君の指先から月が昇る




大阪に珍しい雪が降ると言う。今朝起きたら天気予報がそんなことを言っていた。そんなまさかと慌てて窓に駆け寄ればまだ薄暗い空にはまだ太陽は不在で、曇っているのか、それとも晴れているのか検討もつかなかった。なんだ、とため息を吐くと窓ガラスが一瞬白くなって私と世界との間に壁を張ったけれど、それも直ぐになくなった。
学校に行くにしては少し早い時間である。低血圧の自分には考えられない位の早起きだった。
決して目覚めの良い朝ではないが、テレビの中では賑やかに爽やかな朝の始まりを映していた。何度か瞬きを繰り返すとクラスの男子に人気の女子アナウンサーが朝からニコニコ笑顔を振りまいている。朝から難儀なことである。私は絶対にアナウンサーだけにはなれないと思いながら、占いのコーナーに入ったところでチャンネルを換えた。他の番組でも、やはり今日は雪が降ると告げている。

いつもと変わらない制服を着て、マフラーを巻いて玄関を開けると、空はすっかり明るくなっていて、それでもいつもより早い時間だったので、太陽の位置は少し低い。けれど太陽の姿が空にあるのだから雪は降るのだろうか。この天気で傘を持つのはなんだか馬鹿げているような気がして折りたたみ傘を鞄の中に忍ばせていつもの道を歩いた。
特に何があるわけでもない。早く目が覚めたので早く学校に行くだけ。
吐く息はもちろん白く、そろそろ耳当ても必要かもしれないなんて思って手を擦り併せた。その前に手袋が必要だ。両手を制服のポケットに入れて歩く。ちょっと行儀が悪いが気にしない。

さん」

呼ばれて振り返ると、同級生の白石君が丁度私の5メートル後ろで自転車を漕いでいるところだった。白石蔵ノ介、私が通う四天宝寺中学校のテニス部部長という輝かしい肩書きを持つ人物で、さらに言うとその肩書きみ見合うだけの才色兼備を兼ね備えたパーフェクトな人物でもある。我が校の男子テニス部はかなりの強豪で、若干2年にして部長に就任している白石君率いる彼らは今年の夏、全国ベスト4入りを果たしたのも記憶に新しい。その話題にクラス中が沸いたものだ。もともとお祭り好きの学校だけあり、学校を挙げて功績を称えたものだ。クラスメイトというだけで殆ど接点のない私でさえその時ばかりは彼に「おめでとう」と賛辞を述べた程である。同級生だと言うのに顔と顔をつきあわせて喋ったのがその時初めてだった。まじまじと見つめると成る程、学校中が騒ぐ程の端正な顔立ちだと納得したものだ。

「おはようさん。なんや今日は早い登校やな。」
「おはよう。今日は珍しく早起きしたんだ。自分でも吃驚の快挙だと思う」
さんいっつも朝辛そうやもんな。毎朝倒れるんやないかって皆で噂してんねんで」
「え、うそ」

まさか自分の低血圧が話題に上っていたなんてなんとも恥ずかしい話である。確かに毎朝ギリギリの登校で、遅刻の常習犯でもあるので悪評が立ってもおかしくない話である。殆ど接点のない白石君でさえ知っているというのだからこれは良くない。気を付けよう。

「冗談や。そこまで噂になってへん。俺が個人的に心配してるだけや。・・・にしてもどないしたん。今日は雪でも降るんとちゃうか」
「うん、天気予報で今日雪降るって言ってた。残念ながら私の力ではないけど」
「そらどうやろ。実際のとこさんのせいかも知れんで?」

からかうように見下ろしてくるので、じろりと睨み返したら、冗談や、堪忍な、と大げさに肩を竦める白石君。そのまま自然と視線は空を彷徨った。こんなに天気ええのに雪とか信じられんわ、やはり皆同じ事を思うらしい。天気予報、本当に当たるのかな。

「参ったわ、自転車で来てしもうたやん。部活も・・・雪降ったらどないしよ」

いつの間にか自転車から降りて並ぶようにして歩きだした白石君を横目でちらりと見やる。もしかしてこのまま学校まで行くつもりなのだろうか。降りたのだからそうなのだろう。並ぶと彼が長身であることを実感する。スポーツをやっているだけあって均整の取れた体つき。姿勢も、まるでショーケースのお手本のように綺麗である。クラスでも中の中の背丈で少し猫背気味の自分からしてみると羨ましい。

