Until my very last breath




アリババは瞬きをした。シンドバッド王が厳しい表情を固めたまま、白亜の回廊の角を曲がってくるところだった。国の繁栄を象徴するかの如く長く遠くまで続く回廊は隅々は丹念に磨きがかけられており、注意して歩かなければ足音など良く響く。一国の王であるというのに供の一人も従えず、気儘に歩き回る姿はこの宮殿では珍しいことではないので今更咎める者もいない。彼の規格外の強さはシンドリア国を超え、世界中に知れ渡る事実であり、白昼堂々、彼に闇討ちを仕掛ける者がいるとするのならば、余程の愚か者か、命知らずに違いない。
シンドバッドは、落ち着かない様子で視線を彷徨わせ、正面にアリババの姿を認めると、足早に向かってきた。ただならぬ気配を敏感に察知したアリババは及び腰になりながら強張った笑みを浮かべた。
「やあアリババくん」
「シンドバッドさん、おはようございます。こんな早朝から珍しいですね」
昨晩は近隣諸国から訪問して来たお偉方の使者達の為に盛大な宴が催されていたはずだ。宴に同席したアリババは、目の前の国王が上機嫌でいつものように大量の酒を口にしていたことを知っている。早朝とは言ってもとっくに太陽は頭上に顔を出し、野鳥の囀りも賑やかな朝のこと、剣術の稽古の為に早起きが日課になっているアリババは既に朝食を終え、風通しの良い回廊の隅で一服をしていたところである。使用人達の姿もまばらではあるが目に付くようになり、活気のある王宮の一日が始まろうとしている頃合いだった。
酒癖に関しては悪評を轟かせているシンドバッドがあれだけの量を摂取していて、このような時間に活動をしているなど余程の珍事に違いない。すれ違う使用人が、まるで不審者を見るような目をしていることも意に介さずにシンドバッドはアリババに詰め寄った。
「ああ、ちょっと困った事があってね。を見なかったか?」
、その言葉にアリババは首を傾げた。自分と同様にこの国に身を寄せている彼女が、実はシンドバッド王と浅からぬ縁があるらしいと疑問を持ち始めたのは少し前のことだった。普段はと名乗っている彼女のことを、シンドバッドだけが親しげに「」と呼び始めたのはいつからだろう。彼女はシンドバッドにその様に呼ばれるのを酷く嫌がり、何度も訂正しようと試みていたが、結局勢いに押され、最近は殆ど諦めているようだった。アリババだって本当は「」と呼びたいのに、そんな二人の攻防を目の当たりにしてしまっては気安く呼ぶことなど出来なくなってしまい、納得のいかない気持ちが渦巻いている。そんな心情を知ってか知らずか、この国で彼女の名前を正しく呼ぶのは国王のみである。
「見ていないですけど、に何かあったんですか?」
確か昨晩の宴の席であった時はいつも通りであった筈だ、アリババとアラジンの丁度間にモルジアナと腰を下ろし、楽しそうに宴に興じていたことを思い出す。
「いや、まあ少々事情があってな」
シンドバッド王にしては歯切れの悪い返答にアリババは益々首を傾げた。
「マリカ、君は知っているかい?」
うわ!アリババは自分の足下を見て飛び上がった。いつもの隣にいる銀白の狼が彼のすぐ横に佇んでいたからである。野生の獣の為せる業なのか、彼はこうして音もなく突然と現れ、その鋭く尖った爪は磨き抜かれた美しい大理石を傷つける事はないのでアリババはいつも感心している。マリカは驚くほど知性に富み、普段こそ大人しく狼という性を忘れそうになる振る舞いをしているが、その爪が一度だけ、彼の大事な相棒に不埒な真似をしようとした輩に本能を剥き出しにしたところを目撃した事がある。温厚だと思っていたが時々垣間見る気性の荒さはやはり狼なのだと思い知らされ、無防備が過ぎるがすくすくと育ったのは彼の苦労の賜物に違いなかった。この上ない番犬である。
シンドバッドに名を呼ばれたマリカは視線だけちらりと彼の方に向けた後、気のないそぶりでその場に蹲ってしまった。元々以外の人間には懐かない獣であるが、殊更シンドバッドに対しては見ている方が気が気でない態度をとる。何故なら不埒な輩とはシンドバッド本人に他ならないからだ。
シンドバッドは気分を害した様子もなく、苦笑をして、そうか、邪魔をして悪かったな、と言い、来た時と同様に足早に立ち去っていった。
「…マリカ、お前いつからそこに居たんだよ、吃驚したじゃねえか」
応える代わりに長い尾が数回、白亜の大理石を叩いた。どうでもいいけどお前、ほんとシンドバッドさんのこと嫌いだよな、呟きは立派な耳に届いたのだろうか、アリババは小さく溜息を吐いて屈み込むと、手入れの行き届いた毛並みに指を滑らせた。陽の光を浴びると眩く光る毛は滑らかで心地よい。いつもならこの位置にいるはずのの顔を思い浮かべる。マリカの首筋に抱きついて至福の表情を浮かべる彼女のことを。
「何があったんだろ」
返答はない。至上主義の狼がこうして自分の元にいるのだから大事ではないのだろうけど。マリカはアリババに撫でられながらじっと瞼を閉じたまま。

