Words I couldn't say




「彼らが兵士長のことを『血も涙もない冷血漢だ』なんて言うものだからどうしてそんなことを言うのか納得できなくて」
「それで仮にも先輩の足をうっかり且つ思いっきり踏んづけてしまったというわけ?」
「そうですね。常に冷静であれという教訓に反した浅慮で本能的な行いでした。言い訳のしようもありません」
私はしおらしく目を伏せて、反省の意を表す最も効果的な態度とはどうあるべきかについて思考を働かせ、両手を胸の前で交差させて、両足はきっちり拳1個分の間隔をあけて爪先が向かう先は正確に45度、計算し尽くされているようで全く意味のないこだわりを見せた。鈍よりと気分が重くなる夜分の事だ。地上を切り捨てた無慈悲な空から止め処なく落ちてくる雨粒が背後の窓硝子を忙しなく叩いていく。隙間風が室内を駆け回り洋燈の灯す光を悪戯に揺らした。
正面の小ぶりの卓子を囲んで腰を下ろし、行儀良く佇む私を見据える二人の内の片割れがあからさまに溜息を吐いた。
「相手方も大事にはしたくないって言っているし、喧嘩両成敗って事で今回は処分保留になるけれどね、まったくどうして優等生の貴女が突然上役の連中に噛み付くなんて問題を起こすかなあ。無鉄砲にも程があるよ。今回は騒動の切欠がコレだったからあっちも迂闊に手を出せなかっただけで、運が良かっただけだよ?ねえ、反省してるの?」
俯きがちに目尻を少し下げただけで反省の色が強くなる事を知っているので、その様を徹底すべく、揺れる炎の動きの定まらない形を凝視してみる。影が揺らめくと私自身が頷いているようにも見えた。
「人体の約60%は水分、約8%は血液で出来ているんです。血も涙も無い人間なんているわけがないじゃないですか。いたとしたらそれはもう人間じゃない」
「え、そこ?」
「ハンジさん、これは重大な誤りだと思いませんか。自分の上官が人間ではない?こんな馬鹿げたことを真面目な顔をして言う先輩方に落胆しました。彼らの方こそ脳が筋肉に侵されているのではないかと問いたい。戦闘に特化するあまりに常識が欠如した兵士が増えてきている、嘆かわしいことです」
「彼らはそういうつもりで言ったんじゃないと、思うけど」
「だとしたらどういうつもりで?モラルも常識も無くしてしまえばあの醜悪な巨人達とどれほどの違いがあるというのでしょうか。何でもかんでも『冗談だった』で話が済むとしたら、冗談の権化のようなこの世界ですらも笑って済ませてしまえる事になる」
ハンジさんはあからさまに頬を引きつらせて乾いた笑みを零した。ねえ、まさか、それ本人達に言ったのかな?残念ながら言ってしまいました、と今度こそ首を縦に振ると、ハンジさんは大袈裟に項垂れた。
「馬鹿はお前だ」
ついに今まで沈黙を守っていた男が口を開くと、場の重力が一気に増した。声の主は、まだ若い兵士達に恐ろしく学のない発言を言わしめた問題の人物だ。そんな凶悪な顔つきをしているから化け物扱いされるというのに、質の悪い笑えない冗談の塊は、あろうことか殊勝な私を馬鹿扱いして、侮蔑の視線を浴びせてくる。その目つきは、先日食堂で黒光りする虫と対峙してしまった時の私のそれと酷似していた。周囲の陰口から身を挺して庇った私に対する態度とは到底思えない。
「そんなくだらねえことに一々突っかかってるようじゃ、お前の先も知れてるな。巨人に殺られる前に仲間に嬲り殺されれて終わるだろうよ。その為に一生を棒に振って兵団に入ったってんなら随分と器の広いことだ、吐き気がする話だな、おい、その間抜け面でこっちを見るな」
「ちょ、リヴァイ、何もそこまで言わなくても!は貴方の為にやったんだよ?」
「今の話のどこにそんな事実があった」
そもそも頼んでもいねえ、浅慮は勝手だが俺を巻き込むな、と宣うので、とうとう反省の姿勢を保つことが出来ずに顔を上げて視線を伸ばせば、その人はもう私を見てはいなかった。体ごとこちらに背を向けて、散々に荒れ狂う外の様子を無関心に眺めている。悪天候は止む気配もなく明日に響きそうだ。まるで私の心の内のように。
「この二人面倒臭い!」
舌打ちをする兵士長を横目に立ち上がったハンジさんは、同じく憮然とした表情の私の頭を軽く小突いてから数枚の書類を押しつけてきた。
はお願いだからもうちょっと反省して。私が取りなさなかったらもっと大事になって、貴女は今頃牢にぶち込まれてたところなんだからね。今度からはもっと相手を選ぶこと…というかそもそも揉め事禁止。取りあえず処分は3日間の謹慎。現場復帰は5日後。謹慎解けたら相手方に謝罪に行くことが条件。あのね、そんな不満そうな顔をされても、これでも充分に減刑処分なんだから。
大体さあ、リヴァイが直接出ていけば私がここまで骨を折ることはなかったと思うんだけど!
というわけでは謹慎中暇だろ?その書類まとめておいてね」
「え!」
押しつけられた書類を見て目を見張る私の肩の肩を叩き、頑張ってね、と無慈悲な言葉を残して出て行った。残された書類と沈黙に沈む室内に気が滅入って溜息が零れる。
何をどう頑張れば良いのだろう。

