遠い昔のことだと思っていた。
 一見して倒壊寸前にも見えるひび割れた天井は、しかしながら彼女の精神状態よりも余程の強度を誇示してを見下ろしている。心地良いとは言い難い固い寝台は最低限の清潔感を保っているが、室内はほんの少し埃臭く、身動ぐ度に錆び付いたマットレスが軋んで嫌な音を立てる。鼻を突く消毒液の臭いと、少し前から体内に溜め込まれ続けている死臭が混ざり合っているので、溜息を吐くことさえ憚られる。
 随分と昔に、今と同じような状態で、同じようなことを考えたことがある。
 重い腕を伸ばして頭上にかざしてみると、切り傷だらけの腕はとっくに白くて細い、いつもの頼りないものに戻っていた。
 寝台に肘をついて体を起こすと、胸の辺りに巻かれた包帯が視界に入り、そのように丁重に包んだところで何の意味も成さない空虚な空洞の中に、かつてそこにあったものの名残を感じて、そこで初めて苦しい、と感じる。苦しくて泣いてしまいたい、けれども、もう昔のではないので、彼女に『泣く』という選択肢は残されていなかった。
 外の様子を眺めようと首を伸ばした時、部屋の扉が開き、顔を覗かせたのは久しぶりに見る少年だった。
「ちゃんと大人しく寝ていないとシンドバッドおじさんに怒られてしまうよ」
 声には呆れの色が滲んでいて、は渋々と体を元の定位置に沈めて、顔だけを少年に向けた。
 同じように床の上にあった筈の彼は、と比べものにならない程血色も良く、確かな足取りで彼女の枕元まで歩いてきた。いつものあどけない笑顔を見ると、不安な気持ちは瞬時に霧散して、もう大丈夫なのだ、と安心させてくれる。
「おはようアラジン。元気そうで良かった」
「うん、おはよう。僕の方はすっかり元通りさ。寝過ぎて元気が有り余ってるくらいだよ。おにいさんはしばらく見ない間にやつれてしまったね。短期間でどうやったらここまでボロボロになれるんだろう」
 アラジンがの顔を覗き込むと、彼女はうっすら隈の出来た目元を緩ませた。
「見た目ほど酷くはないんだよ」
「そう思ってるのは君だけだよ」
「アラジンはすっきりした顔をしているね」
 首を竦めた彼女の、ほんのり煤けた髪を撫で、アラジンは、そう、僕はね、と頷く。はこの部屋に隔離されている間、外で起きている殆どのことを知らされていない。かろうじて教えられたのは、バルバッドの置かれている状況が思わしくないこと。アラジンが別室で自分と同じように眠りについていること、この2つだけ。それ以上を尋ねようとすると、直ぐさまシンドバッド王が笑顔で否を言い渡すのだ。重傷患者の君が知る必要のないことだ。これ以上心労を増やしてどうする、自分の怪我のことだけを考えていなさい。けれども、隠された現実に悶々と頭を悩ませることこそが体に悪い、と不満を露わにするを、ならば情報を一つ開示するたびに見返りを要求する、と無慈悲な一言で黙らせた王は、君を苦しませることが何をおいても心苦しいのだ。君も苦しい、俺も苦しい。互いに対等な立場であるのならば、俺とて見返りを求めるのは当然のことだろう。と優しく、優しく言って聴かせた。それ以来すっかり大人しくなったは重傷患者として模範的な態度でジャーファルを満足させた。
「こうしていると、自分が大怪我を負ったみたいで堪らなくなる」
「その通りじゃないか」
「そもそも死なないのなら大怪我とは言わないよ」
「痛みはあるのに?」
「自業自得ならしょうがない。同じ痛みで死ぬかもしれない命と、死なない命なんて比べることもできないでしょう」
おにいさんは一体誰の命と比べているんだい?その痛みは誰のものでもないのに、どうして他の誰かと比べる必要があるんだい?」
 はアラジンの言葉に息を呑み、何も言わずに顔を伏せた。恐らく彼女はこう思っている。比べることすらおこがましい、と。何故、こうまでして自身を卑下するのか、アラジンは耳を塞いでしまったのことを寂しく思いながらその手を取った。
「ねえ、おにいさんは、君自身が思っているほど酷い人じゃないよ。時々変なところで抜けているけど、そんな君だからこそ僕も皆も大好きなんだ」
 情操をごっそり削ぎ落としたような表情で、はありがとう、と言った。何も考えられない人間が、何かを考えているように振る舞う態度に似ている。何故なら、は現在進行形で大怪我を負っていて、しかも大事な心臓がなくなっているのだから仕方のないことだ。痛みに鈍感に振る舞うのは心臓がないからだ、とは言う。
 そんな姿を見ているとアラジンは堪らなく悲しい。こんな表情が見たかったわけではないのに。
「ああ、そうだ!僕はさっきまでウーゴくんに会っていたんだ。おにいさんの話も聞いてきたよ。君たちはとっくに知り合いだったんだね」
「そうなの?ウーゴくんとは初対面だと思っていたけれど」
「いいや?ウーゴくんは前から君と友達だったって言っていたよ?」
 それでね、僕はウーゴくんとお別れしてきたんだ。気丈に言ってのけたアラジンに、は眉を寄せて唇を強く噛んだ。けれどもアラジンからは悲しみだとか、負の感情が少しも感じられない。今はそうすべきではないと知っているからだ。哀しむべきは今ではない、未来にもない。自分よりも分別のある振る舞い。はどこまでも芯の強い少年のことを誇らしく思う。

