「すみません、道をお訊ねしたいのですが」
 その日、痩せこけた土地に鍬を突き立てたる作業を何百回も繰り返して、額に気持ちの良い汗が滲み、疲労を隠せない体を奮い立たせる為のかけ声が10回目に及んだ時だった。よっこいしょ、間の抜けた掛け声に被さるようにして感じた人の気配に心臓が飛び上がる程に驚いて、実際に足が大地から跳ね上がったのは、緩んだ手から放たれた鍬が男の足下を脅かしたからだ。うわあ、間延びした声が人気のない広大な大地に響き渡った。
「ああ、ごめんなさい、驚かせてしまって」
「いやたまげたなあ、あんた、いつのまにそこに立っていたんだ?あやうく俺は自分の足に鍬を突き立てるとこだった」
 背後に立つ人は3歩ほど離れたところで、足が無事で良かったですね、としみじみ頷いた。これだけの至近距離にいながら声をかけられるまで気がつかなかったなんて余程作業に没頭していたのだろうか、そうだとしても見渡す限り何もない開けた広大な土地でそれは至難の業にも思える。男は、危なかった、と鍬を引き抜いて額に滲んだ汗を拭った。
「どうしてこんな何にもないところへ?」
「道をお尋ねしたくて」
「道だって?おかしなことを言うね、残念だがこの先には何にもないよ。あるのは死んだ土地だけさ。ここも、じきそうなるだろうが」
 男は溜息を吐きながら、耕したばかりの土を踏みつける。こんなことは一体何の意味があるというのか。まるで化石みたいな土壌だ。柔らかくほぐれた土は男の下で窮屈そうに縮こまる。豊かとは言い難い土地で、男は一人で立っていた。
「貴方の想いが伝わってくる心地よい地に見えますが」
「今は俺が面倒をみているからかろうじて呼吸をしているようなものさ。最近は特に日照りが酷くてね、もう何ヶ月も雨が降っていないんだよ。お陰で農作物が全部枯れちまって、またこうして新しく土地を耕しているんだ。耕したところでどうせまた同じことだろうがね。見て分かるだろう、この辺りも、この畑以外はすっかり痩せてしまってね、俺はご覧のとおりの貧しい農民さ。肥料を買う金なんて全財産ひっくり返したところであるわけがない」
「原因は水ですか?」
「一番の原因はそうだろうな。だが、水を与えたところで昔ほど作物は育たないだろうよ。何年も持て余している間に俺も畑もすっかり貧しくなっちまったからな」
 焼け石に水だとしても、俺達が生きていくには水は必要不可欠なんだがなあ、男の声には苦労が滲んでおり、煤けてほころびた衣服には土と汗の匂いが染みついている。この畑の手前にある小さな村も、男と似たような有り様で、鈍く色あせていく様はひび割れた大地と酷似している。
「ああ、それは、良くない。先ずは水、水か――」
「そうなんだよなあ、雨さえ降ってくれれば。と言っても今日も今日とて雲一つ浮かんでやしないが」
 男と大地を照りつける強烈な眩い日差しは、一瞬にして男の汗を吹き飛ばす。耕したばかりの土地は、どこまで深く掘り進めても乾いた白い色を見せるばかり。
 男はとっくに疲れ切っていた。それでも諦めずに黙々と鍬をふるうのは、そうしなければ生きていけないからだ。男は生まれた時から農民であり、生きている限りは畑を耕さねば存在する意味がないと本能で思っている。