「でも降るのは夜辺りって言ってたからギリギリ大丈夫かも。」
「おお、そら良かった。にしても大阪に雪なんて珍しいなぁ。クリスマスだって雪は降らんかったっちゅーのにこんな中途半端なんか大阪人として納得いかん」
「そういうもの?」
「そういうもん。東京から越してきたさんにはまだわからへんか」

浪速魂。私は今年の春から両親の転勤で東京からこの大阪の地に引っ越して来たばかりなので大阪人のノリとツッコミにかける情熱というものに慣れていない。四天宝寺自体がそんなノリなので底抜けに明るいクラスメイト達を見ていると羨ましい、と思う。思うけど、どうしても私は彼らのようにはしゃぐ事が出来ない。それは東京人としてもプライドなんていう高尚なものではなく、単にそういう気質なのだ。人間の人格形成において環境が一番に左右されると言うのであれば、そうなのかもしれないけれど。

「前から聞きたい思ってんけど、さん俺のこと嫌いやろ?」

白石君は真っ直ぐ前を見据えながら務めて穏やかに言った。恐らくこのまま進めば学校が見えてくる何の変哲もない通学路だというのに、彼が見つめる先はまるで未だ誰も到達し得ない遥か宇宙の彼方のように思える。名前も知らない星の数を数えては指先でそれが掴めるのだと錯覚した子供のような瞳でもあり、それが決して掴めないと悟ったつまらない大人のようでもある。そんな底の知れない瞳で彼は前を見据えている。その瞳にもちろん私は映っていない。なのに途端に自分がどこを歩いているのかわからなくなるようで、横を見やればやはり白石君という同級生がいる。
言葉に詰まった私は「そんなこと・・」なんていうありきたりな言葉を返すことしか出来なかった。

「変なこと聞いて悪かったな」

それっきり私達は無言で宇宙ではない、ただの通学路を歩いた。
永遠のように感じた窮屈なその時間はほんの数十分でしかなかったけれど、確かに私の心に突き刺さり、影を落とした。何の変化も見せず自転車を引きながら私の横を歩き続けた白石という男の読めない策略に嵌ったわけではない、ただ私は通学路を歩いただけだ。




「どないしたん、ため息なんてつきよって」

昼休み、寒い寒いと教室で弁当を広げていると友人に突っ込まれた。ため息?出るに決まっている。

も大概変わってるよなあ、あの白石が嫌いだなんて。朝一緒に登校しましたなんて、普通の女子からしたら卒倒もんやで。」
「私も卒倒しそうになったよ。意味が違うけど。」

まったく理解できんと言う友人に、これは一般論ではなく個人的見解の問題なのだと諭したのはこれで何回目だろう。一つ訂正させて頂くと「嫌い」ではなく「苦手」なのである。友人も、それから白石君も誤解をしているようだが私は「白石蔵ノ介」を苦手と感じている。殆ど接点がないというのに、本人も知っていたという勘の良さも苦手な理由の一つである。
兎に角白石君は勘が良い、要領が良い。頭も良い。顔も良い。いつの間にか周囲に聖書と呼ばれる「完璧」を背負った男の子。男女問わず老若男女を虜にする彼の魅力は語るに尽くせないとファンは言う。実際私もその通りだと思うし、だとしたら何故苦手なのかというと、自分でも明確な答えを出すことが出来ない。
初めは単なるクラスのアイドルという認識でしかなく、クラスメイトであるだけで自分とは一番遠い存在だった。周りの女子のように彼の一挙一動に胸を高鳴らせるというような衝動に陥ることはなく、あくまでクラスメイトという距離。冷めていると指摘された事はあったけれど、あまりにも現実離れした存在だったので気後れしてしまっていたように思う。それよりも新しい環境に慣れるのに必死だったからだ。