「あれ、アリババくんとマリカだ。珍しい」

アリババは瞬きをした。視界の端でマリカが顔をあげ、尻尾を豊かに揺らしている。
たった今、頭の中で思い描いていた人物が、普段の様子と変わりなく自分達を見下ろしている。幻か、しかし彼女の足下にはしっかりと影が縫いつけられているので本物のようだ。
後ろめたいことなど何もない筈なのに頭の中を覗かれたような気分に陥り、つまり数秒前まで思考が全ての事で埋め尽くされていたことが途方もなく恥ずかしく、アリババは自分の頬が熱くなるのを感じた。まったくすべてシンドバッド王のせいだ。心の中で誰にでもなく言い訳を繰り返してを見上げた。当の本人は呑気なもので、先程のアリババと同じく首を傾げている。普段通りに見えるが、やはり何か問題でも発生したのだろうか。
「二人ともいつの間にこんなに仲良しになったの」
そうじゃなくて!叫びたい衝動を抑えてアリババは呻った。そうじゃねえだろ、絶対違うだろ。
「たった今、シンドバッドさんが血相変えてお前のこと探してたぞ」
するとはほんの少しだけ目を見開いて、固まったのは一秒にも満たない時間。たちまち普段の穏やかな顔を取り繕って頬を緩ませた。ほらな、やっぱり。そんな僅かな瞬間にでさえアリババは溜飲の下がる思いだった。
「ふうん、どっちに行った?」
僅かの間に己の思考を吟味したは平坦な声を吐いた。少しの綻びもなく。だけどおかしいな、空気がピリピリしてねえか。は気味が悪い程平常通りであるのに、朝の爽やかな空気が僅かに震えて居心地が悪い気がする。アリババがそっと右方向を指すとはお礼を言い、また後でね、と足早に去っていく。
「お、おいそっちは逆方向…!!」
アリババが示した方向とは真逆に、最後は殆ど駆け足で消えていく後ろ姿を呆然と見送った。
「マ、マリカ、お前追いかけなくていいのか」
いつもに付き従っている大きな白銀の砂漠狼は再びアリババの足下で蹲って鼻を鳴らした。彼がもし人間であったなら、きっと大きな溜息を吐いたに違いない、とアリババは思った。
「つーか、もし俺といたらアラジンと会えるんじゃないか、って思ってんだったら残念だけど、あいつ今日は朝から魔法の特訓で別行動だからさ」
マリカはゆっくりとアリババを見上げ、見つめ合うこと数秒の後、軽やかに身を起こし、あっという間に去っていった。

