重ねほど安く



「隣の空き地に棲み着いていた猫がね、この間仔猫を5匹産んだの。親の方が野良なのに綺麗な黒い毛並みで、5匹中4匹は茶トラキジトラで一匹だけ黒い子でね、皆可愛い声で鳴くの。母猫とはもう1年くらいの付き合いで、餌付けもしていたんだけどお腹が大きくなったことにはちっとも気が付かなかった。そもそも私はあの猫は雄だと思っていたからある日突然小さい仔供達が増えていてびっくりしたよ。いつもと同じように近づいていったら母猫に威嚇されて少しだけショックだった。仔猫って何食べると思う?煮干し?かつおぶし?それとも猫まんま?無難に猫缶?」
「産まれたばっかなら普通に母乳だろ」
「ああ、そっか」
野良の癖にやたらとプライドの高い猫だった。空き地に棲み着く前は金持ちの家の猫だったのかもしれないね、そう言うと、へえ、そうなんだ、気のない返事が返ってくる。私が訪ねてきてから今までずっとこの調子で、ソファにだらけた様子で横になりながら雑誌を眺めている。私の話を聞いているのかいないのか、時々適当な相槌を打っているが、それでは会話が成立をしているとは言い難い。一方的に話す話題は脈絡もなく、意味もなく、酷く退屈なものだったが、私にとっては価値のある時間だった。彼が聞いていなかったとしても私は言葉を紡ぐことに意義を見出していたから、それに対する相手の反応など、これから続いていく私の話には何ら影響をもたらさないからだ。私は一方的に思いつくままに話す。たまに相槌を打ってもらう。そのサイクルだけを必死に守っていたかった。
ちゃんと聴いてよ、なんて言ったことはないし、相手にしてみても言われたくもないだろう。彼の寝そべるソファの向かいに行儀よく座りながら、付けっぱなしのテレビに時々視線を移す。ここではなく遠くの出来事を淡々と映しながら、考える事と言えば画面の中の世界とはまるで別の事で、流れてくる音声も流れていくだけ、私の口から滑り出す言葉達もどうでもいい話ばかりなので、結局自分が本当に考えていることは何なのだろうと思う。思っているのだと思う。
「お前さあ、暇なの?」
「ううん、暇じゃない、とても忙しいよ、忙しい合間を縫ってこうして来てる」
「そりゃあ奇遇だな、俺も今とっても忙しいんだわ、忙しくて目が回りそうなんだわ」
「あ、結野アナ」
彼の大好きなアナウンサーの名前を口にすると恐るべき速さで身を起こし、私と同じように姿勢を正して全身をテレビに傾けた。確かに忙しそうだね、と言うと、視線をテレビに向けたまま、だろ?と頬を緩ませた。テレビの中で可愛らしい女性が魅力的な笑みを浮かべて明日の天気の予報を朗らかな声音で読み上げているところ。私がイケメンの俳優に見とれていた時などは白い目でアホか、なんて言う癖に、絵に描いた様に鼻の下を伸ばして、そちらの方が余程馬鹿みたい。馬鹿みたいに好きなのだからしょうがない。
明日は、今日の曇天から一転、雲ひとつない快晴になるでしょう。予報が当たると評判の美人アナウンサーのソプラノが高らかに響くと同時にぱらぱら雨が降り始めた。雲ごと落ちて来そうな空は後どれほど留まっていられるのだろうか。傘を持ってきてよかったな、この間買ったばかりの赤い傘。鈍色の空にはいささか浮ついて映る鮮やかな赤だ。デパートの片隅でぽつりと一本だけ売れ残っていたそれは雨水を弾くとき、活き活きと生きている様。
笑顔で手を振ったアナウンサーが画面からフェイドアウトしていくと、目に見えて彼の気力も急下降、その様子がおかしくて私の笑顔が浮上する。それだって彼がまた同じ体勢になって雑誌を捲る音に混じって霧散していく、穏やかな昼下がりだ。今日も結野アナは可愛いなあ、無気力の塊はそのようなことばかりを考えている。テレビからは最早興味のないサスペンスドラマの劇的な音楽が流れ始め、哀れな被害者が赤く染まって倒れているところだった。現れた刑事の顔がどことなく近所のおじさんに似ていて、神妙な表情を張り付かせて大変な事件になったな、と言う。昨今稀にみる面倒事になりそうだ、皺の寄った唇は好奇心と僅かの哀憐の色を乗せて。
