扉の前に蹲って、もうずっと動かない獣がいる。
 事情を知らない者は気味悪がり、目の前を避けるようにする。その獣が一歩たりとも動かないことを知る者は、一途で忠実なその様を感心して、彼が護り続ける扉が内から開かれ、彼がいつか生きたように躍動することを願っている。
 置物のような獣はいつも前足を行儀よく揃え、その上に立派な顎を乗せて目を伏せているが、そこへ一人の少女がやってきて、少しも衰えない美しく輝く銀色の頭を撫ぜた。
「今からさんの為にお花を摘みに行こうと思うんです。マリカも一緒に行きませんか?」
 狼は太陽と同じ色の目をゆっくりと開けて少女を見上げた。少女は頬を緩めて、耳の後ろ側を撫でてやると気持ち良さそうに目を細めるが、その場から動く様子はない。
さんの好きなお花を教えてくれませんか」
 前に彼の相棒がしていたように鼻の頭を指先でとん、と突くと迷惑そうに片目だけを上げて、長く優美な尾を揺らした。
 彼だけが感じていた静寂を破って少女が手を差し伸べた時、射し込んだ光がきらきらしく白銀の背を走る。



「シンドバッドさん、来ていたんですか」
 室内の一番日当たりの良い場所に設けられた寝台の横、定位置になりつつある椅子に腰を下ろしたシンドバッドが振り返ると、両手一杯に花を抱えたモルジアナが扉から顔を覗かせている。どうぞ、入っておいで、手招きをすると、丁寧にお辞儀をして、失礼しますと室内に体を滑り込ませた。静かに閉められた扉の向こうには、相変わらず大きな獣が冷たい大理石の上に横たわっている。
「やあ、綺麗な花だね、モルジアナが摘んできたのか」
「はい、マリカと一緒に街外れの高台まで行ってきたところです」
 窓際に置かれた花瓶には毎日、名の知らぬ白い花が生けられていて、いつも外を物珍しそうに眺めている。モルジアナは一度もその花達が項垂れているところを見たことがないので、毎朝新しいものと入れ替わっているのだろうと推しあてていた。時々風に乗って、微かな甘い匂いが室内を踊りながら走り回ることが堪らなく好きだ。この部屋の主のように軽やかで穢れを嫌う白い部屋と花は、いつの間にかモルジアナが好きな彼女の印象と完璧に同化していて、世界が移ろいゆく様を寝台の中で穏やかに静観している人が、いつかこの空間に溶けてしまうのではないかと心配になるけれど。
「そういえば珍しく部屋の前にマリカがいなかったから不思議に思ったものだが。彼は君にはよく懐いているんだな」
「私に、というよりもマリカは子供が好きなんだって前にさんが言ってました」
「それにしたって俺は随分と嫌われたものだが――うん、の好きそうな花ばかりだな、君はとてもセンスが良い」
「マリカにさんの好きな花の種類を教えてもらったんです」
 共に旅をしていた時、時々立ち止まって道端に咲く花を眺めているを見たことがあった。その時咲いていた花達は、今手の中にあるものと良く似ていたかもしれない。思い出せないほどはよく立ち止まる人だった。
「彼はつくづく賢い子だな…。あとで花瓶を用意させよう。その量だといくつか用意した方が良さそうだ」
「私が借りにいきましょうか」
「いや、後で届けさせよう。それよりその花束をこちらに持ってきてくれないか」
 促されるままに手渡した花を、シンドバッドは眠る人の枕元に飾った。赤、薄紫、黄、橙、目に眩しい鮮やかな色が白いシーツを覆って、花に埋もれた人はいつもより心なしか色付いて見える。
「うん、思った通りよく似合う」
 シンドバッドは満足そうに頷いて、花に埋もれた人を眺めた。摘みたての花は瑞々しく、まだ生き生きと咲き誇っていて、一体どちらがより生きているのか、モルジアナは戸惑い、室内に広がる甘い香りに予感はないだろうか、と期待を込めてありったけの空気を吸い込んだ。
「花の香りに引き寄せられて、目を覚ましはしないでしょうか」
「それは願っても無いことだが、どうだろうな。実は俺も少しだけそれを期待しているのだが、何しろ相手はそう簡単に気を緩めてくれない警戒心の強い猫のような質をしているからなあ」
 視線は眠る人に向けられたまま、シンドバッドの声は突き抜けて穏やかであった。今の状況を楽しんでさえいるようにも見えるのは果たして気のせいなのか、少女には目の前の男も、それから深い眠りの中にいる人も、得体の知れない存在に思える。数刻前に共に野原を駆けた狼のように真っ直ぐであればずっと安心出来るのに。
 そんなモルジアナを定位置から見たシンドバッドはくくく、と笑った。
「なんですか」
「いや、君たちは良く似ていると思ってね。モルジアナのその目が昔のにそっくりだ」
「…そんなこと、思ったこともありません。…そういえば、前からお尋ねしたかったのですが、シンドバッドさんはさんと昔からのお知り合いなんですか?」
 ああ、大らかに頷いたシンドバッドは公務をこなす時よりもずっと砕けていて、王たらしめる覇気や身の竦むような圧迫感を感じさせない。ただ一人の人間として、はしばみ色の瞳に感傷に似た、他人には決して理解できないものを宿し、彼の持ちうる限りの誠実に基づいて言葉を発する。
「同じ時間を過ごしていた時よりも離れていた時の方が長くなってしまったが、彼女は幼なじみ、と称することを許してくれるだろうか」
