪の毛の先まで上等で繊細なガラス細工で出来ているとでも信じていたに違いない。
彼はそんな理不尽な感情に腹を立てているのか。私を見る目が軽蔑していうように思えるのは、それが後ろめたいことだと気付いているからだ。その目は、全てを知っています、と主張しているので、私はいつだって逃れたいと必死になる。
けれどもついに追いつめられた私は、もう目を開いていることなんて出来ずに、近づいてくる気配に瞼を伏せた。
ふ、と白い息がかかって、白石君も温かい息を吐くのだとはじめて知った。


私は既に飲まれてしまったのだろう。
白石君は言ったのだから。私は気付いたのだから。

それは要するに。

「見てみ、もうあんなとこに月が昇っとる。満月もそろそろやな」

左手は依然囚われたまま、真っ白な包帯が巻かれた左手が無音の空を指した。
まるで彼の指から昇ったように月は夜を泳いでいた。

結局今日も雪は降らない。


君の指先から月が昇る




同族嫌悪
それは要するに