出来るだけ時間をかけて空いた席に腰を下ろし、ちらりと同じ空間に居る人を覗き見たが、相変わらず一切こちらを気にする素振りすらなく優雅に冷めた珈琲を飲んでいる。つい数分前までハンジさんが座っていた正面の席ではなく少し離れた場所に落ち着いたのは、至近距離から凄まれるのを避ける為だったが、それすらも杞憂に終わる徹底ぶりだった。頑固に私の存在を無視し続け、きっと私の謝罪を待っている。喧嘩に対してなのか、それとも喧嘩の内容に対して。何に対する謝罪を求めているのか、一体何に対して腹を立てているのかを私に伝える気など微塵もない癖に無言で高圧的に要求する。日常的に暴力で、恐怖政治で統率を取る男が、たった一度の些細な喧嘩に目くじらを立てるとしたら理不尽極まりない事だ。とハンジさんに言ったら残念な顔をされた。
そもそもこの人は常に不機嫌な態度を見せているので、視界に入る、又は思考に入る大体のことが気にくわないに違いなく、それを一つ一つ丁寧に取り除いてあげましょうなどという都合の良いお人好しはそうそういるわけがないので、彼が活動をしている殆どの時間は永遠に不愉快なままなのだろう。もしかしたら寝ている間さえも安寧ではいられないのではないか。それは体内の水分比率よりも多いのだろうから、いつか体中が沸騰して、血管が破裂してしまうのではないかと思っている私も大概常識がない。常に冷静沈着で、沸点の在処を決して他人に悟らせない人なので、爆発する日が来るとしたら枯れ木のような最期を遂げるのではないかと思う。蒸発した水分は大気に、流れた血は大地へ。抜け殻は砂と化して私の手をすり抜ける。血も涙も無くなるとはそういうことだ。そんなことを冗談でも思ってしまう自分に心底腹が立ち、他人に指摘されれば許し難かった。躍起になるのは心が弱いからだ、図星に耐えられないからだと暗に自分の脆さを突き付けられて、しかし人は怒りでは沸騰しないのだと知り安堵した。

「貴方に血も涙もあるのだということをどうすれば証明出来るかについて考えたのだけど」

滑稽な切り出しである。
私の言葉に視線だけがこちらを向いた。そのままで良い。体は私に背を向けたままで良い。
「最も鮮烈で疑いようもなく知らしめる効果的な方法について提案します」
視線から逃れるように、渡された書類の一番最初のページの1行目を目で追った。洋燈に照らされながら、見慣れた癖の無い文字が綺麗に等間隔で列を成している。
爛々と目を輝かせて声を張り上げでもすれば振り返るかもしれない、慎重に声を落として、それでいて少し離れた彼の元まで丁度聞こえる質で言う。
「難しく考えればうっかり人類の起源にまで遡ってしまう程に難解だったけど、もっと笑ってしまうくらいに簡単な方法があってね」
単純明快でお粗末で救いがない、私らしい稚拙な考えだと軽蔑するだろう。

