熱は解けたのかと君は問う




 海に行かないか。晴れた昼下がり、斜めに横切る入道雲から割り込むようにその人が顔を覗かせたのと、わたしが読んでいた書物から目を離したのは殆ど同時だった。大柄な体躯に陽の光が遮られると目を細め、返答をする前に書物を取り上げられてしまうとそこに抗議の色が灯るが、それよりも先に、このような場所で読書など目が悪くなる、と逆に咎められると所在なく視線を反らし、数時間前まではここは日陰だったんだ、と形ばかりの言い訳を口にした。いつの間にか太陽はわたしの頭上に移動して、快適だった日陰は居心地悪そうに遠くへ逃げ出していた。何か一つのことにのめり込むと周りが見えなくなるのは自分の悪い癖だ。大きな掌がわたしの頭を撫で、熱い!火傷するかと思った、と大げさに言うと、自分の体が想像以上に火照っていることにようやく気づいた。目前に差し出された手に自分の小さな手を重ねると、ひんやりと冷たかった。造作もなくわたしを引っ張りあげた逞しい腕は、不健康なわたしの二つの足がふらつくことなく地に触れていることを確認すると、もう一度、今度は額に指を伸ばした。殆ど日射病のように熱を持った頭はどこに触れても砂漠の砂の如く火傷の危険を孕んでいる。じっとり汗ばんだ体に触れられることが煩わしく頭を捩ると太陽の熱にくらりとした。それでも暑苦しく顔を寄せてくるので、もしかして焦げた香ばしい臭いでもするのか、と問うと、太陽の分身のような二つの瞳は瞬きを何度も繰り返し、やがておかしそうに揺れた。面白いことなど一つもないわたしは、その態度に異論を唱えるべく手をあげたのだが、その時点で既に冷静ではなくなっていたことに気付けないまま、伸びてきた相手の手によってあっさりと拘束され、読みかけの書物の奪還も虚しく空を仰いだ。入道雲まで逃げるように頭上から遠ざかっていく。薄情なことだ。耳元で、海で熱を冷ました方が良いな、と囁かれれば二つ返事で頷いていた。
 実はお腹が減っている、と白状すると、朝から延々と読書をしているからだ、とまたしても咎められ、実は遅めの昼食を用意させている、と続けられた言葉に釈然としない気持ちを持て余しながら素直にお礼を言った。貴方のそういう、用意周到なところが腹立たしい。大体、自分だって昼食を抜いたくせに。俺は今まで職務に勤しんでいたんだ、日がなゴロゴロしているだけのと一緒にしないでくれ。
 どうしよう、酷い眩暈がする。




「こうして直接海に触れるのは久しぶりだなあ!」
 くるぶしまで両足を海水に浸して、寄せては引いていく波の心地に感嘆の声をあげると、少し離れた位置でわたしを見守っていた人はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「この国に来てもう半月は経つというのに、一度も海に来ていなかったのか?…もっとも、そんな事だろうと思ったから今日はこうして誘ったのだがな」
「一々そうやって、俺はお前の事ならなんでも知ってます、みたいな顔するの止めてよ、ぞっとしない」
「俺は事実を口にしているだけだ」
 360度をすっかり海に囲まれた小さな島国は、空より青い海にぽっかりと浮いているようだ。真っ白な砂浜は照り付ける光を反射させて、じっと眺めているだけで瞳が焦げ付いてしまいそうなので、わたしの視線は先程からあちらこちらへ彷徨って落ち着きがない。
「こんな浅瀬でいいのか?」
「ちょ、シン!」
 思いもよらない方向から腕を引かれてつんのめるわたしを気にも留めずにずんずんと海に入っていく横顔は悪戯を思いついた子供のように無邪気だった。力では敵わないわたしはそのまま引きずられる形で砂浜から離れてゆき、どれだけ声を上げても体はみるみるうちに海水に沈んでいく。
「今日はいつにも増して天気が良いからな、海水も温かいだろう?」