「ねえ、一つだけ教えておくれ。今の君は、おねいさんとおにいさんのどっちなんだい?」
 
 寝台に横たわる人は、両手で顔を覆って、くぐもった声で言った。

「…今、泣いているとしたら、それはなのだと思う」

 うん。アラジンは、小さな手に顔を埋めて肩を震わせている人を見下ろして、頷いた。
 外の喧騒は、沈黙した室内を脅かすようにあらゆる隙間から侵入してきた。騒々しさから逆走するように二人は沈黙して、やがてアラジンはの肩を優しく叩くのである。
「大丈夫、僕は外で何が起きているかちゃんとわかっているよ。アリババくんの所に行く前に、ウーゴくんの伝言を伝えにきたのさ、おねいさん」
「今?」
「そう、今。だってそうしないと君は―――」



* * *



「ねえ、これは何て読むんだい?」
「起きたの?」
「うん、起きた」
「おはよう」
「おはよう」
 目を覚ましたアラジンは、の膝の上で眠るのが好きだと思う。の膝はひんやりと冷たく、頭を撫でる手は膝の体温よりもさらに冷たい。水の中に包まれているみたいだが、聴こえてくる心音はいつも一定の速度を刻み、心地よく眠りにつく子守唄になる。寝ているときも起きているときも、笑っているときも、常にの心音は少しもぶれない波の音だった。
「それで何を書いているの?」
 の膝の上で丸くなっていたアラジンは、上体を起こして彼女の手の中を覗き込んだ。
「これはね、ミゼレレと言って」
「み、ぜれれ?」
「どうしようもなく悲しくて、切ない気持の行き場がなくなってしまったときにね、これをね、書いて燃やすんだよ」
 そう言って、羊皮紙の切れ端に馴れた動作で筆を走らせる。並んだ文字は生き物の様だ。生きていると、懺悔がしたくなる時があるでしょう。アラジンの頭の上では言う。ミゼレレ、ミゼレレ、歌うようにささやく。これは憐れみを請う言葉なんだよ。
「燃やしてしまうのかい?」
「そう。燃やしてしまうんです。燦々と赤い炎は罪をも浄化するから。白く燻り上りゆく煙は生まれ変わりの象徴なんだって知っていた?」
 見たこともない文字で、見たこともない言葉だった。筆を走らせながらの体が揺りかごのように揺れて、それに合わせてアラジンの体も揺れる。これは、少年の母親の為に。ははっきりとは言わなかったが、アラジンはそうなのだろう、と思う。彼女の体は揺れるけど、文字は少しも揺れなかった。
「それから、これは、安息を祈るためにドナ・エイス・レクィエム。ずっと、永久の安息を願うために、という思いが込められています」
 ほう、と溜息を吐き、筆を置いた。それは彼女の懺悔が終わった合図のようにも思え、筆から垂れた黒いインクが収まりきらなかった感情の名残だとばかりに、ぽつんと卓子に染みを残した。
 あの不幸な少年のために、君は沢山過ぎるほど心を砕いたと思うけれど、それでも未だ足りないのかい。アラジンは不安そうにを見上げた。少年の母親を見送ったのは少し前のことである。
「君は誰にそれを願うんだい」
 アラジンの問いには答えなかった。
 滲んだインクを乾かすために羊皮紙に息を吹きかける。アラジンの目にはその行為がまじないのように映り、全て乾ききるのを確認したはそれを小さく折り畳んだ。の想いまで小さく畳み込まれて、晴れ晴れと彼女は言った。
「これは、神様に向けたお手紙のようなものなんだけどね、こんなことをしても届かないって知っているのだけど。こうしていないと落ち着かなくて、やっぱり気持の収まる場所が見当たらないのは苦しいから、止められないんだよね」
「どうして届かないってわかっているんだい?」
「……どうしてかな。…さて、今からこれを燃やしに行くけれど、アラジンはどうする?」
は困ったように微笑んでからゆっくりと立ち上がった。火を熾すのにぴったりな、素敵な丘を見つけたんだ。
「僕もついていくよ」
 そう、はやっぱり困ったように微笑んでいる。こんな表情を浮かべる時の彼女は、いつも目の奥がゆらゆらと滲んで見えるのだ。緩やかな拒絶を感じて何もできなくなる。
 アラジンはの手を取って、横に並んだ。


