「紅炎さま、起きて下さいませ」

 何人たりとも彼の眠りを妨げることはまかりならぬ、と誰かが言った。しかし、わたしがその名誉ある権利を与えられたのは何時の事だったか、普段は眠りの浅い彼であるが、一度深い眠りに落ちてしまえばもう二度と目を開ける日は訪れないのではないかと不安に思う程に底まで落ちてしまう。無理に起こせば世界を揺るがさんばかりの怒りに触れる、くわばらくわばら、などとある者は顔を真っ青にし、若はお疲れなのだ、古株の重臣達はそう言って、決して彼を起こそうとはしない。彼らは顎でわたしを促す仕草が板に付いている、そうすることが自分に課せられた使命なのだと妙な誇りさえ湛えている。
「紅炎さま、起きて下さいませ」
 わたしは優しく語りかける。けれども彼には届かないことを知っている。次にそっと肩を揺すってみる。そんなことで死人のように微動だにしない体には何の影響も及ぼさないことも勿論知っている。
 彼の眠りは深い。沈んでしまえば浮上するのは彼次第。国の頂点を担う未来を背負った御方が、寝坊で遅刻など醜聞はさらせぬ、良いか、時間通りに起こせ、無理難題を突き付けられることにはもう慣れた。何をされようが頑なに起床を拒む鉄壁の彼を起こすにはちょっとした秘訣がある。それが出来るのはわたしだけだ、と自負しているが、煌帝国第一皇子たる御身、このままでは外聞も大変よろしくない、改善を促そうにも、当の御本人は聞く耳を持たない。都合の悪い耳を持たない彼は、たった一言、良いから起こせ、そればかりである。
「紅炎さま、寝ながらで良いので聞いてくださいね、わたし、本日はお暇を頂いて城郭の外へ参ることに」
 死人の瞼がぱちりと開いた。見事なまでの反射神経に内心拍手を贈りながら、おはようございます、と告げるより速く、覚醒したての人間とは思えぬ鋭い眼差しがわたしを射抜いた。
「許可していない」
 これまた覚醒したての人間とは思えぬはっきりと重圧の篭もった声がわたしに向かって飛んできた。よもや今の今まで狸寝入りをしていたのではないかという疑惑を抱くことが習慣になっているので、ちょっとやそっとでは怯まない。失礼も承知で上から見下ろす格好を改め、恭しく礼を執る。
「お前に関する全権を握っているのは俺の筈だが」
「ですから、今より許可を頂くのです。他でもない紅炎さまがわたしに許可を下さいます。たった今」
 理解に苦しむ、そう言いながらも、起き抜けとは思えない素早さで身を起こすと、まさか、と、今度は紅炎さまがこちらを見下ろした。視線はわたしの手元に注がれ、それは何か、と問われる前に差し出す。彼が子供の頃、寝癖を直して差し上げる事で達成感を満たしていた頃の自分はもういない。いつの間にか見上げるまでに立派に成長した青年の、わたしより一回りも大きな手の中にそれが収まると、本日一番の緊張を隠すように、にこりと笑った。
 彼の手に収まったのは一通の書簡。ぞんざいに開かれたそれを眺める彼の眉間にはあっという間に皺がより、それと同じ位に書簡も皺でよれた。彼の衣服の皺を伸ばすことには慣れたけれど、書簡の皺の伸ばし方を知らないなどと考え、いつから自分はこんなにまで几帳面になったのだろう、とおかしくなる。同僚からは無精で悪名高いこのわたしが。
「若さまがいつまで経ってもお外に連れ出して下さらないから、待ちくたびれてしまいました」
 彼のことを若さま、と呼ばなくなったのは何時からだったか。何時から、若さま、と呼ぶことを禁じられたのか。故意に呼んだ意図に気付いたのか、それとも別の要因からか、彼は嫌悪感を露わにこちらを睨み付ける。
 次いで、こういうのだ、好きにしろ。反して満面の笑みを浮かべるわたしという構図はさぞや滑稽に映るだろう。だけれど、わたしは表情を見咎められる前に叩頭するので、決して見破られはしない。頭を上げよ、命が下るまでには何時も通りの澄まし顔に戻っているので。
「…仕度を手伝え」
「どちらかお出掛けに?本日の朝議はございませんよ」
「お前は何処に行きたいんだ」
 首を傾げるわたしを余所に、皺だらけになった書簡をぞんざいに放った部屋の主は、こちらを憚らずに寝衣を脱ぎだし始めたので、大慌てで収納室に走った。衣装棚を漁りながら、言われた言葉を反芻する。つまり、
「あのう、許可だけ下さればわたし一人で大丈夫ですが」
「城外でも周囲に醜態をさらされては俺の沽券に関わる。お前は俺のなんだ」
「わたしは紅炎さま仕えの女官ですが」
「お前は、俺の、世界一使えない女官だ」
 声には棘が含まれているが、鋭い先端部分は触れても傷が付かぬよう柔らかく丸められているように感じるのは自惚れだろうか。この御方は恐らく、わたしが先端恐怖症なのだと誤解しているのだろう。
「そのようなことを仰いますが、紅炎さまはわたしがいないと碌にお着替えもできません」
「巫山戯たことを言うな、身支度くらい出来ている」
「でも、紅炎さまの感性は絶望的だって評判ですよ」
「なんだと?」
「今日はお天気が良いのでお空の色に映えるよう赤を基調としたお召し物に致しましょうか」
 一拍の間の後、任せる、と頷いた彼はいつもの無機質な顔をして、それで、どこへ行きたいのか、と問うた。午後は公務がある故、あまり遠くには行けんぞ。彼の中ではわたしが一人で出かける、という選択肢は皆無のようだった。返答がないことに痺れを切らして、脱いだ寝衣を放り投げた。まさか下着姿でこちらに来るつもりでは。驚くわたしの頭上で低い声。