「今晩にでも、雨が降るといいですね」

 雨が降れば貴方の努力も、意味のあるものに変わるはずです。その人は笑顔で言った。男は藁にも縋る思いで、そうなればいい、と頷いた。長い間心の内に押し込めていた暗雲とした感情が外に放出されて、雨雲に変じる様を想像し、それを期待しているようにも見える。
 しばらく無言で空を仰いでいた男は、我に返ると無精髭の生えた顎を撫でつけながら言った。
「それはさておき、あんた、この先に行きたいのかい」
「ええ、この先のことをご存じですか。たった数年で世界から切り捨てられた村のことを」
 村だって?男は首を傾げた。辛抱強く記憶を手繰り寄せるが、困惑気味に頬を掻いてかぶりを振る。
「俺は生まれた時からこの村で暮らしているが、この先に村なんてあった記憶がないな。若いもんに比べたら随分歳を取ったもんだが、まだ耄碌はしてねえ筈だ。あんたの見当違いじゃないのか?」
「他の村の方にも聞いてみましたが、誰一人として記憶にないと言われました。そうか、あなたも」
 自身の問いを否定されたというのに、少しも気分を害した様子もなくその人は男の言葉を真っ直ぐに受け止めた。出会ってからずっと、同じ微笑を湛え、至極当然と頷く。そうですか、わかりました。それから、おもむろに指先を村とは反対方向に向けて、体は男と対面したまま、静かに言った。
「では、もう一度聞きましょう。この先のことをご存じですか。数年前まで漁村として海との境界に在った小さな村のことを」
 男は指し示される方角に視線を這わせ、生唾を飲み込んだ。
 すると、どういうわけか、数秒前まではなかった記憶がじわりじわりと脳髄に染み込んでくる。忘れていたことが信じられないほどに鮮明に体中に染み渡り、不思議と指先から視線が外せなかった。痛みはないが、罪悪感に似た鈍い感情が早鐘を打つ心臓に突き刺さる。眼球が乾くことさえ気にならずに目を見張って驚愕に声を震わせた。
「おかしいよな?どうして今まで思い出せなかったんだろう。そうだ、あんたの言う通りだ。確かにこの先に村があった。昔は田舎の村同士、組合を作ったりして交流は盛んな方だったさ。あそこには気心知れた友人だって住んでいたってのに、そいつらのことすら綺麗さっぱり忘れちまってたなんてとんだ薄情者だと思わないか。
――思い出せば思い出すほど確かに村は在ったんだ」
 語尾が殆ど掠れてしまった男の横で、その人は目を細めて感慨深げに声をこぼした。
「なるほど、記憶とは面白い。ほんの少し目線をずらすだけで簡単に有無の根底が覆るのだから。目先のことだけで生きている人間が、自分の見えている世界が果たして本当に正しいものなのかどうか、疑うどころか想像すらしない道理がここにあるのでしょうね」
 その呟きを男は聞いていなかった。唐突に思い出し、肩を落とした。どうして忘れていたのだろう。
「俺はもうあいつらに顔向けできねえな」
 この先に在った村は、数年前に友人共々潰えたのだ。沸き起こった記憶が嵐のように轟々と、当時の惨状が狂ったように暴発を始めた。隣村の一報を聞き、駆け付けたときの死に絶えた村の有り様。そこに見知った顔はなく、全ての命が絶えた跡だった。港には一隻の舟すら残っていない。せめて、命あるもの達がそこから逃げたのだと想像したかったが、漁師村であるにも関わらず、戦争の煽りで小舟すら国に徴収されて行ったという話は隣村の自分達ですら知る有名な話だった。
