めぐる五月は世界の


カタン、カタンと規則的に揺れ続ける箱の中で微睡みを覚える。体に震動が伝わる度に、自分が世界に認識されているようで、認識されることを望んでいるように身動きををせずにじっとしている。座り心地について考えることをやめてしまった、擦り切れて叩けば埃が舞いそうな椅子は、私が定期的に踵で蹴りつけても文句を言わなかった。
遠くの方で赤ん坊の泣き声が聞こえたのが何時間も前の事のように思える。正確にはまだ一時間も経っていないというのに、半日以上ここに座り続けていた気分に陥っている。泣きやまない赤子をあやす母親が、二つ前の駅で降りていった所を見送ったことも速やかに記憶から遠ざかっていく。親子が降りてしまうと、広い箱の中で独りになった。正確には斜め向かいの席に初老の男性が座っていて静かに読書に耽っているのだが、時々ページを捲る以外一切の音を発しないので、彼が本当に其処に存在しているのかどうか怪しかった。

世間で言うゴールデンウィークが終わって数日後、衝動的に列車に飛び乗った。行き先は知らない。その列車が何という名前で、時速何十キロで走って、いくつの駅に停車をするのかも知らない。何も知らない列車に片道の乗車券を握りしめて乗り込んだ。特急券は持っておらず、田舎の名も知らぬローカル線はたった一枚の紙切れで逃亡を謀る私をすんなりと受け入れた。年季の入った車体は、各駅に停車する度に泣いているのか笑っているのか、はたまた絶叫しているのかわからない精神を脅かすような音を立てて止まる。窓のサッシは錆び付いて、もう何年も開いたことがないのだろうという有り様。外界とこの箱を隔てる透明な窓ガラスはすっかり指紋だらけで、陽の光を浴びる度に沢山の人間の息遣いを主張してくる。連休明けの、しかも平日、中途半端な時間に女の子が一人、じっと座席の上で揺られている姿を奇妙に思った車掌が怪訝そうな顔で通り過ぎて行ったのが丁度20分前。私は目を合わせることもなく、窓際で頬杖をついて外の景色を眺めていた。
「お嬢さん、隣いいですか」
良くないに決まっている。これだけ空いている車内で、わざわざ息の詰まるような席に座りたがる人間の意図なんて知りたくもない。鬱陶し気に視線をあげれば、私の返答を待つこともなく声の主は素早く向かいの席に腰を下ろした。
「いやあ、ええ天気やなあ」
落ち着いた声と独特のイントーネーションは聞き慣れたものだった。
私が視線を上げた状態のまま固まっていると、相手はやあ、と愛想良く片手を振って、きっちりと姿勢良く私の向かいに座って笑った。瞬間、ずるりと頬杖をついた腕から顎が滑り落ちて窓に頭を強かに打ち付けてしまった。痛みよりも驚きの方が数倍も勝っていて、崩れた体制を正すよりも数秒前に、なんで、と声が零れた。
カタン、カタンと箱が揺れる度に頭を窓に打ち付けていると、すっと長い手が伸びてきて私の頭をすくった。すくわれたまま耳の付け根あたりに置かれた指がこそばゆくて身を縮こませ、自分の手を添えると、骨張った大きな手はどんなに大きく伸ばしたところで私の手に余ってしまった。
「なんでって、こっちの台詞や」
別段咎めるでもない声は耳に良く馴染んだ。聞き慣れた声だ。つい最近まで、世紀末が来たとしても最後の瞬間まで私に語りかける声だと信じて疑っていなかった。しかし現実は世紀の末どころか始まったばかりの先っぽの辺りでぽっきり見知らぬ誰かに片手で握りつぶされてしまったというお粗末なものだった。
「だって白石、どうして、ここ」
手を伸ばして少し前屈みの白石の顔が思ったよりも近い距離にあったことを不思議に思う。一人きりの箱だと思っていたのに、君がいること。