「銀時、テレビ見ていないなら消していい」
「見てる見てる」
相変わらず目線は雑誌に留まって、その仕草すら疑わしく、俺は耳で見てるんだよ、第三の目があるんだよ、と言った。それは素晴らしいことだ、遠くのリモコンを手繰り寄せてチャンネルを切り替えても何も言わない。まるで休日の父と同じようなことを口にするが、今日はまだ月曜日、一週間が始まったばかり。無機質な画面の中では態とらしいリアクションが売りの通販番組が主婦の喜びそうな商品のアピールに躍起になっている。外は雨の気配、憂鬱な昼下がりに駆り立てられて、電話に走る主婦はどれほどいるのだろう。
「そういえば、この間道で偶然出会った子供がね、自分は捜し物が得意なんだって言ってね。近所でも評判の特異な力を持っているんだ、だからお姉さんの捜し物、見つけてあげるよ、って突然話しかけてきたんだけど」
「マジでか。昨今のガキはそんないかがわしいキャッチの手管まで習得してんの、末恐ろしいな」
10歳にも満たないあどけない顔立ち、一見して何処にでもいる普通の少年だった。なかなか見つからない物、例えば家の鍵や大切にしてた手紙、形見の腕時計も、それこそ捜し人だって簡単にどこにあるのかわかるんだ、こうやってじっと見ているだけでね。からかうでも、かといって真剣なものでもなく、不思議な色の目をした少年は私を見て言った。無垢な色でもなく、凪いだ色のまなこは今日の空の色にも似ていたし、明日の空の色にも似ているのだろう。
「その時、特に探しているものなんて思いつく限りなかったから、何を言っているのだろうって首を傾げたら、その子はね、『お姉さんは捜し物を探すところから始めないといけないから難儀するね』って笑ったの」
そのあどけない笑顔がいつだったかどこかで見たことがある気がして、変な子だなと思ったけれど、立ち止まって話を聞いてみることにした。
「おいおいそれどんな宗教だよ」
お前って騙しやすそうな気の抜けた顔しているしな、銀時の呆れ声。雑誌のページを捲る音は規則的。いちご牛乳が良い、と意見した銀時を無視して抹茶を点てたのは1時間以上も前の出来事で、机に置かれた茶碗を手に取るとすっかり冷めていた。ずず、と緑色の液体を口に含むと、ページを捲る音が一瞬途切れた。
「そういう変な感じではなかったんだもの。『無理して探そうとしなくても必至と見つかることだから、僕の助言は必要ないと思うんだけれど、お姉さんって結構鈍感そうだから僕が背中を押してあげなくちゃって思ったんだ』ってね、不思議な子だなあって思っていたけど、純粋に私の事を心配しているようにも見えたから、ちゃんと話を聞いてあげないとって思って」
、お前は見ず知らずの子供にまで馬鹿にされてんの、心配通り越して呆れるんですけど」
「馬鹿になんてされてないよ、世の中銀時のように濁った人間ばかりじゃないんですからね。わ、図星だからって睨まないでよ、抹茶飲む?そう、いらないんだ、いちご牛乳はもう空だったから喉が渇いても知らないよ、そもそもいちご牛乳で喉の乾きは潤せないと思うけど。え、いいよ、止めてよ、この件に関してはいくら主張されたところで永遠に分かり合えないから。
ああそうだそうだ、それでその少年はね、こうも言ったの。『安心して、捜し物は見つかるよ。けれどもそれはお姉さんの望む形ではないかもしれないし、お姉さんの手には負えないものかもしれない。こんなことを言っておいて僕は一緒に探してあげることができないけれど、貴女の傍には適任者がいるよね、不本意でも、そこだけは気付いておいて』何を言ってるんだろう、うんともすんとも言えずにいたら、『僕のこと不審者だと思ってる?』」
「どう見ても聞いても不審者だろうが」
少年は困った仕草で瞬きをして視線を反らすと、私の手にしている袋を見た。近所で一番大きなスーパーのロゴが入ったビニールの袋の中には猫の餌が入っていた。仔猫が何を食べるのか検討もつかなかったので大量の猫用の餌。少年は猫のように目を細めて、ふふふと笑った。