「…なんかむなしい」



* * *



弁明をさせて欲しい、と言われた。
その時は青々と茂った芝生の上に寝そべり、じっと身動きをせずに澄み渡る空や心地よい潮風のことを考えたりしていた。潮風に煽られてそよぐ草花が耳元をくすぐる度に思考が微睡み、暫く閉じられていた瞼を重々しくもたげ、飛び込んでくるであろう眩い日差しをどう避けるべきか悩んだが、杞憂に終わった。光はの丁度頭上の辺りだけ器用に遮られ、代わりにはしばみ色と、空より鮮やかな蒼が飛び込んできた。目を細める必要はなかったが、もっと自然な動作で瞳に蓋を閉じた。それからようやく神経を尖らせてみれば、直ぐ横に人の気配がある。いつからか、不躾に顔を覗き込んでいるその人は、の気持ちなどそっちのけに、開口一発、弁明がしたいのだと言う。それ以降、隣の人は口を閉ざし、静かな草花のざわめきが耳元に戻ってくると、はゆるやかに思考を働かせる。風に乗せられて薫る潮の色、程よい速度で島をぐるりと周り、今朝の港はきっと大漁に沸いていることだろう。太陽の光で体中が温まり、地熱が背中から押し上げてくる。どうしようもない感情ごと、上昇しようとする。
「わかりました。許します」
「まだ何も言っていないだろう」
「何でもいいよ。何でも、許すから」
「ほら、怒っているじゃないか」
別に、怒っているわけじゃない、が再び瞼をもたげると、さっきよりも近い距離にはしばみ色があった。目を開けてよかったと頭上のそれを押しのけて身を起こすと、不満顔のまま、シンドバッドは髪に絡まった葉の一枚一枚を丁寧に取り除いてくれる。の髪は細くて絡まりやすいので、それは面倒な作業だろう、気にすることないのに、と口を尖らせると、好きでやっているんだ、と長い指がさり気なく首筋をなでてゆく。そうでしょうね、本当に変態、言葉を飲み込み溜息に留めた。
「朝一番で申し開きをするつもりだったんだ。なのに起きてみれば寝台はもぬけの殻、探し回って見てもどこにも見当たらないし、これは避けられているなと思ったんだが」
「たまたますれ違っただけでしょう」
「こんなに人目を憚る場所にいて?」
「探されているとは夢にも思わなかったもの」
白々しいことだ、と思ったのはどちらの方か。
王宮を背にした、城下町とは正反対の殆ど人が寄りつかない場所だ。手つかずの緑は美しく、なだらかな丘陵は地上と海の境目で突然途切れている。荒々しく地層が露わな絶壁の少し離れた位置、王宮の手入れの行き届いた美しい庭とは似て非なる、青々と伸び生やした若草の絨毯の中に身を潜めるようには居た。偶然見つけたこの場所は、のお気に入りであり、人目を避けて静かに瞑想に耽るには最適の場所で、未だ誰にも教えたことのないとっておきの楽園だった。しかし流石はこの島国一の権力者である。あっさりと、しかも一番厄介な人に見つけられてしまい、内心は不満でしょうがない。
なんだかこれでは本当に拗ねているみたいだな、と思いながら顔を振ると、手の平は離れていった。
「もし、シンが昨晩の事で気を揉んでいるのだとしたら、気にすることなんてないよ」
シンドバッドは眉を顰めた。
「接待なのだって、そんなことくらいわかるよ。それが仕事だもの。シンは素人のわたしから見ても立派に務めていたし、酒癖も女癖も最悪な王様があれだけ美女達に囲まれれば鼻の下を伸ばすことくらい、この国では5歳の子供だって知ってる常識だよ?本当に弁明の意味もないことだと思いませんか?」
あっけらかんと言い放ったの言葉には嘘偽りはないように思えた。シンドバッドがどのような表情をしてそれを聞いているかなど気にする素振りを見せず、笑みさえ浮かべている。
「……妬いてくれたのだと少しは期待したのだがな」
はその言葉にようやくシンドバッドの方を向き、戸惑い気味に眉を下げた。
「ねえ、シン、貴方には過ちをしっかり諫めてくれるジャーファルくんやヤムライハのような仲間がいるよね。その役目はわたしではないし、出来ないことだよ。これからもずっと」
「どういう意味だ」
「…ごめんなさい、ちょっと自己嫌悪」
そう言って両手で自らの両膝を抱え込むと、そのまま丸くなって顔を伏せてしまった。くぐもった声で、だから会いたくなかったのに、と呟く。シンドバッドは一言も聞き漏らすまいと、さらに一歩距離を縮め、華奢な体を見下ろした。
「嫌悪感で一杯なのは、勝手な自分自身に対してで、シンに腹を立てるなんて筋違い」
言って遠くを見つめるの瞳は僅かに揺らいで、見えない蜃気楼の中に漂っているようだった。唐突に、そのまま消えてしまうのではないかと、シンドバッドは根拠のない焦燥感に駆られ、彼女の肩に腕を伸ばした。
「この国は豊かだね。シンドバッドという大きな核に護られてる。貴方はとても素晴らしい王だよ。貴方の庇護の下、こうして作物や緑が育つ。人が育ち、貿易も栄える。けれどもわたしは駄目だ、わたしはこの国にいると駄目になる」
?」
シンドバッドが覗き込もうと首を傾けると、は体を捩って顔を背けた。その子供じみた仕草に重い溜息が零れる。
「予感がある。貴方はわたしの世界を壊すだろうって」
は自分の肩に回された腕を払いのけると、そのまま大地に横たわった。両手を胸の前で組んで、目を閉じると、それはまるで棺に収まる死人の様だ。彼女の周りでそよぐ白い小さな花々はのための献花に違いなく、優しく包み込む。
「シンがわたしを気にかけてくれる要因は何だろうって考えてみた。
一つ目は幼なじみだから、人よりも気心の知れた関係だったから。それから二つ目、わたしが女で非力で、貴方が護るべきだと認識している範囲に分類されているから。もし仮にわたしがこの国に骨を埋めるとして、つまりこの国の民の一人になったとしたら?三つ目、さらに貴方が最も大事にしている国民の一人に分類されることになる」
三つもあるのだ、探せばもっと出てくるかもしれない。それはシンドバッドにとって当たり前の義務にすぎないでしょう、は淡々と言って息を潜めた。あとは心臓の動きさえ止めてしまえば完全な死人になれる、と考える。
「そうやって決定的な要因が増えていくたびにわたしは駄目になる。わたしがシンを気にかける気持ちと、シンドバッドがわたしを気にかける気持ちは噛み合わないのだと気付かされる。シンドバッド王はシンドリア国民全てのもので、は我が侭だって」