 確かにひやりと肌が粟立ったのは最初の数秒だけで、人肌のように温かい水の中は火照った体には心地がよい。けれどもそういう問題ではなく、次第に重みを増していく衣服は海中に入るための機能は備わっておらず、体中に絡みついては居心地の悪い思いを抱く。つまり、海に行こう、と言っておきながらもわたし達は海に入る準備を一切して来なかった。自分でもまさか海に入るとは予想もしていなかったし、水分を吸収することにおいては誇らしげないつもの衣装のまま海に入るという暴挙に出たシンの意図がわからず、ただただ気持ちの悪い思いばかり、額から流れる汗と海水のどちらが塩辛いのだろうか、答えなどわかる筈もなかった。
「ねえ、本当に待って!」
 何度目の懇願だろうか、ようやく歩みを止めた時にはシンの体は半分ほど水に浸かっていた。そうなると身長差のあるわたしは胸の辺りまで水が迫ることになる。透明度の高い美しい水面を派手な色彩の魚達が泳いでいる。数匹の魚達は恐れることを知らず、無邪気にわたしの丁度胸の辺りを横切っていった。
 少しでも大きめの波がくれば抵抗できずに海中に沈んでいきそうな場所である。
「わたしが泳げないの、知ってるくせに」
「そうだったかな」
 白々しくそう言いながらおもむろにわたしの手を離し、肩を揺らしながら笑う。必然的に海に放り出された方は気が気でない。やだ、冗談はやめてよ!離れていった腕に慌てて飛びつくと、自由なままのもう片方の腕が見計らったようにわたしの腰に回された。本当に未だ、泳げないままなんだな、必死な姿に感心されたところでなんの気休めにもなりはしなかった。張り付いた服の居心地の悪さ、その横を掠めて悠々と泳ぐ魚達。時折波打つ水面、光の反射できらりと光る水飛沫、すべてが今自分の見にまとわりついている現実で、眩暈がする。
 一朝一夕でどうにかなるほど生半可な問題ではないのだ。何しろ子供の頃から類い希なる金槌で、どれだけ練習をしても、一度だって泳ぐことはおろか、浮かぶことさえ出来なかった。漁村で生まれ育ちながら、それは致命的な欠陥であった。両親は気にするなと言ったが、他の村人達はは生まれてくる場所を間違ったね、とわたしをからかった。汚名を返上しようと躍起になったこともあったが、最後まで努力は実ることなく、夢の中だけでは人魚のように水中で呼吸だって踊ったりだってできる自分を想像した。きっと、人魚のお姫様のように何か特殊な呪いがかけられているのだと思う。大好きな海の中で悠々と居られないように、誰かがそのように、呪いをかけた。そうでなければ特訓の為に費やした情熱と成果はとっくに比例しているはずだ。
 一際大きく立った波に反射的に身を強張らせると、体がふわりと浮き上がった。腰に回された腕に力が篭もり、足が海底から離れたことの不安よりも安定した力がわたしを持ち上げる。海に浮かぶのはこのような感覚なのだろうか、感動に浸るよりも素早い動作でわたしは精一杯藻掻き、目の前の人を浮き輪代わりにしがみつく格好。しっかり掴まれ、なんて偉そうに言われると、誰がこんな目に遭わせたと思っているのか、と噛み付きたくなる。けれどもここで機嫌を損ねて見捨てられでもすればあとは一人で沈んでゆくだけだと理解しているので、大人しく言われた通りに首に両腕を回して、きつく瞼を閉じた。それから押し寄せる大波を簡単にいなしてしまったシンが、もう大丈夫だ、と一段と穏やかな声で伝えてくるのをただ待った。波が荒かろうが凪いでいようが全く影響の及ばない魚達はそんな気持ちなど露程も知らずに、わたし達の周囲を自由気ままに泳いでいることだろう。これだけ天気が良いというのに、世界中が息を潜めているような静かな昼下がりだ。聞こえてくるのは波が跳ねる音と、互いの息遣い、その二つに閉じこめられて気がおかしくなりそうだ。すぐにでも泡になって沈んでゆきそう。