『あのね、思ったことは口にしないと伝わらないんだよ、相手の反応を気にして足踏みして結局何も言わなければ、足踏みした位置のまま、ずうっとそこで立っている事になる』
「結局最後まで、捜し物が何かは教えてくれなかったんだ。最後は『お母さんが心配するからもう行かなくちゃ』って慌ててた。浮世離れして見えてちゃんと人の子だったんだなって思うとほっこりしたのよ」
帰り道分かる?もう暗いし、送っていこうか?少年ははにかみながら首を横に振った。大丈夫、父さんが迎えに来てくれるから。そこに一つの家族の暖かい光景を垣間見たようで、自然と頬が緩んだ。夕暮れに染まった少年の頬が一層色付いて、暖色に染まった街並みが愛おしく映る。『父さんがね、心は言葉に表れるんだって言ってた』少年は意味を正しく理解しているのだろうか、少しだけ憮然とした表情をしていたのを覚えている。
「それから突然『あと少しだよ』って私の背後を指さすから、何事かと背後を振り返ったら、とん、って背中を押されてね、吃驚して正面を見るともう少年の姿がいなくなってた。狐につままれたとはこの事だよね」
最初から最後まで不思議な子供であった。言葉通り彼は、私の背中を押して消えていった。
「白昼夢だったってオチ?」
「違います!だって、少年のいた位置辺りに猫缶が置いてあったんだよ」
「猫缶の神様だったってオチかよ」
銀時は不満そうに私の茶碗を奪い取ると乱暴に傾けて一気に呷り、にがっ、と顔を顰めた。
「ああ、そう言えばお饅頭買って来たんだけど食べる?」
「食べますとも!」
勢いよく起きあがった銀時には、結野アナと甘味を与えておけばよいという結論に至った。本人が聞いたら俺はそんな安い男じゃねえぜ、と言うに違いない。
「本当は新八くんと神楽ちゃんが帰ってきたら皆で食べようと思っていたんだけどね」
「そういや、あいつら今日は遅くなるって言ってたな」
「じゃあとっておいてあげようね、不満そうな顔」
「してねえよ」
「だよね。お茶飲むよね、抹茶でいいよね」
「……」
銀時は再びソファに沈んでいった。
あのね、それでね、私が言葉につまると、なんだよ、銀時の気怠そうな声。私が苦い苦い抹茶を点てていることに対して非難しているのかもしれない、低い声だった。それでも私はいつもの手順で緑の粉に適量のお湯を加え、茶筅でくるくると、緑の細やかな泡が起つまで混ぜてみせた。砂糖も混ぜてみねえ?混ぜません。憮然とした銀時を横目でちらりと確認をして、ふふふと笑った。
「…ええと、それでね、その話には続きがあってね、聞いてくれる?」
さあ、最近よく喋るのな」
「そうだね、私って最近良く喋るよね」
そうだよなあ、銀時の視線はとっくに饅頭の入った包みに釘付けになっている。勿体付けるように抹茶の入った茶碗をゆっくり銀時の前に置いてみても視線が外れることはない。
「その猫缶達を持っていつもの空き地に行くと、そこに居るはずの親子がいなかったんだ。いつもの場所はもぬけの殻で、近くを探し回ったけど見つからなかった」
「野良なんてそんなもんだろ」
「違うよ、だってあんな小さな仔達を連れてどこに行けるっていうの、母猫はしばらくあそこから動けないって思ったから猫の餌を買い込んできたのに」
奇しくも少年の予言は僅か数十分後に的中したというわけだ。それから暫く探し回ったけれども、母猫どころか仔猫一匹見当たらなかった。
「そのうちひょっこり戻ってくるだろ」
「そんな悠長なこと言っていられないよ。保健所に連れていかれていたら?心ない人間にイジメられていたら?あの辺りに住む人達はね、野良猫のことをあんまり快く思っていないの。私がこっそり餌付けしているのを隣のおじさんは前から腹を立てていて、顔を合わせるたびに嫌味を言うんだよ。もし仔猫の事がばれたら「ほらみろ、お前が餌なんてやったせいでぽこぽこ繁殖なんかするんだ!」て怒鳴り散らすわ。あの人、自分の家の花壇が猫に踏み荒らされたのをずっと根に持っているんだよ。仕舞いには「お前がうちの花壇を野良猫一匹入り込まないように24時間監視してくれるんだろうな!」なんて言い出しそうな勢いでね。あのおじさん、庭中に唐辛子を撒き散らしているのにね。他のご近所さん達も皆そんな感じで、猫を見れば保健所に送ることを虎視眈々と狙っているような人ばっかり」