「どうしてって、が真っ白な顔してこの電車に乗るとこ見かけてな、気付いたら俺も飛び乗っててん」
そもそも学校に背向けて歩いてるあたりから追いかけてたんやけども。そういうの、何て言うか知ってる?私が目を細めると、悪びれもせずに肩を竦めた。
文句を言いかけたその時に、先程の車掌が巡回の為に私達のいる車両に入ってきた。扉の開く音に気を逸らされると、壮年の車掌は私を一瞥して深い皺の刻まれた頬を少しだけ緩め、少し前と同じ様に会釈をして通り過ぎていった。私は思いがけず、相手は意図して合わさった視線に固まっていると
「あの車掌さんな、さっきからのこと心配しとってなあ、俺がさっき事情説明してみたら」
「なんて言うたの」
「『実はこれから危篤の祖父の見舞いに行くとこなんです。妹は昔からおじいちゃんっ子やったもんでそれはそれは落ち込んどりまして、しばらくそっとしといてやりたいんです』そしたら車掌さんえらく胸打たれたみたいでなあ、あの通りや。何にせよあちらさんもほっとしたみたいで良かったわ」
「なんというはた迷惑な嘘を」
「こうでもせな今頃補導されてたかもしれへんやろ」
「別に落ち込んでへんし。…しかも妹って、えらく似てない兄妹ですこと。そもそも私のが4日早生まれやもん」
生まれた日にちが4日違うだけでそれ以降はずっと一緒にいたように思う。家が近所で私達が生まれる前から親交のあった両親達のお陰で何かと一緒にいる機会が多かった。誕生した日からのマイナス4以外は殆ど一緒だった。俗に言う幼なじみという関係は私達が中学に入るまで続けられた。小学校まではべったりだったというのに、中学に進むとお互いそれぞれの時間に忙殺され、次第に会話も少なくなっていった。私には私の、白石には白石の、つまり私の知らない彼の日常があるという事に違和感を覚え、首を傾げると周囲にはそれが当たり前なのだと教えられてから私の心は荒んだ。何しろ今までが異常だったのだ、思春期の異性同士が子供の時の無邪気な関係でいられるわけがない、というのが周囲の言い分で、私達はそんな一般論が当てはまるような安い関係ではないと思っていた。思っていたのに白石は違った。真新しい制服に身を包んだ途端に、今までの事を全て精算して私から離れていった。私は白石が自分の半身か何か、とても近しいものだと思いこんでいた。すり込まれていた。この別離は当たり前の事で、必要なことで、白石はとっくに理解していて、甘えていたのは私だけで、距離が生まれたのは他ならぬ白石の意思で、それが悔しくて、半身が引き裂かれたような絶望的な感情を一方的に持て余して、一人だけ取り残されたような気になって苦しかった。頭では理解していても心がついていかず、大人びた表情を見せる白石を見るたびにもやもやとモラトリアムの真ん中を彷徨った。白石は非情な親鳥だ。過保護なまでに散々と餌を与えておいて、ある日突然準備の出来ていない雛鳥を巣から蹴り落としたのだ。その時雛鳥は自分に翼があった事を思い出すことが出来たけれど、住み慣れた巣に戻る方法だけが思い出せなかった。初めて空を飛べた高揚感に歓び頭上を見上げてもそこにはもう親鳥はおらず、突然の独り立ちは空の青さと風の冷たさが全てを占めた。ああ、酷い。
突き放しておいて、時々こうやって無遠慮に近づいてくるところも酷い。いっそ全てを断ち切ってくれればいいのに、それをしない私も、平然な顔をしてその一線だけは死守し続ける白石も残酷だ。いつか元通りになるのではないかと淡い期待を抱いてしまうのは未熟だからではない、酷薄だからだ。多感な時期なのだ、私達は。危うい時期を違いに探り合いつつ背を向けるなんて器用な事が出来るわけがない、いつか綻びがでる。

