透き通る空気が深々と体中にまとわりついて、熱という熱をさらってゆく。
 いつもより少し早い朝、吐く息は白く、眺めていると目の膜まで白く染まってしまいそうだ。
 ちょっと前まで起きるか二度寝をするかを争っていた瞼は瞬きを忙しくさせていないと睫毛の先から凍っていくのだと思いこんで、私はもうずっと、一生懸命に目を凝らして地面を睨み付けている。それは、小石の一つですら見逃すものかという固い決意が混ざった、爽やかな朝とは言い難いものだ。
「ちょっとそこのキミ」
 道の端の植え込みには霜が降りていて、草木と霜の境目を念入りに覗き込んでいる時だった。
「キミやキミ。さっきから怪しい行動してるキミに言うてるんやで」
「すみませんけど今ちょっと立て込んでますので他を当たってください」
 でもな、あの、背後から尚も聞こえてくる声を聞き流して、今はもう前しか見ていない。絶対に有り得ないなんてどうして言い切れるだろうか。一縷の望みに賭けて、植え込みの奥に右手を突っ込んでみた。どうにか奥の方まで伸ばそうと無理矢理体勢で体を傾けると、髪の毛に枝の先が絡まって、やっぱりやらなければ良かったと後悔をしたところでもう遅く、身動きをすると頭が引きつる状況に文字通り頭を抱えた。植え込みに磔になった私はとても酷い格好をしている。
「あのう、すみません、助けてもらえませんか…髪の毛が大変なことに」
 盛大な溜息は誰のものだったか。藁にも縋る思いで自由な手を振り、必死に危険な状態であることをアピールすると、朝からカツアゲかはたまたナンパか、見ず知らずの人の気配が背後に回って私の髪の毛をすくいあげた。
「大惨事やな、…自分、猫っ毛やから芸術的な絡まり方してるで」
「うう、まだハゲたない…」
「これくらいじゃハゲません」
 直ぐ近くで響く声は心地よい低さで、じっとしといてな、と言われれば私の左手は素直に藻掻くのを止めて、同時に瞼を閉じた。ずっと忙しなく活動し続けた瞼はあっという間に鉛のように重くなり、冷え冷えとした空気だけが意識をつなぎ止めておく楔となる。見ず知らずのその人は、絡まった枝と私の髪を傷つけないように器用に指を動かしてみせた。
「はい、綺麗に取れました」
 ほっと息をついて頭を動かすと、簡単に左右に振れた。
「あ」
 ありがとうの最初の一文字を言うより早く、情けない声が口から飛び出した。まさか。まさかのまさか。
「あ?」
「あー、…そのう、今度は右手が抜けないんやけど」
「…キミみたいな子をアホの子って言うんやろな」
 眉尻がみるみる下がった。互いに情けない顔をしている。とにかく私は彼の言葉に反論できず、すみません、助けてください、消え入りそうな声だけが私達の間に漂う玉虫色の空気に溶けていく。上体を起こそうと全身に力を入れると、右手が植え込みから出てくることを拒んだ。そろそろ中腰の体勢が辛く、顔だけ必死に植木から逃れようと仰け反る体勢に悲鳴を上げてしまいそうだった。家を出る直前に弟が「今日の姉ちゃんの運勢最下位やで!かーわいそうに」と言っていたのを今更になって思い出す。あの時どうしてラッキーアイテムを聞いておかなかったのか。
「なんでこんなことになるんや」
「それは俺の台詞や」
 どれどれ、背後から覗き込んだ人のミルクティー色の髪が視界いっぱいに広がって、あ、と思った時にはその人は躊躇いもなく私と同じように植え込みに手を入れていた。
「あー、コートの袖が枝に引っかかっとるわ、ちょっと動かんといてな」
 この間の休みに買ってもらったばかりの新しいコートだ。本当は白が欲しかったのに、あんたはそそっかしいから白はあかん、汚れてもいいように黒にしときなさい。最初はちょっと不満だったけど、リボンがモチーフのボタンが可愛いらしくて気に入っている。まだ数日しか着ていないのに、傷物になってしまうのは悲しい、と思っていることを察したのか、背後の人は慎重に、そして丁寧に、私も枝も傷つかないように除けてくれる。私はそれを妨げてしまわないように身動ぎせずに見守っている。
「取れた、そのままゆっくり右手を引いて、そう、ゆっくりや」
 恐る恐る右手を動かすと、すんなりと植え込みから解放された。ああよかった、ありがとうございます。いやいや、大したことしてへん。自由になった体ごと振り返ると、親切な人は満足そうに微笑んでいる。馴れた仕草で謙遜してみせて、少しのふたごころもなく、親切を押しつけることなく言うので、私は乾いた目をも何度も瞬かせた。
「俺が通りかかってなかったらこの寒空の下、ずっと磔になるところやったで」
 朝から眩しいくらいの真っ直ぐな視線は、息苦しいまでの冷えた外気よりも清爽な色をして私を非難した。居たたまれなさに俯いてコートの袖を確認すると、どうやら傷も綻びもない。なんでこんなアホなことをした?でもね、あのね、これにはわけがあってね、通りすがりの人間に言い訳をしどろもどろに始める可笑しさに私の声は徐々に小さくなっていく。何でこんなに必死になっているのだろう。
「まあ、それはさて置き。キミに声をかけたのにはちゃんと理由があってな」
 そう言って、彼はコートのポケットから何かを取り出した。