「もう夕暮れ時だねえ」
「だねえ」
 羊皮紙の燃え滓が点に上っていくのを見届けた二人は、宛てもなくバルバッドの街を歩いた。燃やされている間、はずっと目を閉じて俯いていた。瞼を閉じると、そこにはない、沢山のものを一度に感じることが出来るのだという。瞼の奥に秘められた宝石の形をしたものは、の精神状態によって、美しかったり、醜かったりするのである。
「そろそろお腹が空くねえ」
「空くねえ」
 夕日を背にして、二つの影が仲良く伸びて、それを見たはくすぐったそうに笑う。ねえ、見て、が手を振ると、同じように影が二人に向かって手を振った。そうだ、今度影絵を教えてあげるね、と言われたアラジンは、それはどんな素敵なものなのだろう、と期待に胸を膨らませて大きく頷いた。
「こうしていると、親子みたいに見えるのかな」
 が目の前を一組の母子が通り過ぎるのを眩しそうに眺めて、繋がれたアラジンの手を確かめるように握り直した。自分の装いを思い出して、親子というよりは兄弟に見えるかも知れない、と言い直して、それもいいね、と頷く。どのような格好をしていても、彼女から滲み出る母性本能はアラジンにとっては温かく、包み込まれるような慈愛に満ちていた。やはり、の傍にいるのが好きだと思う。
「家族っていいね」
 そう呟いた時、目の前を歩いていた子供が転んで、わあっと泣きだした。横にいた母親が、擦り剥いた膝の砂を払ってやり、子供に何か言葉を与えた。すると、途端に泣きやんだ子供は元気よく立ち上がり、とアラジンのように母親の手を取って、勇ましく歩き出す。
「あの子、お兄ちゃんになるんだね」
「お兄ちゃんは転んだくらいで泣いちゃ駄目だよね」
 母親のお腹は大きく膨らんでいた。二人は母子が見えなくなるまで見送って、それからどちらともなく笑い出した。
「実はね、子供の頃、ああやってお母さんと外を歩いたことが殆どなくて、それが不満だというわけではないけど、やっぱりちょっと羨ましいなと思って」
 二度と出来なくなると知っていたら――、は今となっては意味のないことを考えて、胸が痛くなる。母親や父親と手を繋いだ記憶がが数えるほどしかないことに今頃気が付くなんて、どうかしている。だって、あの頃は必要なかった。そうでしょう、そっと言い聞かせると痛みは幾分か誤魔化される。
「僕はどうかな。お母さんの顔さえ思い出せないから良くわからないけど、こうしておにいさんと手を繋ぐのも、ウーゴくんの大きな掌に乗るのも大好きだから、今のままで満足しているよ。それじゃあ駄目かい?全然足りていない?」
 繋がった手をふらりふらりと大きく揺らして、アラジンは先程の子供のようにを引っ張って歩き出す。一方、思わぬアラジンの言葉に呆然としたは、我に返ると、前を歩くアラジンの頭をくしゃくしゃと撫でた。
 過去に起こったことをいつまでも引きずって、悩んでばかりいては大切なものを見落としてしまうかもしれない。
 沈み行く大地に二つの影が並ぶ。小さな影が大きな影を導いて、夕焼けが足元を優しく照らす。
 はとっくにアラジンに導かれて、夜を跨いで明日へと歩きだしているのかもしれない、と感じた。小さくも頼もしい後ろ姿を見て、仲睦まじい母子のことを思い出す。
おにいさんは子供が欲しいのかい?」
 前を行くアラジンがに尋ねた。
「え?」
「だって、おにいさんはさっきの親子を羨ましそうに見ていたよ。それに君は子供が大好きじゃないか」
 何から伝えればいいのか。は言葉を濁すつもりも、誤魔化すつもりもなく、単純に、答えに窮していた。
 もし、子供の頃、あの母子のように手を取り合って歩くことがあったのなら、あの母子のようにずっと寄り添って歩く未来を描けたのなら、迷うことなどなく答えに辿りつくことが出来ただろうか。また意味のない仮定の話を持ち出して、自分の道筋にいくつかの可能性を見出そうとしている。自嘲して、は夕日を振り返った。