「俺の知らぬ何処かで勝手に野垂れ死んで貰っては困る。
 お前は、俺のなんだ」

 もう十年以上も前のことだ。わたしが初めてこの居城に足を踏み入れた日。見たこともない絢爛豪華な調度品に目を奪われ、眩暈がしそうな程に長い廊下を歩いた先、まだ少女であった自分よりも僅かに年下なのだろう、背丈も僅かに低い少年と面会を果たした。身なりや、全身に纏わせた抗いようのない高貴な気配やら、周囲の大人達がわたしを嘲笑うかのような目で見ていること、全てのことに圧倒された小娘は、付添人に叱咤されるまで不躾に彼を眺め続け、床に叩きつけられる勢いで叩頭したまま、何度も練習させられた言葉をどうにか口にしたものだ。今では必死と記憶力に鞭振るうことなく、すらすらと答えることが出来る。

「練紅炎さまの側仕えを仰せつかりました。これよりこの命が絶える最期の一瞬まで、紅炎さまに忠誠を誓い、お側にて誠心誠意仕えさせて頂きたく存じます」

 わたしを一瞥した少年はあの時、こう言った。鈍くさい側仕えなどいらぬ。年下である筈の少年の無下な一言に辱められた筈なのに怒りは覚えなかった。やはり鈍くさいのは事実であるらしく、ただただ、目つきの悪い子供だ、とぼんやり考えていた。
「その言葉、努々忘れるな」
 答えに満足したのだろう、僅かに口角を上げて、目を細めてわたしを見る。立派な青年になった練紅炎は未だに目つきが悪く、笑うとちょっと怖い。当人は少し気にしている様子なので、一度も告げたことはないのだけれど。



