終わりが溶けだした日

 その日は年に一度の祭りの日だった。
 最も重要なものであったその祭りは、時代の流れに伴って次第に人々の日常から薄れていき、今では子供達にとっては年に一度の贅沢が出来る日でしかなく、大人達にとっては何ら意味の為さない儀礼的なものでしかなかった。それは果ての地に根付いた神を奉る為の祭式であったはずだ。かつて先人達が尊く重んじて来た信仰の面影は殆ど残ってはいない。人々は祈りを捧げたところで願った通りに救われることも恩恵を受けることも無いと思い知っていたので、暮らしぶりが疲弊していくにつれて形のないものに縋るのを止め、生きる為に地を這うことを選んだのだ。
 いつの頃からか、国は戦に沸いた。一度華々しい功績を得ると、人々は目先の欲に溺れ、意味もなく争い、奪い合う世を支持した。しかしその裏で、栄華を極めたように見えた国の未来を暗示するかのように、果ての小さな村は貧しい。国は戦を大義名分に民から容赦のない税を搾取したのだ。生活の殆どを戦に割かれ、多くの働き手の未来を戦に捧げることが当たり前になってしまえば、飢えで多くの民が命を落としたとしても、盲目的に国に尽くすことがなによりも名誉なことなのだと誰もが信じて疑わなかった。異論を唱えるものは非国民として蔑まれるとわかっていれば不満を零すことも許されない。植え付けられた集団心理は着実に国を、民を蝕んだ。
 『民は国をの繁栄を守り、支えるのが義務である。忠をもって我に仕えよ』
 時の国王が勝戦の折りに発した勅令は、民に重い楔としてのし掛かったのである。

「お父さん、歌が聞こえる」
 忘れもしない、良く晴れた夜のことだ。
 その年、少女は初めて祭りに携わることを許された。父親が戸口に羊の血を塗り付けるのを手伝い、母の代わりに竈に火を起こし、食事の下ごしらえを手伝った。両親はとても喜んで、少女は意味はわからなかったが、よくやった、と褒められれば悪い気はしない。二人共、自分を大事にしてくれる。これからは率先して両親の手伝いをしようと幼心なりに誓った夜のこと。
 祭りの夜は家族で過ごすのが習わしである。崇高なる神の為、ではなく自分達の食欲を満たす為だけにこしらえられた食事を囲んで、普段の何倍も上機嫌であった少女の耳は、まもなく母親が告げるであろう食事開始の合図を一瞬たりとも逃すまいとすっかり研ぎ澄まされていた。高揚感と空腹感が高まる小さな耳に、聞き慣れない旋律が飛び込んできたのは必然だった。母親が子守唄代わりに歌ってくれたどの歌とも違う、聞き慣れない歌。僅かに風に乗って聞こえる程度なのに妙に耳に残る。竈で煌々と燃える炎の音よりも鮮明に届いた。
 始めに異変に気が付いたのは少女で、続いて父親が耳を澄ますと、微かにそれは聞こえてくる。首を傾げる少女の横で訳知り顔で頷いた父親は立ち上がって、扉の前に立った。