* * *


「おじさん、眠っている人に悪戯はいけないよ」
 僅かな灯りがゆらめく静寂に閉ざされた室内に、音も立てずに現れた少年に振り返ったシンドバッド王は、肩を竦ませて苦笑して見せた。
「人聞きの悪いことをいうものじゃない。何もしていないよ」
 未だ。そうして不自然に伸ばされた腕を笑顔で引っ込めるのである。
 聞き逃せない不穏な末尾の言葉に反応したアラジンは子供らしからぬ溜息を吐いて王の御前に仁王立ちした。普段は派手で人好きのする好青年の雰囲気を漂わせる男が、時々垣間見せる鋭く研ぎ澄まされた気配。それが一国の王としての顔なのだと思い知らしめる全身から滲み出る勇ましさ。しかし今はそのどちらの顔も形をひそめ、シンドバッドはくつろいだ様子で長椅子の背もたれに体を預けている。端正な顔の直ぐ横に、アラジンの大切な友人の一人、の頭がある。彼女は暫しの眠りに耽っているが、制御を失った体はシンドバッドの逞しい肩に委ねられていた。
「シンドバッドおじさんはやっぱりおねいさんのことを知っているんだね。だって、こうやって名前を言っても驚かないし。どうして二人は知らないふりをするんだい」
「…世の中には正論だけではまかり通らないことが沢山あってね」
 アラジンの指摘を否定はせずに、しかし頷きもしない。シンドバッドの声は重苦しく、低く潜められたが、声に反して表情には人間らしい色が宿った。蝋燭の灯りに照らされた男の顔はくっきりと陰影を描き、目の辺りが窪んで感情の色を悟らせない。
「特に、人の感情とはその最たるものだ。少しでもひずみが生じればあっという間に歯車が狂ってしまう。生身の人の心というものは複雑で移ろいやすいからな、一度噛み合わなくなってしまうと足掻いたところで簡単にどうにかなるものではなくてね。そこに空白の時間が蓄積されてしまえば、どうにもならないくらい溝が広がって、溶けない凍土のように凍りついてしまうこともあるのさ。
残念ながら俺達の溝は修復するには時間が経ち過ぎていてね」
「大切なものだからこそ、慎重になる…?」
「そういうことだ」
 二人の対話は、の眠りを妨げる障害にはならなかった。姿の見えないを少し前から探していたアラジンに居場所を教えたのはシンドバッドの忠臣であるジャーファルで、同時に「確かめに行くのはお止めなさい」と忠告を受けた。その言葉の真意をようやく理解する。先程、共に手を繋いで城下町を歩いていた時の寂し気な横顔が想像できないくらいに、穏やかな表情で眠りに就いている。良い夢でも見ているのだろうか。アラジンはようやく安堵に肩を下ろした。
おねいさんに関しては全面的におじさんを信頼しているけれど、どうしても二人は分かり合えないのかい?見ているこっちがハラハラするんだ。特におねいさんは今とっても不安定だし」
「おや、アラジンは俺を応援してくれるのか」
「おじさんにおねいさんを救う気持ちがあるのなら、の話だけどね。それに、根拠はないけれど、原因の一端におじさんが関係しているんじゃないかって思うんだけど」
 ふ、とシンドバッドが顔を綻ばせた。それは手厳しい。そう言って、器用にの横顔を覗き込んだ。もう何刻も肩を貸しているというのに、一向にくたびれた様子を見せない。アラジンの言葉を嬉しそうに飲み込んだ。
「救いたい、か。俺には一体何を救えるというのだろうな」
「でも全てが終わったらおじさんはおねいさんを連れて行く。違うかい?」
「さてどうだろう。確かに俺が望めば傍に留め置くことなど容易いが…、だが、それでは意味がない」
 真意を。アラジンはじっとシンドバッドの顔を注視したが、彼の心の内を僅かでも覗くことは困難だった。静寂と暗闇が少年の思惑の邪魔をする。確かにあるはずの答えを導き出す時期ではないと暗示している。
「おじさんはおねいさんの何が欲しいんだい」
「それをアラジンに教えたら、君は俺に協力してくれるのかな」
 シンドバッドは、を起こしてしまわないようにと慎重になりながら喉の奥で笑った。
 肩が僅かでも震えれば、彼女は起きてしまうだろう、しかし起きる気配など全く感じられない深い眠りは、アラジンには不自然に感じられたが、気付かないふりをする。夜は未だ長いのだから。
「夜が明ければ直ちにここを出ねばならない。すまないが朝日が昇る少し前にもう一度ここに来てもらえないか。俺の代わりに見守ってやって欲しい」
「僕は今、おねいさんを迎えに来たんだけど、朝までおじさんがこうして見ているってこと?」
「そうだ。不都合でもあるのかな?」
 不都合だらけだ、とアラジンは思う。彼と同じようにの行方を捜していたモルジアナだって心配しているし、彼自身、どういうわけか、このままを置いていくことは憚られるからだ。がそう望むのなら別の話だが、その当人が目を覚まさないので如何ともし難い。それでも。