* * *



「わたし、馬に騎乗したのは生まれて初めてです。恐らく生涯体験することはないだろうと思っていたのに不意打ちだなんて、まったく紅炎さまはお茶目さんで困ります。乗馬とはかくも恐ろしきものなのですね。紅炎さまが配慮無く疾走なさるので、この世の地獄を見ました。紅炎さまが配慮無く疾走なさるので、何故徒歩ではならなかったのかと口を挟む余裕がありませんでした。口を挟んでいたら舌を噛んでいたでしょう。紅炎さまが配慮無く疾走なさるので、わたしは初めて見る下界の様子をほんの僅かほども堪能することができませんでした。紅炎さまが配慮なく疾走なさるので、わたしは」
「五月蠅い、さっさと降りろ」
 いつの間にか地上の人となっていた彼はわたしをひょいと造作もなく地上へ降ろした。
 腰が抜けて紅炎さまにしがみついたまま、たった今まで背中に跨っていた馬を見上げた。すらりと伸びた長い脚、均整のとれた神秘的な体躯、しなやかな筋肉、未だ嘗てこんな美しく惚れ惚れとする馬を見たことはない。知性の感じられる爛々とした2つの眼は主のそれに酷似していて、その奥に秘めた気高き矜持と闘志に身震いを覚える。
「お前を歩かせたら日が暮れる」
 ふふん、と馬が鼻を鳴らした。紅炎さまが腰が抜けたわたしを俵担ぎにしたからだ。彼、若しくは彼女はこの仕打ちに同情してくれているのだろう。矜持の高いお馬さまともなれば慈悲深い心も持ち合わせているのだ、紅炎さまも是が非にも見習うべきである。
「来世は紅炎さまのお馬さまのお世話係がしてみたくなりました」
「あいつは気性が荒い。お前など忽ち蹴られて死ぬだけだ、止めておけ」
 お前にような出来の悪い奴を傍に置く奇特な人間など世界広しといえ俺しかおるまい。その言葉にわたしは、神妙に頷き、頷く。みるみるうちに小さくなっていく類い希なる青鹿毛の馬は、心地よい秋風に黒真珠の如き艶やかなたてがみをそよがせて、きらきらと光の残像をわたしの心に焼き付けた。
「あの素晴らしい後ろ脚はその様な特技をお持ちなのですね。頼もしいことです。戦場でもさぞご活躍のことでしょう」
 紅炎さまはわたし一人分の積荷などものともしない大層な早歩きを披露した。しばしば城内でお見せになる威厳に満ちた堂々たる姿をこんなところでも遺憾なく発揮している。先程からもうずっとこの調子なのだ、空気がぴりぴりと張り詰めているのでこちらも気が気でない。機嫌が悪いとこちらの言い分をこれっぽっちも聞き入れて下さらないからだ。もっとも、機嫌が良い時であってもこちらの要望を全く聞き入れて下さらないのだけれど。
「おい、寝るな」
「あら、本日は妙妙たる陽気なので気分が良くなって参りますね。この辺りもすっかり秋が進んで。
 お城のお庭の四季しか目にしたことのないわたしには新鮮で、感慨深く映ります。秋とはここまで深い彩をして、鮮やかに人の心を惹き付けるものだったとは知りませんでした」
 たった一つの足音が、赤く深々と更けた世界に響く。赤く染まった落ち葉を踏みしめる2本の脚は逞しく、迷いなく進み続けるので、わたしはそれを妨げてはならない、と感じている。肩の上で揺られながら、風に揺られてはらはらと落ちていく一枚の木の葉に手を伸ばした。
「あと僅かもすればお前の大嫌いな寒い冬がやってくるだけだ」
「紅炎さま、世界が赤いです。世界が赤く、染まっていきます。だけれど、わたしは紅炎さまの赤が一番ですよ」
「取って付けたような台詞をぬけぬけと」
「言わなければ拗ねてしまわれる方がいらっしゃるので」
 木の葉はわたしの手をすり抜け、地上の幾重にも重なる赤い色に混ざって姿を隠してしまった。
 朱に交われば赤くなるモノなど要らぬ、と初対面の人間に向かって吐き捨てた小さな少年は、時を経て、世界の頂を見据える唯一の赤に成った。
「紅炎さま、歩きながら寝るなんて器用なことなさらないでください」
「寝ていない」
 そうしてあっという間に樹木や木立を掻き分けて獣道を突き進んだ。舗装された道から逸れて随分と経つ。前日の雨で足元はぬかるみ、湿った落ち葉の表面はするするとよく滑る。だというのに息切れ一つせず、軽々と山道を登る姿は頼もしい。感嘆の声を上げ、今度秘蔵のお菓子をお裾分けしましょうと労いの声をかけると、いらぬ、と不機嫌に返された。
 俺は甘いものは好かん。ええ、ですが街でも評判の練り菓子なのでお気に召して頂けるやもしれません。
「前々から言おうと思っていたが、そうやってお前の好きなものを俺に押しつけようとするのを止めろ。
 …まて、それはどのようにして手に入れたのだ。今回は何で釣った」
「親しくしている女官仲間に紅炎さまの寝顔が見たいとせがまれまして、流石に寝所に潜り込ませるのは不味いので、代わりに紅炎さまの寝言集を教えて差し上げたら、喜んで引き受けて貰えました」
「俺は寝言など言わん」
「ではそういう事にしておきましょう。お菓子、いります?」
「全て没収だ」
 寝所に潜り込まれた方がまだマシだった、と彼は呟き、進行方向にある小振りの石を蹴り上げると、石は軽々と遠方まで飛んでいく。私のささやかな報復の身代わりとして、石は高く高く飛んだ。お馬さまの脚力は紅炎さま譲りに違いない。
「ところで、先程は来世、と申しましたが、少し前にお会いした英名な魔導士の方に、人は死んだらルフに還るのだと教わりまして、ですから――」