「キミが落としたのは、この金の手袋ですか、若しくはこっちの銀の手袋?それともこの味気ない軍手ですか?」

「……」
 反応の薄い私に、彼はおや?と首を傾げた。面白くない?彼を中心に時間が止まる。佇まいばかりは神々しく見えなくもない。植え込みを挟んだ向こう側は朝の通勤ラッシュで交通量が多い騒がしい時間帯が始まっているというのに、私の思考は努めて冷静に止まっていた。
「どっちも金でも銀でもなく紺色の手袋に見えるわ…。そもそも何で軍手持ってるんや」
 私が手袋を探していることは間違いなかった。右手のそれを落としたことに気が付いたのは昨日の放課後。鞄の中にもコートのポケットにも見当たらない。すっかり日も落ちた時分だったのでその日は断念せざるを得なかったが、逸る気持ちを抑えきれず、こうして早起きをして通学路の思い当たる場所を探し回っていた。左手には対の手袋をはめているが、それは綺麗なえんじ色をしていて、どこからどう見ても軍手ではない。
「ボケ殺しやなあ」
 軍手は技術の授業で使うからたまたま持っていただけや。こんなところで役立つなんて思っても見なかったわ。いやいや、役に立ったとはとても思えへんで。残念そうに再びポケットに仕舞われる軍手を胡乱な目で見ているとその人は苦笑した。
「今日はボケ講座があるから予習のつもりやってんけど、上手くいかないもんやなあ。俺もまだまだ勉強が足りてへんっちゅうことやな」
「ボ、ボケ講座?」
「おん、ちょっとボケを極めようと思てな。…そや、キミの手袋はこれやろ?昨日この辺りで拾って持ち主探しててん」
「あー!!そうそう、それ私の!」
 今度こそ鞄から取り出された見覚えのある色の手袋に思わず飛び上がった。
「持ち主が探しに現れるかもしれへんと思って来てみて正解やったわ。案の定キミが不審な様子でふらふらしてるし、声かけたら不審者扱いされたけども」
「お、お恥ずかし…」
 恐縮する私のことをまじまじと見たその人は、声のトーンを一段落として、知らない人間に簡単に背後を預けたらあかんで、今回は俺だったから良かったようなものだと厳しい言葉で私の心臓を一突きした。途中からはとにかく身の安全よりも抜け出すことに必死だったのだ、と心の中で言い訳しつつ、彼が殊の外真剣な顔をしていたのと、実際に反論の余地もなかったので素直に頷いた。よろしい、気ぃつけや。まるで出来の悪い生徒を持った苦労性の教師みたいな顔。
「にしても自ら植え込みに磔になる女子なんてはじめてみたわ。朝一で自分の中の常識が覆されてしもうておかしな気分や。授業に集中出来なくなったらどないしよ」
「え?」
「ほなまた」
 その人は去り際に片手をひらひらと振って行ってしまった。掲げられた左手の白が目に止まり、清潔な包帯が巻かれていることに気が付く。
 行き先は同じだった。私が通う学校の男子用の制服を着ている。
 初対面なはずだけど、私は彼を知っていた。彼は学校ではちょっとした有名人。変わり者の集団の中で埋もれることなく、さらにはその中でも群を抜いて鮮やかな彩を放つ人だ。友人がこっそり憧れていて、度々話の端っこに出てくる人。汗を掻いてもちっとも臭くないねん、とにかく存在自体がシトラス香らせとんねん、鼻息荒く捲し立てる友人の言い分は果たして正解だった。去っていく後ろ姿さえ凛としていて、冷や汗もすっかり乾いた私はさめざめと見送った。
 それから少しの間の後、我に返った私はとにかく首を傾げる。何なのだろう、この違和感は。数分前までの気安さで忘れてしまいそうになるが、全くの初対面である。隣のクラスだから廊下ですれ違うこともあったかもしれない。会話をしたことも面識もないけれど。
 つまり、この瞬間が私達の初めての、正式な邂逅だ。芸術点を付けるとしたらマイナスだろうか。ユニーク部門があったらぶっちぎり。
 自分の足元にだけ、地震が起こったみたい。ぐらぐらと体が傾く感覚に、疲労感がようやく訪れたことを実感する。眩暈だ、眩暈がする。
 紅くなった右手が寒さに震えた。