 一番鮮明に記憶に残っているのは、倒壊した教会の裏手に無数に突き立てられた粗末な墓標とも言い難い木片の山だ。それは教会の扉や長椅子などの切れ端を用いただけの慎ましいものだったが、その下には顔見知りの村人達が永遠の眠りに就いていることが容易に想像できた。剥き出しの大地は嵐の爪痕が残されたまま、底なし沼のようにぬかるんでいて、一層心を重くした。
 蘇った記憶はそれほど月日は経っていないというのに、何百年も昔の記憶のようだ。
「ああ!そういやあんた、前にもあの村を訪ねて来たよな!何度か今みたいに道を聞かれたのを思い出したよ。とっくに道なんて知ってるだろうに、どうしてこんな酔狂な真似をするんだ?」
「あなたがその度に忘れているようだから」
「参ったなあ…、そんなに耄碌しているつもりはなんだが」
「いえ、あなたは至って正常ですよ。そうでなくては困る。ただ、あの村が切り捨てられているだけのことです。捨てる、とはつまりそういうことなのだから。
 たった今芽生えた後悔や罪悪感もしばらくすると薄れてゆき、そうなればもう薄情だと痛みを感じることもなくなる。あなたにとっては都合の良いことだと思いませんか」
「さて、俺にはよくわからねえな」
 男は困惑するが、その人は微笑むだけだった。
 しばらく見ない間に、あなたは少し痩せましたね。男は苦笑して、母ちゃんには今ぐらいが丁度いいって言われてるんだけどな、とあばら骨が浮き上がった胸を摩った。男だけではない。村中が貧しく、助け合うほどの蓄えを持つ村人もいないので、誰もがどうすることも出来ずに雨を待つばかりの危うい状況がずっと続いている。
 それから男がもう一度振り返ると、指はとっくに村を示していなかったが、疑問の余地もなく過去の出来事を覚えていた。村の色、形、鮮魚を買いに訪れた市場、友人と冗談を言い合った酒場の匂い、思い出の全てが、些細なことでさえ鮮明に蘇る。
 つまり、自分が忘れると、目の前の人は此処へやってくる、ということなのだろうか。それは何故。
「それを望む人がいるので」
 心の内を見透かすかのような発言に男は目を丸くした。本来聞き取れるはずのない心の中の声を、その人は当たり前と言いたげに耳にし、微笑み、小首を傾げた。
「私の表情は、あなたに好ましく映っていますか?」
「ああ、人好きのする優しい顔だよ」
「それは安心しました。何しろ自分ではよくわからないものなので」
 初めはそれこそ声をかけられるまで気がつかないように印象が薄い人だと思っていたが、一度認識を改めた途端に一転して、今までに感じたことのない不思議な感覚で男はその人を見る。全身で感じる得体の知れない正体を、しかしそれ以上追求したいという気持ちは起こらなかった。
「あんた、ちょっと変わっているけど心が洗われるような可愛らしい笑顔がいいねえ。俺ももう少し若けりゃなあ!なんだったらうちの息子の嫁さんにしたいくらいさ。愚息ときたらそろそろ身を固めなきゃなんねえ歳だってのに、いつまで経っても呑気にふらふらしてるもんで困ってんだ。丈夫な後継が出来ねえとこの土地だって守っていけねえって散々言ってんのによ。