「私が、私が死んだら、亡骸に縋って泣いてくれればいいの」

なんと女々しい兵士長。そんな姿は微塵も想像も出来ないし、何よりも周囲に示しが付かない。今まで築き上げ、勝手に一人歩きすら始めた兵士長像に最も反する行い。兵士達の畏れと羨望の象徴でもある人類最強の男がたった一人の女の為に泣くなんてあってはならない事だ。滑稽でお話にもならない。案の定彼は不愉快を露わに振り返って、底冷えのする声音を私に突き付けた。
「巫山戯てんのか」
口をきつく真一文字に結んで首を横に振った。馬鹿馬鹿しい話だがずっと考えていた事だ。簡単に揺らぐようでは発言の意味も責任もなくなってしまう。
「やけに具体的な提案だな」
まるで予定調和。皮肉に歪められた顔は彫刻の様に白い。不機嫌面に彫られてしまっているからしょうがないことだ。
「私の初陣が、次の壁外委調査に決まりました」
盛大な舌打ちに僅かに腰を浮かしかけた。心臓を止める気で睨み付けてくる視線に縫い止められて、私の体は椅子から1ミリも動くことを許されない。
「聞いてねえし、許可した覚えがねえ」
「私もたった今知らされたから。許可を下すのはリヴァイではなく、エルヴィン団長でしょう」
「その紙を寄こせ」
乱暴な手つきで手元の書類を奪ったリヴァイは、1枚目に目を通した途端に人相で人を判断するのなら間違いなく最低最悪の悪人面になった。彼の手の中で握りつぶされかねない書類の一番上の紙面には次回の壁外調査の要項と、中央には参加者名簿が連なっており、その中に埋もれるようにして私の名前が入り込んでいた。
「そもそもお前は調査兵団じゃねえだろ。人手不足でやむなしの臨時出向だった筈だ。それも巨人の生態調査員としてだ、間違っても前線になんざ出れるわけがねえ」
「2枚目が調査兵団への正式な移動辞令」
「許可してねえ」
「だから許可するのはエルヴィン団長だって」
「…圧力か」
「……違うよ、今回の件とはたまたまタイミングが重なっただけで、前から話があったことなの。いつまでも中途半端なままじゃ駄目だと思ったから自ら志願した」
「聞いてねえ」
「話したら反対するでしょう」
「当たり前だ、お前みたいな足手まとい入れたところで数の足しにもならねえだろうが」
「ハンジ班だもの。別にリヴァイの足手まといになるわけじゃない。ハンジさんだって歓迎してくれました」
「あのクソ眼鏡余計なことしやがって」
「最前線に出る貴方の班とは違ってハンジ班は比較的安全だから」
「比較対象を間違えるな。お前は駐屯兵団だろうが、根本から調査兵団の器じゃねえ」
「私だって訓練して、前ほど立体機動装置は苦手じゃなくなったんだよ。ハンジさんにも及第点もらったし、だから、恐らく、きっと、多分」
及第点って馬鹿か。わかっている、そんな事。自分の声が段々と尻すぼみになっていく。簡単に納得してもらえるとは思っていなかったので予想の範疇だが、なかなか骨が折れる。これではまるで互いに駄々っ子のようだと思った。絶対に分かり合えないと知っている癖に意地になって不毛なやりとり。ハンジさんに激励を篭めて叩かれた肩はとっくに緊張で凝り固まっていて、今すぐにでもこの部屋から飛び出したいし、辞令を手にしてからずっと腕が震えていることだって目の前の人には知られたくないから私はとても我が侭だ。卓子の下で握った拳が痛みを訴えるが、こうでもしていないと声まで震えてしまいそうだった。
「は?恐らく?なんだってんだ。言ってみろ、犬死にしてえって?」
「リヴァイ、ねえリヴァイ、わかってる癖に。
『誰かがやらなくてはならない。僅かでも力があるのならば尽くすべきだ。やらなければ、人類が滅びるだけだ』
そういう事でしょう?こうなる事、私が兵団に志願した時点でわかりきってた筈でしょう。私はもっと前から、リヴァイが出て行ってから覚悟をしてた。貴方だって、本当は、」
辞令を叩きつけるように卓子に置いたリヴァイは目を瞑り、暫く沈黙を貫いた。
その間も強かに窓に雨が打ち付けられ、遠くの方角から稲光が一筋落ちた。荒れ狂う夜の帳は私達の焦燥感を追い立てるが、それだって彼を蒸発させるだけの威力はない。常に荒々しく粗野で少しも優しくない、リヴァイほど嵐の似合う男はいない。そして私もいつまでも嵐が止むのをじっと待っているだけの女ではいられないのだ。
私とリヴァイは昔からの顔見知りという間柄である。別れの日は今日の様な荒れた天候だった。重たい雪吹雪が吹き荒び、地上が白一色に染まった夜のことだった。その頃の私は兵団がどれだけ過酷であるかを今ほど理解してはいなかったので、大地に刻まれたリヴァイの足跡が吹雪に消されてしまうまで立ち尽くし、漠然とした喪失感に震えていた。翌朝には吹雪は止んで、それから三日も経たずに雪は溶けてなくなり、足跡すらも残さずに去っていった薄情な彼のことを恨んだ。
彼が常に死と隣り合わせにいるのだと思い知った日からどうしただろうか。いつも泣くのは私の方で、リヴァイは一度だって慰めることも、ましてや涙することなんてなかった。
「おい」
我に返ると、真横にリヴァイが立っていた。いつの間に、驚愕に言葉を失った私を見下ろすリヴァイの背後で、稲光が闇の中を走り抜け、なんという相乗効果だろう、腰を抜かして、視線は彼の胸の辺りを彷徨った。
「よくもまあ、こんな有り様で大層な口がきけたものだな」
卓子の下に隠されていた手が逃れる間もなく捕らえられ、想像以上に大きな手の平が私の手首を痕が残るくらい強く握った。血の通わなくなった指はみるみる色を失ってゆく。侮蔑の混じった声音が震える体に追い打ちをかけるが、リヴァイはそんな様すらを鼻で嘲笑い、いつまでも顔を上げようとしない私に痺れを切らし、すぐ横の椅子に腰を降ろし強引に私の腕を引いた。
「いっ!」
盛大に頭突きを見舞わされたと気が付いた時には脳裏に火花が散っていた。痛みに蹲ると、自分とリヴァイの足が目に付いて眉を顰めた。今、私達はこんなに近くにいるのに少しも距離が縮まらない。容赦ない激痛のせいで瞳に膜が張って、直ぐにでも決壊してしまいそうだった。一体何を考えてんだ、苦々しい声が頭上から聞こえると鼻を啜った。
「だから私はリヴァイが血も涙もある人間だってことを証明したい」
最も未練がましく利己的な手段で、人類最強の男が歴とした人間であるということを。
「わからねえな」
そう言って、リヴァイは私の手の甲に噛み付いた。そこは丁度柔らかい部分で、犬歯が鋭く突き刺さり、時間差でやってくる痛みに眉を顰めた。咬噛力まで人類最強だったらどうしよう、骨まで噛み砕かれて剣すら掴めなくなる。それは困る、と口を開きかけた所であっさりと解放された。見せつけるように持ち上げられた私の手には痛々しい歯形がくっきりと残っている。容赦なく、血がうっすらと滲み始めたその痕を見て、リヴァイが存外歯並びが良い事を知った。体中の神経が、歯形に集中して落ち着かない。
「どうして、わからない?」
首を傾げ、同じ言葉を繰り返した。だって、もう限界なんだもの。
噛まれた痕からじんわりと痺れるような痛みが感染していく。巨人に食われたらこんなもんじゃ済まねえんだ。そんなこと、知っている。体中が震える程、知っている。入団以降、沢山の犠牲者達を見てきた。渡された辞令はまるで、余命宣告だと思った。貴女の残りの命は、あとこれだけです。そんなことを言われて震えない人間などいるのだろうか。
けれども、恐怖よりも上回る感情があるのだとしたら。