「手袋…返してもらってない!」

 あの人、結局なんのために声かけてきたんや。本末転倒やで。



* * *




 その日の放課後、隣のクラスに乗り込んだ私を見た彼は目を丸くして、それはちょっと見物だった。
「おっどろいた…名乗ってへんのによく俺のことわかったな」
 その言葉にいささか後ろめたい気持ちになりながら、まさか友人が貴方のファンだったんですなんて言えるわけもなく言葉を濁した。
「よくよく思い出してみたら私達お隣同士やってん。白石蔵ノ介くんだよね、君ってなかなか目立つし直ぐわかったわ」
 へえ!部活に向かう間際だったのだろう、大きなスポーツバッグを抱えた白石くんはぱちぱちと瞬きをして私を見下ろした。それで何の用事や、なんて聞かずにバッグから一つの紙袋を取り出すと、今度こそ私に渡した。中を覗くとそこには金でも銀でもない、えんじ色。ほっと溜息を吐くと、今朝はうっかりしてたわ、堪忍な、と謝罪が降ってくる。
「や、落としたのは私やもん、こっちの方こそお手間を取らせてしもうてごめんなさいや」
「白石!何しとんねや、はよ部活いくで――て誰やねんそいつ」
 友人の一人なのだろう、派手な頭をした男子が一人、急かすようにこちらにやってくると、不躾に私を見た。
「んん、なんや見たことある顔やな、…おお!自分もしかしてこないだの放課後に裏庭で大の字になって寝てた子か?呑気な顔してぼおっとしとったやん、一瞬死体かと思って焦ったわ」
「は?」
 突然現れて爆弾を投下した男子は怪訝そうに首を傾げる白石くんと、雲行きの怪しい私の顔を見比べて、あ、とばつの悪い表情を浮かべた。だけどもう遅い、白石くんの中で私はエラいアホの子という位置づけにいることだろう。人気のない裏庭で、女子という性別をかなぐり捨てた私のあられもない姿を想像していることだろう。なんたって植え込みに磔になる女子だもの。
「…おおっと間違えた、あれや、あれ、こないだ何か写真のコンクールで賞とってた子やんな?隣のクラスのええと名前なんやったかな」
です。。どーもはじめまして」
「そや、一組のさんや!白石も覚えてるやろ?お前もあの写真みて綺麗やなあ、どんな子が撮ったんやろ、って言うてたやんか、そのさんやで」
「……」
 最早返す言葉もなく絶句した。
 秋の終わりに部活で応募した一枚の写真が入賞して少しだけ話題になった。華々しい運動部達の話題で盛り上がる掲示板の片隅に、ひっそりと受賞した写真が展示されていたことをどれだけの生徒が覚えているだろうか。受賞直後は知り合いから直接祝われたことはあったけれど、こうして影で褒めてくれていたことを間接的に知らされるとくすぐったく、紛れで受賞したようなものだが悪い気持ちはしない。
 でも、どんな子て、こんなアホの子ですみません。居心地悪く白石くんの顔色を窺うと、特別驚いた様子もなく、かといって笑顔を浮かべるわけでもなく、不思議な表情をしていた。
「…謙也、部活いこか。さんも騒がしくしてすまんな。あんなに必死に探すくらい大事なモンならもう落としたりしたらあかんで」
「う、うん。どうもありがとう」
 結局、白石くんは写真のことには触れず、最後まで真面目にお説教で締めて、ほなまた、今朝と同じようにひらりと手を振って、すれ違いざまに私の肩を叩いて去っていった。触れた指には白い包帯が巻かれていて、私は無性に袋の中のえんじ色を確認したくなった。喧騒が遠ざかると、静かに紙袋を開いた。中には落とした手袋の片方、それから見落としてしまいそうなくらい小さく畳まれた紙が一枚入っていた。ノートの端を切り取ったような急ごしらえのものではなく、淡い色の便せんが丁寧に折り畳まれている。それを見た瞬間に私の体温は一気に上昇してゆき、もどかしい手つきでそれを開くと同時に眩暈を覚えた。
 真ん中に一言、こう書かれている。