 逞しい腕が、意趣返しとばかりにわたしを放り投げるのではないか、と危惧していた。
 必死に広い背中にしがみついて、地面を覆う赤い色を視界に捉えて、唇をすっと横に引いて、微笑みの形をつくる。
 開け放たれた城門の先に広がる世界を想像することは難しかった。同僚から下界の様子を聞いたりしながら、当たり前のように囀り、羽ばたく鳥たちが空に溶け込む様を、彼らが見る世界を想像することが、何よりも難しかったのだ。

「本当は、お馬さまのお世話係を拝命することが叶わないって知っているんです」
「当然だ、お前は死んでも俺の、世界一仕えない女官だからな」

 城の中に閉じ篭もってから、気付いた時にはどうしようもなく不自由で、この身から吐き出される赤い血が、彼のそれと同じ色をしていることを理解すらしていなかった。
 何度か繰り返して、漸く掴み取った落ち葉の一枚の、まだ全て染まりきっていない緑の部分が歪なように思えて、おかしくて仕方ない。からからに乾きながらも僅かに踏ん張る緑の色が、朱に染まろうとする世界への精一杯の抵抗に思えたからだ。努力も虚しく、留まることも間もなく出来なくなるのだろう。
 あと少しして、目的地に着いたと知らされるまで、ずっと落ちこぼれの葉を眺めていた。