「僕は見守るだけさ。それがおねいさんの望みなら」
 
 シンドバッド王は、己の肩に寄り添うように体を預けて眠りについているの髪の毛を梳きながら、そうか、と呟いて、それっきり沈黙した。



* * *



「そうだね、子供は欲しいな。長閑な田舎でのんびりと、例えば森の奥にある湖畔でも良いし、人気のない無人島だとしても――大好きな人と子供に囲まれて幸せに暮らしたい。幸せに、なんて漠然としているけど、どんな人も皆一様に抱えている最っも尊い欲求だよね」
 幸せを求めることは欲深いことではない。誰にでも等しく望む権利があるが、残念ながら人間は生まれながらにして平等ではないので、望むものを手にすることができる者はほんの一握りに過ぎない。旅をする間に学んだ多くのことの中の一つは、諦める、ということだった。
「愛する男の子供を成す歓びは、己の一生分の命よりも勝るのだと母が言っていて、子供の頃は理解できなかったその意味がようやく分かった頃にはもうこんな有り様で」
 は考えれば考えるほど不憫な人間になる。幼なじみのように器用に生きられたらどれだけ良かったか。それは、こんな生き方は良くない、と勝手に優劣をつけて自己満足に走っているようなものだ。十年以上そうやって生きてきたのだ、今更簡単に変えられるはずもない。
「何もかも、気付くことが遅すぎた」
 実感がないので、想像も働かない。は空いた方の手を握りしめた。
 どれだけ頑張ったとしても、この手で掴めないものは少なくない。逆に、掴めたことなんてどれほどあっただろうか。実体のない未来は、始まりを迎えることさえないというに、一番幸せな想像を伴って押し寄せてくる。幸せであるほど遠いのだと気が付いてから、未来を歩くことを止めた。
「幸せと隣り合わせに悲しみがあるでしょう。常に付かず離れず在るために、万が一にも置いて行かれた一方を届けるためにミゼレレを空に飛ばすんだ。いつか誰かが拾ってくれるかも知れないと願いながら、他力本願に。それは神様かもしれない。置いていったその人かもしれない。
 は、或いははね、自分の子供のために等しくそれらを与えてやれる自信も、覚悟もないから駄目なんだ」
 それこそ充分な優しさではないか、とアラジンは思ったが、は誰よりも脆弱な心を恥じた。
「ミゼレレは幸せでもあるけど、悲しみでもあるんだよ。だから、自分以外の誰かに歌って欲しくないし、これ以上歌いたくないと思っているんだ。悲しみは辛い。それを包み込むものが幸せであるなら、幾重にも覆い込めるだけの幸せを用意してあげないと、きっと耐えられないから」


 それから少しの月日が流れて、
 来るはずのない朝が訪れた時、はそれが最悪の未来であることに気が付いた。
 隣り合わせであるはずの幸せが想像できない。そこに幸せを覆い尽くさんばかりの感情の正体を見つけて、
 傍らで微笑む男の、自分を掴む力の強さと、抗えずに引きずられてゆく道筋を、震えるほどに理解したのだ。

異形の夢は全てを凍らせ、
    わたしは心臓が裂けていくのをただ呆然と眺めていました



2014.03.30

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