 回された手がいつの間にか2本に増えていて、その腕に僅かに力が篭められた。それは壊れ物を扱うようにほんの少しだけ。加減を誤ると、泡はあっという間に割れてしまうのだと知っている人なのだ。
「怖い?」
 貴方はそうやってわざわざ耳元で囁くように話しかけるのが癖なのか。
「怖い、こんなに濡れて、ジャーファルさんに小言を言われるのを想像しただけで怖い」
 そっと瞼を開けると、憮然とした表情のシンの顔が飛び込んできた。
「どうして今ジャーファルなんだ」
「わ!ちょっと、お願いだから離さないでー!」
「な、怖いだろう?」
「うん、すごく怖い」
 今、この瞬間、シンに弱みを握られている状況が何よりも怖い。素直に頷くと、シンの顔は今日一番の達成感に満ちていた。いい大人がどうしてこのような子供じみた嫌がらせをしてくるのか、少しもわからない。滑稽にもシンに抱えられたままの状態で、冷静になり始めた頭を必死に稼働させていると、シンはわたしの額に顔を寄せてきた。
「熱、冷めたな」
 こつん、と合わさった額は、血の気の引いた自分のものよりも相手の方が熱かった。今にも発火しそうだった髪がゆらゆらと水面を漂っている。確かに熱射病の危機は去ったようだ。
「そうだけど、こんな横暴なやり方は酷い!」
「だが海には入りたかっただろう?俺と一緒ならこうして気兼ねなく泳げるという事にもっと喜ぶべきだ」
「別にシンでなくたって、なんならマスルールくんの方が安心できるんですけど。貴方と違って真面目に助けてくれるだろうし、安心感のちが…いにゃ」
「約束、覚えているんだろうな?海に入るのは」
「…シンとだけ」
 力一杯に抓まれた鼻が赤くなっていることを確信しながら、無体な仕打ちから逃げるべく上体を器用に捻ると、眉間に皺を寄せたシンがわたしを見下ろしている。わたしの視線の意図に気が付いて、もう一度伸ばされた指を阻止すべく素早く捕獲に回ると、盛大なため息が吐き出された。そんな子供の頃の約束事を今更持ち出されても困る、わたしの言い分はその一言である。どれだけ昔の話を持ち出すのだ、わたし達はあの頃のように、もう子供ではない。金槌なのは相も変わらずだけれど、お互いの立ち位置はとっくに変わってしまっている事を知らないわけではないだろう。
「昔はあれだけ躍起になって泳げるようになろうとしたけど、今はもうありのまま、どうしたって適わないことがあるって気付いたから、むきになるのは止めたんだ。だから、こっそり一人で海に行って危うく死にかけるなんてこと、もうないから」
 その昔、まだ負けん気の強かった子供の頃。たまたま虫の居所が悪かったのだと思う。いつものようにからかわれた事が普段よりも許せなくて、一人では決して海に近づくなと言われていたのを無視して海に入ったこと。それがたまたま波の荒い日で、あっさりと波に飲み込まれたわたしは、偶然通りかかったシンに助けられた。死にたいのか!それは恐ろしい剣幕で怒鳴りつけられ、溺れたことよりも初めて本気で怒鳴られたことの方が余程トラウマになった。大泣きしながら何度も何度も謝って、怒っている筈のシンだってうっすら涙目になっていたのを鮮明に覚えている。
「あの頃からは自分自身に対する危機感が欠落していたからな、何度冷や冷やさせられたことか」
「こんなことをするシンの言う台詞とはとても思えない!」
「あー駄目だ、駄目、そうやって睨んだところで無鉄砲なの保護をするのはいつまでも俺の役目だからな、いくらマスルールとて、こればかりは任せておけん」
「いい歳して海に入る許可が要るなんて、しかも一国の王サマにその都度申請するの?」
「おかしい事か?」