 見たところあんたも息子と歳が近そうだし、決まった相手がいないならどうだい?こんな田舎のしけた農民に嫁ぐなんて酔狂に違いねえが」
 自身の提案に気を良くした男は豪快に笑い、俺に似て良い男だぞ、と言った。
「それは嬉しい話ですが、本人に聞いてみないと何とも言えないな」
「なに、うちの息子もあんたみたいなべっぴんさんなら文句も言わないだろうさ」
「いえ、そういうことではなく――」
 男は遮って、まじまじと目の前の人の顔を覗き込んだ。派手ではないがどこか垢抜けた顔立ちは田舎者の男の警戒心を抱かせる条件の一つに成り得るものだったが、終始穏やかな表情が全体を柔らかく見せているので、どれだけ不審人物に違いなくとも男はすっかり毒気を抜かれていた。その人を最初に見て、驚いたことがある。
「目の色だって綺麗な紅色してるだろう、こんな宝石みたいな色は見たことないよ。と言ってもこんな辺鄙なところに住んでいたんじゃ本物の宝石だって見たこともないがな」
 宝石と称された目を瞬せながら問う。
「宝石、それは、私の目を差し出せば、畑の肥料を買うことができるのでしょうか」
「ああ!あんたの目みたいな上質なルビーが手に入ればこの辺り一帯の土地が豊かになるだけの肥料が買えるだろうよ。それもまあ雨が降ればの話だがな」
「なるほど」
「言っておくが冗談だからな?あんたの目が宝石みたいに綺麗だって喩えただけなんだから、間違ってもそのお綺麗な目ん玉くりぬいたりなんてしないでくれよ」
 その人はただただ微笑んだ。
 姿格好は男の18になる息子と変わらない年頃に見えるが、性別や年齢を感じさせない不思議な笑みを湛えている。旅人には見えない軽装で傾国の片隅の死にかけた土地に現れ、既知である道を尋ねる。考えの読めない紅い目は男を静かに見上げた。
「ところで、あなたの息子さんは既に思い人がいるようですよ」
「なんだって?」
「粉屋の息子さんと2つ歳の離れた、白い花飾りのよく似合う少女をご存じありませんか 」
 直ぐに合点のいった男は近所のラナーだ、と呻いた。顔を合わせれば喧嘩ばかりしている犬猿の仲の二人がまさか、喧嘩するほど仲が良いとはこのことに違いない、なんてめでたいことだろう、みるみるうちに顔を綻ばせた男は、息子に立派な財産を譲ってやれるように尚更この畑をどうにかしなければならない、と鍬を持つ手に力を込めた。彼の肉刺だらけの手には家族の人生が載っている。手の平一杯にすら溜まらない雨を待ちわびて、畑を耕す。
「しかしよく分かったなあ、あんた一体何者だい?そういや名前も聞いてなかったよな」
「私の名前は     といいます」
「この辺りじゃあまり聞いたことのない名前だな。異国の人かい?――いや、待ってくれ、どこかで聞いたことがあるような、ええと、     だったよな、頭のはしっこでひっかかってんだ――」
 男が必死に思考を働かせている間、その人は屈んで大地に手を添えて沈黙した。農民の男よりも白く繊細な手が、耕された柔らかい土を撫ぜる。かさついた大地は恥ずかしそうに砂埃を上げて舞い上がる。
 男に背を向けたまま、その人は口の端を上げて笑みの形をつくった。