「そりゃあその親子も引越したくなるわな」
そうでしょう、あの子達に何かがあったらどうしよう、見れば見るほど愛着が沸いた可愛い仔猫達が泣きながら助けを求める様を夢にまで見るようになってもう数日経つ。その間近所で猫の姿を一度も見ていない。肩を落としながら、皿に並べた饅頭を置くと、銀時の頬が引きつった。
ちゃん、あのさ、饅頭が紅いのと白いのと交互にあるんですけど」
「今流行ってるんだって」
「聞いたことねえんだけど、そんな祝賀モード全開の流行」
それでも懇意にしている和菓子屋さんから太鼓判を押された饅頭は、銀時の好きなあんこがぎっしり詰まっていて、甘さ控えめの絶妙な塩加減が人気なのだと言う。美味しいのだから、いいじゃない、やんわり流すと銀時は訝しげに一口、あれ、すっげえ美味いんだけど、私が抹茶を啜っている間に紅と白の饅頭が一つずつ消えた。あっという間の出来事だった。
「明日は天気予報で晴れるって言ってたよね、銀時は明日、仕事の予定はあるのかな、もしなかったらの話なんだけど」
「ああ明日な、仕事入ってるわ、すっげえ忙しい日だわ」
皆まで言わずに一蹴した銀時を恨みがましく見ると、4個目の饅頭に手を付けるところだった。私は行儀悪く頬杖を突いてため息を零した。このままだと新八くんと神楽ちゃんの分がなくなってしまう、皿を遠ざけて手元のリモコンを操作した。とっくに通販番組は終わっていて、少し前に流行ったドラマの再放送が流れている。今まで見てもいなかったのに、たまたま主人公の親友が車に轢かれるシーンが目に入ってしまって、たまらずにチャンネルを変えた。どこか知らない国の景観がクラシックな音楽と共に物語ることなく流れていく。
少年は、焦らなくとも捜し物は必ず見つかると言った。焦燥感など切り捨ててゆっくり構えていれば良い。けれどもそれは猫の話なの?彼は対象が何についてかは口にしなかった。一番それが知りたかったのに、困ったように首を傾げて、教えてはくれなかった。
「あの親子を連れてペットが飼える所に引っ越そうと思っていたんだ。そのために最近仕事のシフトを増やしてもらったりしていたんだけどね」
「うちはもうでっけえ犬飼ってるからな」
「知ってるよ、そこは元より期待してない。ここは定春や神楽ちゃんで手一杯だもんね。実はね、もう新しい家は見つけたんだ。歌舞伎街から少し離れているから家賃は安くて、築年数は古いけど、やんちゃ盛りの仔猫がのびのび暮らせる広さで、女の子の一人暮らしにはそこそこ治安もいいし、ご近所さんも優しそうだし、近くには大きな公園もあって、何より静かな環境が凄く気に入って即決してきちゃった。最近仕事ぶりが認められてお給金が少し上がったから家族が一気に6匹増えたって問題ないと思うし。働くお父さんの気持ちってこんな感じかなって、」
「お前、引っ越すのか」
銀時は手元の紅い饅頭を見つめながら、これは引越祝いか、と言った。私は肯定も否定もせずに抹茶を啜る。確かに、この抹茶は銀時には渋いかもしれない。どろりとした液体は喉の奥で絡まって苦しいし、今日一日饒舌だった舌が痺れていく気がする。
銀時の声音は一段と低い。何も言わずに勝手に決めてしまった後ろめたさからそう聞こえているのか、彼が意図的にそうし向けているのか、私の言葉は徐々に尻すぼみになっていった。
「来週には、引っ越すつもり、だったんだけど、新しい家族の、ために」
そうしたら、もう今までのように気軽に遊びに来れなくなるね。
「なのに肝心の新しい家族がいなくなっちまった、と」
そう、そうなの、その一言が出てこなかった。
お腹の辺りがむずむずとする。内側から押し上げられる。早く、今すぐに言わないと。
母猫はこのような気持ちだったのだろうか、何か大変な事があって、それを何一つ打ち明けずに去ったのだろうか。