いつからだろう、苦手意識を感じるようになったのは。

次の授業が苦手な英語だと考えただけで2倍気が重くなった。

!すまん数学の教科書借してくれ!」

東京からの転校生ということもあり、交友関係は広い方ではない。特に異性の友人は数える程で、たった今嵐のように飛び込んできた人物は数少ないその友人の1人だった。面白い冗談の1つも言えない私に気にすることなく接してくれる彼は、生粋の浪速魂の持ち主である。

「うち、今日数学ないんだけど」
「知ってるわ。さっき白石に聞いたら持ってないって断られてん」

気さくな性格は彼の性分である。
転校したてでカチコチに緊張した私を持ち前のテンションで解してくれたのは忍足謙也その人。きっかけなんてもう忘れてしまったけど、笑かしたモン勝ちや!の勢いで、クラスは違うのに未だに交友関係は続いている。正直、この学校に溶け込むことが出来たのは彼の功績が大きいのでこっそり感謝していたりもする。
そう言えばこの人もテニス部だった。良く白石君と一緒にいるところを見かける。スピードスターとの異名を持つだけあり、いつも落ち着きがない。あの白石君と並ぶと余計にそう見える。

「それで何で白石と同級生のに声かけるんや」

アホちゃうんと呆れる友人に忍足謙也は自信満々に

「いや、授業なくてもな、は俺と同じで置き勉派やねん。しかも数学が嫌いなこいつのことや絶対持ってるっちゅー話や、お前テスト前だって持って帰らんクチやろ!」
「そこ偉そうに言う事やない」
「ちょ、謙也声大きい!」

決して褒められた行動ではないずぼらな癖をクラス中に暴露されたとあっては穏やかではいられない。自分の顔が真っ赤になるのを自覚しながら空気の読めない謙也の口を塞いだ。ふがふご!・・・なにすんねん!恐らく抗議の声を上げる往生際の悪さにビンタをひとつ。大人しくなったのを確認してため息をついた。

「で、持ってるわけ?」
「・・・まああるけど」
「昨日数学課題出されたやん!どうするつもりやった?」
「いやまあなるようになると思って・・」
「あかん子やわあ」
「だって、家でまで数字なんて見たくもないもん」
「馬鹿な子やわあ」
「ほらな!俺の見込み通りやろ」

借してくれと伸ばされた謙也の手をぱちりと叩く。
なんでやねん!さっきから手あげよって暴力はあかん!だってこないだ貸した国語の教科書に落書きしたのまだ許してないんだからね。あんなんとっくに時効や!まだ執行中です。あれ見て吹き出して先生に怒られた罪は重い。やろ?あれ傑作だと自分でも思ってん!
は、と気付くとクラス中がこちらに注目していて、目立つのが好きではない私はその時点で穴があったら入りたい気分に陥った。誰か穴、掘って欲しい。友人達もとっくに呆れ顔で、生暖かい視線が降り注ぐ。謙也の馬鹿、と言ったらなんでやねんと返ってくる。私は謙也の空気を読めない猪突猛進なところが本当に憎い。

「・・・まあ、しょうがない、今回は特別貸してあげます。」

ただし落書き絶対禁止と呟く。どっと疲れて脱力する横で喜ぶ謙也、良かったなぁ振られんで!お前さんにちゃんとお礼せな!教室内を野次が飛ぶ。どんな些細なことでも途端にお祭り騒ぎになるのは構わないが、自分が当事者となると話は別なわけで。慌てて自分の机から数学の教科書を引っ張り出して渡すとさっさと押しつけて追い払った。
なんや冷たいな、おおきに!去っていく謙也をげんなりと見送る視界の端で白石君と目が合った気がした。今朝一緒に登校しただけなのに自意識過剰かもしれない。あの時と同じ底の見えない深い瞳を捉えた瞬間、ぞくりと背筋が凍った。あの深い何かに囚われてしまったら一体どうなるんだろう。
どろりどろりと黒いモノがゆっくりと這いずり回り、形を成し始める音がする。
バクバクと心臓の音がそこまで届いているような気がして、金縛りみたいに視線が外せなかった。とっくに彼はこちらから視線を反らしていて、私は壊れた人形のように背中を眺め続けた。

?どないしたん?」

友人の声にようやく我に返る。

「なんでもない」

自身にもそう言い聞かせて、外を眺めた。どんよりと曇はじめていた。


その日は結局、雪は降らなかった。