* *



 何処へ行きたいのか、という問いに対して、この国で一番眺望が美しいところへ行きたいのです、と答えた。或いは、世界を見渡せる何処かへ。

「もっと早く、紅炎さまが外へ連れ出して下さっていれば、わたしはもっとこの美しい景色を眺めていられたのに」
 視界が開けた所で、漸く肩から降ろされ、久しぶりに地上の人になった。何時終わるのかとはらはらしていた初めての登山は無事に五体満足のまま終わりを告げ、わたしは自分の足で、彼の横に立つ。
「どうだ、俺の国は」
 俺の国、と言って、彼は僅かに顔の筋肉を緩ませて前方を仰いだ。
 その時全身を駆け巡った、言葉では表現できない感情の正体を、その時は未だ受け止めることが出来ないでいた。
 感嘆の言葉さえも満足に伝えられず、ただただ紅炎さまの着物の裾をつついて、あの、一番小高い所に在る雅なお城は、わたし達の住まうお城ですか、掠れた声で瞬きを繰り返す。そうだ、と返ってくると、どうしようもなく溜息が零れた。確かに、この国は美しい。
 眼下には夢に描いた城下町がどこまでも広がり、およそ想像もつかない沢山の人々の営みが垣間見える。碁盤の目の様に均しく整えられた雅な都だということが遠目にも分かり、わたしは過去に一度だけ、登城する為にあの街を通ったはずだというのに、石畳の一つさえ思い出せない。
「未だ紅炎さまのお国ではありませんよ」
 どれだけ栄華を極めた国であっても、滅びぬ国など存在しない。世界を牽引し、歴史に名を馳せた大国であったとしても終わりは必ずやってくるのだ。そのことを良く分かっている者だけが、そうでない者たちよりもずっと血の滲むような努力を続けて、少しずつ、少しずつ礎を築いていくのだ。
「直にそうなる」
 何があっても揺るがない自信に満ちたこの御方を誰よりも尊敬し、慕っている。彼は間もなく、それを現実にするだろう。彼の器は想像も及ばないほど多くのものを治めることが出来る。わたしは誰よりも、確信している。
「見て見ろ、あの平野を越えた先に港があるだろう」
「ではその先に海があるのですね。お庭の池とは比べものにならない程に広大なのだと聞きました」
「海と池を比べる愚か者などお前くらいのものだ」
 先程までの不機嫌を山を登る途中の何処かで落として来たのだろう、声の調子がほんの僅かに高揚していて、鉄の様な頬筋も柔らかい。本当に僅かな機微なので、ともすれば依然不機嫌とも取れるお顔と、彼の統べることになる国の美しさを交互に見ながら、わたしの心はとても忙しない。城を出てから一歩たりとも自分の惨めな足を使ってはいないというのに心臓の音は全速力で駆け抜けた後のように大忙し。
「紅炎さまが遠征される度にわたしをお供にお連れ下されば、海の大きさを知ることが出来たでしょうし、ずっと遠くの大陸に渡って、もっと多くのものを見ることが出来たのに」
「拗ねているのか」
「拗ねています」
 く、と紅炎さまの薄い唇が歪む、これは笑い出す合図だ。わたしをからかう時、必ずこの表情をして、わたしを見下ろす。だけれど、今回は世にも稀な例外で、彼はこちらを見ることなく、視線は前方に向けたまま、笑った。
「愚かなことを言う。遠征に役に立たぬものなど連れていかん。小刀も碌に握れんような女が戦場で何が出来る。ましてや哀れなまでに不器用なお前が何の役に立てるというのか」
「きっと、お役に立てます」
 ずっと今まで、わたしが役に立ったことがないと思いこんでいる紅炎さまは首を傾げ、振り返った。わたしは傷ついた表情を見せながら、お役に立てることは何かと考え、自分が本当に不器用であることを思い知るのである。
「例えば、紅炎さまのご立派なお髭を整えます」
「絶対に許可できない。俺はお前ほど不器用な人間を見たことがない」
 見るに堪えない不細工面と言わしめた、最高に愛嬌のあるふくれ面を披露するも、梃子でも動かない頑固な紅炎さまは、お前には二度と、この髭には触れさせない、と厳しく否を唱えた。
 そうなると、わたしに出来ることはもう何もなかった。冗談でしょう、と神妙に伺うと、冗談ではない、本当に今更な事だが、お前はただの役立たずだ、と酷く悪い顔をした紅炎さまがくくく、とお笑いになる。冗談でしょう、わたしは今の今まで、側仕えとして何をしてきたのか、と嘆くと、7日に一度の起床係と、衣装選びだ。と真面目な答えが返ってきた。それではまるで給金泥棒ではないですか、いや、お前に給金をやったことなど一度もない。冗談でしょう。冗談ではない。では、遠征先で、起床係は必要ありませんか。出先で熟睡することなどまず有り得ない、と不健康な発言に眉を顰める。
 ついに項垂れると、これで終わりか、と意地悪な声が降ってきた。

「常々、世界の真実を手に入れる、と仰いながら、わたしには少しも見せて下さらない」

 だからわたしの中で、世界一大きな海は、お城のお庭の小さな池のままなのです。

「いいか、俺は、この大陸中、そしてあらゆる海を越えた先の全ての国を統べる王になるだろう。
 俺は世界の真意とその全てをこの手中に治めるが、お前は貧相な池を海と思い、飛べぬ鳥達を愛で、世界は俺だと思っていれば良い」

 何て傲慢な御方だろう。驚き顔を上げると、いつもの鉄の仮面を被った紅炎さまの目が、静かにわたしを見下ろしている。
 初めて彼と出会って、忠誠を誓った瞬間からわたしの世界の中心は練紅炎その人だった。不満に思ったことなど一度もなく、何故なら彼と出会った瞬間から、わたしの中で、世界の中心はこの御方だと、全身で思い知ったからだ。
「お前は、俺のなんだ」
 俺は愚図で馬鹿な女が嫌いだが、唯一、お前が愚図で馬鹿で良かった、と言う。
 わたしは彼の言う通りの不器用な人間だったので、この時初めて、自分が見たかったものの正体に気付いたのだ。目を丸くして、胸に手を当てた。ああ、良かった、まだ動いている。
「地平線を見てみたかったのです。太陽が地平線に沈む様を、さいごに見てみたいと、思っておりました。ですが、太陽は決して何処にも沈まぬもの、わたしの勘違いでございました。紅炎さまの統治なさる煌帝国はいつまでも眩く輝いていることでしょう」
 それから厳しく唇を噛みしめて、ずっと下界を眺める努力をした。
 どうして、貴方が、その様な顔をなさるのか、わたしは貴方がとても情に厚い方だと知っているし、本当は、今朝から続いている不機嫌の原因が自分であることも勿論気付いているので、僅かでも煩わせてしまったことを申し訳なく思い、少しだけ、嬉しく思った。
 