「そういえば、あなたはこの歌をご存じですか?」

父親が二つのコインで仔山羊を買った
仔山羊は猫に食われ 猫は犬に噛まれた
犬は鞭で叩かれ 鞭は火で焼かれた
火は水で消され 水は牛に飲まれた
牛は屠殺人に飲まれ 屠殺人は死の天使に飲まれ
天使は神に滅ぼされた


過越の夜の歌ハド・ガドヤーか?懐かしいな、小さい頃にばあさんに良く歌ってもらったもんだ。今じゃ過越なんて古くさい習慣を守る家なんてほとんど残っていないだろうに、若いあんたもよく知っていたなあ」
 昔を懐かしみながら男が当ててみせると、その人は僅かに目を見開いた。
「…あなたは想像以上に素晴らしい人のようだ」
「よしてくれよ。うろ覚えなんだ、あんたみたいに全部どころか一行だって完璧に歌えやしないし、たった今までずっと忘れてたくらいだよ、子供達にだって教えてねえ。はな垂れ小僧の俺には意味なんてさっぱりわからなかったし、正直なところ、退屈だって思ってたからな。信仰心も薄いしよ、あれは何て言う神さんだったか――そうか、あんたの名前」
 こいつは驚いた、まじまじと眺めてくる男に向かって微笑んでみせた。
 その名を義務だと感じたことは一度としてなかったが、こうして意味を知る者に出会う度、例えようのない息苦しい思いを抱く。意味のないものに命が宿る時、世界の歯車にとっくに絡め取られていたことを実感するのだ。
「駄目元で聞いてみたんだ。まさかあなたがこれを知っているとは思わなかったから。何しろあなたの言うとおり、この歌を歌う人間はもうほとんど残っていないからね。嬉しく思うよ。
 これからは最大限の敬意というものを払うことにしよう」
 そう言って両手を胸の前で組み、恭しく腰を折る動作があまりにもぎこちなかったので農民の男は笑った。
「過越と言えば昔は隣村の方が信仰があったって話だよ。俺の友人なんかも今のご時世に珍しく熱心だったみてえだし」
「シメオン」
「あいつのことを知っているのかい」
 懐かしい名を聞いた、一番仲の良かったやつなんだ、男の目に昔の色が浮かぶと、その人はいびつな微笑を浮かべた。
「彼は過越の夜の歌ハド・ガドヤーを誰よりも上手に歌う人でした。彼の奏でるサズは神でさえ思わず扉を叩いてしまうくらいに魅力的だったのをご存じですか」
「ああ、俺も何度か聴かせてもらったことがあるが、村一番の、いや、国中探したってあいつほどの奏者はおるまいよ。いつか吟遊詩人になるんだっていうのがあいつの口癖で、俺もシメオンならって何度もはやし立てたものさ。もっとも時代が許さなかったけどなあ。もう一度あいつのサズが聴きてえなあ。酒場で踊り子の振り付けにあわせて弾くのが最高に上手いんだ。
 …なあ、あいつもあの晩、死んだんだよな?最後まで亡骸を見つけることができなかったからずっと信じられないでいるんだ」
 その時、その人の紅い目が眩く輝いた気がした。一瞬のことで、男は真偽を確かめる間もないことだったが、光の残像が消えた後は仄暗く蒼然たる色をして男を見上げた。
「あなたの言う死とはどの状態のことを言うのか、私にはよくわからない。けれど、あなたはもう二度と彼に会うことは出来ないし、会わないことがあなたにとっての幸せだとしたら、それはつまり”彼は死んだ”という回答になりますか」
「あんたの言うことはいちいち難しいな」
「簡単なことが私には難しいということです。さて、随分と長居をしてしまったようですね」
 その人は天を仰ぎ、雲一つ無い凪いだ青を見て、今晩はいい雨が降りそうだ、と言った。つられて訝しげに空を仰いだ男の直ぐそばで、心地よい声が同じように空に上っていく。

「シメオンもあなたのことを大事な友人だと認識していたようですよ。そうでなければ私はあなたのところへ来ることはなかった。敬神なあなたの祖父母とあなた達の友情に敬意を表して、ご子息の繁栄を祝いましょう。あなたもそれを望むのであれば、これからも過越の夜の歌ハド・ガドヤーを歌ってはいけない。ただでさえ縁が出来てしまったのだから、上手に逃げなさい」

 男が再び視線を戻した時にはもういなかった。周囲を見渡しても人の気配すらなく、幻でも見ていたのだろうか、と驚いたが、足元に自分以外の小さな足跡が残されていたので、その人が其処にいたという証しに嘆息した。歩き去った形跡はなく、たった二つの跡は物言わずに礼儀正しく並んでいた。
 男はその跡を避けるようにして耕作を再開し、しばらくしてから首を傾げる。
「そういや、なんて名前だったっけな?」
 日が暮れる頃にはもうその人の名前を覚えていなかった。不思議と忘れることが正しいのだと思う。
 綺麗に切り取られた記憶の一部だけを貼り付けられたように思い出すのは、丸い紅い目をして、決して遠くない未来を予言したことだ。