 あはは、と笑ったわたしに被せるようにしてシンの肩が震えた。それがどれだけおかしな話か、自分だって笑っている癖に。あの頃、わたしを助けた少年の腕はこのように逞しかっただろうか、慈しみの篭もった瞳で真っ直ぐと見ていたのだろうか。一体、あの頃と何が違うのだろう。
 水の中は想像していたよりも柔らかくわたし達を包み込むので、長いこと空白だった互いの隙間が埋まっていく錯覚に陥り、全てを委ねてしまいたくなる。思い詰めていたあらゆる毒素が透明な水に溶けて新しく幸せの形に姿を変えて押し寄せてくるのだ。海は全ての生命の源だと実感する時、それはわたしが泡になってとけてゆく瞬間だ。光輝に満ちた一瞬、永遠にすら足りるその一瞬に全身を委ねる。
 瞼を閉じると、ひんやりとした指がその上をなぞるように滑り、首筋まで落ちていった。
「わたし達、さっきよりも随分と沖へ流されている気がする」
「そういえば、俺もとっくに足が浮いているな」
「…え、ばか!ははは、じゃないでしょう!怖いから早く戻ってよ!」
「大丈夫、俺といれば怖いことなんて何もないさ」
 ふざけるな、さっきと言っていることがまるで違う。慌てるわたしを宥めながら、大丈夫、大丈夫と繰り返し、お互い首だけを水面から出した状態で、シンは相変わらず微動だにせず、この人は今、どうやって浮いているのだろう、金槌のわたしには検討もつかないことだった。目を丸くするわたしを見て楽しそうに笑っている。この人はわたしが困っている時、わたしがどれほど慌てているか、困惑しているかをこうやって笑顔で観察をしてくるまともではない趣味を持っている。それを知りながらもこうして醜態をさらす理由など、本当に窮地に追いつめられているからだという事実に他ならない。
 本日三度目の眩暈を覚えた頃、なんだかんだでわたしには甘いとジャーファルさんからお墨付きのシンドバッド王は器用な泳ぎを披露しつつ、足の届く浅瀬までなんなく戻ってみせた。
「どうだ?少しも怖いことなんてなかっただろう?」
 それは一体どんな笑顔だ。得意気な顔が憎らしく思え、思い切り鼻を抓んでやると、悪い、少し調子に乗りすぎた、とようやく謝罪の言葉を口にした。謝りながら満面の笑みってどういうことだ。だって、嬉しいんだ。緩んだ顔を隠すようにシンはわたしの頭を抱え込んだ。
「またこうして一緒にいられることが」
 波の音にかき消されてしまいそうな小さな声だというのに、それはわたしの耳にしっかりと届けられた。だから耳元で囁く癖、止めた方がいいのに、どんな小さな音でさえ聞き分ける耐性が出来てしまっているから、聞き漏らすなんてあり得なかった。
 わたしはその言葉にどう返したら良いのかわからず、海の中を漂っているだけだ。逃さないよう、縋り付いているのはどちらの方なのだろう。十年以上の時を経て、全てが変わってしまったように見えた目の前の人の鳴らす鼓動だけはあの頃と同じ。安心に委ねるに値する速度で直ぐそこにある。
「覚えてる?わたしが砂浜で、皆が楽しそうに泳いでいる姿を羨ましそうに見ている時、いつも真っ先に駆け付けてくれたこと。その度に綺麗な貝殻を拾ってきてくれたよね」
「ああ、いつも砂浜でヤドカリみたいに体を丸めて恨みがましい目で見てくる少女がいたな、いたっ!わかった、悪かったから抓らないでくれ!」
「勝手に尻尾を振りながら甲斐甲斐しく運んできたのはそっちの方でしょう」
「いや、だって貝を眺めながら微笑むが予想外に可愛かったからな、癖になってつい」
「…そういう裏事情は知りたくなかった」
 餌付けされていたのは自分の方だったというのか。
 今すぐ水の中に沈んでしまいたい。若しくは沈んで欲しい。真顔で恥ずかしい台詞を言う人だったことを忘れていた自分が嫌になる。本当に、この人の前で無防備でいるとろくなことにはならない。顔が赤いなどと指摘されてはたまらないので俯くと、どうした?気分でも悪いのか?見当違いな事を聞いてくる。