なんだそれは、瞼を閉じているにはわからない事だったが、シンドバッドの眉間には深い皺が刻まれているに違いなかった。穏やかに過ぎていく時間は永遠ではなく、醒める日は必ず来る。昨晩、玉座に座り、王らしい振る舞いをするシンドバッドを見て、もうこれ以上ここに留まっては居られないと感じた。彼はシンドリアのかけがえのない王であり、かつての、の知るシンではないのだ。自分の気持ちばかりが過去の形で止まっている。シンドバッドも当たり前のようにを大事にするだろう。けれどそれはの望むものではない。
「性格が悪いことに、シンドバッドは反論できないってわかって言ってるよ」
いくら息を潜めてみたところで心臓は止まらなかった。
「貴方は沢山の護るべき者達がいて、信頼に足る仲間がいて、集う全ての人々を護ることが義務だと信じ、実行するだけの力がある人。でも、わたしはその中に入るつもりはない」
大勢の中の一人に混ざってまで傍に居続けることはできるだろうか。それは無理だ、は自分が一体いつからこんなに欲深くなってしまったのか、そしてそれは想像以上に根が深く、もう平然と抑えておくことは難しいと思った。
「驚いたな」
死人のふりを止めて仕方なしに目を開くと、想像通り、シンドバッドの顔がの頭上の光を遮っていた。驚いた、なんて言いながら薄い唇は弧を描いている。
「まるで嫉妬をしているように聞こえるが」
「はい?」
嫌な笑みだ。咄嗟に起きあがろうとしたを制して、シンドバッドは彼女の頭の両脇に肘を付き、一気に距離を詰めた。
「ばか!」
しかしシンドバッドは、驚き押し戻そうと胸板を必死に叩くの姿を間近に捉えて喉を鳴らす。重い。体重はかけていないだろう。暑苦しい。日陰が出来て丁度良いじゃないか。お酒臭い。酒ならとっくに抜けている。押し問答を繰り返して、引く気配のないシンドバッドには観念した。
「自覚はないのか?俺を独り占めしたくてしょうがないと可愛らしく駄々を捏ねている様にみえるが」
は目をいっぱいに見開いて呆けた。瞳の中いっぱいにシンドバッドを映して、彼の言葉に真実味はあるのか、嘘か本当かを正確に見極めようと努力をしている。目の前の男は心底愉快そうに、それが真実であると疑う余地を持たない傲慢な様である。
「…目からうろこ」
ほろりと零れた言葉に従って、眉が緩やかに下がり、瞼は痙攣を起こしたように忙しなく動いた。間近にいるシンドバッドに歩み寄るべきかを考え、一秒ほどのあいだには答えを導き出して、それが正しいかどうかはさておき、否定する勇気も起きあがる力も残ってはいなかったので、再び大地に体を沈ませた。
「そうかぁ」
声に感嘆の意が含まれているとしたらほんの僅かで、後のほとんどは重く滲んだ疲労の色に隠れてしまっていた。けれどもの頬は微笑みの形を成して、ふふふ、と声を漏らし、肩を震わせた。そうかぁ、もう一度、今度はその声は浮ついて聞こえた。
「これが嫉妬というものなら、一生分の幸せと同義に思えるよ」
「一生分なんて大袈裟だろう」
「ううん、わたしの一生の中の幸せの全てが今ここに集結してるのだとしたら、シンの指摘は正しい。わたしの中心はここにあるのだとしたら」
は指でシンドバッドの心臓を数回叩いて、満ち足りた笑顔を浮かべる。
「わたしは幸せに囚われてはいけないから、今すぐにここを出ていかないといけない」
「何故だ」
「わたしの望むものは、貴方の望まないものだから。わたしにとってシンドバッドはただ一人の人間だったけれど、貴方はもう、ただの人間ではない」
わかるでしょう、わたし達はとっくに共に歩むことができなくなっている。望む形が正反対の方向に向いてしまっている、わかっているくせに。は静かにシンドバッドを諭し、肩をそっと叩いた。
「この嫉妬という感情が永遠に癒えないものだと気が付いたら、幸せに身を焦がすより、幸せを遠い地で夢見ている方が余程良いよ」
「許さない、と言ったら」
「わたしの足を切り落とすしかない。そして貴方は義務感をいっぱいにして、わたしを飼い慣らす」
シンドバッドは顔を顰めた。可哀想だと思うなら、答えは決まっているでしょう、の声は穏やかだった。期待にあふれた顔を上げる。
「もう二度と、ここへは戻ってこないけれど、だってわたしの体と心臓は故郷に還すと決めているから。でも、もし、最期の一呼吸のうちに、この幸せを思い出すことがあったら」
その時は、わたしの魂を、
「成る程な、良くわかった」
シンドバッドは物分かりよく頷いて見せ、身軽に体を起こしてを解放した。
は自分には2本の足と、2本の腕があるというのに、少しも立ち上がれる気がしない。自由に動く2つの目が右往左往し、瞼が控えめに奥の方に引っ込んだ。そして自分はとんでもない提案をしてしまったかもしれない、シンドバッドの瞳の奥を覗き込んでそう思った。
「最近なにやら様子がおかしいと思っていたら、案の定か。今回の件でお互い確信に至ったわけだが、成る程な、らしい突飛で屈折した境地に違いない」
それはお互い様だ、とシンドバッドは自嘲気味に笑い、けれどもの言葉を否定はしなかった。
「わたしの魂はルフに還ることができると思う?」
今度こそシンドバッドは声を立てて笑い、そうでなければ困る、と言った。はぎこちなく頷き、安堵の表情を浮かべる。
「ルフに混ざってしまえば、貴方の義務に囚われなくて済むね」
シンドバッドはの片耳に収まっている紅い宝石をじっと見つめた。血の色よりも鮮やかな紅は真っ白なに良く映える。彼の内から沸き上がる感情はどちらの色にも属してはいないが、幸いにも跡も残さず染めてしまうことが出来る。無垢で己に実直なのことを見ていると、確かに二人の間には超えられない隔たりがあるように思えた。
「…確かに噛み合ってはいないようだ。の考えるように、どうやら君と俺との感情にはずれが生じている。君が言うように立場上の問題もあるが、特に最も重要なことが一つ、これだけは改めさせてもらいたい。
は俺が君に与えてきたものを全て義務だと認識しているようだが」
シンドバッドはの耳元に顔を寄せ、内緒話を持ちかけるように声を密めた。