『このえんじ色、さんに良く似合ってると思います』

 私の手の中で浮いている便せんの淡い色は、入賞した写真の空の色によく似ていた。



「先ずホラーだと思ったよね」
「そうやって素直になれへんのはの悪い癖や」
「だって初対面の筈なのになんで名前知ってるんやろって怖くなるやろ普通…てゆかあんなん口で直接言えばいいのにわざわざ手紙にしたためるとこが怖いわ」
「そらインパクトが欲しかったからや。口で言うたらキミのことや「あらおおきに」で終わってしまうのが目に見えてたし。だいたいかて俺のこと知ってたやんか、はい、おあいこ」
「あ、あれは」
「はいはい、お友達な、ほんまにええ友達を持ったな、今度お礼言っとこ」
 白石は口を尖らせた私の手を引いて、歩幅の小さい私に合わせるようにゆっくりと歩いた。
 日の落ちかかった遠くの方がグラデーションを描いて、雲間から除く紅色の一筋が隣を歩く人の輪郭をうっすらと撫でていく。鼻歌でも歌い出しそうな横顔は時々白い息を吐いて、時々私を見る。私はマフラーの中に口元を埋めて俯きがちに視線を下に彷徨わせる。
「俺な、と話す前からキミの撮った写真が好きやってん」
 昔を懐かしむような柔らかい声に思わず顔を上げると、声に違わず和らいだ表情が私を迎えた。
「あの頃は丁度全国大会が終わって、目標にしとった試合に負けて、ちょっとだけ気が落ちてた時でなあ、そんな時に掲示板での写真を見つけて、眩暈がした」
 写真のテーマは「夢」だった。真面目に夢なんて語ったこともなかった私がレンズ越しに見る世界は眩しく、その一角を切り取った一枚の写真は、まだ形のない夢への憧れ、象徴を焼き付けていた。
 そんなこと、初めて聞いたんだけど。突然の告白に、私はあの時白石が浮かべたものと同じ不思議な顔をして立ち尽くした。今ならあの時の彼の気持ちがわかるかもしれない、と思いながら。
「空に向かって一羽の鳥が羽ばたく写真。キミの写真にまるで俺の夢まで被ったんとちゃうかって錯覚した。どんな子が撮ったんやろ、って気になって隣のクラスの女の子やって知って不思議な気持ちやったな。あの日、初めましてって言われたけど俺はとっくにのこと知ってた。が時々裏庭に仰向けになって、空いっぱいにカメラ構えてるとこも何回も見たで。俺に足りなかったのは、こうやって伸び伸びと空を見上げることやないかって胸が熱くなった」
 せやから。言葉を切った白石は、また私の手を引いて歩き出した。
は空が好きやんな」
「…そや」
「俺は、テニスが好きや」
「…知ってる」
 繋がれた私の右手と白石の左手。彼の手には包帯が巻かれていて、少しかさついている。この、頑張り屋さんの左手がたまらなく好き。そして私の指はハンドクリームを塗ったおかげで滑らかに白石の左手の中に収まっている。
 白石は見覚えのある場所まで来ると立ち止まって、ゆっくりと私の方を振り返った。
「そう、ここで出会った時、この植え込みに突っ込んでいくキミをみた時な、直ぐにやってわかったで。正確にはが手袋を落としたところを偶然に見かけた時、やけども」
「な、なんで直ぐ教えてくれなかったんや」
「さっき言うたやろ、インパクトが欲しかったって。実際はの方がよっぽどインパクトあって嫉妬したけどな」
 ほんまにには敵わんわ。白石は相好を崩しながらその場に屈み込むと、懐かしい植え込みを覗き込んだ。