 その晩、村には数ヶ月ぶりの雨が一晩中、乾いた大地に降り注いだ。







「――おい、起きろよ、こんなとこで寝てたらまたシンドバッドさんに叱られるぞ」
 乱暴に肩を揺すられ、渋々と目を開いたは自分が硬い土の上に仰向けになっていることに気がついた。日差しを遮るようにアリババの顔が間近にある。
「シンドバッド?――怒らせたら怖い人の名前だね。それにしても”また”なんてまるで前科持ちみたいなことを…」
「おいこら二度寝するな!前科もなにも常習犯だろうが、いい加減にしないとシンドバッドさんもへそ曲げるぞ」
「シンドバッドのへそはとっくに曲がってる。頑固に捻れてしまってるからもう手遅れ――あ、アリババくん今何時?」
「大好きなおやつの時間はとっくに終わったよ!」
 それはいけない、昼ご飯すら食べ逃してしまった、と欠伸を噛み殺しながら言うと、アリババは鬼の形相での額を弾いた。欠伸ではなく、痛みに目尻を滲ませながらようやく起きあがると、太陽が地平線に沈みゆこうとしている所だった。暖色に染まった自分の髪の毛を視界の端に収めてから辺りを見渡す。
「マリカは?お昼までに起こしてねってお願いしたんだけど」
「そういや今日は姿を見てないな」
「ふうん」
 気のない返事のはいつになく顔色が悪く見える。ほら、やはり風邪をひいたんじゃないか、と疑いの目を向けるアリババを無視して思案に耽っている。穏やかではない表情を浮かべ、眉を寄せた。どうしたんだよ、と尋ねる前に、素早く居住まいを正したは提案があります、とアリババと向かい合った。
「ねえ、今夜はアリババくんと一緒に寝てもいい?」
「絶対ヤだ!突然なに恐ろしい言ってんだよ!」
 寝ぼけてないで目を覚ませ、と今度は控えめに小突くとは唇を尖らせて俯いた。
「今晩は雨が降るからさ」
 ――え、とアリババが固まり、視線を空に向けた。雲一つない空だというのに、何を根拠に言っているのだろうか。しかしは真面目な顔をしてアリババの様子を伺っている。前に、が雨が嫌いなのだと聞いたことがあるが、雨音で心細く思うことがあるのだろうか、そもそも日中これだけ睡眠を貪っておきながらこれ以上眠れるのだろうか。
「…マリカは」
「今晩は雨が降るから帰ってこないよ」
 アリババが大袈裟に溜息を吐いた。その瞬間に彼の一切の幸せが逃げていくような深い息。が追い打ちをかけるように袖をつついた。
「…大人しくシンドバッドさんのところに行けばいいだろ。俺はあの人に怒られたくない。ついでにご機嫌伺いして来いよ、最近機嫌が悪いのってがなんかしでかしたんだろ」
「うわあ、アリババくんって恐ろしいことを言う。でもまあ……シンドバッドって時々理不尽なことで怒るから面倒くさいよね。だからばれないように――」
「あの人には絶対バレるから!そんでちくちくちくちく言われるのはいっつも俺なんだからな!」
 間髪入れずに怒鳴られたは、そのままアリババが愚痴を零し始めたのと同時に耳を塞いで瞼を閉じた。誰も踏み込めない場所まで落ちてゆく感覚。懐かしい夢をみたよ、と言うと、アリババの困惑した気配が伝わってくる。
「良い夢だったのか?」
 控えめにアリババが問えば、は口角を緩め、微かに頷いた。
「多分ね。遠い国では、雨を待ち望む人がいたよ」
 ぬかるむ大地を踏みしめて、歓喜の声を上げる人々。その影で自分は、相変わらず恐ろしいと思っている。
 自分の与り知らぬところで起きている自分自身のことについて、どれだけ知り得ることが出来るだろう。無知は罪だ。誰かが自分の為に業を背負うたびには夢を見る。
 そして今、この瞬間もまた望んだ夢の一つに過ぎないのだろう。瞼の向こう側は暗く、何もない。少しも眠くはないのに、深く眠るのだ。
 耳から外した指を伸ばすと、アリババの温もりがを包む。温かく、自分が望んでいた夢だ。
 知っている。知らないふりをするけど、本当は、全部、知っている。
 だからシンドバッドもマリカも、もう自由にしていいのに。
 しばらくして、ゆっくりと下ろされたそれが示す先は、遠くの死に果てた地でもなく、アリババの心臓でもなく、

 自身の足元だった。




足元の泥を見よ、世界とは大体そんなものだ


2014.02.10
※ユダヤ民謡「Chad Gadya」より引用

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