白石はじっと黙って、さっきまで私がそうしていたように、頬杖をついて流れる景色を眺めている。知性の宿った瞳が私がみるものと同じ景色を滑り、かみ合うことのない色を乗せて風のように走り抜ける。
「ねえ、学校行かんでええの、部活とか、私は帰宅部やからええけどもあんたは部長やろ、それに、優等生の白石がサボりとか、そのう…彼女が、心配するのとちゃうん」
猫背気味の、姿勢を崩したままちらりと私を一瞥して、視線を窓の外に置いたまま、表情無く「ああ」と言った。ずっと鬼門のように避けてきた言葉を言ってしまったことで、どんな返事が返って来ようとも私の頭の中は真っ白だった。ちっぽけなプライドだけを顔に貼り付けてじっと窓を睨み付けている。
ゴールデンウィークが明けてすぐ、校内はその話題で持ちきりだった。
「白石君に彼女が出来たんだって?!何か聞いてる?」
私達が幼なじみだと知っている小学からの友人の一人が私のところにきてそう言った。私はその時、今とまったく同じ顔をして、
「知らない、そうなの?おめでたい話やな」
おめでた過ぎて笑いが込み上げた。その横で事実を追求された白石が困ったように苦笑していた。相手は学年一の可愛い子。お似合いカップルや!と友人が言った。
「その話な」
あの時の出来事を切り取ったように、白石は笑う。そんな顔をされては対応に困る。昔はこんな笑い方をするような人ではなかった。今ではすっかり知らない人。
「まあ別に私には関係ないけど」
関係なかった。発作のように知らない電車に飛び込んだのは何も白石のせいではない。私の世界だって確実に動き出していて、昔のように白石で埋もれていた世界は過去の産物だ。空を飛ぶことを覚えた雛鳥にもはや古巣は必要ないのだ。
「別に」
とんとん、と神経質に窓ガラスを叩く音に顔を上げると能面のような顔をした白石。長い指が単調に音を発する。
「周りが勝手に騒いどっただけや。確かに告白はされたけど付き合うてへん。断ったら脅迫紛いに泣き付かれて仕方なしに『ほな友達から』て言うたら尾ヒレがついて収集付かなくなってなあ」
今は部活に集中したいから、正直それ以外の面倒事は堪忍やから参ってんねん。
へえ、そうなんだ、生返事も出来ずに白石によく似た人を見た。私の視線を奪い取ることに成功した途端に、窓を叩く指は使命を終えて行儀よく元の位置に戻っていった。
「へえそうなんだって、そういうことなんです。もっと心配とか安心とか、してくれるわけないよなあ」
「まさか私に心配とか安心とかしてほしいなんて思ってるわけないよなあ」
今更、と私は笑って、もうここにはない過ぎていった景色の一部、木の形や雲の色、屋根の上を歩く猫の尻尾の長さを思い出そうとしている。白石の反応よりもよっぽどそのことの方が重要なのだと思っている、ふり このようにゆらゆらと視線を外の景色に彷徨わせてずっと重要な何かを見逃してしまわないように、そうしていればずっと確かな、現実味を帯びた、白石の掌よりも硬くて大きな、触れても消えない未来を感じていられる何かを手にいれられるように。
「…今は俺がの心配をしとるけどな」
ああ、ちっとも落ちてこない。列車は暗いトンネルの中に入り、窓ガラスには間抜け面の自分の顔が無理矢理入り込んできて、終末のようだ、顔をしかめる。視界の端に同じく終末を実感している、白石の顔が包帯の巻かれた左手で頬杖をついて、ガラス越しに、私の事を観察している。ほんの数秒に満たない終末が終わりを告げると、再び姿を見せた太陽の眩しさに目を休めるふりをして瞼を閉じた。橙色の瞼の中は生温く心地よくもない所だった。しかし終末よりは寒くもない。
「本当は俺もこうやって息抜きがしたかったのかもしれん。そやから今日はに感謝してんねや」
勝手について来た癖に都合の良い事を言う。そんな捻くれた反応しか出来ない自分が幼稚だな、と思う。ゆっくりと瞼を開ける。とても余裕がない、それくらいにこの旅は特別だった。
「で、どないしてん、思いつきで学校サボるなんてらしくないな」
らしいって何、私は元々こういう人間だってこと、知っている癖に。真っ直ぐな視線を感じて、開いたばかりの瞳をくるくる泳がせ、最終的にはまた窓の外の景色を眺めた。一瞬で現れて、一瞬で去っていく景色。触れたようで、ちっとも触れていない。もう雲の色だって、猫の尻尾の長さだって覚えていない。それでも通り過ぎてゆく知らない誰かの息遣いに目を凝らして想像してみる。そこに私はいなくて、ただ通り過ぎていく知らない誰かの一人になっている。私はそこで生きてはいない。ただ過ぎていくだけ。
こうして周期的に旅に出たくなる。同じ所にいるのは息が詰まって死んでしまいそう。じっとしていられないようにコントロールされている。だから旅に出て確かめたいのだ。白石にはテニスという絶対的なレールがあるけれど、私には何もなかった。何もない場所をただ歩くのは迷子になっているようで嫌だ。だから知らない列車に乗って、終着地がどこなのかを確認しに行く。私の知らない人生がそこに繋がっているかもしれないと思いながら、過ぎていく景色を置き去りにして。置き去りにされるのではなく、置き去りにする。そう考えると何もかもがずっと上手くいく。簡単に進むことが出来る。
敷かれたレールは歪みなく終着点に向かうから、導かれているように錯覚しながら。
「どないも何も、今日は数学で当てられる日やからサボりたかってん」
そんなどうしようもない理由で逃げたくなる。白石は、そんな私を茶化すでもなく、難しい顔をして黙り込んだ。
「数学は、今後の人生で役に立つ事がようさんあるからサボったりしたらあかん」
沈黙の末、ようやく絞り出したのはそんな取るに足らない回答だった。あの、聖書だなんて呼ばれている白石が、こんな子供でも分かるようなことを言うなんて。想像よりもずっと参っているんじゃないの。