「紅炎さまにお仕え出来て、わたしは世界一の果報者にございますね」

 許せ、いつになく覇気のない呟きは、懸命に前を向くわたしには届いていないのだ。
 風が吹き、秋晴れの空にうっすらと薄い雲がそよぎ始めた。一際大きな雲が頭上を通り過ぎるまで、わたし達はしばらくそのまま動かず、此処ではない遠くに思いを馳せる。



 *



「初めから、そう作られたのです。
 拒まなかったのはわたし、運命を受け入れたのはわたしなのです。
 どうして今更抗うことなどできましょうか」

 紅炎さま仕えの女官として働くようになって、最初の1年は兎に角酷かった。
 まるで深窓の令嬢の如く何一つまともに出来なかったのだ。只でさえ周囲からの風当たりも厳しく、思い返すだけでもぞっとするような嫌がらせを受けることもあったが、何か失敗をする度に年下の主の「鈍くさい傍仕えなど要らぬ」という言葉を思い出し、己を必死に奮い立たせ、懸命に努力した。
 紅炎さまがわたしの背を追い越した頃、「お前の努力は雀の涙ほどの価値も無い」と言われ、確かに雀のように羽を持たない自分に気が付いた。わたしはあれから一度も城の外に出ていなかったのだ。更にいうと、登城する以前、生を受けてからもずっと外に出たことがなかった。まるで深窓の令嬢の如く病弱なのだ、と周囲は噂した。
 外に出る切欠など作ればいくらでもあった。現に、紅炎さまはこうして許可を下さった。最もこれはさいごの我が侭を聞き入れて下さったのだろうけれど。
 つまり、わたしは自らの意思で、或いはそのようにし向けられていたとしても、全てを受け入れ、内に篭もったのだ。
「お前はいつも、俺とは正反対の事を言う」
 抗議の甲斐もあり、帰路はゆっくりと馬を走らせる紅炎さまは、背後でぽつりと零した。
 目まぐるしく移りゆく周囲の景色に目を回しながらも、彼の愛馬の鬣を撫でる余裕の出来てくると、紅炎さまの低く、重みのあるお声がとても心地よい、と思う。
「では、わたしは正反対だからこそ、お側にいられたのですね。だって、流石の紅炎さまだって、人の話を聞かない我が侭で唯我独尊の女官なんてお嫌でしょう?」
「聞き捨てならん単語が聞こえたが」
「改めて言葉にすると、大変な酷薄人のように聞こえてしまいますね」
「乗馬中に無駄口を叩くと舌を噛むぞ」
 数時間前の高揚感はとっくに消え失せていた。残されたのは零れ落ちそうな程の充足感と、同じくらいの淋しさ。手には落ちそこないの斑な紅葉が握られている。私物の持ち込み、持ち出しの一切を禁じられているが、これくらいは構わないだろう。帰ったら栞にしよう、と決めている。
 そうして立派な城郭が徐々に大きくなっていくにつれて、瞬きをする回数が増えた。風のように駆け抜けた往路とは違う、秋風は優しく頬を撫でていくけれど、ずっと瞼を上げていることが困難になっていた。舌を噛まないように口を閉ざしているので、聞こえてくるのは、蹄鉄が大地を踏みしめる音、風が通り抜けていく音、それから疲れ切った老婆の様に生気のない自分の心音だけだった。
「最善は尽くしたのか」
 ぽつりと呟かれた言葉がわたしの不器用な耳に届けられると、一瞬、瞬きを止めて、背後を振り返りそうになった。心臓が一段高く飛び跳ねた音を彼は聞いただろうか。
「勿論ですとも」
 最初に、最善を尽くすように、と命じたのは他でもない紅炎さま。
「何ともならんのか」
 ゆっくりと、首を左右に振ると、耳の周りが震えた。
「こればかりは如何ともし難いのです」
 如何とも、し難く、わたしのささやかなな悪あがきも、ついに、ここまでなのです。
 想像以上に弱々しい声が出て、自嘲気味に笑みを浮かべ、沈黙した紅炎さまの言葉を待った。
 あと少しで、この短い逃避行も終わりを告げる。冬が訪れる前で良かった、と思う。この御方から同情心や義務感を引き出せたのはきっと、紅葉が美しかったからなのだ。
「どうしてもっと早く言わなかった」
「お知らせした所でどうにもなりませんでした。御身を煩わせることなど出来る筈がございません」
 世の中、侭ならぬ事など、どうにかなる事よりもずっと多い。何かを切り捨てて、前に進んでいく。その事を誰よりも熟知している彼は、ずっと思い悩んでいたわたしなどよりもずっと強かだ。そうでなくてはいけない。わたしの主はそういう御方だ。
 許されるのならば、自分の運命と、彼の進む揺るぎない未来を見てみたい、と思った。もはや留まることは適わないので、さいごの一瞬まで。お前は俺の何だ、もうずっと、繰り返し思案し続けている。わたしは、彼の、何なのか。
「天下を平定なさいませ。そしてわたしに世界を、お見せ下さい」
 わたしには世界を一つにする方法など思いつきもしないし、今後、知ることもないのだろう。ただ一つ、想像出来ることと言えば、全てを手にした後、彼はもうわたしを思い出すことはないだろうということだけだった。わたしなど切り捨てて、ずっと遠くへ駆け上っていく、その後ろ姿を想像する。
「紅炎さま、素晴らしい陽気だというのに、不思議なことに、雨が、降って参りました」
 瞬きはついに間に合わなくなっていた。すると、大きな腕がわたしの体をすくい上げ、突然の雨からわたしを守るように、温かい体温で包み込んだ。全身の力を抜き、今にも止まりそうな心臓を優しく宥める。あと少し、少しだけ、言い聞かせると、幸せの方向に体が傾いていく。
「この雨はしばらく止まぬ」
 青鹿馬の鬣がきらきらと光る。残照を見届けて、ゆっくりと両眼を閉じた。