「そうか、お前は初めて聞くのか。今ではすっかり忘れられてしまったが、本来ならば食事の前に歌われる祝いの歌でな、どうやら今年はあれが来たらしい」
 扉を開けると見知らぬ男が立っていた。祭りの日ばかりは村人達も身綺麗な服に身を包むのが風習になっているが、男も同様に上等な白い布を全身に纏っていて、月明かりに照らされると、空に浮かぶ星の光よりも眩しく見える。小さな集落では殆どの人間が顔見知りであるが、男の顔は少女の記憶の中のどの人間にも当てはまらない。隣のおじさんの遠縁の人だろうか、それにしては上品な風貌をしている。少女とて年に一度の余所行きの格好をしているが、男の衣はそれ以上に上等なものに映った。手触りの良さそうなビロードの生地、一度だけ遠くの町に出かけた時に市場でみかけた、少女には一生かけても触れることさえ叶わないような高価なもの。男はきっと高貴な御方に違いない、一体どなたかしら。少女は数秒前までの空腹も忘れ、突如現れた男の姿に魅入った。歌声の主はこの男に違いない。形の良い唇から、惚れ惚れするほどの甘美な声が滑り出した。きっと歌うために授けられた神様からの賜物に違いない。
「やあ、久しぶりだね、元気そうでなによりだ」
「本当に久しぶりじゃないか!最近めっきり姿を見せないからどうしたものかと思っていたら、一体どういう風の吹き回しだ?」
「こんな時世だ、私の周囲も色々とごたついていてね、ようやく一段落して、そういえばかつての我が友人殿は息災だろうかと思い立って、今年の祭りに間に合うようにとなんとか予定を合わせて訪ねてみた次第さ」
「何年も連絡を寄越さずに友人だなんてよく言えたもんだ。まあ良い、上がってくれ」
 高貴な御方は少女の父親の友人のようだった。熱い抱擁を交わした後、父親が男を招き入れ、見知らぬ人間が自分の居住空間に入ってきたことで、緊張に身を震わせた。ぴん、と背筋が伸びたのは、男の醸す不思議な空気と、上等な身なりに圧倒されていたからに違いなかった。
 扉をくぐった男は先ず母親に挨拶を済ませると、視界を巡らせ少女を捉えた。底の見えない黒い瞳が僅かに見開かれると、少女は慌てて母親の背にへばりつくように隠れた。
「驚いた、前に見た時は小さな赤子だった子がもうこんなに大きくなったのか」
「最後に会ってから何年経ったと思ってる。娘は今年で8歳になるよ」
 そうか、男は感慨深そうに頷いて、母親の背から顔だけを覗かせた少女を眺めた。
「どうやら怖がらせてしまったらしい」
「人見知りするんだ。物心ついた頃から引っ込み思案でね、周りの子供達とも上手くうち解けられないものだから困っているんだ。ほら、ちゃんと挨拶をしなさい」
「女の子は警戒心が強いに越したことはないさ。
 さあ、お嬢さん、私達は一度会ったことがある筈なんだが、君がうんと小さかった頃だから覚えていないだろうね。
 どうもはじめまして。私の名前はシメオン、君の名前を聞かせてくれないかな」