 シンドバッドにしては殊勝な言葉の内に後悔のようなものを感じ取ったモルジアナは、これ以上は踏み込んではならない神聖な領域との境目に立っている錯覚に陥った。かつての二人の間にどのようなやりとりがあったのか、それを知ったところでは目を覚ましはしないのだろう。
「滅多にご自身の話をしないさんが、ごく稀に故郷のお話を聞かせてくれることがあるんです。その時、決まって出てくる幼なじみだという人物がシンドバッドさんだったんですね」
「俺のことを?」
「本当の所はわかりませんが、聞いた人物像とシンドバッドさんを照らし合わせるとそうなのではないかと思います。勇敢で爛漫な人であったと。置いていかれてしまったから、もう再会することはないだろうとも言っていました」
 苦い笑みで肩を落としたように見える。煌帝国から帰還して間もなく激務に追われているシンドリア国王は、ここにきて初めて疲労の影を忍ばせて沈黙した。
 そのまま無言での手を自身の大きな手で包み込み、労るように撫でる。モルジアナはこの光景を何度も目にしている。シンドバッドがこの部屋に訪れるとき、必ず繰り返される儀式のようなもの。王が包み込む手の平を、が握り返すことはなく、それが二人にとっての現実なのだと思い知らされる儀式。だというのに
「シンドバッドさんは、この状況を喜んでいるように見えます」
 口を衝いて出た声は非難の棘を隠しきれず、モルジアナはしまった、と思った。けれどもシンドバッドは咎めることもなく、視線を落としたままうっすらと口の端に笑みを浮かべている。不謹慎だ。不信感を煽る態度に、モルジアナは唇を噛み締め、真偽を確かめようと目の前の男を凝視した。
「……俺は、モルジアナが思っているよりもずっと狡い大人でね」
 ゆっくりと刻みつけるように指の平で白い手の甲を撫でながら、シンドバッドの声の柔らかさは信用ならなかった。
「欲しいものを手に入れることは簡単ではないんだ。得る為には何かを犠牲にしなくてはならないだろう。その犠牲を畏れていては結局どちらとも失って、取り返しのつかないことになる。
 俺ももそれを痛いくらい理解しているが、彼女には荷が重すぎるのだろうな。弱く、優しすぎる故に受け止めきれずに今もこうして苦しみ続けている姿は、彼女らしく好ましいと思うが、同時に哀れにも思う。モルジアナにとってはどのように映っているかね?の器は決して大きくない。彼女の優しさが諸刃の剣だと感じたことは?」
 ようやく向けられた視線を直視するのが恐ろしいと感じた。俯くモルジアナにシンドバッドは優しく声をかけてやる。
「変化を望むのであれば、見ているだけではいけない。選択せねばならい時を一瞬でも逃してはいけないのだ。絶対に」
 少しも答えになっていない。モルジアナは重い視線を感じながら立ち竦んだ。まるでこの状況を好機と捉えているように聞こえる。皆、自分も含めてこんなにも心を痛めて見舞っているのに、目の前の人ばかり様子がおかしい。それは微かな違和感でしかないけれど。
「貴方は、シンドバッドさんは、さんをどうするおつもりなんですか」
「どうもこうも、俺はこうやって彼女を眺めているのが好きだよ。古い付き合いだから、には幸せになって欲しいと思っている」
「私もさんには幸せになって欲しいです。もし、シンドバッドさんがそれを妨げるようなら」
「君の思う幸せと、の思う幸せの形が同じものだと胸を張って言えるかな?その根拠を確信として彼女に押しつける覚悟があるのか、よく考えてみるといい」
 君は賢く、正しい判断の出来る子だ。賢明な判断を尊重するよ。
 探るつもりが、気が付くと逆の立場になっていることに心細さを感じる。どうして、は起きてくれないのだろう。モルジアナは自分の中にあった束の間の熱が急速に引いていくのを感じた。そして自分と彼との間にある超えられない何かを呆然と認めて、土まみれの足と両手が酷く場違いな気持ちに陥った。
「…貴方は」
「俺には10年以上も猶予があったからな。誰かが泣いて喚いたとしても容赦はできないだろう。俺は自分で導き出した選択を違えぬ覚悟がある」
 なんて傲慢な人だろう。どうして確信を持って言い切れることができるのか、モルジアナにはやはり理解の出来ないことだった。確信が白日たる根拠がどこから来るものなのか、彼の導き出した答えと、の望むものが同じものであるのかどうかについてシンドバットは語らない。モルジアナを射抜く瞳の奥に得体の知れないものを隠して、一人満足そうに頷くのだ。
 彼女は知っているのだろうか、この恐ろしく隙のない彼の正体を――
 何者にも脅かされない眠りにつくを見ていると、もしかしたらこのままずっと目を覚まさない方が幸せなのではないか、という考えが浮かんだ。先程までの考えと矛盾した思いに我に返り、驚愕した。
 目の前ではシンドバッドが長く床に伏せる者を見舞うに相応しくない態度で微笑みを浮かべている。
 まるで、彼の意に同調するかのように浮かんだ思考にモルジアナは戸惑いを隠せない。自分の意思で考え、判断しなさい、と言われたばかりだというのにもう流されかけている。そこには誰かの意図が働いているのだろうか。