「それは義務じゃない、『執着』と言うものだ」

可愛らしい嫉妬なんかよりはるかに根が深くて質の悪いものさ。
声は放たれ、空中を漂っている。
は耳を、全神経を塞いでしまいたかったが、それは叶わなかった。直ぐに「冗談だよ」と、悪戯が成功した時の満面の笑みが降ってくることを想像したが、いつまでもはしばみ色の二つの目は瞬き一つせずにを見下ろしている。
酷い人だ、は心臓が爆発するのではないかと危惧した。燃え上がる怒りにも似た感情が一瞬だけ火花を散らした。この男は、噛み合わないことを承知の上で、自分の執着心は決してを幸せにしないことを知っていながら、を縛ろうとする。許し難い。

「ではつまり、今、ここで君の息が止まってしまえば、俺のもとに留まるんだな」

シンドバッドは両手をの首にあてがった。
最初は優しくゆっくりと、徐々に指に力を込めてゆき、の顔が真っ白に染まっていく様を見下ろした。やがて、目尻から一筋、透明な雫が伝って大地に沈むのを見届け、力なく垂れ下がった腕を取ると、最初の様に胸の前で指を組ませた。手近に咲いた白い花を一輪摘んで、柔らかい髪にそっと挿してやる。

「冗談だよ」

シンドバッドは目を細めて笑った。


2013.10.18

わたしの息が止まるまで (Until my very last breath)