 
 何処へ行きたいのか、という問いに対して、この国で一番眺望が美しいところへ行きたいのです、と答えた。或いは、世界を見渡せる何処かへ。
 紅炎さまは、本当に其処へ行きたいのか、と静かに、探るように言葉を返してきた。聡い彼はとっくにお見通しだったのだ。わたしが何処へいこうとも、本当に欲しいものが何処にあるのかということを。
 お前ほど不器用な人間は見たことがない、彼の瞳には何もなく、ただ嘆息した後、許せ、と呟いた。
 許しを請うのは此方の方です、と返せば、哀れなほどに不器用な奴だ、と、何時になく覇気のない声がわたしの心を湿らせた。
 
 馬の歩みが止まり、そっと瞼を上げると、開け放たれた巨大な門の前だった。その先には見慣れた景色が広がっている。ほんの少し離れただけなのに郷愁を誘い、視界の端に慌てて駆け寄ってくる馬丁の姿を捉えて目元を緩めた。
 城郭の更に先にある内城までの道程は、目を瞑ってでも間違えることはないだろう。内殿の奥庭へと続く廊下の柱の数だって覚えている。紅炎さまの居室の絨毯の染みの数を把握しているのはわたしだけだし、紅炎さまは成人なさって以来、寝言を呟いたことも叫んだこともない。どうでもいいことだ、と一蹴されそうな知識も全て、全てわたしの欲しいものだった。
 わたしが本当に見たかったもの、それは、『紅炎さまが治める国』ではなく、『国を治める紅炎さま』だったのだ。
 ご存じだったのですね。当たり前だ。彼は少しも笑わず、真剣な顔をして言った。

 馬丁に手綱を引かれて去っていくお馬さまの後ろ姿を見送って、ついに、この時がきた、と深く深く息を吸い込む。慣れ親しんだこの空気を、僅かだって無駄にしたくない、と思っているから。
 いつものようにわたしの前を歩く紅炎さまを呼び止めて、恐らくさいごの叩頭をする。

「それでは、永らくのお暇を頂きたく存じます」

 彼はもうこちらを振り返らず、言葉を発することはなかった。
 あと一月も経たない間に、わたしは此処からいなくなる。いつか野望を叶えた暁にはやはりそのご立派なお髭様を、ぼそりと呟くと即効でならぬ、と声だけが返ってきた。
 少し拗ねた時の声。わたしはその声に、もう思い出すこともないだろう幼かった頃の彼の姿を重ならせて、笑った。




不器用なので、微笑みだけをおいていく



2014.12.31

Nobody loves,but I ! 様に提出させて頂いた作品です。