たった一言、それだけで劇的に変わってしまう世界があること。

心なんて気安くさらけ出すようなものではないと思っている。
大事な物は大事にしまっておく、ここぞという時の為に。違う、そんな聞こえの良い体裁などはどうでもいい。正しくは、勇気がないだけだ。どうでも良いことばかりが簡単に滑り出し、一番の核心に近づく頃には馬鹿みたいに薄っぺらなものに成り下がっている。勇気なんて、饒舌になればなるほど話の早い段階で挫けてしまっている。気が付くと話の主旨が、意味のない言葉をどれだけ紡ぐことができるか、にすり変わっていて、その分だけ虚しさと達成感で満たされる。
ほんの一言だ、それを伝えるために、伝えられないために、私は馬鹿みたいな時間を費やす。
「…たく、しょうがねえなあ」
どろどろした抹茶を一気に飲み干して、やっぱり渋い顔をした銀時は、重たい腰を上げると、呆然とする私を一瞥した。そのまま腕を引かれて彼の意図する場所まで連れていかれると、戸惑った私はゆっくりと銀時を見上げ、ついさっき見た刑事が、大変なことになったぞ!と声を荒げている場面を思い出していた。雨音に混じってサイレンの音が聞こえてくる錯覚に陥る。
「何処行くの、だって、外は雨だよ」
依然として降り続く雨は軽く一晩は止む気配がない。まるで、雨に濡れたら溶けてしまいそうな人、銀時は振り返らなかった。
「見りゃわかる。傘持ってきてんだろ、つーか何だこの派手な傘は」
デパートでぽつんと残っていた真っ赤な傘は今や銀時の手の中に収まった。彼の頭上で咲く赤い花はなんてアンバランス。嫌味なくらい、似合うのだろう。
「ほら、、行くぞ」
ぐずぐずしている私をとうとう引きずりだした。
「だって」
「捜しにいくんだろ?猫」
大地をしとどに濡らした雨は、ぽつぽつと赤い傘の上で弾けて飛び散って、踊るように私の足下へ落ちてくる。たまらずに飛び込むと、赤い屋根の下は窮屈で、不満だらけだけど、嫌ではない。銀時の黒い傘は今日はお休みなんですね、持ち主に似てやる気がないことだ、と言うと小突かれた。

「大体よお、母猫だけで5匹も養えるかっての、父親の顔が見てみたいね、こんな雨の中自分の子供がずぶ濡れになって泣いてるかもしれねえってのに。見つけたら俺が説教してやらあ」
文句を垂れ流す銀時の右肩があっという間に濡れている。いつもはふわふわの天然の頭がしんなり元気がない。私の背丈に合わせるように少し猫背気味に背中を丸めて、左手に握った傘に収まる姿はやはり窮屈そうで、もう数センチ、銀時との距離を縮めた。
「父親、知ってるよ、あのね、真っ白な猫。いつも気怠げで、ぼさぼさで、昼間っから寝てばっかのろくでなし」
「…え?」
「その癖、大事な場面でいいところ全部かっさらってゆくにくいひと」
目をまんまるにして立ち止まった。雨に打たれるもの構わずに、少しだけ私から離れて全身を見下ろしてくる。いま、なんつった、ぼさぼさ?雨音で良く聞こえないふりをする。私は厄介な口を閉ざしてしまう。
暫く、沈黙した私達の間を雨風が通り抜けていった。映画の中の一コマを切り取ったように私達は静止して、通り過ぎる車や人々は迷惑そうに、上手にこの小さな空間を避けていく。劇的な一言を期待しているわけではない。何故なら互いにそのような器用なことが出来る人間ではないことを知っているからだ。私の体は奇跡的に殆ど濡れることなく、濡れそぼった銀時は僅かに目元を和らげて、再び傘の中に入ってきて、濡れた右手でそっと私の髪に触れた。そりゃあ、ろくでもねえな。

「ばかやろう、ぼさぼさじゃねえ、天パだっつってんだろ」

くしゃりと破顔して、たった一言、伝えるために銀時の耳に顔を寄せた。






『それでも、もし、足が竦んでいるお姉さんに気付いてくれる人がいたら――

お前ってほんとわかりやすいよな、言いたい事があるとやたら喋んの、そんで結局一番大事な一言は言わない癖、のせいで疑り深い性格になっちまったじゃねえか。どんだけ素直じゃねえお姫サマだよ。ええ?!お互い様じゃないの?ばかやろう、俺はいつだってたった一言に全身全霊注いでるんだよ。余計な言い分も飾りもいらねえ、たった一言で充分だ。いいか、一度しか言わねえ、ちゃあんと聞いておけよ。

『奇跡だね、一生分、大事にした方がいい』

僕のお母さんもね、猫が大好きなんだ。家には7匹、毎日とても賑やかだよ。
思い出すのは、あの少年がそれは子供らしい笑顔で笑ったこと。
それでは、またね。
私は目を閉じる。傘を跳ねる雨音に全てを委ねて、世界中の音を一身に浴びているようだ
押された背中からじんわり広がる温もり
それは宙に浮かぶ安心感に似ている。



(2013.06.30) そら
企画サイト「バクチダンサーズ」さまへ提出