「シンは覚えているかわからないけど、貰った中で一番のお気に入りの小さくて白い法螺貝がね、耳を寄せると、波の音が聞こえるんだ」
 こんな風に。耳を澄ませると、直ぐ横で魚が跳ねる音。風が水面を駆ける音。
「いつも大切に宝箱の中に仕舞っておいて、時々取り出しては耳にかざしていたわ」
 今はその宝箱ごと、手元にはない。故郷の土の中で、今でも波の音を奏でているのだろうか。
「ああ、それはもしかしてこれのことか?」
 感傷に浸るわたしの目の前で懐をあさり、取り出されたそれは、懐かしい色と、形をしていた。
「え?」
 手の平に乗せられて、固まった。自分の記憶が間違っているのか、そうでなければこんなに酷似している筈がない。
「……シン?なんでここに?」
 側面に刻まれた模様は何度も何度もなぞった記憶そのもの。口の部分がほんの少しだけ欠けている事も忠実に残っている。厳重に鍵をかけて土の中に埋めた宝箱の中に入っているはずのもの。
 目を瞬かせても、消えたり形を変えたりはしなかった。
「本物?」
 恐る恐る手にとって耳にあてがうと、同じ音がした。あの頃の海と。
「ねえ、これはなに?シンがくれた法螺貝と本当に同じ?」
 だとしたら何故ここにあるのか、答える代わりにシンは法螺貝事わたしの手の平を包み込んだ。
 呆然と、亡霊でも見ているみたいに、視線が手の平に吸い寄せられていたので、その時、シンがどのような表情をしていたのかわからない。ただ、静かに声が降ってきた。
「俺が贈った物をこんなに大切にしてくれていたんだな、俺がこれを見てどんな気持ちになったのかを考えたことはあるか?」
 え?顔を上げるよりも先に手の中の法螺貝を奪われると、思考を停止したわたしの目の前で、シンの唇が白いそれに吸い寄せられた。見せつけるようなその動作に、自分が今どこに立っているのかも忘れ後ずさった。視線はわたしに縫い止められたまま。挑戦的に射すくめられると足が竦んだ。これは、白昼夢か、悪夢なのか。水に足と掬われて体勢を崩すと、あっという間にシンの胸の中に囲われていた。
「一体どういうこと?」
 シンの手には、愛おしそうに包まれた白い法螺貝。ずっと昔に失ったものがある。
「懐かしんでくれて有り難いことだが、すまないな、今やこれは俺のものなんだ。いくらにでも渡せないから、そうだな、今度別の物をやろう。あの頃と違ってもっと高価なものだって贈ってやれるから遠慮せずに言うといい」
 俺もな、時々こうやって、耳を寄せていると、聴こえる気がする時があってな。
 水の中ではないのに、上手く呼吸ができなかった。深海に足を奪われたのではないか、体がまともに動かない。得体の知れない何かが腹の底から沸き上がってくる。だというのに、目の前のシンは楽しそうに目を細めた。緩やかに弧を描く口角に乗せて、次はどれだけおかしな言葉を放つのだろう。海の魚達のように上手に泳げたら良いのに、と思う。そうすれば法螺貝の紡ぐ世界に心を囚われたりだなんてしなかった。自由に駆け回ることだって出来たはずだ。
 4度目の眩暈はやってこない。わたし達は静かな昼下がりを漂っている。
 唐突に思い出したことだが、お腹が空いている。日陰に置いてきた昼食のことを思い出して、やんわりとシンの肩を数回叩いた。
「熱は冷めたみたい、そろそろ上がろう」
 そう促すと、反射的に深く深く抱き込まれた。海の匂いがする。わたしはもう、焦げた香ばしい臭いはしないはずだ。
「熱は海に解けたのか」
 耳元で焼け付きそうな声。
「とっくにね」
 そうか、それは落胆ではなかった。なんの意味も込められていない凪いだ声だ。水分を含んだ衣服が重い。水中でも重力には逆らえない。体が重い。頬を温かい風が掠めていく。
 駄目だ、まだ、上がれないんだ。

「俺の熱がまだ解けていかない」




2013/07/14


Top