「ほんなら理科でもええわ、将来文系に進むつもりやから理科なんてなんの役にもたたんし」
「あんなあ、学校で学ぶ事にムダなもんなんてないで」
「ああもう!そやかて白石がつまらん回答するからや」
「つまらないって」
「別に、白石が心配するようなことやない。私は、もう昔の私やないで、いつまでも白石に頼ったりせえへんの、もうずっとそうしてきたし」
これからもそう。白石は虚をつかれたように丸めていた背筋を伸ばし、数回瞬きをして私を見た。
「白石だってそうやろ、今更何の気まぐれかしらんけど、こんなこと何の意味もない」
私はただ列車に揺られているだけ。そもそも行き先すら気に留めない旅なのだから、白石にも気に留めて欲しくなんかない。
「気まぐれやないって言うたら?」
その時、列車は寂しい音を立てて知らない地名の書かれたホームに停車をし、違う車両から数人がぱらぱらと降りていった。私の目的地はまだここではないが、白石はここで降りればいいのに、期待を込めて正面を見ると、ようやく止まった景色に見向きもせず、真っ白な表情を貼り付けて私を見ている。私の返事を待っている。私はゆっくりと唾を飲み込んで、列車が再び動き出すのをただ待った。
「どちらにしても、私には困る」
すっかり慣れた揺れに身を任せ、走り出した景色の移ろいゆく様を眺めながら言った。私はこの神聖な空間を邪魔されたくない。それを当然のように白石もわかっているから、何も言えなくなってしまう。そしてほら、困った顔をする。
「なんや俺一人がアホみたいや、一人で突っ走って一人で頭抱えて」
そうして見たこともない顔をしたと思ったら、ぐっと薄い唇を噛み締めて一瞬、呼吸を止めて吐いてみせた。息苦しいのなら今すぐ他の席に移ればいい、これだけ広い空間で、二人してこんな近い距離にいる理由なんて知りたくもない。
「離れたら分かると思っとった。でも実際は違った。離れれば離れるほどわからんようになる」
「そんなの当たり前やろ」
「当たり前のことが俺には当たり前やなかった。俺達は最初っから当たり前やなかった」
止まらない窓の外の景色の疾走に、私は段々とついていけなくなっていく。
「呼吸をするのが当たり前やなんて考えたことあるか?考えたら今までどうやって呼吸しとったのかちっともわからんようになって、途端に息が苦しくなる」
目の前の白石はうまく呼吸が出来ているように見えるが、酷く苦しそうに顔を歪ませた。ああ、違う、全然違う、白石は清潔な包帯の巻かれた手で目元を覆って掠れた声で言った。
「ちゃうねん、俺がいいたいのは、そういうことやない、……に逃げて欲しくない」
白石は酷く疲れ切っている。いつも知性に溢れている瞳が弱々しく蔭っている。埃っぽい座席に深々と腰掛けて、いつもよりもだらしなく脚をだらりと伸ばして、目の前に座る私の二つの脚の間を器用に縫うように白石の長い足は無頓着に伸ばされる。普段なら絶対にこんなことをしたりはしないのに。私の名前を呼んだりなんかしないのに。数年前まで私の事を名前で呼んでいた白石は目の前の人ではないのに。
「最初に逃げたのは白石なのにそういうこと言うんだ」
「それは、」
「謝っても何に謝ってるのかわからんのやったら言わんといて、そもそも私も何に対して謝られるのかもわからん、そして私も謝らない」
「すまん」
「ほら、でた」
「俺、本当に、付き合うてないねん」
「やからそれを私に言われても」
「わからんのや、俺にも、もう何日も考えても答えがわからへんのや、わからんもんはわからん」
そんなことを言われても。久しぶりに白石と話をしたと思ったら、ちっとも会話が成立しない、それなのにいつも見ている白石よりもよっぽど人間らしくて私はとても泣きたくなる。嬉しいのか悲しいのかもわからなくなる。気にしていないのに、謝らないでよ、不必要な罪悪感が奇跡的に私の爪先の手前まで迫ってきている。
「白石にわからないことが私にわかるわけないやろ」
「そやな、そやから俺らは駄目なんやと思う」
「俺らて…わけもわからず巻き込まないでくれます」
「わかりたいねん」
わかってや、うん、わかった、わかってあげる、そう言えば白石は納得するのだろうか。白石は私の視線から逃れるように俯いている。いつもは完璧な人が完璧に迷子になっている。この人はいつだって完璧だ。私はとっくにわかりたいと思うことを放棄したというのに、白石は真剣な顔をして、真剣にわかりたがっている。
「俺に彼女が出来たて学校中に広まった時に、誰やそんなデマ流したの、ほんま堪忍してやって思うのと同時に、はこの事知ってるやろか、どう思ってるのやろか、そないなことばっか頭に浮かんでな、ほんで偶然がその事で「めでたいな」なんてあっけらかんと言うてるとこ見かけて、」
「ねえこれ話す人間違うてる」
「間違うてへん」
俺は、本当にのこと心配しとんねや。俺は君が何を考えてるのかちっともわからへん。心配でしょうがないねん。こんな行き先も考えんで乗った列車でどこに行くつもりや、これ以上遠くに行かれてしもうたら俺はどないしたらええのや。
何やそれ、ちっとも意味がわからん、私が白石に返すことが出来るのは泣き笑いだけだった。
「今更勝手過ぎるわ」
「ほんまに勝手や」
そうしている間も列車は私を、私が望む方向に導いてゆき、私を追いかけてきた白石は確かに私の行き先を心配して、心配だと言って、私の目の前に座っている。自分のこともわからないのに、人の気持ちばっかり気にしてる人。私は白石が泣いているところを見たことがないけれど、泣き崩れるきっかり10秒前のような顔をしているのだと思った。それはどうしようもなく私の涙腺が崩壊しかける前兆なのだと気付く。