少女が恐る恐る見上げると、男は一層笑みを深めて少女を見下ろした。



 年に一度のご馳走だというのに、少女はせっかく口にした料理の味がまったく分からなかった。母親は近所でも評判の料理上手だというのに勿体ないことだが、客人が訪れてから、ぱったりと大人しくなってしまった少女はずっと母親の影に隠れて、終始男の様子を伺っていたのだからしょうがない。全身で警戒心を露わに視線を男に走らせていればその他のことが散漫になるのは当たり前のことで、口元からぽろぽろと食べかすが零れていることを窘められても少女は男から視線を外すことが出来なかった。何故、こうまでもあの人のことが気になってしまうのだろう。男が居座って数刻余り、少女の心臓は早鐘を打ち、これが一体なんの予兆であるのか分かるはずもないが、今まで感じたことのない初めての緊張感だった。背筋に電流が流れるようにぴりぴりとした痺れが走った。ごくり、と生唾を飲み込んで少し離れた男を見ると、視線が交わりにこりと微笑まれた。
 反して男はまるで自宅でくつろいでいるかのような有り様だった。貴族のような振る舞い、風貌をしているのに、笑顔が無防備で年齢より若く見える。歳は父親くらい、背はひょろりと高く、農作業で荒れた父親の手と対照的に、労働を知らない白い手は当然だが少女のものよりも大きい。この地方には珍しい薄茶色の髪はさらさらと絹のような手触りがするのだろうと思った。座ると意外にも猫背になるということを除けばほとんど絵に描いたような御貴族様である。何よりも心地よい声音が発せられるたびに少女はぴりぴりと痺れるのだ。時々、父親の目を盗んで自分を観察していることにも気付いている。何のために自分を見るのか、少女が猫であったとしたら全身の毛を逆立てていたことだろう。
 父親は男が土産に持参してきた酒を酌み交わし、最初こそ上機嫌であった。父親のいつになく陽気な笑い声が食卓を包み、少女はその度に俯いて、目の前の食事を眺めるふりをする。途中からこそこそと男同士の難しい話をはじめてしまうと蚊帳の外で、時々聞こえてくる話は少女には難しくてまったく理解が出来なかったが、父親は普段見たことのない真剣な顔をして、時々沈黙したり、低い声で何度も呻ったりしていたので、一層母親の横で縮こまっているしかなかった。
「今年は過越祭に間に合ってよかった」
「ああ、お前の歌がないと祭り盛り上がらないからな、他のやつらも喜ぶだろうさ。しばらく滞在するんだろう?」
「いや、直ぐに帰らなければいけなくてね」
「……まさか、まだあれを?」
「あと少しで形になりそうなんだ。積年の努力が漸く実を結ぶのだと思うと感慨深いものがあるよ」
「……そうか、そうか。だが本当に、お前はそれでいいのか?」
「無論だとも。そのために全ての時間を費やしてきたのだから。君だって私の立場であったら同じ結末を選択する、そうだろう?私はね、望む未来はいつだって一つしか見えていない。大切なものは一つだけだ」
 漸く難しい話を終えた頃には少女のお腹はすっかり満たされていて、残念なことに味は思い出せないが、普段は感じたことのない満腹感に瞼が半分落ちかかっていた。父親に名前を呼ばれ、はっと我に返ると、いつの間にか横に母親の姿がなかった。突然消えた温もりに不安になってあたふたと周囲を見渡すと、直ぐ目の前に男が立っていた。音もなく近付いた男にぞっとして、呆然と見上げる。
「シメオン、あまり娘を怖がらせないでやってくれ」
 それから一言二言、何か小言を零したようだが、少女の耳には届かなかった。底の知れない畏怖で全身が金縛りに遭っていたからだ。
 にこり、と微笑まれる。笑顔が怖いと思ったのは初めてだ。あ、と声にならない声が漏れる。
 男が目の前で屈んだ。綺麗な手で、存外優しく少女の頭を撫でた。背筋がぞくりとして、軽く触れられただけなのに抗うことが出来ない。
「眠る前に歌をうたってあげよう」
 男が歌ったのは先程耳にした不思議な歌だった。あの時はなんとも思わなかったというのに、間近で聴くと心が震える。男の歌唱力は素晴らしく、今まで聞いたどんな歌よりも美しかった。教会で聴く賛美歌よりも誇り高く神聖で、だというのにあまりにも身近に感じられる。男の声に合わせて世界中の空気が揺れる、少女の心は呪いにかかったみたいに、すっかり自分のものではなくなっていた。

「『過越の夜の歌ハド・ガドヤー』これは何のための歌か知っているかい?戸口の印の本当の理由は?」

 歌の延長線のような流れる声で男は囁いた。少女が答える前に、知らない方が良い、とも言う。君は聡い子のようだから、知らない方が幸せだろうな。古き風習は場合によっては望まない因果を呼び寄せる。例えば、腐敗したこの国の辿る末路のような。神に見放された国の末路だ、憂う僅かな時間さえも惜しい。
 知らない方が良かった?では何故歌を聴かせたのか?耳を塞いでいれば良かったというのだろうか?
「あなたはだれ?かみさまではないのですか?」
「まさか!面白いことを言うね」
 冗談でもぞっとしない、眉を顰めて否定した。少女は、無意識にするすると零れ出た自分の発言を激しく後悔して唇を噛みしめる。男が浅慮な自分のことを嘲笑の目で見ているのではないかと想像したからだ。心臓が止まってしまったらどうしようと嫌なことまで考える。
 男はぐっと顔を近づけて、少女の瞳を覗き込んだ。

「君はとても綺麗な蒼い目をしているね。私はその色が好ましい」

 少女はその身に宿る感情の正体を知らない。遠くで母親の啜り泣く声が聞こえる。
 男は唇の端を上げ、誰にも聞こえない声で、欲しいな、と呟いた。


2014.07.07.

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