「お、見てくれモルジアナ」
 一転してシンドバッドの朗らかな声に我に返ると、握っているの右手を持ち上げて見せ、空いている片方の手をそっと白い頬にあてた。
「こうやって俺が手を握っているとな、たまに微笑む時があるんだ」
 今日一番の柔らかい声音で、慈しむように指の平で、蝋人形のような頬を撫でる。どれだけ長い間眠っていても、やせ細ることも頬が痩けることもなく、モルジアナに微笑んだ当時の姿を損なうことなくのままだった。異なる点といえば、少しも動かず、話をすることもなく、瞼が開かれないことくらいだった。これほど安らかな眠りにつく人を他に知らない。
 シンドバッドが微笑んだ、と指摘した顔を覗き込んでみても、モルジアナには僅かな変化を感じ取ることができない。
 傍らのシンドバッドだけが、うん、うん、と頷いている。
「これはきっと、俺のことが分かるんだろうな」
「惚気ですか」
 相好を崩し、したり顔で頷くシンドバッドに容赦なく切り込んだ声に驚き振り返ると、扉の前にシンドリア王国の政務官が立っていた。扉の隙間からマリカの尾の端が覗いている。それを見たモルジアナは安堵の息を吐いた。気が付いたときには凍えるような緊張を強いられていたのだ。
「ジャーファルさん」
「この大馬鹿者には遠慮無くはっきりと言ってやって下さい。大体眠っている者がどうしてそんなこと分かるって言うんですか。シンの気のせいです。妄想です。ああ怖い」
「ジャーファル、夢のないことを言うなよ。お前にはわからなくても俺はわかる」
「寧ろ迷惑そうにしているように見えますけど」
「この穏やかな顔のどこが迷惑そうだって言うんだ」
「よく見なさい、ほら眉間に皺が」
「寄っていない」
 むきになったシンドバッドはの眉間を抓んで伸ばして、ほら、どうだ、と得意気に言った。呆れ顔のジャーファルは手にした書類を丸めて王の頭を容赦なく叩き、小気味よい音が室内に響くのと、盛大な溜息が落とされるのは同時だった。
「いい加減にして下さい。少し休憩をしてくると告げていなくなってからどれだけ時間が経ったと思っているんですか。貴方は少しの限度をどれほどとお考えか!」
「いや、まだそんなに経っていない筈だ」
「席を立った時に頭上にあった太陽があれだけ傾いた位置にあるというのに?」
 ジャーファルが指した窓の外はうっすらと茜色に染まり始めている。
 モルジアナが部屋に入った時に感じた違和感の正体はこれだった。普段なら在る筈のない人がどうしてこんなところにいるのか、咎められている張本人はまったく悪びれる様子もなく、そうだったか、いやはや時間が経つのは早いな、と呑気に言う。
「滞った仕事は今日中に終わらせて下さいね。王の承認待ちの書類が届かないと財務官がわざわざ私のところに泣きついてきましたよ!ほら、ぐずぐずしないで早く立つ!」
「わかった、わかった」
 ジャーファルに追い立てられて渋々重い腰を上げたシンドバッドは、今日は徹夜かなあ、とぼやいた。それだけ仕事が溜まっていることを知りながら呑気に抜け出して来るその肝の太さを、真面目なモルジアナは少しも理解出来ない。政務とは大の大人でも時々逃げ出したくなるほどの激務なのだろうか、疲れた表情のジャーファルを見ながら思う。
「何をわかったって言うんですか!それに病人の周りをこんなにして…まったく貴方って人は」
「モルジアナが摘んできたんだ。綺麗だろう。味気ない床の上が華やいで良いじゃないか」
「良いかどうかは別として、萎れてしまわないように花瓶を用意させましょう」
「ああ頼む」
 それからシンドバッドは名残おしそうに、もう一度屈んで、眠る人の髪をそっと梳いた。流れるように指にまとわりつく毛先に目を細めて、散らばった花の中から群青色の花を一輪選んで、手櫛で整えられた髪に挿した。
「昔は、この髪に白い花が良く映えたものだが、今はもう駄目だな」
 窓際に取り残された白い花は、シンドバッドがの為に毎朝用意しているものだ。王はどんな思いで毎日これを眺めるのだろうか。一瞬向けられた視線は直ぐに元の位置に戻り、平然を貼り付けている。
 そしてシーツの色に劣らない白い髪を撫でて、額に触れるか触れないかの距離に唇を落とした。
 モルジアナはこれも一種の儀式のようなものだと考えている。が話してくれたおとぎ話の中に、王子様の口付けで目を覚ますお姫様の物語がある。幸せな結末をとても気に入って、何度も聴かせてもらったものだ。しかしはその話のように瞼を開かないので、シンドバッドは彼女にとっての王子様ではないのだと思い、どういうわけか少しだけ安堵している。この人がここから立ち去るまで、どうか眠ったままでいて欲しい、と思った。
「マリカが泥だらけなんですけど、シン、貴方まさか嫌がらせをしたんじゃないでしょうね」
「なんてことを言うんだ」
 モルジアナは二人の姿が扉の向こうに消えていくまで慎重に見送り、扉が静かに閉められるのを確認すると、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
 とりあえず、体中の土埃を払って、どうにかしてマリカを洗ってあげなくてはいけない。