「貴方が沢山の血を流して死ぬ瞬間に、私を想って泣けば良い、とも思ったけれど」

そしてその美しく、陶酔的で劇的な最期に私が貴方に縋って泣くのだと思った。
「でも、そうじゃない、そうじゃなかった」
だって、知ってしまったのだ。
貴方が死んだ世界で私が生きていくことはとても難しいこと。私は明日にでも死ぬかもしれないが、貴方は生きていなければいけない。
想像するつもりもない。生きていないリヴァイなんて、誰よりも生き急いで、死を見据える後ろ姿が絶える姿など、冗談でだって認められない。壁の中では息が詰まる。だから一刻も早く出て行く事にした。出てどうするの。出たらきっと生きてはいられなくなる。それが良い。恐ろしいが、満たされる。日がな忍び寄る暗い未来に怯えることもない。
最期の瞬間まで、私が言った言葉を覚えていて。
貴方が死を迎える日、それは溶け出して、体中から流れ出す。人々はそれを見て、貴方が誰よりも温かい血の流れた人間であると思い知る。

、お前は救いようのない馬鹿だ」

瞬きをした。今ならあらゆることを想像して、予言する事ができるような気がする。明日、雨は止まず、寝不足のリヴァイは不機嫌で周りに当たり散らすだろう。雨は止まない。3日間降り続き、その間に私はじっと部屋に篭もって、あらゆる言葉の中からたった一つ、最も大切な一言を導き出すのだ。
貴方はその言葉を、今と全く同じ顔をして、馬鹿だと言うのだろう。

「でも、遺言は死んだら言えないでしょう」

こうして生きていたって言えない言葉は沢山あるのにね。

目を瞑ると遠くの雷鳴が体中に轟き、繋がっている手の辺りからは二人分の鼓動が伝わってくる。
何も飾ったところはなく、何も新しいこともない。ただ手を取り合い、そこから全てがゆっくりと沈黙し、集中していく。
リヴァイが言った。絶対にお前の望みなんて叶えてやれねえな、間抜けなお前の死に面なんざ笑いこそすれ、泣けるわけがねえ。
私はその言葉に満面の笑みで頷く。

――本当は、そう、貴方の笑顔を、永遠に二つの瞼の奥に焼き付けたい。何故だと思う?

雨音が止め処なく私達の心臓を叩き、止まない流動に足を掬われた。


(2013.09.30)
企画サイト「夏恋」さまへ提出。素敵な企画をありがとうございました!