「俺にはもうこの自分自身の気持ちがようわからんのや、今朝ももし見かけたのがやなかったら、この列車に飛び乗ってたやろか、そもそも駅まで追いかけたりしたやろか、そやから俺も知りたい、この列車がどこまで向かっているのか、終着地は一体どこなのか」
終点が例えば世界の底やったとしても、きっと俺は、

それ以上聞いていられなくて私は目と耳を塞いだ。

カタン、カタンと私と白石を乗せた箱が揺れている。これは私の選んだ道なのに、白石が一緒に揺られている。
斜め前の男性はいつの間にかいなくなっていて、読みかけの古びた本だけがぽつんと椅子に座っていた。私達が騒がしいから逃げていったのかもしれないし、元からそこには誰もいなかったのかもしれない。ここは私にわかる限り、私達以外はだれもいない。
私はあとどれだけ続くか知れないこの時間で、終点に着くまでのこの限られた時間の中でひとつの選択を迫られている。
流れていく景色を見ている時はいつだって切ない気持ちになる。私は置いていかれるのが怖い、たとえ一瞬でも交差した関係をなかったことにされるのが怖い。だからもうずっと、白石の必要のない未来を探している。それは遠ければ遠いほど都合が良い。逆に言えば遠くなければいけない。用意周到に離れなければいけない。そして置いて行かれるなら、置いていく方がいい。そう思っている、そう思っているのに、そう思っていたのに、そう思ってさえいれば良かったのに。

今、私の頭はガラスに打ちつけられてはいないが、白石の大きな手がふたつ、私の首筋から耳元に回り、両耳を塞いでいる私の両手に覆い被さるように触れた。すっかり被さった私の手は隠れて、終末の辺りに隠れて、私の脳は通り過ぎた雲の色は白であったことを思い出し、屋根の上にいた猫の尻尾はぴんと伸びて、天に届くほどの長さだったことを思い出した。私の右手に触れる白石の包帯が巻かれた左手は煉獄の炎のように熱く、私の左手に触れる白石の右手は永久凍土の深い底のように冷たい。熱くて冷たい手は、私の感覚がなくなるまでずっとそこに居続けるつもりだ。それがいつなのか私達にはわからない。

逃げて欲しくない、俺ももう逃げるのはやめにする。

私は、次に進むべき道を、未知を、右か左かどちらかを選ばなくてはならない。
長く感じられるこの一瞬のあいだに、この限られた時間の中で。

じきに終点のアナウンスが鳴る。





2013/05/28