「あれからきっかり1年やで。早いもんやなあ」
 あの日と違うことといえば、私は白いコートを着ていて、手袋をしていない手は白石と繋がっていること。白石は私に敵わないと思っているけど、私の方がもっと敵わないって思っていること。
「あっという間やな。あと少しで卒業なんてよう信じられへん」
「それで、その目出度い一年目に、そそっかしいサンは、また手袋を落としてしもうてんな」
「え、ええと」
「またここ調べて見る?」
「それはもう堪忍や…」
「せやな、ここにはないやろうなあ、にしてもそれ、相当大事なもんなんやな。ようようなくすけど」
 引きつった笑いを浮かべて、祖母が数年前に贈ってくれた手編みの手袋を撫でる。祖母はとても器用で、その血を受け継いだ母はなぜかとても不器用だ。果たして私はどちらに似たのだろう。
 白石はほら、と言って左手を差し出した。冷たくなった右手を重ねると優しく包み込んでくれるに違いない。
「今日は自慢の銀の手袋は出番無しなんや?」
「可愛いの手を温めるっちゅう大切なお役目があるからしゃーないよな」
 夕日が落ちると途端に寒さが増す。私達は温め合うように手を繋いで通学路を歩く。何気ない日常を確かめる為に互いの温度を気にしながら、歩幅は私のペースに合わせてくれるのだ。つまり、私がゆっくり歩きたいと思っていることを白石は気付いているので、私達の前をゆく二つの影は仲良く並んでいられるのだ。
「暗くなってしもうたから、探すのは難しいかもな」
「…おん」
 歯切れの悪い答えに不安の色を感じ取ったのか、白石が私の顔を覗き込んだ。どないしてん。寄せられた顔は暗がりの中でどのような表情を浮かべているのか少しもわからない。困っているのかも知れない。呆れているのかもしれない。
 でも白石は困った人間は放っておけない優しい人だ。それは一年前から知っているので、白石は今、とても優しい顔をしているのだと思う。
「白石あのね、実はね」
「こんな時に不謹慎やけど、俺いまとっても幸せやねん。は恥ずかしがり屋やから、こういう切欠がないと手なんか繋いでくれへんやんか」
「え?」
 私は立ち止まって、見えないはずの白石の顔を見上げた。その時、丁度背後から車がやってきて、私達の姿を明るく照らしていった。白石は戸惑う私の手を逃がさないように、普段はラケットを握っている肉刺だらけの左手を私ごとコートのポケットに仕舞いこむと、嬉しそうに微笑んだ。

「切欠って大事やと思いませんか」

 唐突にこの人は、全部知っている、と気が付いた。私だって同じ気持ちだということに。ただちょっと、素直になれないだけで。素直になるためにはどうしたらいいのだろう、そのための切欠はどこに転がっているのか。
 白石の手はとても暖かい。けれど、和らいだ顔を怪しく光らせて、口の端をほんの少し持ち上げて言うのだ。

「実は俺、の鞄の中にお探しのモンが入ってるの知ってんねん」

 でも、と手を繋ぎたかったから黙っとってん。
 じんわりと、繋いだ手の、触れ合った部分が熱を帯びていく。最後の仕上げに頭のてっぺんまで熱が浸透して真っ赤になった顔を伏せて、どうしようもなく呻いた。

「めっちゃ死にたい気分や」


この出逢いを眩暈と称した

わたしの彼は左利き!2013」さまに提出
Title by「アセンソール
2014.03.09