 の髪に挿された花は、彼女がの目の色に似ていると思い、選んだものだった。
 開いた窓から風が入り込み、白い花弁を揺らしている。







「シン、貴方は酷い人ですね」
「どこから聞いていたんだ」
「シンがモルジアナの摘んできた花を褒めた辺りからですよ」
「最初からじゃないか」
「ご存じだった癖に」
 ジャーファルは隣を歩く主の顔色を窺った。
 いつもと変わらない、堂々たる態度で歩む姿は、シンドリア王宮の主に相応しい。迷い無く歩む様は彼が長い時間を経て培い、失って、ようやく得た自信そのものだ。付き従う立場として、これ程頼もしく思うことはないというのに、時々胸が苦しくなる。いくら割り切ったとしても、痛みを感じない理由にはならない。
「何もあんな小さな娘にまで牽制なさらなくともよいでしょうに。フェミニストの貴方らしからぬやり方ですね」
「何のことだ」
「モルジアナは純粋にさんの幸せを願っているだけですよ。シンの思惑の障害には成り得ない。違いますか?」
「その言い草ではまるで俺がよこしまな人間に聞こえるぞ」
 そう言っているんです。ジャーファルの声には棘が含まれている。財務官に泣きつかれたことに腹でも立てているのか。 シンドバットは肩を竦めて立ち止まった。
「俺だっての幸せを願っているとも。――ただ」
「ただ?」
 立ち止まったシンドバッドは、回廊に射し込む茜色の光の先を探りながら口を閉ざした。余裕に満ちた横顔は、その瞬間茜色に染まって、彼の表情を隠してしまう。
 ジャーファルは口では苦いことを良いながら、その実、シンドバッドこそが誰よりに対して誠実であることを知っている。それはモルジアナ達が向けるものとは色も形も違うのだとしても。
「シン、まさか本当に、モルジアナの言うように喜んでいるのではないでしょうね」
 この状況を。何故なら貴方は普通であれば即死に思える怪我を負ったあの人が助かることを確信していたから。今の有り様ももしかしたら――ジャーファルの問いかけにも振り返ることをしないシンドバッドは、表皮一枚だけを取って付けたような貌をして、肯定も否定もしない。

 そして、淡々と宣うのである。

「花は根から切り離してしまえばじきに枯れてしまうだろう。だから花瓶に挿して、陽の当たるところに置いて生かしておけるようにする。俺にとってのはそれに近いかもしれないな。根から切り離されてしまっているのに、彼女は大人しく花瓶の中に収まっていることが出来ないのだ。放っておくと知らず枯れてしまうのであれば、どうにかしてつなぎ止めておかねばなるまい」






囁くように茨で脅して宥めるように鎖を繋ぐ


2014.02.22

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